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第二十七話
新たな土地へ
しおりを挟む「燈花様、起きられましたか?」
「う~ん、今起きるわ…」
「燈花様、早く起きないとお日様が空高く上がってしまいますよ」
蝉の鳴き声と共にいつもと変わらぬ朝が始まった。あと数日でこの宮を去るなんて本当なのだろうか?戸口の横にひっそりと咲く紫陽花の花を見つめた。
部屋をくまなく見てもまとめる荷物がたいしてない。いつものように軽く掃除を済ませ、中庭へと向かった。今日も朱色の都は太陽に照らされ輝いている。この景色もあと数日で見納めだなんて到底信じられない。
「燈花様」
振り返ると小彩が包みと茶器を抱えて立っていた。
「今日は天気が良いので、ここで昼食をとりませんか?」
「えぇ、もちろんよ」
私は喜んで応じた。包みの中は玄米のおにぎりがいくつもにぎられ、茶器からは金木犀の甘い香りが漂った。
「美味しそう、ありがとう。あなたの作ってくれる、おにぎりと粥が一番美味しいわ…」
私の顔が暗く沈んだのだろうか?小彩は慌ててにっこりとし茶目っ気たっぷりに言った。
「そんな、王宮ではもっと豪華で美味しいお食事が出てきますよ。海とやらで採れる食材はこの上なく美味だそうです。確かアワビとかなんとか…」
「いえ、あなたの作る粥が一番よ。必ず恋しくなるわ…」
私がおにぎりを一口かじると小彩は黙ってうつむいた。また、しんみりとしてしまった。一生涯会えなくなるわけではないのだから、もっと明るく気丈でいないと彼女はずっと私を心配するだろう…そんな憂いをこの先彼女に抱かせてはいけない。
私は気持ちを切り替え出来る限りの笑顔を作り再び彼女を見た。そして、彼女の少し安堵した表情を確認したあと、今まで聞いていなかった彼女の今後について尋ねた。
「ねぇ、小彩、私がここから去ったらあなたはどうするの?」
「はい、しばらくは橘宮に留まろうと思っています。ご縁があり、近江皇子様の身辺のお世話をする機会をいただけたので、この宮から皇子様の邸宅に通うつもりです」
「近江皇子様?って、私が談山神社で出会ったあの蹴鞠の少年かしら?」
「はい、さようでございます。今は数年前に新羅より帰国されました請安先生のもとで周礼という学問を学ばれているそうです」
「そう…」
近江皇子って、中大兄皇子ね…あの体格の良いお付きの男が中臣鎌足…一応確かめないと…
「確か、皇子様の側近の男性の名は、鎌足様…かしら?」
彼らの歴史を知っている事を疑われるはずはないが、念のため少しだけとぼけたような口調で尋ねた。
「は、はい。さようでございます…、なぜ燈花様があの方の名をご存知なのですか?」
小彩が驚いた表情で私を見た。
「あっ、あの皇子様が彼をそう呼んだのを聞いたのよ」
「あぁ、そうでございましたか…」
小彩は照れくさそうに微笑むと頬を赤らめうつむいた。近江皇子も鎌足も今後の日本の歴史に大きく関わってくる人物だけに、内心私の心は穏やかではなかった。でも彼女にとっては明るく希望に満ちた未来なのだろう、彼女の笑みを見てひとまず安心することにした。
それにしても談山神社で会った中大兄皇子はまだあどけない少年だったが、鎌足は薄黒い肌をし体格も良く物々しい雰囲気で近寄りがたかった。それ以降、都の中でも町外れの市でも二人を見ていない。
二人がこの飛鳥にいるという事は…今は西暦何年なのだろう?ふと疑問がよぎった。確かなのは田村皇子こと舒明天皇が去年崩御されている事だ。そこから考えると恐らく今年は西暦642年くらいだろうか。
このまま運命の流れに身を任せるつもりではいるが、もし本当に日本書紀が偽りのない正確な史書だとすると643年に斑鳩宮で山背大兄王が蘇我入鹿によって自害に追い込まれる…。入鹿は林臣様の事だろうと察しがつくが、山背大兄王はまだ誰なのか把握出来ていない。ただその人物は斑鳩宮に居を構えているはずだから山代王とは別人なはず…
でもなぜだろう…心臓を誰かに鷲掴みさているような気分だ。考えただけで胸が苦しくなる。本当にそのような悲惨な出来事が起こるのだろうか?万が一事実ならばそれを見届けなければいけないのだろうか?
