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第四十話
恩と怨のはざまで
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数日が過ぎ山代王は兵を引き揚げ斑鳩宮に戻った。この知らせを受けた時、ちょうど庭で洗濯物を干していた私は、洗い上げたばかりの衣を土の上に落とした。数日に渡り張り詰めていた緊張の糸はプツリと切れ、私は魂が抜けたようにへたへたとその場にしゃがみ込んだ。
とにかく良かった。冷たい風の吹く中、空を見上げた。紅葉も終わりを見せ、風に飛ばされた無数の枯れ葉が秋空を舞っている。もうきっと霜月に入っているだろう…山代王一族が討伐されるのは確か…
私はゆっくり息を吐きながら立ち上がった。泥がついてしまった林臣の上着を拾い上げ何度も自分に言い聞かせる。きっと大丈夫。
古人皇子が林臣と二人で自邸のある大市宮で酒を酌み交わしていた。
「なんとか、山代王様が聞き入れてくれて良かった。一時はどうなることかと思ってヒヤヒヤしたよ」
古人皇子が酒の入った椀を見つめため息をついた。
「側近の三輪の諫言がきいたのだ。皇位争いからは退かないという明確な意思表示が目的だったんだろう。ひとまず今回は兵を引き上げたが、いずれ何かの火種があれば次は本気で帝の座を取りに来るさ」
林臣はそう言うと顔色一つ変えずに酒をあおった。
「はぁ…慎重に動かなければならぬな。それともいっそのこと襲撃でもして脅してみるか?」
古人皇子は軽くため息をつくと、薄ら笑いながら眉を上げた。
「馬鹿を言うな、戦などになればそれこそ国力の無駄遣いだ」
林臣が呆れ顔で古人皇子を見て頭を振った。
「しかし宝皇女様が痺れを切らし万が一にも山代王様の討伐をお考えになられたら、朝廷は総力を上げて帝の命に従うさ」
古人皇子が椀の酒を見つめて意味深に言う。
「…その前に説得してみせるさ」
林臣は手に持った酒を見つめながら口の端を上げた。
「林太郎、そなたにしてはだいぶ呑気だな…妻を娶ってからそなたに気概を感じぬ。昔の猛々しさと気骨はどこにいった?」
古人皇子があごを上げ皮肉ったように笑うと、林臣はフンッと鼻を鳴らし残りの酒を飲み干した。
「おい、所で林太郎、ちょうど思い出したんだが、そなたと共に暮らす妻の名は燈花と言ったな?」
「そうだが…なぜだ?」
「いやぁ、うちの屋敷で働く侍女が可笑しな事を言ってきてな…確か彼女は元来、山代王様のもとに嫁ぐはずだったよな?…でも結局はお前を選んだ…」
「何が言いたいのだ?はっきりせぬやつだな…」
「互いに相思相愛で間違いないな?」
「当然だ」
林臣がムスっとした表情で古人皇子を見つめる。
「うーん…それが、うちで働くその侍女がな、もとは医女だったのだが、先日宮廷の薬草庫で燈花と山代王様が二人で密会しているのを見たと申しておるのだ」
「燈花が山代王様と?」
「そうなんだ。私もその侍女の勘違いだろうと問い詰めたが、間違いないと、きっぱり言い張るのだ」
「そんな馬鹿な事はあり得ぬ。万が一会うとしても、必ず私に相談するはず、その侍女の見間違いであろう…」
「そ、そうだよな…ふん、おかしな話だな。忘れてくれ」
古人皇子は額に手をあて愛想笑いを浮かべると、残った椀の酒を豪快に飲み干した。
「燈花、今戻ったよ」
私は裏庭に現れた彼の姿に全く気が付かず、火鉢の上に置かれた薬壺に向かいフーフーと息を吹きかけていた。
「燈花?」
「あっ、お帰りなさい。ごめんなさい、丁度手が離せなくて全然わからなかったわ…今日は帰りが早かったのね。お腹空いた?」
慌てて顔を上げた私は、目の前に立つ彼に向け微笑んだ。いつもならすぐにこの場を去る彼が、今日はなぜか唇を結び黙って私を見つめている。
「何をしていたのだ?」
彼が薬壺に視線を落とした。
「あぁ、薬を煎じていたのよ。滋養強壮にとても効果があるみたいなの。ほとんど処理は終わったから後はこのまま蓋をして冷ますわ」
「そうか…」
「今すぐに、食事を用意するから」
いつもと様子の違う彼に違和感を覚えながらも、私は急いで厨房へ向かった。しばらくして彼が暗い顔で厨房に入ってきて私の目の前に立った。手には棚に置いておいた玖麻からもらった残りの人参を握っている。
「燈花、これはどこで手にいれたのだ?」
彼の低い声が厨房に響き不安を覚えた。私はとっさに竈に目を転じ汁の入った器を両手で持ち上げた。私は動揺する心を見せないように軽く息を吐き涼しい顔で答えた。
「えっ?あ、あぁ…この間、小彩が戻ってきて少し分けてくれたの…」
林臣は黙ったまま唇を固く結び、何かを探るように私の横顔をじっと見つめている。彼の視線が気になりフルスピードで頭をめぐらせるが何も浮かばない。
ふと先日、薬草庫で山代王と会った事を思い出した。でもこんな緊迫した状況で山代王が私と会った事を林臣に話すはずがないだろうし、玖麻が秘密を漏らすとも思えない。不安が増し彼の顔を見るが、感情が読み取れない。私はこの場をやり過ごそうと無理やり微笑んだ。
「それよりも、林臣様、お腹空いたでしょう?蓮の根で汁を作ったのよ…」
私が立ち上がると彼の長い腕が伸び私の腕を掴んだ。
「燈花、私に何か隠していることはないか?」
「えっ?!」
「私に何か黙っている事はないかと聞いているのだ」
彼の真っすぐな瞳が私をとらえる。
「…もちろん…な、何もないわ…」
衝撃で頭が真っ白になった。バクバクと高鳴る心臓は今にも口から飛び出しそうだ。彼は軽く息を吐くと、
「…そうか、わかった…」
と言い、厨房を去った。私は彼の後ろ姿が見えなくなると柱にもたれ、ずるずると座り込んだ。
どうしよう…何かおかしい。やはり誰かに山代王との密会を見られていたのだろうか?でもそんな事あり得ない、あの時、冬韻が小屋の外で見張っていたのだ。玖麻が事を荒げるとも思えないし、私は頭を振った。
やましい事はしていないが彼につまらない誤解をしてほしくない。もっと慎重に動かなければ、、、
こんな時、真っ先に不安を打ち明ける相手は小彩だが、あいにく彼女は居ない。私は深くため息をつき目を閉じた。
よくよく考えると彼女が近江皇子の屋敷に行ってからしばらく経つ。しかし未だ彼女から何の連絡もない。便りのない事は元気な証拠だと信じたいが、この胸のざわめきはなんなのだろう。私は裏山にある一面黄色に染まったイチョウの木を見つめた。
近江皇子の屋敷の一室で秦氏と鎌足が顔を合わせている。
「秦様、今後はどう動かれますか?」
鎌足が厳しい表情で聞く。
「ふ~む。大きな一手を打たねばならぬな…どうしたものか…」
