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第二十九話
巫女の言葉
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後宮の生活もいつのまにか一か月あまりが過ぎた。毎日の日課は苦手な刺繍をしたり、庭を散策したり、王妃や白蘭とお茶を飲みながらたわいもない話をしたりといたって平凡だ。山代王も頻繁に私に会いに来てくれたので寂しくはなかった。むしろ制限がある中での彼とのささやかな時間はひときわ楽しかった。
なんの不自由ない生活と十分すぎる食事が毎日食卓に並んだが、時折空虚な気持ちになり一人で過ごす時間も増えていった。
「燈花、燈花聞いているか?」
王妃が庭を眺めている私を呼んだ。
「はっ、はい。王妃様…」
慌てて答えたが、事実彼女の話をぼやっと聞いているだけで私は庭で遊ぶ子供たちをずっと見ていた。
「最近のそなたは幾分元気がないように見えるが…何か心配ごとでもあるのか?」
「えっ?い、いえ…」
自分が元気のないように見えていた事に驚き、慌てて微笑み否定したものの、王妃の真っすぐな瞳が全てを見抜いているようでバツが悪くて下を向いた。
「この講義も上の空であろう?」
「も、申し訳ございません、大変なご無礼をいたしました」
王妃の鋭い洞察力には適わない。私は正直に心の内を明かした。
「庭で遊ぶ子供たちがあまりにも楽しそうなので…つい見入ってしまいました…」
「子供たちを?」
王妃は少し呆気に取られたような顔をしたあと庭を見た。夏の燦々と輝く太陽の下、子供たちが大汗をかきながらキャッキャッと毬を追っている。王妃はその様子をしばらく眺めると、軽くため息をつき再び私を見て呟いた。
「そなたにも息抜きが必要だな」
「え?」
王妃は数秒考えると、何か思いついたのか興奮気味に言った。
「そうだ!急ではあるが午後に都の外れにある市に出向いてみよう。よくよく考えればそなた、この後宮に来てから外に出ていないだろう?」
「あっ、はい…」
王妃の迫力に圧倒されながらも、外出と聞き一気に心が弾んだ。
「今日は海石榴市が開いているゆえ、共にまいろう。すぐに王様から許可をもらってくるから急いで支度をしなさい」
「えっ?は…はい!」
私は大きな声で答えると飛び上がって喜びたい気持ちを抑え早歩きで部屋に戻った。莅用や侍女達は突然の外出に混乱しながらもバタバタと出かける支度をしてくれた。
「莅用、外では歩きにくいし汚れてしまうからこの衣で行くわ」
橘宮から持参したお気に入りの衣を手にした。裾が少しほつれてはいるが水色の浅縹色が夏の空によく映え気に入っていた。しかし彼女はチラッと見ただけで気に入らないのか顔をしかめた。
「これから王族の一員になられる方がこんな野暮ったい貧相な衣を着ていれば下々の者に笑われてしまいます。こちらの衣をまとって下さい」
莅用は鮮やかな濃い橙色の衣を棚から取り出すと侍女に手渡した。私は寝台の上に無造作に置かれた水色の衣を横目に見ながら、軽いため息をつき侍女達に身を任せた。
髪はもう一度結い上げられ、頭のてっぺんには花形の碧玉がついた簪が挿され、側頭部には小菊が散りばめられた髪飾りをつけられ、最後に耳飾りがつけられた。その重みを支えるのに一瞬バランスを失いフラつき不満を感じたが、それでも市に行く方が楽しみで気分が良かった。
「燈花様、馬の準備が整いましたので参りましょう」
戸口から侍女の呼ぶ声が聞こえた。慌てて門に向かうと、馬車の中から手を振る王妃の姿が見えた。手綱を持つ馬夫の横には冬韻の姿もありこちらを見ている。馬車の後ろにも馬に乗った数名の護衛がいる。冬韻は私と目が合うと軽く会釈をし微笑んだ。私は彼が一緒なら安心だと胸を撫で下ろし急いで馬車に乗り込んだ。
パカッパカッパカパカ、パカパカ
山から吹く風が爽やかで気持ちが良い。王妃も夏の深い緑の葉に合う薄黄緑色の上着をはおり上機嫌だ。彼女の髪には私以上に豪華絢爛な髪飾りが施されているが、みじんも疎ましさを出す事なく終始にこやかに笑っている。王族の誇りが彼女を凛とさせ美しく見せているのだろう。
私もいつか彼女のように凛としながら生きることができるだろうか?…とても自信がない。途端にいや、こんな心持ちではいけないと思い直し頭を振った。
重い思考で頭をいっぱいにする癖をやめなければ…気持ちを切り替えた私は笑顔を作り目の前に座る王妃に尋ねた。
「ところで王妃様、王様はすぐに外出のお許しを下さいましたか?」
彼は今、秋に行われる新嘗祭の準備に取り掛かったばかりでとても忙しい。新嘗祭は古来より宮中だけでなく神社も含めた重要な祭祀の一つだ。彼は中心人物なので私たちの道楽に付き合ってる暇はない。頭ではわかっているが、一緒に市に行き楽しみたかった…欲張りな望みだろうか?