だとしたら、運命はなんて残酷な仕打ちを私にするのだろう…
「燈花様?…燈花様??…燈花様!!」
ガシャーン!!
小彩の呼ぶ声に驚き握っていた湯呑を地面に落とした。
「た、大変!!と、燈花様、大丈夫ですか⁈お怪我はございませんか⁈」
小彩の顔がみるみる青くなった。
「だ、大丈夫よ、考え事をしていて…本当に大丈夫だから…」
小彩は何度も頭を下げたあと、布巾を取りに厨房へと走り去った。私は再び腰かけると、中宮との深田池での最後の夜を思い出していた。
あの夜、確かに彼女は私に何かの願いを託した。それが未だに何についてなのかわからないが、それを解決したらもとの現代に戻るのだろうか?そうなったら長い夢を見ていたと、いつしか全ての事を忘れてしまうのだろうか?
「燈花様!!布巾をお持ちしました。火傷はしていませんか?申し訳ありません、明後日には後宮に向かわれるというのに、私としたことが…山代王様にあわせる顔がありません…」
小彩の眉は八の字に下がり今にも泣き出しそうだ。彼女の少しだけ大袈裟な振る舞いも心配性の性格も見納めだと思うと寂しさが込み上げ、湯呑を割ってしまった事などどうでもよかった。
「大丈夫よ、考え事をしていてあなたの声に全然気が付かなかった私が悪いのよ」
「と、燈花様…」
小彩がシクシクと泣き始めた。
「と、燈花様はお優しすぎます…どうか後宮に入られたのちには、ご自身の事だけをお考え下さい。もう宮女ではなく、この国の王族の一員になられるのですから下々の者に優しさは不要です。燈花様のその思慮深いお心がいつの日かご自身を苦しめてしまうのではと心配でなりません……」
「大丈夫よ、小彩。ちゃんとどう行動すべきなのかはわかっているわ。山代王様もお側にいらっしゃるし、何の心配もないわ」
「そうですが…不安なのです」
私はもう一度大丈夫よ、と言い彼女の震える体を抱きしめた。丁度その時、背後から六鯨の声が聞こえた。
「燈花様ここにおられましたか、ただ今、猪手様がおいでになられましたがどういたしますか?」
「猪手さんが?何かしら…すぐに行くわ」
私は小彩の涙を手巾で拭きもう一度慰めたあと急いで東門に向かった。門の向こうに猪手の姿が見えた。
「猪手さん、どうしたの?」
「燈花様、此度の山代王様とのご婚約、誠におめでとうございます。心よりお祝い申し上げます!」
猪手が深く頭を下げた。
「ありがとう。あらためて言われるとなんだか照れるわ」
「実は此度の燈花様入宮のお祝いをさせていただきたいのです。明日の夜、嶋宮でささやかですが宴を催す予定です。お越しいただけますか?」
猪手のいつにない仰々しい態度にとても違和感を覚えた。
「猪手さん、どうしたの?いつもと様子が違うけれど…」
「当然でございます、燈花様は間もなく入宮し高貴な王族の一員となられるのです。私とは身分が違いすぎます」
「な、何も変わらないわよ!」
私が驚きながら言うと隣にいた小彩が寂しそうに口を開いた。
「燈花様、猪手様の仰る通りです。この国の大王のご家族になられるのですから私共とは身分が天と地ほど違います」
「そ、そんな…」
猪手は私と小彩の両方の顔を気まずそうに見たあと、
「では、明日の夕刻にお迎えに参ります」
と言い再び深く頭を下げ去っていった。私が小彩をもう一度見ると、彼女は黙ったまま寂しそうにうなずいた。
こんな事想像もしていなかった。私は複雑な気分に胸がつかえそうになりながら猪手の遠くなる後ろ姿を見ていた。