秦氏は拳を顎にあてうつむいた。少し沈黙したあと鎌足が口を開いた。
「秦様、実は今日私の遣いが斑鳩宮から戻り興味深い話を聞いてきました。秦様もきっとご興味を持たれるかと…」
鎌足が声をひそめると、秦氏はようやく顔を上げた。
「ん?どんな話だ?」
「山代王様が上宮乳部の私有民が、朝廷から徴発されないかと大変危惧されているようです」
「乳部の民は代々、王家に継承されている私有民ではないか…それが問題なのか?」
「そのようです」
「ふむ、百済大寺の修復にか?」
秦氏が腑に落ちない様子で眉をひそめると、鎌足が口元を少し緩ませ答えた。
「いえ、蘇我家が今後、今来に造営する墳墓に徴発されるのではないかと大変警戒しているようです」
「ほほう、それは面白い!乳部の民と斑鳩宮は王家にとって大きな経済基盤だ。許可なく徴発されようものなら、それはそれは怒涛の如く怒り狂うだろうな…これは使えるかもしれぬ…帝もまた出来る事ならそれらを奪取し、王権をより強固なものにしたいであろう…」
「宝皇女様と謁見されますか?」
「当然だ」
秦氏は口元をほころばせながら大きく頷いた。
翌日、板蓋宮では秦氏が宝皇女に謁見していた。すぐ近くには豊浦大臣の姿も見える。宝皇女もここ最近の騒動の疲れが出ているのかやつれた顔をしているが、この問題の深刻さを把握しているのだろう、団扇を持つ手を止め前かがみになりながら秦氏の話に耳を傾けている。
「上宮乳部の民か…確かに大きな経済基盤と勢力だな。そなたらの墳墓を造営するためには更に全国から人民を徴発せねばならぬな毛人?」
宝皇女が顔を上げチラリと毛人を横目で見る。
「…えぇ。正直を言えば喉から手が出るほど乳部の民も確保していきたい所ですが、彼らを勝手に徴発すれば山代王様が怒り狂うでしょう。ただでさえこのような状況なのですから…」
毛人は一瞬顔をこわばらせ下を向いた。
「しかし、墳墓の造営ともなるとなるべく多くの人民を使い一気に取り掛かった方が大幅な費用の削減を望めるのではありませんか?」
秦氏がすかさず毛人に返す。
「まぁ、それはそうだが、私の力ではあそこの民は勝手に動かせん。王族の私有民だ…」
毛人は静かに答え鋭い眼差しで秦氏を見返した。しばらく沈黙が続き、
「そうだな、では私の命ならばどうなのだ?」
宝皇女は淡々とした口調で言うと、手に持っていた団扇を仰いだ。
「そ、それは、帝の命であれば国内の万人がその命に従うでしょう…しかし、時期が時期だけに今は留まるべきかと…へたに王家を刺激し、事を荒げるような行動を取るべきではありません」
毛人が遠慮がちに言うと、
「そうだな、まずは皇位を諦めてもらったあとに、乳部の民を借りるとしよう。そなたもそう墳墓の造営を急いではいまい」
毛人が同意するように頷くと、宝皇女は温和な表情に戻り、さらりと笑った。二人の様子を見ていた秦氏は作り笑いを浮かべると、深々と拝礼し静かに部屋を去った。
宮廷を出た秦氏は西門横で待っていた鎌足を呼びよせ彼の耳元でささやいた。
「軽皇子様のもとに行く」
二人を乗せた馬車は勢いよく走り出した。
数日が過ぎ、私は縁側に座り雲が流れていく様子を見ていた。
もう一度山代王様にお会いしないと…でも私の話はきっと受け入れてもらえない…どうすればいいだろう…そうだ、王妃様と白蘭様からの申し出であれば聞き入れてもらえるかもしれない…
翌朝、朝の光が差しはじめると、私はすぐに起きて家事を全て終わらせ橘宮に向かった。
「と、燈花様お久しぶりです!!」
東門で薪を割っていた漢人が迎えてくれた。
「漢人、久しぶりね。元気だった?」
私が微笑むと、
「はい、とても元気です。燈花様もお元気そうで安心いたしました」
漢人は鼻を擦りながら顔を赤らめた。
「ところで、今日は何かご用事でございますか?」
「えぇ、そうなのよ。実はお願いがあってきたのだけれど、一番早い馬を貸してもらえるかしら?」
「馬ですか?!今丁度、六鯨さんが馬小屋で世話をしているので急ぎ呼んできますね」
「ありがとう。助かるわ」
漢人はくるりと振り返ると馬小屋へと走り出した。すぐに懐かしい声が遠くから聞こえ、六鯨がクシャクシャの顔をしながら小走りでこちらに向かって来た。
「これはこれは、燈花様。お久しぶりでございます」
「六鯨さん久しぶりね。元気だった?」
「はい、まだまだこの通りピンピンしております」
六鯨はにんまりと笑うと、上着の袖をまくり上げ力こぶを得意気に見せてきた。
時を経た今も変わらない彼の屈託のない性格が嬉しくて、吹き出しそうになるのを必死でこらえた。彼は急に恥ずかしくなったのか慌てて腕をひっこめるとバツが悪そうに頭をかいた。
「会えて嬉しいわ」
私が言うと、六鯨は目を細め微笑んだ。
いつの間にあなたも私も歳をとったのだろう…
彼の頭の白髪と目元に刻まれたシワを見た時、飛鳥で過ごした長い年月を改めて感じた。そしてどこか、この長い旅路が終わりを迎えているような気がして、言葉にならな想いに胸が詰まった。
「所で馬をご所望だと聞きましたが…」
六鯨が私の顔を覗き込んだ。私は、はっと我に返り彼の瞳をガッチリとらえると早口で答えた。
「そ、そうなの。急で申し訳ないのだけど、長距離走れる馬を貸してほしいの。いるかしら?」
「どちらまで、行かれるのですか?」
「斑鳩宮までよ」
「斑鳩ですか?」
六鯨が驚いた様子で後ずさりした。急な依頼を受け困惑する彼に申し訳ないと思ったが、今動かずにいつ動くというのだ。運命の時が迫っているのは直感でわかっている。
「そうなの、出来れば日暮れまでに戻ってきたいの…」
「今から斑鳩までいかれるとなると、日帰りは厳しいかもしれません。夜遅い道は物騒ですし…」
六鯨が渋りながら言葉を濁した。きっと私の身を案じているのだろう…。私は彼の目を見てきっぱりと答えた。
「大丈夫よ」
「そ、そうですか…」
六鯨は顎に手をあてると何かを考えるように下を向き、しばらくして顔を上げ微笑んだ。その表情から適当な馬が居るとわかり、私はほっと胸をなでおろした。
「良かった。それと、山代王様の邸宅はどちらかわかる?」
「山代王様のお屋敷ですか?」
「えぇ。ちょっと事情があってね…」
私が声を潜めると事情を察したのか、六鯨がヒソヒソと答えた。
「はい、若草伽藍から東に向かい十分ほど歩いた先に、以前中宮様が住まわれていた寺があるのですが、その近くに山代王様のお屋敷があるはずです。立派なお屋敷ですのですぐにおわかりになるかと…」
「そう、助かるわ。ありがとう。このことは秘密にしてくれる?誰にも不要な心配をさせたくないのよ…」
「承知いたしました」
六鯨はうなずくと馬小屋へと向かい、すぐに真っ黒の毛並みの良い馬を連れてきた。