私の質問に王妃は涼しい顔でさらりと答えた。この時代にデートという概念はないのだと彼女の素振りを見て悟った。
「もちろんだ。私が共に行くし、護衛もつけ冬韻も一緒なので問題ないと判断されたのであろう。それとそなたにもう一着衣を新調したいから良い生地があれば買うようにと頼まれた」
「まことでございますか?もう十分足りているというのに…」
「フフ…王様がそうしたいのだ。素直に喜びなさい」
「はい…なれど、美しい衣も高価な装飾品も十分に受け取っております…」
私は謙虚心からではなく大真面目で言ったつもりだが王妃は、
「ハハハ物を欲しがらぬそなたは、だいぶ普通の女人とは違うな」
と、私を見てクスクスと笑った。そんなに私のこの思考は古代では奇抜なのだろうか?わからない…
馬車は山道をガタガタとゆっくりと下った。道が平らになり雑木林を抜けると目の前に青々とした水田が広がった。馬車は水田の中のくねくねとした細い道を走り抜けていく。村里らしき住居もポツリポツリと増え都に近づいているのがわかった。
ふと前方を見ると、遠く左奥に香久山らしきものが見えた。近くに百済大寺の塔も見えるので香具山で間違いないと思う。
飛鳥の都がいよいよ近づいたことに心が躍ったが期待とは裏腹に馬車は都への道とは逆方向に進んだ。馬夫が道を誤ったのかもしれないと思い何度も後ろを振り返ったが馬車は止まる気配はない。私はあきらめ前を向いた。
王妃がさっき海石榴市と言っていたが、初めて聞く市の名だし場所もよくわからない。あたりの景色を見回すとすぐ右手に形の整った美しい円錐形の山が見えた。私はおぼろげな記憶をもとに飛鳥周辺の地図を頭の中で広げた。地理的なことを考えると右手に見えるあの山はおそらく三輪山だろう。
三輪山は古来より神の山と信仰されていて山そのものが御神体であることから、神官や僧侶以外は足を踏み入れる事が出来ない。昔、観光ガイド本で読んだから知識はあるものの、実際この辺りには来るのは初めてだった。
事実、三輪山から吹き下ろす風には清らかさがあり、ひんやりと澄んだ空気が身体の隅々まで染み渡った。私は大きく息を吸い込むと、鳳仙花で染めた美しい紅色の爪を眺めている王妃に尋ねた。
「王妃様、市はまだ先ですか?」
「もう少しで着くはずだ、きっと楽しめよう。大きな市だからな」
彼女は嬉しそうに笑うと再び爪を満足気に見た。しばらくすると馬車は速度を緩め、外からガヤガヤと人の声が聞こえてきた。馬車から顔を覗かせ前方を見ると道の先にある十字路に大勢の人だかりが見える。馬車は十字路の手前で止まった。
馬車を降りた瞬間に人々の熱気に包まれた。都の近くの市には何度も行った事があったが、こんなに大きく人々の活気に満ちた、ある意味庶民的な市は初めてだった。
「王妃様、こんなに活気に満ちた賑やかな市に今まで来た事がありません」
私は目をパチパチさせながら王妃を見た。
「そうか、では楽しもう。冬韻ゆくぞ」
王妃は嬉しそうに笑い冬韻を呼び私達の前を歩かせた。数名の護衛も少し離れて後ろからついてきている。
市は大勢の人でごった返し、遠くからは楽器の音に合わせた男女の歌声も聞こえた。広場の奥の方には川が流れていて、川岸にはいくつかの小舟が停留し男たちが荷物を運び出している。至る所に店が並び様々なものが売られている。布や糸、野菜、果物、海鮮、日用品から宝飾品、珍しい薬草など多種多様で正直驚いた。
王妃は布屋の前で足を止め慎重に品定めを始めると一枚の生地を取り上げ私の顔の横に当てた。とても光沢のある鮮やかな秋桜色の布だ。
「やっぱり!この鮮やかで濃い色がはっきりとした顔立ちのそなたに実に似合う。しかも滑らかで上質の良い絹だ。もらっていこう」
王妃は他にもいくつか良さそうな生地を選びお付きの侍女達に持たせた。
「王妃様、こんなに沢山…」
私がためらいがちに言うと、王妃は生地を物色しながら言った。
「何を言う、王様のお気持ちを忘れたか?」
そう言われたら私は返すすべがない。大人しく口をつぐんだ。冬韻が袖からいくつかの銀子を取り出し店主の男に渡した。男が目を見開き大いに喜ぶ姿を見て、やっと私の罪悪感は薄れた。
私は王妃に感謝を伝え微笑んだものの未だ贅沢な暮らしをなかなか受け入れる事ができない。私は、生粋の一般庶民なのだろう…
王妃のあとに続きトボトボと歩いていると次は宝飾店の前で立ち止まり店主の男を呼んだ。
「その翡翠の指輪を見せておくれ」
王妃は台の上の一番高い所に飾られた美しい濃い緑色の翡翠の指輪を指さした。店主の男はその指輪を手に取ると、鼻を膨らませながら興奮気味に言った。
「お目が高いですね、この翡翠の指輪は先日東北の蝦夷より入荷したもので、不純物が少なく大変希少なものです」
「燈花見てみなさい、もしそなたが気に入ったなら私が贈ろう」
王妃は満足気に微笑むと指輪を手のひらにのせ私に見せた。
「いっ、いえ、こんな高価なもの頂けません。しかも翡翠の指輪なら以前にいただいたものがあるのです」
とっさに本当の事を話してしまったのには理由があった。これ以上高価な物は要らないと心底思ったからだ。
「ん?そなた、翡翠の指輪を持っているのか?」
王妃が若干驚いた様子で聞いてきた。
「はい…」
私は胸の中から紐を引き上げると、証明するかのように指輪を彼女に見せた。
「な、なんと美しい代物でしょう!!」
彼女の隣に並んでいた店主の男が目を輝かせ叫んだ。
「近くで拝見させていただいても宜しいですか?」
興奮する男の様子に唖然としながらも、私は了承し首から指輪を外し手渡した。彼は食い入るようにひとしきり眺めたあと深いため息をついた。
「私も長らくこの商いをしており、多くの石を見てきましたが、こんなに美しい翡翠をみるのは初めてでございます。こんなに美しい指輪をお持ちであれば、他の石など霞んでしまいましょう」
王妃も男の感嘆の声を聞き納得したのか、それ以上勧めて来なかった。結局私達は何も買わずに店を去った。
「そなたが、そんなに高価な指輪を持っていたとは驚きだ。贈り物か?」
私は一瞬戸惑ったが、この指輪はもともと友の証として山代王より受け取ったものだし、何よりも王妃を欺くような大罪は犯したくないと思い真実を話した。
「はい…実は、その昔山代王様からいただいたものなのです」
「王様から?」
「はい、出会ってすぐの頃、友の証としてくださりました」
王妃は一瞬顔を曇らせたが、
「やはり、そなたが私よりも先に王様のお心を射止めていたのだな…」
と言い、寂し気に微笑んだ。
「王妃様…」
「さぁ、そろそろ帰ろう、遅くなれば王様も心配されるだろう」
私はうなずき下を向いた。
馬車に向かおうとした時だ。広場の外れにある椎の木の下に縄で手足を結ばれている数名の女人の姿が目に留まった。みなぐったりとしていて体は傷だらけでボロボロの衣を身に着けている。こんな光景を今までどの市でも見たことがない。思わず歩みを止め王妃に尋ねた。