翌日は朝から新しい生活への緊張と不安が一気に押し寄せ、夕刻になるまで屋敷の中を落ち着きなくただウロウロとしていた。小彩が何度も気遣って声をかけてくれたが、上の空だった。明後日にはこの慣れ親しんだ橘宮を去る…宮の皆や小彩と共に過ごすのも明日の夜が最後だ。
新しい土地や生活にすぐに慣れるだろうか… 王妃様は快く受け入れて下さるだろうか…
夕刻になり猪手が約束通り迎えに来た。
「小彩、嶋宮に行ってくるわ」
「はい、お気をつけて。明日は衣を合わせますので、なるべく早めにお戻りください」
「えぇ」
嶋宮に着くと屋敷の奥からガヤガヤと賑やかな話し声や笑い声が聞こえた。猪手に代わり宮の侍女が部屋へと案内してくれた。
部屋に入ると既に沢山の人が着席し宴を始めていた。コの字を描くように机が並べられその上には沢山の川魚や旬の野菜、果実、蘇などの豪華な食事が用意され床には酒の甕がいくつも置かれていた。
「燈花様、お待ちしておりました」
侍女に案内され席につくと、すぐに見知らぬ大臣や官吏の男達が作ったような笑顔を振りまきこぞって祝いの言葉を上げに来た。これには私も驚き動揺したが、山代王の朝廷での地位の高さと権力の強さが彼らをそうさせたのだろう。なんとなく居心地が悪かった。
祝いの挨拶の人々が引きしばらくすると、猪手が隣にやってきた。彼は再びお辞儀をすると私の手に小さな器を持たせ酒をつぎはじめた。器からほのかに梅の香りがした。
懐かしい香りだ…前にも一度この梅の香りをかいだ事がある。その時の事を思い出していた。二回目のタイムスリップの前になるから、年月でいったら十四年前だ。
突然の土砂降りの雨で身動きが取れず、橘宮の使用人達や六鯨、小彩と共に一晩この宮で過ごしたのだ。とても寒い夜で、小彩と交代しながら薪を焚きこの梅酒を飲み藁にくるまって寝た。
確かあの時まだ林臣様は十七、八の少年だった…私の瑪瑙の髪留めを簪に直し私に返してくれたんだった…
「燈花様、改めてお祝いを申し上げます」
猪手はそういうと両手でとっくりの底を持ちぐいっと中の酒を飲み干した。
「ありがとう、でも今晩だけはいつものあなたでいてちょうだい」
「えっ?で、ですが…」
猪手はバツが悪そうに頭をかいた。私は注がれた酒を一気に飲み干したあと、もう一度そうして欲しいと彼に頼んだ。
「では、燈花様の仰せの通りに…」
猪手はぎこちなく答えると、側に置いてあった甕から酒をとっくりに注ぎなおし、いつもの口調で話し始めた。
「それにしても、燈花様が山代王様の側室になられるとお聞きした時には、本当にびっくり仰天で飛び上がりました」
「そうね、誰にも話していなかったし知っていたのは小彩と医官の玖麻様だけだったのよ…」
「さようでございましたか…確か昔も一度、山代王様との婚約の話があったと伺いましたが…」
猪手は注いだばかりの酒をまたぐびぐびと飲んだ。
「ええ…でもあの時は私に事情があり叶わなかったのよ…山代王様からまた機会をいただけて光栄だわ」
「燈花様のお人柄がそうさせたのでしょう。山代王様の深いご寵愛を得た燈花様なら、生涯安泰でございましょう。実におめでたいことでございます」
猪手はそう言うと赤くなりはじめた顔で微笑み、残りの酒を飲み干した。
「ありがとう」
「しかし、燈花様と再び馬を走らせ共に弓を射ることがないと思うと、寂しく思います…せっかく仲良くなれたと思っていたのに…あっ、祝いの席に滅相もないことを申し上げました。どうぞお忘れください」