「小振りですが、毛並みもよく従順で忠実な良い馬です」
「立派な馬ね、ありがとう」
「それよりも燈花様、今、斑鳩宮周辺は朝廷の役人やら地方豪族の出入りが激しい上に、武装した隼人らもうろつき大変物騒だと聞いております。どうぞくれぐれもお気をつけください」
「えぇ、ありがとう。気を付けるわ」
私は六鯨に礼を言うと、少し後ろに立っていた漢人に向かい微笑んだ。さぁ、行こう。私は馬の手綱を引き寄せ勢いよく飛び乗った。
なんとか山代王様を説得しないと。せめて遠くに逃げてくれれば、運命が変わるかもしれない…時間稼ぎくらいはできるはず…絶対に山代王様を説得しないと、彼だけの問題ではなく一族もろとも自害する事になる…この事件の主犯格として、いずれ林臣も責任を問われ殺される…
私は一度屋敷に戻り門番の男に夜遅くに帰る、と伝え再び身を翻した。今まで斑鳩宮に行った事はないが、記憶が正しければ下ツ道を道なりに進み、途中、筋違道にそれて行けば斑鳩の地まで辿り着くはずだ。道を間違えて遠回りしたくない。私は慎重に馬を走らせた。
運良く道に迷うことなく斑鳩宮に着いた。遠くからでも斑鳩寺の空高くそびえ立つ五重塔が目印になった事が幸いした。
キョロキョロとしながら馬を走らせていくうちに、長い松並木の前方に若草伽藍らしき宮が見えた。
馬のスピードを緩めそびえ立つ五重塔を見上げ、その圧巻の美しさに息をのんだ。並んで建つ金堂もじっくり見たかったが、呑気に観光に来たわけではない、私は前を向き直し六鯨の助言どおりに馬を東に向かい走らせた。
若草伽藍を過ぎるとすぐに辺りは水田風景へと変わり、道の先に鮮やかな朱色の伽藍が飛び込んできた。小振りながら三重塔も金堂のすぐ横に並び、調和の取れた美しさに思わずため息がこぼれた。
きっとここが中宮が生前過ごしたという寺なのだろう。私は彼女への思いに馳せながら、あたりをぐるっと見渡した。すぐに北の方角に中宮の寺と見劣りのしない立派な建物が見えた。私は馬を降りると、通りかかりの人を呼び止め山代王の屋敷かどうかを尋ねた。
やはり尋ねた屋敷は山代王のもので、話によると王妃や白蘭その他の側室も一緒に住んでいるらしい。
私は馬を降りて歩き始めたものの、突如不安に襲われ足を止めた。がむしゃらにここまで来たはいいが、彼女達は私の願いを聞き入れてくれるだろうか?そもそも私と会ってくれるだろうか?よくよく考えてみれば、私は王家の恩をあだで返した裏切り者だ。そして今は蘇我の女だ。彼女らにとって蘇我一族は目の上のたんこぶだろうし、よくは思っていないはず…むしろ憎んでいる可能性だってある。今更遅いが緊張で体はこわばり、額には冷や汗がにじみ出た。
屋敷を囲むように警戒にあたる武装した隼人の姿が見える。彼らの警戒のほどから、状況の厳しさは十分うかがえた。私は、深呼吸すると門番の男に王妃様への謁見を申し出た。急な訪問だったがすぐに侍女らしき少女がやってきてニコリと私に向かい微笑んだ。彼女は私を王妃のもとまで案内すると言い先を歩き始めた。
門の正面にある建物を通り過ぎ、その後ろに連なるように建つこじんまりとした館に向かって歩いた。戸口の前の土は掘り返され、なでしこや萩の花が均等に植えられている。後宮の王妃の館の前にも同じ花が植えられていた事を思い出し、胸がツンと痛んだ。
私はしばらく戸口の前に立ち覚悟を決めたあと、一歩前へと足を踏み出した。廊下は明るい光が差し込み、所々に藤色の桔梗が生けられている。微かな花の香りが後宮で過ごした日々を鮮明に思い出させた。キューンと胸が痛む。きっとこの切ない思いは生涯私の心から消えないだろう。私は廊下をキシキシと音を立てながら侍女の後ろを歩いた。
廊下の突き当りまで来ると侍女は足を止め、目の前の戸を叩いた。
「王妃様、お連れいたしました」
私は心を落ち着かせ、戸が開くのを待った。
「入りなさい」
懐かしい王妃の声が廊下に響き目の前の戸がスーッとあいた。私は頭を下げたまま数歩進み部屋の中へと入った。王妃が立ち上がり近づいてくるのが分かる。
顔を上げた瞬間、バチンと大きな音がし頬に激痛が走った。目の前で王妃が真っ赤な顔をして目に涙を溜めている。胸の前で握られた拳は小さく揺れ、袖口から細くなってしまった白い手首が見えた。彼女が受けている心労を察した瞬間、刀で心を突かれたような痛みが走った。頬がジンジンと熱くなる中、私は視線を落としたまま王妃に拝礼をした。
「…王妃様、大変ご無沙汰しております」
王妃は小刻みに震えたまま動かない。彼女の溢れた涙がポタポタと床に落ちた。凛とした気高さはそのままだが、すっかり痩せてしまった体に美しい絹の衣が大きすぎる気がしてさらに胸が痛んだ。
王妃が胸を押え口を開いた。
「そなた、どれほど王様を苦しめるのだ。王が何度そなたの為に心を痛め、傷ついたか知っているか?」
私は黙ったまま下を見ていた。王妃の震える声が鋭いナイフのように私の心に突き刺さる。
「私とてそなたを許したかった。王様はそなたを泣く泣く林太郎に手放したのに、蘇我親子はじりじりと追いつめてくる。こんなに国に尽くしても、帝もまた我ら王家を不当に扱う。そなた、我らの恩を忘れたか?」
王妃が嗚咽しながら私の両肩を掴み泣き叫んだ。私は涙をぐっとこらえて唇を噛んだ。
どんなに恨まれても罵倒されても良い。彼女らの穏やかで平和な生活を守りたい。可愛い子供らに囲まれ、山代王と共に末永く幸せに生きて欲しい…
私は拳に力をこめ顔を上げると声を振り絞った。
「王妃様、無礼な私をお許し下さい。僭越ながら時間がないので単刀直入に申し上げます。どうか山代王様に帝の座を諦めるよう進言して頂きたいのです。そして出来る事ならばこの斑鳩の地を去り、どこか遠くに…」
「何を言う!我らは王家の人間だぞ!何があろうとも最後まで王様を側で支える。帝と蘇我一族がどんな残酷な手を使ってくるか、そなたもとくと見るが良い」
王妃が最後まで言葉を言い終わるかどうかの所で白蘭が勢いよく部屋の中へと飛び込んできた。
「王妃様、怒りをお納めください。燈花に逆恨みしたところで現状は良くなりません!」
王妃は両手で顔を覆いその場に泣き崩れた。
「王妃様⁈誰か居るか!王妃様を寝所にお連れしろ!」
白蘭の叫び声が響き、廊下から一斉に侍女達がドタバタと部屋の中へ入ってきた。侍女達は床に伏せている王妃の両脇を抱えると、みな恨めしそうな目で私を一瞬見てから部屋を去った。白蘭は寂しそうに私を見ると、戸に手を向け外へ出るようにと促した。
外はもう薄暗く、オレンジ色の夕日があたりを照らしている。そんなに長時間滞在した気はしないが、身も心もクタクタだった。