「王妃様、あの向こうの椎の木の下にいる女人達は何をしているのですか?」
「ん?あぁ…冬韻あの者たちの罪は?」
王妃が前を歩く冬韻に尋ねた。
「寺の尼僧たちです」
冬韻は歩みを止め振り返り答えた。
「尼僧?」
私は冬韻の淡々とした返答に驚き再び彼を見た。
「さようでございます」
彼の冷静な態度とは真逆に私の体は雷に打たれたように硬直した。
「何故、仏教を重んじる尼僧たちが縄で繋がれ血を流しているのですか?」
即座に冬韻に聞き返した。
「恐らく仏教の戒律でも破ったことへの罰か、民への見せしめでしょう、決して珍しい事ではございませんので、気にせずとも良いかと…」
彼の顔色はさっきから一つも変わらない。私は動揺しながらも話を続けた。
「…では、あの者たちはこの先どうなるのですか?」
「更に鞭打ちの刑が科され、耐えられなければ命を落とすでしょう」
「なっ、なんてこと…あの人たちは、命を奪われるほどの大罪を犯したのですか?」
納得のいかない怒りにも似た感情がフツフツと沸き起こった。
「急にいったいどうしたのだ?」
王妃が困惑した顔で間に入った。冬韻も私の態度に驚いたのかポカンと口を開けている。私は二人の視線から顔を背け大きく深呼吸をし目を閉じた。
ここは私が住んでいた民主主義の現代ではない…古代の掟の中で生きているのよ落ち着いて、冷静になるのよ…
何度か深呼吸を繰り返すと、ざわついていた心も落ち着いてきた。まずはこの気まずい空気を変えないと…
「申し訳ありません王妃様。初めて見る光景に取り乱してしまいました…」
私はかすれた声で言い、下を向いた。すぐに王妃の隣にいた冬韻が私を諭すかのように穏やかな口調で言った。
「燈花様、あのような者達の姿は今に始まった事ではありません。この飛鳥では罪を償う為だけでなく民への見せしめとして鞭打ちや処刑される事も時にはあります。しかし社会秩序を守るために必要な処遇でもあるのです」
彼の言葉に同調するように王妃も大きく頷いた。
「冬韻の言う通りだ。我らが気に留めることではない、さぁもう後宮に戻ろう」
「……はい」
私は力なく答えもう一度尼僧達を見た。彼女達はすがるような目でこちらを見て合掌している。
ごめんなさい…私、何も出来ないのです…
胸に鋭い痛みが走ったが、王妃の後に続き逃げるようにその場を去った。こういった人々の犠牲はどの時代もある。どうにも出来ないことだ…
帰りの馬車の中で何度も自分に言い聞かせた。
今は1400年も前の時代にいるのだから仕方のないこと…人権など重んじられる世界ではなくこれが彼らの信じる正義なのだ…強い心を持ってこの時代に順応しなければ…
モヤモヤとしたやり場のない気持ちのせいか帰りの道は行きよりも随分と長く感じた。王妃は共に乗る侍女達と麻布や糸や草木染の話をあーでもないこーでもないと話している。私は馬車から見える景色をただ黙って見ていた。
「燈花着いたぞ。起きなさい」
「は、はい」
いつの間にウトウトと眠ってしまっていたのだろう、王妃に起こされた時には馬車は完全に後宮の門の前に停車していた。私は急いで身なりを整えたあと馬車を降りた。
「急な外出で疲れたであろう。すぐに夕食を運ばせるゆえ、部屋で休みなさい」
「はい王妃様。本日はありがとうございました」
私は王妃に挨拶をして自分の部屋へと戻った。
ちょうど良いタイミングで山代王が後宮の門をくぐった。彼は駆け付けた馬屋番の男に黒馬の手綱を手渡すと王妃を呼び止めた。
「王妃よ今戻ったのか?燈花はどうした?」
「はい。疲れているようなので、部屋に帰らせました」
「さようか…で、燈花の衣の生地は手に入ったか?」
「はい、大唐から輸入された良い絹の生地が手に入りました」
王妃は満足気に微笑むと侍女に持たせた布に目を向けた。
「そうか、良かった。すぐに侍女達に仕立てさせよう。王妃ももう休みなさい」
「はい」
王妃は挨拶を済ませると自分の屋敷へと帰っていった。彼女が去ると後ろでこの様子を見ていた冬韻が王に挨拶をした。
「冬韻、今日は急な用を申しつけてしまいすまなかったな。二人は楽しめたか?」
「はい…」
冬韻の表情が少し曇った。
「どうしたのだ?何かあったのか?」
「それが…」
冬韻が神妙な顔つきで市での出来事を話した。
「そうであったか…私から燈花に話をしよう。ご苦労だったな、お前はもう戻りなさい」
冬韻が去ると、山代王は私のもとへとやって来た。今日はもう会えないとあきらめていたし、市での出来事を聞いてほしかった事もあり、彼の思いがけぬ訪問はこの上なく嬉しかった。
彼ならきっと私の心情を理解してくれるだろう…納得のいく答えを彼から聞けたら、私の心も少しは晴れるに違いない。
「燈花、大丈夫か?市での話を冬韻から聞き気になり参ったのだ」
やっぱり…私は市での出来事を説明する手間がはぶけて良かったと思ったが、冬韻が王様に即座に話したところを見ると、この問題は王家にとって大きな憂いの種なのだろう…
「初めて見る光景に戸惑ったとか…」
山代王が静かに言った。
「そうなのです、詳しい理由はわかりませんが仏門を学ぶ者が死に値する行いをするとは到底思えません…」
私は本心を告げ唇を噛んだ。
「なれど、仏教の戒律に従わぬ者は規則どおりに罰を受ける。朝廷での決め事や帝に逆らうような行いも当然不敬とし処罰の対象となる。この国の調和を乱し混乱を招く事は大罪だ。よって死をもって償うことも時にはある」
山代王は優しい口調だったが、言葉の節々に今後も曲げる事はないであろう彼の強い意思を感じた。
私は正直、想像と違う答えに戸惑っていた。ただ彼の口から、“うん”と、一言だけ聞きたかっただけなのに…私は沸き起こる感情を抑えられずに話しを続けた。
「…では、王様はあの者たちの言い分を聞かれたのですか?」
「ん?なぜ聞く必要があるのだ?法にのっとり裁かれている」
「それは、誠に公平な裁きでございますか?それとも朝廷に逆らうなという見せしめなのですか?だとしたら王様は罪のない民が死んでいくのをただ黙って見過ごすのですか?」
ここまで追い詰めて聞くつもりなどなかったのに、溢れた感情が止まらなかった。きっと王様はこんな私の態度に驚いたはずだ。せっかく私を王族の一員として温かく受け入れて下さっているのに…
私は再び唇を噛んでうつむいた。山代王はしばらく沈黙すると、優しく私の手を握り口をひらいた。
「罪の程度は関係ないのだ、少しでも大目に見てしまえば、国は乱れ朝廷に対して不満をもつ輩どもが徒党を組んで押し寄せる。いかなる反乱の芽も小さなうちに摘んで根絶やしにしなければこの国の平穏は保てぬし、この後宮やそなたらも守れぬ」
王様の言う通りだ。きっと私の考え方が甘いのだろう。
「…王様のお気持ちも察せずに出過ぎたことを口に致しました、どうかお許し下さい」
「わかってくれれば良いのだ」
山代王は私の頭を優しく撫でたあと抱きしめた。彼の温かな体温が伝わってきた。しかし今後、この行き場のないやるせなさを解決出来るだろうか?私の心は納得するのだろうか…