猪手が少しうなだれながら謝った。
「私もきっと寂しくなるわ…。でもまたどこかで会えるわよ」
私が言うと、猪手は大きくうなずきそのまま机の上に顔を伏せた。私はこの時、林臣の姿が部屋のどこにもないことに気が付いた。最後くらいはしっかりお礼をしないと…
「所で林臣様の姿を見かけないけれど…」
猪手はむくっと起き上がると部屋の中を一度見渡し、とろんとした目で戸口を見つめ言った。
「あれっ、さっきまでいらしたのに…どこに行かれたのかな…厠かな…」
「そう…明日は早くから準備があるからそろそろお暇しようと思って、最後に林臣様にご挨拶をしてから宮にもどるわ」
「さ、さようでございますか…では宮までお送りしますので…またお、お声かけ…くさい…」
猪手のろれつは回っておらず、体は左右にゆらゆらと揺れ今にも床にひっくり返りそうだ。そんな彼を見て私は一人で帰ることになりそうだと半ばあきらめた。でも酔いを醒ますのに夜風に当たりながら歩くには嶋宮と橘宮の距離は最適だ。
「ありがとう、そうさせてもらうわ」
と猪手に告げ、林臣を探し始めた。やはり部屋のどこにも姿はない。念のため外も探してみようと思い部屋を出た。辺りはすでに暗く初夏の少し湿った空気と土の匂いが体を包んだ。水汲み場にも、厠にも人の気配はなかった。屋敷から少し離れた所まで歩き、桃林の手前で足を止めた。
ボロン、ボロン…
微かに風に乗って琴の音が聞こえる。耳を澄ませると再び琴の音が桃林の奥から聞こえて来た。
この琴の音、昔も聞いた…きっと同じ人が弾いているのだろう…そんな事を想いながら、ゆっくりと音のする方へ近づいた。木の陰に小さな灯がゆらゆらと見え隣に人影が見えた。はやる好奇心を抑えながら静かに足音をたてずに近づいた。
あぁ…やっぱりそうか…
「林臣様」
私が小さな声で呼ぶと林臣がゆっくりと振り向いた。梅酒の香りが辺り一面に漂っている。暗がりの中でも彼は顔色一つ変えない。
「そなたか…良い所に来た…一曲講じよう…」
ただ酒に酔い上機嫌なのか口調はいつもよりも明るい。そしてボロン、ボロンと再び琴を弾き始めた。彼の上機嫌さとは裏腹になぜか琴の音が寂し気に桃林に響いた。
林臣は曲を弾き終えると横に置いてあった酒のとっくりを取り上げ、一気に飲み干したあと豪快に地面に倒れ込んだ。
「あっ、林臣様、だ、大丈夫ですか⁉︎」
私は急いでそばに駆け寄った。よく見ると近くには空になった酒のとっくりが数本転がっている。こんなに酒に酔っている林臣を今までに見た事がない。実に彼らしくない振る舞いだ、どうしたのだろうか…
「林臣様、何があったのかは存じませんがこのような酒の飲み方など、賢明ではありません。林臣様らしくありません。お体に障りますから…」
「ふん、そなたには関係のないこと…ぷはぁ~良い気持ちだ…」
林臣は両手を広げ土の上に寝転がったままだ。私は彼の横にしゃがみ、最後のお礼の挨拶をした。別れの挨拶がこんな形になるとは想像していなかったが仕方がない。
「林臣様…本日はお招きいただきありがとうございます。今まで、共に過ごせた時間も良い思い出となりましょう。どうぞお体をご自愛ください」
そう言って立ち上がろうとした時、グイっと袖を強く引っ張られそのまま地面に倒れ込んだ。
気付くと寝転がる林臣の腕の中だった。
「り、林臣様⁉︎」
さすがの私も驚いて大声を上げ林臣の体を手で押しのけたが、彼は何一つ慌てることなく夜空を見上げ言った。