王家から受けた恩を仇で返した罰をきっと今受けている…当然の報いだ…
私は唇を噛んだ。会話を交わさないまま白蘭の後ろを黙って歩く。門の手前まで来ると彼女は足を止め振り返り、悲しみに沈んだ瞳で私を見つめた。
「燈花、こんな形で会う事になりとても残念だ」
私はうつむいたまま軽く頷いた。
「王妃様はそなたの事を恨んでなどいない。そなたをとても信頼し好いていたからこそ、その悲しみに打ちひしがれているのだ」
「申し訳ありません」
我慢していた涙が込み上げポタポタと頬を伝って地面に落ちた。白蘭は私の肩を優しく触ると、 「もう日が暮れる。夜道は危険だから今晩は馬小屋の裏にある納屋に泊りなさい。そなたは今や自由の身だろう?朝一番に帰っても問題なかろう…そして、ここを出たら全てを忘れるように…」と言い、寂しそうに笑った。
白蘭は軽く息を吐くと、くるりと背を向け歩き出した。
私は彼女の小さくなる後ろ姿を見ながら頭を下げ、おぼつかない足取りでよろよろと納屋に向かった。
自責の念にかられ次々と涙が溢れる。何度も足を止めては袖で目頭を押さえた。でもこれが何かを得る為に何かを手放す代償なのだ。私が選んだ道なのだ。
最後にもう一度後ろを振り返ったが、もう白蘭の姿はなかった。霞んだ視界の先に一瞬小彩の姿を見た気がしていた。
夕方の日差しが林臣の屋敷の庭先をかろうじて照らしている。
「燈花、戻ったよ」
「あっ。旦那様、お戻りですか?」
門番の男が薪を抱えて裏庭から出てきた。
「燈花は居ないようだが、留守か?」
「はい、朝どこかに出かけられて、一度戻られましたが、すぐにまたお出かけになりました。帰りが遅くなるとだけおっしゃっておりました」
「そうか…」
(おかしいな、燈花が行先も言わずに留守にするなど、今までなかったのに…最近の燈花の様子はおかしい…一体何を隠しているのだ…)
「どこに行ったか聞いたのか?」
「いえ、急いでいらっしゃるご様子でした…あっ、あと珍しい馬に乗っていました」
門番の男がはっと思い出したように目を大きくして答えた。
「馬だと?」
「はい、とても美しい黒馬です。確か以前に橘宮に行った時に、似たような馬を見ました。小柄ですが、黒塗りの毛並みの美しい馬だったので印象に残っていたんです」
「さようか。では橘宮に行き聞いてみよう」
林臣は姿勢を立て直すと勢いよく馬に飛び乗り手綱を引いた。
「誰かいるか!!」
林臣の声が橘宮の東門に響き渡る。
「これは、林臣様。ご無沙汰しております」
大きな声に驚いた漢人が薪を持ったまま飛び出してきた。
「久しぶりだな。元気か?」
「あっ、はい…」
突然現れた林臣に圧倒された漢人がしどろもどろに答えた。
「ところで燈花が今日来たと思うが…」
「はい、いらっしゃいました。なんでも急用らしく、六鯨様に馬の手配をお願いされていました」
何の事情も知らない漢人が答えた。
「馬の手配?…ふーん…やはりここに来たのだな…どこに向かったか知っているか?」
林臣が問う。
「はい…詳しい事はわからないのですが、斑鳩宮がどうとかとおっしゃっていたような…」
「斑鳩宮?一人で?」
林臣が目を細めて畳み掛けるように問うと、
「えぇ、他にお連れの方は見えませんでした。あと、とても急いでいるご様子で…」
漢人の声は段々と小さくなり、最後は聞き取れなかった。
「…さようか。わかった。ところで六鯨は?」
「あっ、丁度出かけており不在です」
「そうか…宜しく伝えておくれ」
「承知いたしました」
漢人が頭を下げると林臣はさっと馬にまたがり橘宮を去った。
(斑鳩宮といえば、山代王様の屋敷があるではないか…いったい、何故なのだ…まさか、まだ山代王様への想いが残っているのか? そんな、馬鹿な考えを…あの二人はとっくに終わったのに…でも、もとは山代王と婚約していた…先日も燈花は薬草庫の話をはぐらかしたな…やはりまだ、山代王への未練が残っているということか…)
林臣は唇を噛みしめると険しい表情で自宅に戻った。
チュンチュン、チュンチュン
私は、かじかんだ手に息を吹きかけながら静かに庭門の扉を開けた。
結局なんの解決にもならなかった。むしろ火に油を注ぐ結果になってしまったかもしれない…
自分の無力さに失望していた。回らない頭のまま斑鳩宮から休憩を取らずに走らせた馬に餌と水をあげようと馬屋に向かった。
朝日に照らされた林臣の馬が目に飛び込み息が止まった。体は凍りついたかのようにピクリとも動かない。彼は帰宅しないだろうと、全く疑わなかった私は想定外の出来事に動揺し呆然とその場に立ちすくんだ。
ザッザッ、、と音がし背後に人が近づいてくる。足音は少し後ろで止まり、私はゆっくりと振り返った。誰なのかはもう分かっていた。
林臣が目の前に立ち静かに私を見つめている。
「り、林臣様、今日お仕事はなかったの?朝議の時間はとっくに過ぎているでしょう?…」
私は唇を噛み、両手に力を入れ、かまえるように彼を見た。
「……こんな時間に戻ってくるとは、そなたはいったいどこに行っていたのだ?」
林臣の低い声が冷たく問う。私はうつむいたまま答えた。
「…小彩に会いたくなって近江皇子様のお屋敷に遊びに行っていたの。話に花が咲いてつい長居してしまったのよ…ごめんなさい」
分かってる。こんなどさくさ紛れの言い訳なんて通じるはずがない。林臣の深いため息が聞こえた。
「そなた、いつまで私を偽るのだ?」
彼の冷淡な口調を久しぶりに聞いた私は慌てて顔を上げたが、彼の目を直視できずにすぐに目を逸らした。震え始めた手をギュッと握りしめる。
「斑鳩宮に行っていたのだろう?山代王様にはお会いできたのか?」
「えっ?そ、それは…」
「そなた先日も偽りを申したな…薬草庫でそなたと山代王様が会っていたのを古人皇子の侍女が見ている。それにそなたが煎じていたあの生薬は、先日百済から朝廷へと献上された希少な品だ、一般には出回っていない」
私は思わず両手で口を押えた。ガタガタと震え始めた体を、感の鋭い林臣が気付かないはずがない。少しの沈黙の後、彼が口を開いた。
「本当の事を話してくれ…」
「そ、それが…それが…」
彼の真っ直ぐな瞳に見つめられても、私は口ごもりどうしても本当の事が言えなかった。とても信じてもらえる話ではないし、それに二人に降りかかる残酷な結末を話したら現実になってしまいそうで、心がかたくなに真実を伝える事を拒んだ。
「…話せないのだな…私の知らないところで山代王様との関係は続いていたということか…何も気が付かずに間抜けなのは私だけか…」
林臣の顔はみるみる青ざめ、瞳は深い漆黒へと変わっていった。
彼はくるりと背を向けるとふらふらと歩き始めた。
「林臣様、どうか聞いて。事情があるのよ。お願い、信じて…」