山代王が部屋を去ったあと、莅用にいつもよりも早く夕食を用意してもらい寝台に横たわった。
この世界で生きていくと決めた以上この時代の掟に従わないと…何度も自分に呪文のように言い聞かせ目を閉じた。
夢を見ている…
「ダメよ、行かないで…行ってはいけない…やめて!!」
自分の声に驚いて飛び起きた。心臓はバクバクと鳴り鼓動がおさまらない。部屋の中には微かな夕暮れの光が差し込んでいた。
なんて酷い夢を見たのだろう…
「燈花様!燈花様!大丈夫でございますか⁉︎」
莅用が部屋の中に飛び込んできた。
「だ、大丈夫よ。なんでもないわ…」
私は額の汗を拭いながら、カラカラの声で答えた。
「燈花様、だいぶうなされておりました」
「ええ、悪い夢を見ていたみたい…でも、もう大丈夫」
「すぐに温かいお茶と着換えをお持ちいたします」
莅用は乾いた手巾を私に手渡すと足早に部屋を去った。戸の隙間からひんやりとした風が吹き込み額の汗を乾かした。久しぶりに悪夢にうなされたが、不思議と起きた瞬間に夢の内容は全て消え思い出せない。
ただわかるのはこの上ない絶望感が目覚めた今も残っている事だけだ。深酒した翌日のような酷い気分が苦しくて両手を胸にあてた。
それから数日たったある日、二か月後の山代王との婚礼の日取りを決める為に王妃と共に星宿庁に出向くことになった。
都から南西に向かいいくつかの山を越えた小高い山の山頂に星宿庁が管轄する別館があり、特殊な力のある巫女が吉凶をそこで占っているらしい。噂ではその巫女の占いは百発百中らしくみな幸福をつかむと言う。
本来ならば王家に属する卜部にて鹿の骨を焼き吉凶を判断するのが習わしだが、婚礼の儀は最高の吉日を選びたいという王様の願いからこの巫女が抜擢された。
暦上では今日は気が安定している吉日らしく、私と王妃は朝からその館に向け出発した。
都の外れから南西に向かい山をいくつか超えた先に巫女の住む館はあった。
館のまわりには青々とした竹がその存在を隠すかのように生い茂っている。馬車がゆっくりと館の前で止まると、入り口前にいた少女が寄ってきた。私と王妃は馬車から降りると少女の案内に従い静かに建物の中へと入った。王妃もまた初めて訪れる場所なのかキョロキョロと落ち着かない様子だ。
昼間だというのに館の中は暗くひっそりとしている。部屋の隅に置かれた香炉からは白い煙が出て足元をゆらゆらと雲のように動いている。まるで白龍のようだ。見上げた天井はとても高く円形星図である天文図が大きく描かれていた。壁の隙間から入り込む光のせいからか、天井に描かれた何百もの星々がキラキラと反射し不思議と動いているように見えた。
部屋の中央に一人の年老いた老婆が座り何かブツブツと呟いている。恐らく彼女が噂の巫女だろう。私と王妃はしばらく戸口のそばで黙ってその様子を見ていたが、少しすると巫女は私に向かい手を差し向けこちらに座るようにと合図をした。私は言われたとおりに彼女の前に行きその場にしゃがんだ。
巫女は天井に描かれた天文図を見上げブツブツと囁きながら目で何かを追っていたが、私の方を向き直し顔をまじまじと見てきた。彼女の灰色の瞳はがっちりと私の目の奥を捉え視線を逸らすことが出来ない。全てを見透かされているようで心臓がバクバクと鳴った。最後に私の手を取り汗で湿った手のひらをじっと見つめた。
しばらく沈黙したあと、
「う~ん」
巫女は首をかしげ再び天井の天文図を見上げまた黙り込んだ。
「どうしたのか?何か問題でもあるのか?」
後ろから様子を見ていた王妃が声を上げた。
「う~む…」
巫女は黙ったまま、まだ天井を見上げている。
「さっさと申さぬか!」
痺れを切らした王妃が苛立った声で言うと、巫女は一瞬目を閉じ王妃に顔を向け言った。
「…この者の星が読めぬのです。というか、運命星がどこにも見当たらないのです」
「なんだと⁈一体どうゆうことなのだ⁈」
王妃が困惑しながら言った。
「私も、こういった状況は初めてのことで大変困惑しております。暦では本日は大気が安定しており絶好の占い日ですが、何らかの気が運命星を塞いでいるのかどこにも見当たりませぬ…そのうえ北斗星も陰りを見せ実に気がかりです…」
「ええい、わかるように申さぬか」
王妃の圧に屈する様子もなく巫女は淡々と話を続けた。
が王妃様、僭越ながら申し上げますが、この世に生ある人間は勿論のこと、死んだ人間でさえも天界に星の軌跡が残るものです。なれどこの者は運命星の存在だけでなく気配すら全くないのです。こんなことは本来であれば絶対にあり得ぬこと…ゆえにもう一度日を改めてお越しいただけますか?…」
「な、なんと…そなたが星宿庁で一番の霊力のある巫女であると聞いたから、わざわざ訪ねてきたのだぞ!」
王妃が声を荒げて言うと巫女は口をつぐみ下を向いた。
「ハァ…仕方あるまい、では日を改めればはっきりとわかるのか?」
巫女が黙ったまま大きく頷いた。
「ふん、…ならば、出直そう」
「燈花、戻るぞ」
「はい…」
不機嫌そうな王妃の後について部屋の外にでた。私が部屋の外に出ていくその間、巫女はじっと目を細め疑うような眼差しで私を見ていた。
「今日は無駄足であった。また次回にお預けだ」
王妃が疲れきった様子で言い私達は馬車に乗り込んだ。帰り道、王妃は終始黙ったまま外の景色をぼんやりと見ている。
あの巫女…間違いなく私の存在を疑っていた…気づいたのだろうか…
しばらく馬車で走ると、遠くに橘宮の五重の塔が夕陽の中に見えた。こんなに美しい宮だっただろうか…息を呑んだ
宮を通り過ぎると馬車が速度をゆるめた。見ると前方から馬に乗った数人の男たちが一列になり道の端に寄っている。すれ違った瞬間、馬上の男と目が合った。見慣れた冷たい視線…
そう…林臣様だ…
向こうも私に気づいた様子だが一瞥しただけだった。彼に最後に会ったのは一か月以上前だ。嶋宮での気まずい夜を一瞬思い出したが、かき消すように頭を振った。私は彼の悪い冗談をいつまでも根に持つような心の狭い人間ではない。私は妙に勝ち誇った気分になり久しぶりに彼と過ごした日々を思い出していた。
林臣様、やっぱり偉そうだった…でも、あんなに偉そうにお高くとまってたって結局菜の花のお浸しを持って帰ったじゃない…弓矢だって外した時は必ず、調子が悪そうに肩を回して誤魔化そうとするし、聞いてもないのに言い訳をしてくるし…姑息な男だわ…
「フフフ…」
思わず吹き出してしまった。
「どうしたのだ?」
王妃がきょとんとして私を見た。
「い、いえなんでもないのです。昔の事を思い出してなぜか笑ってしまいました」
「そうであったか…私は気が塞いでいるが、そなたは平気そうで安心した」
王妃の顔に少しだけ笑みが戻った。
「も、申し訳ありません」
「いや、そなたの笑顔を見るのは久しぶりだから、なんだか嬉しい」
王妃の言葉にハッとした。私はそんなに笑っていなかったのだろうか?