「そなたも見てみよ、実に美しい月だ…」
えっ?不意をつかれた私は夜空を見上げた。確かに大きな月がぽっかりと浮かんでいる。月は明るく輝き桃林一面を青白い光で照らしていた。一瞬その幻想的で美しい光景に気を取られたが、すぐに我に返り林臣に言った。
「り、林臣様このような行動をされては困ります。明後日には山代王様のもとに…」
必死で起き上がろうとしたが、林臣の腕がしっかりと私の体を抱え身動きが取れない。
「り、林臣様!」
私はもう一度、大声を上げた。ひっそりとした桃林に私の声が響き渡った。林臣は少し間を置き深く呼吸すると静かに言った。
「好いている…」
「えっ?…」
私が林臣の横顔を見ると彼はゆっくりと私の方を向き見たことのない深く真っ直ぐな瞳で言った。
「そなたを好いている。出会った時から、今もなお…」
時が止まったのだろうか…音が何一つ聞こえない。彼は今、何と言ったのだろう…。
林臣の瞳を見つめたまま瞬き一つ出来ない私に彼の顔が近づき唇が触れた。
…嘘…突然の予想もしなかった告白に頭はクラクラと回り目の前はチカチカとし思考回路は完全に止まってしまった。手足もピクリとも動かない。目の前に見えるのは林臣の長いまつげだけだ…。
ハッ…我に振りドンと林臣を思い切り押しのけ立ち上がった。木の根につまずきながらもふらふらとした足取りで屋敷を抜け出し、気がつくと月明りに照らされた道を無我夢中で走っていた。
ドンドン、ドンドン、ドンドン。
「開けてちょうだい!!」
漢人が大急ぎでやってきて門の戸を開けた。
「と、燈花様!どうされたのです!」
私は何も言わずに走って自分の部屋に戻った。部屋に入ったとたん体中の力が抜けドスンと床にしゃがみ込んだ。
最低だ…どうして…なぜ、今あんなことを彼は言ったのだろう…しかもキスまで…。私は衣の袖をぎゅっと握りしめ唇を拭いた。こんな風に林臣様とお別れしたくなかった…涙が溢れ出た。
ドタバタとした音に気が付いたのかすぐに小彩が飛んできた。私のただならぬ様子に気が付くと静かに隣に座り優しく背中をさすった。
気持ちが落ち着いてきた所で嶋宮での出来事を話した。小彩も最初は驚いた様子だったが、深酒による一時の気まぐれで時間が経てば忘れてしまうだろうと言い慰めてくれた。悲しいのか切ないのか、自分でもこの感情がよくわからなかった。
私はこの晩、一向に寝つけず何度も寝返りをうっては天井を見つめた。
チュンチュン、チュンチュン
鳥の鳴き声と共に朝の光が差し込んできた。
トントン、トントン
「燈花様、朝になりましたがご気分はどうですか?」
昨晩の事もあり小彩はいつもよりも遅くに部屋にやって来た。
「…えぇ」
あぁ、頭の中ではまだモヤモヤと深い霧が立ち込めている。昨夜の事を思い出し再び唇を触った。冷たくも温かくもない温度のない唇…。でも、夢じゃない…両手で顔を覆った。
小彩が運んで来た桂花茶から金木犀の甘く良い香りが部屋中に漂っている。
「お気持ちは落ち着きましたか?」
私が首を横に振ると小彩が静かに言った。
「こう言ってはなんですが、林臣様は幼少より大変聡明で狡猾なお方、執着するのは政だけだと思うのです。それに色恋事の話を今までに聞いたことがありませんし、きっとお酒の席での悪いご冗談でございましょう」
確かに言われてみればそうだ。先日猪手も同じことを言っていた事を思い出した。私は深酔いした林臣に見事にからかわれたのだろうか?彼は今頃しめしめと薄ら笑いを浮かべているのだろうか?