私は声を振り絞り叫んだ。林臣は一瞬足を止めたが再び歩き出し屋敷を去った。
彼の後ろ姿はあっという間に見えなくなり、一人残された私はひどい疲労感に襲われその場に崩れ落ちた。
とにかく良かった。冷たい風の吹く中、空を見上げた。紅葉も終わりを見せ、風に飛ばされた無数の枯れ葉が秋空を舞っている。もうきっと霜月に入っているだろう…山代王一族が討伐されるのは確か…
私はゆっくり息を吐きながら立ち上がった。泥がついてしまった林臣の上着を拾い上げ何度も自分に言い聞かせる。きっと大丈夫。
古人皇子が林臣と二人で自邸のある大市宮で酒を酌み交わしていた。
「なんとか、山代王様が聞き入れてくれて良かった。一時はどうなることかと思ってヒヤヒヤしたよ」
古人皇子が酒の入った椀を見つめため息をついた。
「側近の三輪の諫言がきいたのだ。皇位争いからは退かないという明確な意思表示が目的だったんだろう。ひとまず今回は兵を引き上げたが、いずれ何かの火種があれば次は本気で帝の座を取りに来るさ」
林臣はそう言うと顔色一つ変えずに酒をあおった。
「はぁ…慎重に動かなければならぬな。それともいっそのこと襲撃でもして脅してみるか?」
古人皇子は軽くため息をつくと、薄ら笑いながら眉を上げた。
「馬鹿を言うな、戦などになればそれこそ国力の無駄遣いだ」
林臣が呆れ顔で古人皇子を見て頭を振った。
「しかし宝皇女様が痺れを切らし万が一にも山代王様の討伐をお考えになられたら、朝廷は総力を上げて帝の命に従うさ」
古人皇子が椀の酒を見つめて意味深に言う。
「…その前に説得してみせるさ」
林臣は手に持った酒を見つめながら口の端を上げた。
「林太郎、そなたにしてはだいぶ呑気だな…妻を娶ってからそなたに気概を感じぬ。昔の猛々しさと気骨はどこにいった?」
古人皇子があごを上げ皮肉ったように笑うと、林臣はフンッと鼻を鳴らし残りの酒を飲み干した。
「おい、所で林太郎、ちょうど思い出したんだが、そなたと共に暮らす妻の名は燈花と言ったな?」
「そうだが…なぜだ?」
「いやぁ、うちの屋敷で働く侍女が可笑しな事を言ってきてな…確か彼女は元来、山代王様のもとに嫁ぐはずだったよな?…でも結局はお前を選んだ…」
「何が言いたいのだ?はっきりせぬやつだな…」
「互いに相思相愛で間違いないな?」
「当然だ」
林臣がムスっとした表情で古人皇子を見つめる。
「うーん…それが、うちで働くその侍女がな、もとは医女だったのだが、先日宮廷の薬草庫で燈花と山代王様が二人で密会しているのを見たと申しておるのだ」
「燈花が山代王様と?」
「そうなんだ。私もその侍女の勘違いだろうと問い詰めたが、間違いないと、きっぱり言い張るのだ」
「そんな馬鹿な事はあり得ぬ。万が一会うとしても、必ず私に相談するはず、その侍女の見間違いであろう…」
「そ、そうだよな…ふん、おかしな話だな。忘れてくれ」
古人皇子は額に手をあて愛想笑いを浮かべると、残った椀の酒を豪快に飲み干した。
「燈花、今戻ったよ」
私は裏庭に現れた彼の姿に全く気が付かず、火鉢の上に置かれた薬壺に向かいフーフーと息を吹きかけていた。
「燈花?」
「あっ、お帰りなさい。ごめんなさい、丁度手が離せなくて全然わからなかったわ…今日は帰りが早かったのね。お腹空いた?」
慌てて顔を上げた私は、目の前に立つ彼に向け微笑んだ。いつもならすぐにこの場を去る彼が、今日はなぜか唇を結び黙って私を見つめている。
「何をしていたのだ?」
彼が薬壺に視線を落とした。
「あぁ、薬を煎じていたのよ。滋養強壮にとても効果があるみたいなの。ほとんど処理は終わったから後はこのまま蓋をして冷ますわ」
「そうか…」
「今すぐに、食事を用意するから」
いつもと様子の違う彼に違和感を覚えながらも、私は急いで厨房へ向かった。しばらくして彼が暗い顔で厨房に入ってきて私の目の前に立った。手には棚に置いておいた玖麻からもらった残りの人参を握っている。
「燈花、これはどこで手にいれたのだ?」
彼の低い声が厨房に響き不安を覚えた。私はとっさに竈に目を転じ汁の入った器を両手で持ち上げた。私は動揺する心を見せないように軽く息を吐き涼しい顔で答えた。
「えっ?あ、あぁ…この間、小彩が戻ってきて少し分けてくれたの…」
林臣は黙ったまま唇を固く結び、何かを探るように私の横顔をじっと見つめている。彼の視線が気になりフルスピードで頭をめぐらせるが何も浮かばない。
ふと先日、薬草庫で山代王と会った事を思い出した。でもこんな緊迫した状況で山代王が私と会った事を林臣に話すはずがないだろうし、玖麻が秘密を漏らすとも思えない。不安が増し彼の顔を見るが、感情が読み取れない。私はこの場をやり過ごそうと無理やり微笑んだ。
「それよりも、林臣様、お腹空いたでしょう?蓮の根で汁を作ったのよ…」
私が立ち上がると彼の長い腕が伸び私の腕を掴んだ。
「燈花、私に何か隠していることはないか?」
「えっ?!」
「私に何か黙っている事はないかと聞いているのだ」
彼の真っすぐな瞳が私をとらえる。
「…もちろん…な、何もないわ…」
衝撃で頭が真っ白になった。バクバクと高鳴る心臓は今にも口から飛び出しそうだ。彼は軽く息を吐くと、
「…そうか、わかった…」
と言い、厨房を去った。私は彼の後ろ姿が見えなくなると柱にもたれ、ずるずると座り込んだ。
どうしよう…何かおかしい。やはり誰かに山代王との密会を見られていたのだろうか?でもそんな事あり得ない、あの時、冬韻が小屋の外で見張っていたのだ。玖麻が事を荒げるとも思えないし、私は頭を振った。
やましい事はしていないが彼につまらない誤解をしてほしくない。もっと慎重に動かなければ、、、
こんな時、真っ先に不安を打ち明ける相手は小彩だが、あいにく彼女は居ない。私は深くため息をつき目を閉じた。
よくよく考えると彼女が近江皇子の屋敷に行ってからしばらく経つ。しかし未だ彼女から何の連絡もない。便りのない事は元気な証拠だと信じたいが、この胸のざわめきはなんなのだろう。私は裏山にある一面黄色に染まったイチョウの木を見つめた。
近江皇子の屋敷の一室で秦氏と鎌足が顔を合わせている。
「秦様、今後はどう動かれますか?」
鎌足が厳しい表情で聞く。
「ふ~む。大きな一手を打たねばならぬな…どうしたものか…」
秦氏は拳を顎にあてうつむいた。少し沈黙したあと鎌足が口を開いた。
「秦様、実は今日私の遣いが斑鳩宮から戻り興味深い話を聞いてきました。秦様もきっとご興味を持たれるかと…」
鎌足が声をひそめると、秦氏はようやく顔を上げた。
「ん?どんな話だ?」
「山代王様が上宮乳部の私有民が、朝廷から徴発されないかと大変危惧されているようです」