「さ、さようでございますか…」
私はなんだかバツが悪くてうつむいた。それでも王妃は優しい笑顔を私に向けて尋ねた。
「聞いてもよいか?誰を思い出し笑ったのだ?」
「は、はい…蘇我林太郎さまをご存知ですか?」
隠す意味もなかったので正直に王妃の問いに答えた。
「豊浦大臣の子息だろう?」
「さようでございます」
「ほぉ、何度か会った事はあるが挨拶程度で深く話したことはないのだ。そなた知り合いなのか?」
「はい、何度かお話をさせて頂く機会があり知人になりました」
「さようであったか…なれど、噂では賢いものの横柄で冷酷な男だと聞いたぞ?」
「はい、私も初めのうちはそう思っていたのです。確かに横柄で自己中心的な面もございますが、悪いお方ではないと今では確信しております」
「ほぉ、よくあやつを知っているのだな。まぁ、王様とは幼少からの長年の知己でもあるし、そなたの言う通り噂ほど悪い人間ではないのであろう。あまり関心はないが今後、王様の側近として朝廷で手腕を振るう日がくるやも知れぬし、敵にはしたくないな」
王妃が笑った。
「…はい…」
私は少しの不安を抱きながらもうなずいた。要らぬ先の心配をしても仕方がない。なるようになるだけだ。
そこからは機嫌を良くした王妃と昔話に花が咲き、気がつくと馬車は後宮に到着していた。
なんの不自由ない生活と十分すぎる食事が毎日食卓に並んだが、時折空虚な気持ちになり一人で過ごす時間も増えていった。
「燈花、燈花聞いているか?」
王妃が庭を眺めている私を呼んだ。
「はっ、はい。王妃様…」
慌てて答えたが、事実彼女の話をぼやっと聞いているだけで私は庭で遊ぶ子供たちをずっと見ていた。
「最近のそなたは幾分元気がないように見えるが…何か心配ごとでもあるのか?」
「えっ?い、いえ…」
自分が元気のないように見えていた事に驚き、慌てて微笑み否定したものの、王妃の真っすぐな瞳が全てを見抜いているようでバツが悪くて下を向いた。
「この講義も上の空であろう?」
「も、申し訳ございません、大変なご無礼をいたしました」
王妃の鋭い洞察力には適わない。私は正直に心の内を明かした。
「庭で遊ぶ子供たちがあまりにも楽しそうなので…つい見入ってしまいました…」
「子供たちを?」
王妃は少し呆気に取られたような顔をしたあと庭を見た。夏の燦々と輝く太陽の下、子供たちが大汗をかきながらキャッキャッと毬を追っている。王妃はその様子をしばらく眺めると、軽くため息をつき再び私を見て呟いた。
「そなたにも息抜きが必要だな」
「え?」
王妃は数秒考えると、何か思いついたのか興奮気味に言った。
「そうだ!急ではあるが午後に都の外れにある市に出向いてみよう。よくよく考えればそなた、この後宮に来てから外に出ていないだろう?」
「あっ、はい…」
王妃の迫力に圧倒されながらも、外出と聞き一気に心が弾んだ。
「今日は海石榴市が開いているゆえ、共にまいろう。すぐに王様から許可をもらってくるから急いで支度をしなさい」
「えっ?は…はい!」
私は大きな声で答えると飛び上がって喜びたい気持ちを抑え早歩きで部屋に戻った。莅用や侍女達は突然の外出に混乱しながらもバタバタと出かける支度をしてくれた。
「莅用、外では歩きにくいし汚れてしまうからこの衣で行くわ」
橘宮から持参したお気に入りの衣を手にした。裾が少しほつれてはいるが水色の浅縹色が夏の空によく映え気に入っていた。しかし彼女はチラッと見ただけで気に入らないのか顔をしかめた。
「これから王族の一員になられる方がこんな野暮ったい貧相な衣を着ていれば下々の者に笑われてしまいます。こちらの衣をまとって下さい」
莅用は鮮やかな濃い橙色の衣を棚から取り出すと侍女に手渡した。私は寝台の上に無造作に置かれた水色の衣を横目に見ながら、軽いため息をつき侍女達に身を任せた。
髪はもう一度結い上げられ、頭のてっぺんには花形の碧玉がついた簪が挿され、側頭部には小菊が散りばめられた髪飾りをつけられ、最後に耳飾りがつけられた。その重みを支えるのに一瞬バランスを失いフラつき不満を感じたが、それでも市に行く方が楽しみで気分が良かった。
「燈花様、馬の準備が整いましたので参りましょう」
戸口から侍女の呼ぶ声が聞こえた。慌てて門に向かうと、馬車の中から手を振る王妃の姿が見えた。手綱を持つ馬夫の横には冬韻の姿もありこちらを見ている。馬車の後ろにも馬に乗った数名の護衛がいる。冬韻は私と目が合うと軽く会釈をし微笑んだ。私は彼が一緒なら安心だと胸を撫で下ろし急いで馬車に乗り込んだ。
パカッパカッパカパカ、パカパカ
山から吹く風が爽やかで気持ちが良い。王妃も夏の深い緑の葉に合う薄黄緑色の上着をはおり上機嫌だ。彼女の髪には私以上に豪華絢爛な髪飾りが施されているが、みじんも疎ましさを出す事なく終始にこやかに笑っている。王族の誇りが彼女を凛とさせ美しく見せているのだろう。
私もいつか彼女のように凛としながら生きることができるだろうか?…とても自信がない。途端にいや、こんな心持ちではいけないと思い直し頭を振った。
重い思考で頭をいっぱいにする癖をやめなければ…気持ちを切り替えた私は笑顔を作り目の前に座る王妃に尋ねた。
「ところで王妃様、王様はすぐに外出のお許しを下さいましたか?」
彼は今、秋に行われる新嘗祭の準備に取り掛かったばかりでとても忙しい。新嘗祭は古来より宮中だけでなく神社も含めた重要な祭祀の一つだ。彼は中心人物なので私たちの道楽に付き合ってる暇はない。頭ではわかっているが、一緒に市に行き楽しみたかった…欲張りな望みだろうか?