「そうかもしれない…きっとそうだわ」
私は自分に言い聞かせるように小彩に言った。一瞬、昨夜の林臣の真っすぐな瞳を思い出したがかき消すようにもう一度頭を振った。
「明日は王家からの迎えが来る待ちに待った日です。ついに燈花様の新たな人生が始まるのです。王様がお悦びになられるように衣と髪飾りを合わせましょう…」
小彩は私を励ますように言うと衣を手に取った。彼女が目に涙を浮かべているのがわかった。小彩はすぐに顔をそらすと袖で軽く瞼を押え何もなかったかのように準備を進めた。
そうよ、新しいステージが始まるのだから余計な事に惑わされている場合ではない。私は気持ちを切り替えると、戸口の横に置かれた桶の水を勢いよく顔にかけた。
橘宮での最後の一日もあっという間に過ぎ、ついに王宮へと向かう日がやってきた。宮は朝から慌ただしく動き出していた。
小彩は時間をかけて丁寧に私の髪を結い上げると山代王から贈られた簪を一番高い所に挿してくれた。簪にちりばめられた赤や黄色の宝石が太陽の陽にあたりキラキラと輝いている。
真新しい緑の裳をはいたあと深紫の美しい絹の衣をまとい、帯紐をキツく結んだあと肩に薄橙色の領布をかけた。そして最後に山代王からもらった翡翠の指輪を手に取り首にかけた。
「小彩、これは夢ではないのね。私本当にこの宮を去るのね…」
「さようでございます。本日の燈花様はいつにも増して大変お美しいです…」
私は涙を浮かべた小彩をぎゅっと抱きしめた。彼女の助けなしでは生きてこられなかった。その時がきたら必ず彼女にこれまでの恩を返すと心に固く誓った。
「ここを離れても、私に会いにきてくれるでしょう?」
「もちろんでございます。お許しがいただければ、いつだって燈花様のもとに参ります」
私は頷き部屋を出た。戸口の外では宮の皆が別れの挨拶をしようとずらっと並んでいた。東門の横に六鯨と漢人がもの寂し気に立っているのが見えた。私は皆への挨拶を済ませると二人のもとへと急いだ。六鯨が目頭を押さえながら言った。
「燈花様、ついにこの日が来たのですね」
「六鯨さん、本当に長いことあなたのお世話になったわ。あなたの尽力がなかったら、このように生きていることは出来なかった。とても感謝しています」
私は心からの感謝の言葉を告げた。彼もまた私を二度も救った命の恩人だ。
「とんでもないことでございます。亡き中宮様もきっとお喜びになられているはずです」
「そうね…。そう願うわ」
隣にいる漢人も目を真っ赤にしている。
「漢人、今までありがとう。六鯨さんや宮の人達を助けてあげてね」
「はっ、承知しました!」
漢人はそう言うと鼻をすすった。ちょうどその時パカパカと馬のひずめの音が聞こえ、門の前に馬に乗った冬韻が現れた。坂の下にも馬車ともう一台荷馬車らしきものが見え、二台を前と後ろで挟むように警護用の馬が数頭見えた。
冬韻はさっと馬から降りると、私の前にひざまずいた。
「燈花様、お迎えに上がりました。荷物は、後方の馬車に乗せて下さい。燈花様は先頭の馬車にお乗り下さい」
「はい」
私はうなずくともう一度後ろを振り返り、宮の皆に別れの挨拶をした。
さぁ、行こう…このまま運命に身をゆだねるしかない、新たな道を歩きださないと…
私は覚悟を決め最後に小彩を見た。彼女は小さく頷き微笑んだ。私は坂の下に向かって歩きだし用意された馬車に乗り込んだ。
「出発!!」
冬韻の大きな掛け声と共に、馬夫が手綱を引き馬車がゆっくりと動き始めた。
「燈花様~」
「燈花様お達者で~」
私は大きく手を振った。門の前にたたずむ皆の姿が徐々に小さくなっていく。
さよなら、宮のみんな…どうかお元気で…
我慢していた涙がぽろぽろと頬を伝った。飛鳥に来て以来ほぼ橘宮でしか過ごした事がない。慣れ親しんだ場所を去るのは本当に辛い。けれど仕方がない、一歩前に進むにはいつだって勇気が必要だ。
都を出ると百済大寺の巨大な塔が前方に見えた。それを横目に山の奥深くへと馬車は進んだ。最初のうちは水田も見えたが山間を抜けると一気に道幅は狭くなり青々とした山が目前まで迫った。馬車はそのまま緩く長い上り坂をゆっくりと進み途中で歩みを止めた。
橘宮を出発してからそれほど時間は経っていないと思う。おそらく小一時間位だろうか、外はまだ明るく午後の強い日差しのままだ。私は都からそう離れていないことにひとまず安堵した。