「乳部の民は代々、王家に継承されている私有民ではないか…それが問題なのか?」
「そのようです」
「ふむ、百済大寺の修復にか?」
秦氏が腑に落ちない様子で眉をひそめると、鎌足が口元を少し緩ませ答えた。
「いえ、蘇我家が今後、今来に造営する墳墓に徴発されるのではないかと大変警戒しているようです」
「ほほう、それは面白い!乳部の民と斑鳩宮は王家にとって大きな経済基盤だ。許可なく徴発されようものなら、それはそれは怒涛の如く怒り狂うだろうな…これは使えるかもしれぬ…帝もまた出来る事ならそれらを奪取し、王権をより強固なものにしたいであろう…」
「宝皇女様と謁見されますか?」
「当然だ」
秦氏は口元をほころばせながら大きく頷いた。
翌日、板蓋宮では秦氏が宝皇女に謁見していた。すぐ近くには豊浦大臣の姿も見える。宝皇女もここ最近の騒動の疲れが出ているのかやつれた顔をしているが、この問題の深刻さを把握しているのだろう、団扇を持つ手を止め前かがみになりながら秦氏の話に耳を傾けている。
「上宮乳部の民か…確かに大きな経済基盤と勢力だな。そなたらの墳墓を造営するためには更に全国から人民を徴発せねばならぬな毛人?」
宝皇女が顔を上げチラリと毛人を横目で見る。
「…えぇ。正直を言えば喉から手が出るほど乳部の民も確保していきたい所ですが、彼らを勝手に徴発すれば山代王様が怒り狂うでしょう。ただでさえこのような状況なのですから…」
毛人は一瞬顔をこわばらせ下を向いた。
「しかし、墳墓の造営ともなるとなるべく多くの人民を使い一気に取り掛かった方が大幅な費用の削減を望めるのではありませんか?」
秦氏がすかさず毛人に返す。
「まぁ、それはそうだが、私の力ではあそこの民は勝手に動かせん。王族の私有民だ…」
毛人は静かに答え鋭い眼差しで秦氏を見返した。しばらく沈黙が続き、
「そうだな、では私の命ならばどうなのだ?」
宝皇女は淡々とした口調で言うと、手に持っていた団扇を仰いだ。
「そ、それは、帝の命であれば国内の万人がその命に従うでしょう…しかし、時期が時期だけに今は留まるべきかと…へたに王家を刺激し、事を荒げるような行動を取るべきではありません」
毛人が遠慮がちに言うと、
「そうだな、まずは皇位を諦めてもらったあとに、乳部の民を借りるとしよう。そなたもそう墳墓の造営を急いではいまい」
毛人が同意するように頷くと、宝皇女は温和な表情に戻り、さらりと笑った。二人の様子を見ていた秦氏は作り笑いを浮かべると、深々と拝礼し静かに部屋を去った。
宮廷を出た秦氏は西門横で待っていた鎌足を呼びよせ彼の耳元でささやいた。
「軽皇子様のもとに行く」
二人を乗せた馬車は勢いよく走り出した。
数日が過ぎ、私は縁側に座り雲が流れていく様子を見ていた。
もう一度山代王様にお会いしないと…でも私の話はきっと受け入れてもらえない…どうすればいいだろう…そうだ、王妃様と白蘭様からの申し出であれば聞き入れてもらえるかもしれない…
翌朝、朝の光が差しはじめると、私はすぐに起きて家事を全て終わらせ橘宮に向かった。
「と、燈花様お久しぶりです!!」
東門で薪を割っていた漢人が迎えてくれた。
「漢人、久しぶりね。元気だった?」
私が微笑むと、
「はい、とても元気です。燈花様もお元気そうで安心いたしました」
漢人は鼻を擦りながら顔を赤らめた。
「ところで、今日は何かご用事でございますか?」
「えぇ、そうなのよ。実はお願いがあってきたのだけれど、一番早い馬を貸してもらえるかしら?」
「馬ですか?!今丁度、六鯨さんが馬小屋で世話をしているので急ぎ呼んできますね」
「ありがとう。助かるわ」
漢人はくるりと振り返ると馬小屋へと走り出した。すぐに懐かしい声が遠くから聞こえ、六鯨がクシャクシャの顔をしながら小走りでこちらに向かって来た。
「これはこれは、燈花様。お久しぶりでございます」
「六鯨さん久しぶりね。元気だった?」
「はい、まだまだこの通りピンピンしております」
六鯨はにんまりと笑うと、上着の袖をまくり上げ力こぶを得意気に見せてきた。
時を経た今も変わらない彼の屈託のない性格が嬉しくて、吹き出しそうになるのを必死でこらえた。彼は急に恥ずかしくなったのか慌てて腕をひっこめるとバツが悪そうに頭をかいた。
「会えて嬉しいわ」
私が言うと、六鯨は目を細め微笑んだ。
いつの間にあなたも私も歳をとったのだろう…
彼の頭の白髪と目元に刻まれたシワを見た時、飛鳥で過ごした長い年月を改めて感じた。そしてどこか、この長い旅路が終わりを迎えているような気がして、言葉にならな想いに胸が詰まった。
「所で馬をご所望だと聞きましたが…」
六鯨が私の顔を覗き込んだ。私は、はっと我に返り彼の瞳をガッチリとらえると早口で答えた。
「そ、そうなの。急で申し訳ないのだけど、長距離走れる馬を貸してほしいの。いるかしら?」
「どちらまで、行かれるのですか?」
「斑鳩宮までよ」
「斑鳩ですか?」
六鯨が驚いた様子で後ずさりした。急な依頼を受け困惑する彼に申し訳ないと思ったが、今動かずにいつ動くというのだ。運命の時が迫っているのは直感でわかっている。
「そうなの、出来れば日暮れまでに戻ってきたいの…」
「今から斑鳩までいかれるとなると、日帰りは厳しいかもしれません。夜遅い道は物騒ですし…」
六鯨が渋りながら言葉を濁した。きっと私の身を案じているのだろう…。私は彼の目を見てきっぱりと答えた。
「大丈夫よ」
「そ、そうですか…」
六鯨は顎に手をあてると何かを考えるように下を向き、しばらくして顔を上げ微笑んだ。その表情から適当な馬が居るとわかり、私はほっと胸をなでおろした。
「良かった。それと、山代王様の邸宅はどちらかわかる?」
「山代王様のお屋敷ですか?」
「えぇ。ちょっと事情があってね…」
私が声を潜めると事情を察したのか、六鯨がヒソヒソと答えた。
「はい、若草伽藍から東に向かい十分ほど歩いた先に、以前中宮様が住まわれていた寺があるのですが、その近くに山代王様のお屋敷があるはずです。立派なお屋敷ですのですぐにおわかりになるかと…」
「そう、助かるわ。ありがとう。このことは秘密にしてくれる?誰にも不要な心配をさせたくないのよ…」
「承知いたしました」
六鯨はうなずくと馬小屋へと向かい、すぐに真っ黒の毛並みの良い馬を連れてきた。
「小振りですが、毛並みもよく従順で忠実な良い馬です」
「立派な馬ね、ありがとう」
「それよりも燈花様、今、斑鳩宮周辺は朝廷の役人やら地方豪族の出入りが激しい上に、武装した隼人らもうろつき大変物騒だと聞いております。どうぞくれぐれもお気をつけください」
「えぇ、ありがとう。気を付けるわ」