私の質問に王妃は涼しい顔でさらりと答えた。この時代にデートという概念はないのだと彼女の素振りを見て悟った。
「もちろんだ。私が共に行くし、護衛もつけ冬韻も一緒なので問題ないと判断されたのであろう。それとそなたにもう一着衣を新調したいから良い生地があれば買うようにと頼まれた」
「まことでございますか?もう十分足りているというのに…」
「フフ…王様がそうしたいのだ。素直に喜びなさい」
「はい…なれど、美しい衣も高価な装飾品も十分に受け取っております…」
私は謙虚心からではなく大真面目で言ったつもりだが王妃は、
「ハハハ物を欲しがらぬそなたは、だいぶ普通の女人とは違うな」
と、私を見てクスクスと笑った。そんなに私のこの思考は古代では奇抜なのだろうか?わからない…
馬車は山道をガタガタとゆっくりと下った。道が平らになり雑木林を抜けると目の前に青々とした水田が広がった。馬車は水田の中のくねくねとした細い道を走り抜けていく。村里らしき住居もポツリポツリと増え都に近づいているのがわかった。
ふと前方を見ると、遠く左奥に香久山らしきものが見えた。近くに百済大寺の塔も見えるので香具山で間違いないと思う。
飛鳥の都がいよいよ近づいたことに心が躍ったが期待とは裏腹に馬車は都への道とは逆方向に進んだ。馬夫が道を誤ったのかもしれないと思い何度も後ろを振り返ったが馬車は止まる気配はない。私はあきらめ前を向いた。
王妃がさっき海石榴市と言っていたが、初めて聞く市の名だし場所もよくわからない。あたりの景色を見回すとすぐ右手に形の整った美しい円錐形の山が見えた。私はおぼろげな記憶をもとに飛鳥周辺の地図を頭の中で広げた。地理的なことを考えると右手に見えるあの山はおそらく三輪山だろう。
三輪山は古来より神の山と信仰されていて山そのものが御神体であることから、神官や僧侶以外は足を踏み入れる事が出来ない。昔、観光ガイド本で読んだから知識はあるものの、実際この辺りには来るのは初めてだった。
事実、三輪山から吹き下ろす風には清らかさがあり、ひんやりと澄んだ空気が身体の隅々まで染み渡った。私は大きく息を吸い込むと、鳳仙花で染めた美しい紅色の爪を眺めている王妃に尋ねた。
「王妃様、市はまだ先ですか?」
「もう少しで着くはずだ、きっと楽しめよう。大きな市だからな」
彼女は嬉しそうに笑うと再び爪を満足気に見た。しばらくすると馬車は速度を緩め、外からガヤガヤと人の声が聞こえてきた。馬車から顔を覗かせ前方を見ると道の先にある十字路に大勢の人だかりが見える。馬車は十字路の手前で止まった。
馬車を降りた瞬間に人々の熱気に包まれた。都の近くの市には何度も行った事があったが、こんなに大きく人々の活気に満ちた、ある意味庶民的な市は初めてだった。
「王妃様、こんなに活気に満ちた賑やかな市に今まで来た事がありません」
私は目をパチパチさせながら王妃を見た。
「そうか、では楽しもう。冬韻ゆくぞ」
王妃は嬉しそうに笑い冬韻を呼び私達の前を歩かせた。数名の護衛も少し離れて後ろからついてきている。
市は大勢の人でごった返し、遠くからは楽器の音に合わせた男女の歌声も聞こえた。広場の奥の方には川が流れていて、川岸にはいくつかの小舟が停留し男たちが荷物を運び出している。至る所に店が並び様々なものが売られている。布や糸、野菜、果物、海鮮、日用品から宝飾品、珍しい薬草など多種多様で正直驚いた。
王妃は布屋の前で足を止め慎重に品定めを始めると一枚の生地を取り上げ私の顔の横に当てた。とても光沢のある鮮やかな秋桜色の布だ。
「やっぱり!この鮮やかで濃い色がはっきりとした顔立ちのそなたに実に似合う。しかも滑らかで上質の良い絹だ。もらっていこう」
王妃は他にもいくつか良さそうな生地を選びお付きの侍女達に持たせた。
「王妃様、こんなに沢山…」
私がためらいがちに言うと、王妃は生地を物色しながら言った。
「何を言う、王様のお気持ちを忘れたか?」
そう言われたら私は返すすべがない。大人しく口をつぐんだ。冬韻が袖からいくつかの銀子を取り出し店主の男に渡した。男が目を見開き大いに喜ぶ姿を見て、やっと私の罪悪感は薄れた。
私は王妃に感謝を伝え微笑んだものの未だ贅沢な暮らしをなかなか受け入れる事ができない。私は、生粋の一般庶民なのだろう…
王妃のあとに続きトボトボと歩いていると次は宝飾店の前で立ち止まり店主の男を呼んだ。
「その翡翠の指輪を見せておくれ」
王妃は台の上の一番高い所に飾られた美しい濃い緑色の翡翠の指輪を指さした。店主の男はその指輪を手に取ると、鼻を膨らませながら興奮気味に言った。
「お目が高いですね、この翡翠の指輪は先日東北の蝦夷より入荷したもので、不純物が少なく大変希少なものです」
「燈花見てみなさい、もしそなたが気に入ったなら私が贈ろう」
王妃は満足気に微笑むと指輪を手のひらにのせ私に見せた。
「いっ、いえ、こんな高価なもの頂けません。しかも翡翠の指輪なら以前にいただいたものがあるのです」
とっさに本当の事を話してしまったのには理由があった。これ以上高価な物は要らないと心底思ったからだ。
「ん?そなた、翡翠の指輪を持っているのか?」
王妃が若干驚いた様子で聞いてきた。
「はい…」
私は胸の中から紐を引き上げると、証明するかのように指輪を彼女に見せた。
「な、なんと美しい代物でしょう!!」
彼女の隣に並んでいた店主の男が目を輝かせ叫んだ。
「近くで拝見させていただいても宜しいですか?」
興奮する男の様子に唖然としながらも、私は了承し首から指輪を外し手渡した。彼は食い入るようにひとしきり眺めたあと深いため息をついた。
「私も長らくこの商いをしており、多くの石を見てきましたが、こんなに美しい翡翠をみるのは初めてでございます。こんなに美しい指輪をお持ちであれば、他の石など霞んでしまいましょう」
王妃も男の感嘆の声を聞き納得したのか、それ以上勧めて来なかった。結局私達は何も買わずに店を去った。
「そなたが、そんなに高価な指輪を持っていたとは驚きだ。贈り物か?」
私は一瞬戸惑ったが、この指輪はもともと友の証として山代王より受け取ったものだし、何よりも王妃を欺くような大罪は犯したくないと思い真実を話した。
「はい…実は、その昔山代王様からいただいたものなのです」
「王様から?」
「はい、出会ってすぐの頃、友の証としてくださりました」
王妃は一瞬顔を曇らせたが、
「やはり、そなたが私よりも先に王様のお心を射止めていたのだな…」
と言い、寂し気に微笑んだ。
「王妃様…」
「さぁ、そろそろ帰ろう、遅くなれば王様も心配されるだろう」
私はうなずき下を向いた。
馬車に向かおうとした時だ。広場の外れにある椎の木の下に縄で手足を結ばれている数名の女人の姿が目に留まった。みなぐったりとしていて体は傷だらけでボロボロの衣を身に着けている。こんな光景を今までどの市でも見たことがない。思わず歩みを止め王妃に尋ねた。
「王妃様、あの向こうの椎の木の下にいる女人達は何をしているのですか?」
「ん?あぁ…冬韻あの者たちの罪は?」
王妃が前を歩く冬韻に尋ねた。
「寺の尼僧たちです」
冬韻は歩みを止め振り返り答えた。
「尼僧?」
私は冬韻の淡々とした返答に驚き再び彼を見た。
「さようでございます」
彼の冷静な態度とは真逆に私の体は雷に打たれたように硬直した。
「何故、仏教を重んじる尼僧たちが縄で繋がれ血を流しているのですか?」
即座に冬韻に聞き返した。
「恐らく仏教の戒律でも破ったことへの罰か、民への見せしめでしょう、決して珍しい事ではございませんので、気にせずとも良いかと…」
彼の顔色はさっきから一つも変わらない。私は動揺しながらも話を続けた。
「…では、あの者たちはこの先どうなるのですか?」
「更に鞭打ちの刑が科され、耐えられなければ命を落とすでしょう」
「なっ、なんてこと…あの人たちは、命を奪われるほどの大罪を犯したのですか?」
納得のいかない怒りにも似た感情がフツフツと沸き起こった。
「急にいったいどうしたのだ?」
王妃が困惑した顔で間に入った。冬韻も私の態度に驚いたのかポカンと口を開けている。私は二人の視線から顔を背け大きく深呼吸をし目を閉じた。
ここは私が住んでいた民主主義の現代ではない…古代の掟の中で生きているのよ落ち着いて、冷静になるのよ…
何度か深呼吸を繰り返すと、ざわついていた心も落ち着いてきた。まずはこの気まずい空気を変えないと…
「申し訳ありません王妃様。初めて見る光景に取り乱してしまいました…」
私はかすれた声で言い、下を向いた。すぐに王妃の隣にいた冬韻が私を諭すかのように穏やかな口調で言った。
「燈花様、あのような者達の姿は今に始まった事ではありません。この飛鳥では罪を償う為だけでなく民への見せしめとして鞭打ちや処刑される事も時にはあります。しかし社会秩序を守るために必要な処遇でもあるのです」
彼の言葉に同調するように王妃も大きく頷いた。
「冬韻の言う通りだ。我らが気に留めることではない、さぁもう後宮に戻ろう」
「……はい」
私は力なく答えもう一度尼僧達を見た。彼女達はすがるような目でこちらを見て合掌している。
ごめんなさい…私、何も出来ないのです…
胸に鋭い痛みが走ったが、王妃の後に続き逃げるようにその場を去った。こういった人々の犠牲はどの時代もある。どうにも出来ないことだ…
帰りの馬車の中で何度も自分に言い聞かせた。
今は1400年も前の時代にいるのだから仕方のないこと…人権など重んじられる世界ではなくこれが彼らの信じる正義なのだ…強い心を持ってこの時代に順応しなければ…
モヤモヤとしたやり場のない気持ちのせいか帰りの道は行きよりも随分と長く感じた。王妃は共に乗る侍女達と麻布や糸や草木染の話をあーでもないこーでもないと話している。私は馬車から見える景色をただ黙って見ていた。
「燈花着いたぞ。起きなさい」
「は、はい」
いつの間にウトウトと眠ってしまっていたのだろう、王妃に起こされた時には馬車は完全に後宮の門の前に停車していた。私は急いで身なりを整えたあと馬車を降りた。
「急な外出で疲れたであろう。すぐに夕食を運ばせるゆえ、部屋で休みなさい」
「はい王妃様。本日はありがとうございました」
私は王妃に挨拶をして自分の部屋へと戻った。
ちょうど良いタイミングで山代王が後宮の門をくぐった。彼は駆け付けた馬屋番の男に黒馬の手綱を手渡すと王妃を呼び止めた。
「王妃よ今戻ったのか?燈花はどうした?」
「はい。疲れているようなので、部屋に帰らせました」
「さようか…で、燈花の衣の生地は手に入ったか?」
「はい、大唐から輸入された良い絹の生地が手に入りました」
王妃は満足気に微笑むと侍女に持たせた布に目を向けた。
「そうか、良かった。すぐに侍女達に仕立てさせよう。王妃ももう休みなさい」
「はい」
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冬韻が去ると、山代王は私のもとへとやって来た。今日はもう会えないとあきらめていたし、市での出来事を聞いてほしかった事もあり、彼の思いがけぬ訪問はこの上なく嬉しかった。
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「燈花、大丈夫か?市での話を冬韻から聞き気になり参ったのだ」
やっぱり…私は市での出来事を説明する手間がはぶけて良かったと思ったが、冬韻が王様に即座に話したところを見ると、この問題は王家にとって大きな憂いの種なのだろう…
「初めて見る光景に戸惑ったとか…」
山代王が静かに言った。
「そうなのです、詳しい理由はわかりませんが仏門を学ぶ者が死に値する行いをするとは到底思えません…」
私は本心を告げ唇を噛んだ。
「なれど、仏教の戒律に従わぬ者は規則どおりに罰を受ける。朝廷での決め事や帝に逆らうような行いも当然不敬とし処罰の対象となる。この国の調和を乱し混乱を招く事は大罪だ。よって死をもって償うことも時にはある」
山代王は優しい口調だったが、言葉の節々に今後も曲げる事はないであろう彼の強い意思を感じた。
私は正直、想像と違う答えに戸惑っていた。ただ彼の口から、“うん”と、一言だけ聞きたかっただけなのに…私は沸き起こる感情を抑えられずに話しを続けた。
「…では、王様はあの者たちの言い分を聞かれたのですか?」
「ん?なぜ聞く必要があるのだ?法にのっとり裁かれている」
「それは、誠に公平な裁きでございますか?それとも朝廷に逆らうなという見せしめなのですか?だとしたら王様は罪のない民が死んでいくのをただ黙って見過ごすのですか?」
ここまで追い詰めて聞くつもりなどなかったのに、溢れた感情が止まらなかった。きっと王様はこんな私の態度に驚いたはずだ。せっかく私を王族の一員として温かく受け入れて下さっているのに…
私は再び唇を噛んでうつむいた。山代王はしばらく沈黙すると、優しく私の手を握り口をひらいた。
「罪の程度は関係ないのだ、少しでも大目に見てしまえば、国は乱れ朝廷に対して不満をもつ輩どもが徒党を組んで押し寄せる。いかなる反乱の芽も小さなうちに摘んで根絶やしにしなければこの国の平穏は保てぬし、この後宮やそなたらも守れぬ」
王様の言う通りだ。きっと私の考え方が甘いのだろう。
「…王様のお気持ちも察せずに出過ぎたことを口に致しました、どうかお許し下さい」
「わかってくれれば良いのだ」
山代王は私の頭を優しく撫でたあと抱きしめた。彼の温かな体温が伝わってきた。しかし今後、この行き場のないやるせなさを解決出来るだろうか?私の心は納得するのだろうか…
山代王が部屋を去ったあと、莅用にいつもよりも早く夕食を用意してもらい寝台に横たわった。
この世界で生きていくと決めた以上この時代の掟に従わないと…何度も自分に呪文のように言い聞かせ目を閉じた。
夢を見ている…
「ダメよ、行かないで…行ってはいけない…やめて!!」
自分の声に驚いて飛び起きた。心臓はバクバクと鳴り鼓動がおさまらない。部屋の中には微かな夕暮れの光が差し込んでいた。
なんて酷い夢を見たのだろう…
「燈花様!燈花様!大丈夫でございますか⁉︎」
莅用が部屋の中に飛び込んできた。
「だ、大丈夫よ。なんでもないわ…」
私は額の汗を拭いながら、カラカラの声で答えた。
「燈花様、だいぶうなされておりました」