私は六鯨に礼を言うと、少し後ろに立っていた漢人に向かい微笑んだ。さぁ、行こう。私は馬の手綱を引き寄せ勢いよく飛び乗った。
なんとか山代王様を説得しないと。せめて遠くに逃げてくれれば、運命が変わるかもしれない…時間稼ぎくらいはできるはず…絶対に山代王様を説得しないと、彼だけの問題ではなく一族もろとも自害する事になる…この事件の主犯格として、いずれ林臣も責任を問われ殺される…
私は一度屋敷に戻り門番の男に夜遅くに帰る、と伝え再び身を翻した。今まで斑鳩宮に行った事はないが、記憶が正しければ下ツ道を道なりに進み、途中、筋違道にそれて行けば斑鳩の地まで辿り着くはずだ。道を間違えて遠回りしたくない。私は慎重に馬を走らせた。
運良く道に迷うことなく斑鳩宮に着いた。遠くからでも斑鳩寺の空高くそびえ立つ五重塔が目印になった事が幸いした。
キョロキョロとしながら馬を走らせていくうちに、長い松並木の前方に若草伽藍らしき宮が見えた。
馬のスピードを緩めそびえ立つ五重塔を見上げ、その圧巻の美しさに息をのんだ。並んで建つ金堂もじっくり見たかったが、呑気に観光に来たわけではない、私は前を向き直し六鯨の助言どおりに馬を東に向かい走らせた。
若草伽藍を過ぎるとすぐに辺りは水田風景へと変わり、道の先に鮮やかな朱色の伽藍が飛び込んできた。小振りながら三重塔も金堂のすぐ横に並び、調和の取れた美しさに思わずため息がこぼれた。
きっとここが中宮が生前過ごしたという寺なのだろう。私は彼女への思いに馳せながら、あたりをぐるっと見渡した。すぐに北の方角に中宮の寺と見劣りのしない立派な建物が見えた。私は馬を降りると、通りかかりの人を呼び止め山代王の屋敷かどうかを尋ねた。
やはり尋ねた屋敷は山代王のもので、話によると王妃や白蘭その他の側室も一緒に住んでいるらしい。
私は馬を降りて歩き始めたものの、突如不安に襲われ足を止めた。がむしゃらにここまで来たはいいが、彼女達は私の願いを聞き入れてくれるだろうか?そもそも私と会ってくれるだろうか?よくよく考えてみれば、私は王家の恩をあだで返した裏切り者だ。そして今は蘇我の女だ。彼女らにとって蘇我一族は目の上のたんこぶだろうし、よくは思っていないはず…むしろ憎んでいる可能性だってある。今更遅いが緊張で体はこわばり、額には冷や汗がにじみ出た。
屋敷を囲むように警戒にあたる武装した隼人の姿が見える。彼らの警戒のほどから、状況の厳しさは十分うかがえた。私は、深呼吸すると門番の男に王妃様への謁見を申し出た。急な訪問だったがすぐに侍女らしき少女がやってきてニコリと私に向かい微笑んだ。彼女は私を王妃のもとまで案内すると言い先を歩き始めた。
門の正面にある建物を通り過ぎ、その後ろに連なるように建つこじんまりとした館に向かって歩いた。戸口の前の土は掘り返され、なでしこや萩の花が均等に植えられている。後宮の王妃の館の前にも同じ花が植えられていた事を思い出し、胸がツンと痛んだ。
私はしばらく戸口の前に立ち覚悟を決めたあと、一歩前へと足を踏み出した。廊下は明るい光が差し込み、所々に藤色の桔梗が生けられている。微かな花の香りが後宮で過ごした日々を鮮明に思い出させた。キューンと胸が痛む。きっとこの切ない思いは生涯私の心から消えないだろう。私は廊下をキシキシと音を立てながら侍女の後ろを歩いた。
廊下の突き当りまで来ると侍女は足を止め、目の前の戸を叩いた。
「王妃様、お連れいたしました」
私は心を落ち着かせ、戸が開くのを待った。
「入りなさい」
懐かしい王妃の声が廊下に響き目の前の戸がスーッとあいた。私は頭を下げたまま数歩進み部屋の中へと入った。王妃が立ち上がり近づいてくるのが分かる。
顔を上げた瞬間、バチンと大きな音がし頬に激痛が走った。目の前で王妃が真っ赤な顔をして目に涙を溜めている。胸の前で握られた拳は小さく揺れ、袖口から細くなってしまった白い手首が見えた。彼女が受けている心労を察した瞬間、刀で心を突かれたような痛みが走った。頬がジンジンと熱くなる中、私は視線を落としたまま王妃に拝礼をした。
「…王妃様、大変ご無沙汰しております」
王妃は小刻みに震えたまま動かない。彼女の溢れた涙がポタポタと床に落ちた。凛とした気高さはそのままだが、すっかり痩せてしまった体に美しい絹の衣が大きすぎる気がしてさらに胸が痛んだ。
王妃が胸を押え口を開いた。
「そなた、どれほど王様を苦しめるのだ。王が何度そなたの為に心を痛め、傷ついたか知っているか?」
私は黙ったまま下を見ていた。王妃の震える声が鋭いナイフのように私の心に突き刺さる。
「私とてそなたを許したかった。王様はそなたを泣く泣く林太郎に手放したのに、蘇我親子はじりじりと追いつめてくる。こんなに国に尽くしても、帝もまた我ら王家を不当に扱う。そなた、我らの恩を忘れたか?」
王妃が嗚咽しながら私の両肩を掴み泣き叫んだ。私は涙をぐっとこらえて唇を噛んだ。
どんなに恨まれても罵倒されても良い。彼女らの穏やかで平和な生活を守りたい。可愛い子供らに囲まれ、山代王と共に末永く幸せに生きて欲しい…
私は拳に力をこめ顔を上げると声を振り絞った。
「王妃様、無礼な私をお許し下さい。僭越ながら時間がないので単刀直入に申し上げます。どうか山代王様に帝の座を諦めるよう進言して頂きたいのです。そして出来る事ならばこの斑鳩の地を去り、どこか遠くに…」
「何を言う!我らは王家の人間だぞ!何があろうとも最後まで王様を側で支える。帝と蘇我一族がどんな残酷な手を使ってくるか、そなたもとくと見るが良い」
王妃が最後まで言葉を言い終わるかどうかの所で白蘭が勢いよく部屋の中へと飛び込んできた。
「王妃様、怒りをお納めください。燈花に逆恨みしたところで現状は良くなりません!」
王妃は両手で顔を覆いその場に泣き崩れた。
「王妃様⁈誰か居るか!王妃様を寝所にお連れしろ!」
白蘭の叫び声が響き、廊下から一斉に侍女達がドタバタと部屋の中へ入ってきた。侍女達は床に伏せている王妃の両脇を抱えると、みな恨めしそうな目で私を一瞬見てから部屋を去った。白蘭は寂しそうに私を見ると、戸に手を向け外へ出るようにと促した。
外はもう薄暗く、オレンジ色の夕日があたりを照らしている。そんなに長時間滞在した気はしないが、身も心もクタクタだった。
王家から受けた恩を仇で返した罰をきっと今受けている…当然の報いだ…
私は唇を噛んだ。会話を交わさないまま白蘭の後ろを黙って歩く。門の手前まで来ると彼女は足を止め振り返り、悲しみに沈んだ瞳で私を見つめた。
「燈花、こんな形で会う事になりとても残念だ」
私はうつむいたまま軽く頷いた。