「ええ、悪い夢を見ていたみたい…でも、もう大丈夫」
「すぐに温かいお茶と着換えをお持ちいたします」
莅用は乾いた手巾を私に手渡すと足早に部屋を去った。戸の隙間からひんやりとした風が吹き込み額の汗を乾かした。久しぶりに悪夢にうなされたが、不思議と起きた瞬間に夢の内容は全て消え思い出せない。
ただわかるのはこの上ない絶望感が目覚めた今も残っている事だけだ。深酒した翌日のような酷い気分が苦しくて両手を胸にあてた。
それから数日たったある日、二か月後の山代王との婚礼の日取りを決める為に王妃と共に星宿庁に出向くことになった。
都から南西に向かいいくつかの山を越えた小高い山の山頂に星宿庁が管轄する別館があり、特殊な力のある巫女が吉凶をそこで占っているらしい。噂ではその巫女の占いは百発百中らしくみな幸福をつかむと言う。
本来ならば王家に属する卜部にて鹿の骨を焼き吉凶を判断するのが習わしだが、婚礼の儀は最高の吉日を選びたいという王様の願いからこの巫女が抜擢された。
暦上では今日は気が安定している吉日らしく、私と王妃は朝からその館に向け出発した。
都の外れから南西に向かい山をいくつか超えた先に巫女の住む館はあった。
館のまわりには青々とした竹がその存在を隠すかのように生い茂っている。馬車がゆっくりと館の前で止まると、入り口前にいた少女が寄ってきた。私と王妃は馬車から降りると少女の案内に従い静かに建物の中へと入った。王妃もまた初めて訪れる場所なのかキョロキョロと落ち着かない様子だ。
昼間だというのに館の中は暗くひっそりとしている。部屋の隅に置かれた香炉からは白い煙が出て足元をゆらゆらと雲のように動いている。まるで白龍のようだ。見上げた天井はとても高く円形星図である天文図が大きく描かれていた。壁の隙間から入り込む光のせいからか、天井に描かれた何百もの星々がキラキラと反射し不思議と動いているように見えた。
部屋の中央に一人の年老いた老婆が座り何かブツブツと呟いている。恐らく彼女が噂の巫女だろう。私と王妃はしばらく戸口のそばで黙ってその様子を見ていたが、少しすると巫女は私に向かい手を差し向けこちらに座るようにと合図をした。私は言われたとおりに彼女の前に行きその場にしゃがんだ。
巫女は天井に描かれた天文図を見上げブツブツと囁きながら目で何かを追っていたが、私の方を向き直し顔をまじまじと見てきた。彼女の灰色の瞳はがっちりと私の目の奥を捉え視線を逸らすことが出来ない。全てを見透かされているようで心臓がバクバクと鳴った。最後に私の手を取り汗で湿った手のひらをじっと見つめた。
しばらく沈黙したあと、
「う~ん」
巫女は首をかしげ再び天井の天文図を見上げまた黙り込んだ。
「どうしたのか?何か問題でもあるのか?」
後ろから様子を見ていた王妃が声を上げた。
「う~む…」
巫女は黙ったまま、まだ天井を見上げている。
「さっさと申さぬか!」
痺れを切らした王妃が苛立った声で言うと、巫女は一瞬目を閉じ王妃に顔を向け言った。
「…この者の星が読めぬのです。というか、運命星がどこにも見当たらないのです」
「なんだと⁈一体どうゆうことなのだ⁈」
王妃が困惑しながら言った。
「私も、こういった状況は初めてのことで大変困惑しております。暦では本日は大気が安定しており絶好の占い日ですが、何らかの気が運命星を塞いでいるのかどこにも見当たりませぬ…そのうえ北斗星も陰りを見せ実に気がかりです…」
「ええい、わかるように申さぬか」
王妃の圧に屈する様子もなく巫女は淡々と話を続けた。
が王妃様、僭越ながら申し上げますが、この世に生ある人間は勿論のこと、死んだ人間でさえも天界に星の軌跡が残るものです。なれどこの者は運命星の存在だけでなく気配すら全くないのです。こんなことは本来であれば絶対にあり得ぬこと…ゆえにもう一度日を改めてお越しいただけますか?…」
「な、なんと…そなたが星宿庁で一番の霊力のある巫女であると聞いたから、わざわざ訪ねてきたのだぞ!」
王妃が声を荒げて言うと巫女は口をつぐみ下を向いた。
「ハァ…仕方あるまい、では日を改めればはっきりとわかるのか?」
巫女が黙ったまま大きく頷いた。
「ふん、…ならば、出直そう」
「燈花、戻るぞ」
「はい…」
不機嫌そうな王妃の後について部屋の外にでた。私が部屋の外に出ていくその間、巫女はじっと目を細め疑うような眼差しで私を見ていた。
「今日は無駄足であった。また次回にお預けだ」
王妃が疲れきった様子で言い私達は馬車に乗り込んだ。帰り道、王妃は終始黙ったまま外の景色をぼんやりと見ている。
あの巫女…間違いなく私の存在を疑っていた…気づいたのだろうか…
しばらく馬車で走ると、遠くに橘宮の五重の塔が夕陽の中に見えた。こんなに美しい宮だっただろうか…息を呑んだ
宮を通り過ぎると馬車が速度をゆるめた。見ると前方から馬に乗った数人の男たちが一列になり道の端に寄っている。すれ違った瞬間、馬上の男と目が合った。見慣れた冷たい視線…
そう…林臣様だ…
向こうも私に気づいた様子だが一瞥しただけだった。彼に最後に会ったのは一か月以上前だ。嶋宮での気まずい夜を一瞬思い出したが、かき消すように頭を振った。私は彼の悪い冗談をいつまでも根に持つような心の狭い人間ではない。私は妙に勝ち誇った気分になり久しぶりに彼と過ごした日々を思い出していた。
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「フフフ…」
思わず吹き出してしまった。
「どうしたのだ?」
王妃がきょとんとして私を見た。
「い、いえなんでもないのです。昔の事を思い出してなぜか笑ってしまいました」
「そうであったか…私は気が塞いでいるが、そなたは平気そうで安心した」
王妃の顔に少しだけ笑みが戻った。
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「いや、そなたの笑顔を見るのは久しぶりだから、なんだか嬉しい」
王妃の言葉にハッとした。私はそんなに笑っていなかったのだろうか?
「さ、さようでございますか…」
私はなんだかバツが悪くてうつむいた。それでも王妃は優しい笑顔を私に向けて尋ねた。
「聞いてもよいか?誰を思い出し笑ったのだ?」
「は、はい…蘇我林太郎さまをご存知ですか?」
隠す意味もなかったので正直に王妃の問いに答えた。
「豊浦大臣の子息だろう?」
「さようでございます」
「ほぉ、何度か会った事はあるが挨拶程度で深く話したことはないのだ。そなた知り合いなのか?」
「はい、何度かお話をさせて頂く機会があり知人になりました」
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王妃が笑った。
「…はい…」
私は少しの不安を抱きながらもうなずいた。要らぬ先の心配をしても仕方がない。なるようになるだけだ。
そこからは機嫌を良くした王妃と昔話に花が咲き、気がつくと馬車は後宮に到着していた。
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