「王妃様はそなたの事を恨んでなどいない。そなたをとても信頼し好いていたからこそ、その悲しみに打ちひしがれているのだ」
「申し訳ありません」
我慢していた涙が込み上げポタポタと頬を伝って地面に落ちた。白蘭は私の肩を優しく触ると、 「もう日が暮れる。夜道は危険だから今晩は馬小屋の裏にある納屋に泊りなさい。そなたは今や自由の身だろう?朝一番に帰っても問題なかろう…そして、ここを出たら全てを忘れるように…」と言い、寂しそうに笑った。
白蘭は軽く息を吐くと、くるりと背を向け歩き出した。
私は彼女の小さくなる後ろ姿を見ながら頭を下げ、おぼつかない足取りでよろよろと納屋に向かった。
自責の念にかられ次々と涙が溢れる。何度も足を止めては袖で目頭を押さえた。でもこれが何かを得る為に何かを手放す代償なのだ。私が選んだ道なのだ。
最後にもう一度後ろを振り返ったが、もう白蘭の姿はなかった。霞んだ視界の先に一瞬小彩の姿を見た気がしていた。
夕方の日差しが林臣の屋敷の庭先をかろうじて照らしている。
「燈花、戻ったよ」
「あっ。旦那様、お戻りですか?」
門番の男が薪を抱えて裏庭から出てきた。
「燈花は居ないようだが、留守か?」
「はい、朝どこかに出かけられて、一度戻られましたが、すぐにまたお出かけになりました。帰りが遅くなるとだけおっしゃっておりました」
「そうか…」
(おかしいな、燈花が行先も言わずに留守にするなど、今までなかったのに…最近の燈花の様子はおかしい…一体何を隠しているのだ…)
「どこに行ったか聞いたのか?」
「いえ、急いでいらっしゃるご様子でした…あっ、あと珍しい馬に乗っていました」
門番の男がはっと思い出したように目を大きくして答えた。
「馬だと?」
「はい、とても美しい黒馬です。確か以前に橘宮に行った時に、似たような馬を見ました。小柄ですが、黒塗りの毛並みの美しい馬だったので印象に残っていたんです」
「さようか。では橘宮に行き聞いてみよう」
林臣は姿勢を立て直すと勢いよく馬に飛び乗り手綱を引いた。
「誰かいるか!!」
林臣の声が橘宮の東門に響き渡る。
「これは、林臣様。ご無沙汰しております」
大きな声に驚いた漢人が薪を持ったまま飛び出してきた。
「久しぶりだな。元気か?」
「あっ、はい…」
突然現れた林臣に圧倒された漢人がしどろもどろに答えた。
「ところで燈花が今日来たと思うが…」
「はい、いらっしゃいました。なんでも急用らしく、六鯨様に馬の手配をお願いされていました」
何の事情も知らない漢人が答えた。
「馬の手配?…ふーん…やはりここに来たのだな…どこに向かったか知っているか?」
林臣が問う。
「はい…詳しい事はわからないのですが、斑鳩宮がどうとかとおっしゃっていたような…」
「斑鳩宮?一人で?」
林臣が目を細めて畳み掛けるように問うと、
「えぇ、他にお連れの方は見えませんでした。あと、とても急いでいるご様子で…」
漢人の声は段々と小さくなり、最後は聞き取れなかった。
「…さようか。わかった。ところで六鯨は?」
「あっ、丁度出かけており不在です」
「そうか…宜しく伝えておくれ」
「承知いたしました」
漢人が頭を下げると林臣はさっと馬にまたがり橘宮を去った。
(斑鳩宮といえば、山代王様の屋敷があるではないか…いったい、何故なのだ…まさか、まだ山代王様への想いが残っているのか? そんな、馬鹿な考えを…あの二人はとっくに終わったのに…でも、もとは山代王と婚約していた…先日も燈花は薬草庫の話をはぐらかしたな…やはりまだ、山代王への未練が残っているということか…)
林臣は唇を噛みしめると険しい表情で自宅に戻った。
チュンチュン、チュンチュン
私は、かじかんだ手に息を吹きかけながら静かに庭門の扉を開けた。
結局なんの解決にもならなかった。むしろ火に油を注ぐ結果になってしまったかもしれない…
自分の無力さに失望していた。回らない頭のまま斑鳩宮から休憩を取らずに走らせた馬に餌と水をあげようと馬屋に向かった。
朝日に照らされた林臣の馬が目に飛び込み息が止まった。体は凍りついたかのようにピクリとも動かない。彼は帰宅しないだろうと、全く疑わなかった私は想定外の出来事に動揺し呆然とその場に立ちすくんだ。
ザッザッ、、と音がし背後に人が近づいてくる。足音は少し後ろで止まり、私はゆっくりと振り返った。誰なのかはもう分かっていた。
林臣が目の前に立ち静かに私を見つめている。
「り、林臣様、今日お仕事はなかったの?朝議の時間はとっくに過ぎているでしょう?…」
私は唇を噛み、両手に力を入れ、かまえるように彼を見た。
「……こんな時間に戻ってくるとは、そなたはいったいどこに行っていたのだ?」
林臣の低い声が冷たく問う。私はうつむいたまま答えた。
「…小彩に会いたくなって近江皇子様のお屋敷に遊びに行っていたの。話に花が咲いてつい長居してしまったのよ…ごめんなさい」
分かってる。こんなどさくさ紛れの言い訳なんて通じるはずがない。林臣の深いため息が聞こえた。
「そなた、いつまで私を偽るのだ?」
彼の冷淡な口調を久しぶりに聞いた私は慌てて顔を上げたが、彼の目を直視できずにすぐに目を逸らした。震え始めた手をギュッと握りしめる。
「斑鳩宮に行っていたのだろう?山代王様にはお会いできたのか?」
「えっ?そ、それは…」
「そなた先日も偽りを申したな…薬草庫でそなたと山代王様が会っていたのを古人皇子の侍女が見ている。それにそなたが煎じていたあの生薬は、先日百済から朝廷へと献上された希少な品だ、一般には出回っていない」
私は思わず両手で口を押えた。ガタガタと震え始めた体を、感の鋭い林臣が気付かないはずがない。少しの沈黙の後、彼が口を開いた。
「本当の事を話してくれ…」
「そ、それが…それが…」
彼の真っ直ぐな瞳に見つめられても、私は口ごもりどうしても本当の事が言えなかった。とても信じてもらえる話ではないし、それに二人に降りかかる残酷な結末を話したら現実になってしまいそうで、心がかたくなに真実を伝える事を拒んだ。
「…話せないのだな…私の知らないところで山代王様との関係は続いていたということか…何も気が付かずに間抜けなのは私だけか…」
林臣の顔はみるみる青ざめ、瞳は深い漆黒へと変わっていった。
彼はくるりと背を向けるとふらふらと歩き始めた。
「林臣様、どうか聞いて。事情があるのよ。お願い、信じて…」
私は声を振り絞り叫んだ。林臣は一瞬足を止めたが再び歩き出し屋敷を去った。
彼の後ろ姿はあっという間に見えなくなり、一人残された私はひどい疲労感に襲われその場に崩れ落ちた。
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