冬韻は馬を降りると馬車の戸を開けて言った。
「燈花様、到着いたしました。こちらが後宮の屋敷でございます」
ゆっくりと馬車を降りるとさっきまでの山道からは想像できないほど平たい大地が目の前に広がっていた。山の中腹を切り開いた土地なのか、宮の裏手に山がまじかに見えた。
宮の正面には大きな門が構えられ高い土壁が敷地を囲むように裏山へと続いている。門番だけでなく壁の前にも甲冑をつけた隼人らが均等な距離で立ちこちらをジロジロと見ている。
冬韻はキョロキョロと挙動不審な私の前に立つと、門の奥の方へ進むようにと手を向けた。案内されるがまま門をくぐり抜けた。
敷地の中にはいくつもの平屋の建物が裏山の方へと連なるように建っている。宮の南側に面した一番大きな屋敷の前に山代王と王妃、側室の白蘭が立っているのが見えた。彼らの横には大勢の采女達がずらりと整列している。想像もしていなかった盛大な出迎えに緊張で背筋はピンと伸び一気に身が引き締まった。
「燈花、よく来てくれた」
山代王は私のもとへと駆け寄ると、私の手を取り握りしめた。数日前に会ったばかりなのにどこか懐かしい。後宮の中で見る彼は一国の王に相応しく力強く威厳があり逞しく見えた。
「勿体ないお言葉でございます」
私が言うと山代王は優しく微笑み、私の手を引き王妃の前に連れていった。
「王妃よ、このものが橘宮の燈花だ。さぁ、燈花、王妃に挨拶を」
「はい、王妃様。橘宮より参りました、燈花と申します」
私が震える声で挨拶をすると、王妃が優しく答えた。
「よく来てくれた、そなたのことは王様からよく聞いている。かしこまることはない、顔を上げなさい」
「は、はい」
握った手のひらが汗でびっしょりだ。
「王様から容姿端麗の美しい女人だと聞いていたが全くもって誠であるな。さぁ、長旅で疲れたであろう、中に入って休みなさい」
王妃が微笑みながら優しく言った。
「感謝いたします」
私が軽く会釈をすると、隣にいた山代王が笑い始めた。
「ハハハハ、もはや私が居なくとも良さそうだ。もう互いに打ち解けているように見えるぞ」
「これも全て王様の人徳のなせる業でしょう」
王妃が少しからかい気味に返すとその場は一気に和み采女達もクスクスと下を向き笑った。
「さあ、そなたの屋敷に案内しよう」
山代王は嬉しそうに言うと、再び私の手を握り歩き始めた。彼の温かな手にひかれ堂々と歩くなんてまだ夢を見ているようだ。
外から見るよりも後宮の敷地は広く簡単に迷いそうだ。敷地のいたるところに撫子のピンクの花が咲き、紫陽花も一番の見頃を迎えていた。
通り過ぎる若い采女達は私達の姿を見ると一斉に足を止め挨拶をした。どの采女も身なりも立ち振る舞いも美しく見とれてしまった。しばらく歩いたあと、一棟の屋敷の前で立ち止まった。
「ここが今日からそなたが住む屋敷だ」
他の屋敷に比べると簡素な作りだが入口の側に植えられた芍薬の白く大きな蕾がシンプルな建物によく調和し美しかった。
山代王はそのまま私の手を引き屋敷の中へと入った。中に入ると小さな広間がありそれに面して左右と正面に部屋があった。正面の部屋へと進み戸を開けたとたん、太陽の光が顔面を照らし眩しくて目を閉じた。
日差しをよけながら目を開けると部屋の広さに驚いた。橘宮の時よりも何倍も広く明るく、太陽の光が部屋のあちこちに差し込んでいる。部屋の隅には白檀の香が焚かれ、濃厚な木の香りが心を落ち着かせた。煌びやかな石で装飾された棚や寝具のそばにも季節の花が美しく生けられ、壁には鮮やかな色に染められた絹の衣が何着もかけられていた。
「気に入ったか?」
呆然とする私の顔を覗き込むと、山代王が得意気な顔で言った。
「はい、とても素敵すぎて、まだ夢を見ているようです…ですが、私のような身分の人間がこのような待遇を受けて、なんというか、気が引けます…」
戸惑う私を山代王は優しく抱きしめた。
「何を言うのだ、正式な婚儀こそ済ませてはおらぬが、そなたはもう王族の一員だ。そなたの為に用意した私の心だ。受け取って欲しい」
「山代王様…」
山代王の私を見つめる熱い眼差しが恥ずかしくて目をそらした。
「あ~っ、そなたをすぐにでも、私の所に召したいが正式な婚姻の儀が終わるまでは、見守る事しかできぬ。なんと歯がゆいのだ。これほどまでにそなたを切望しているのに…」
山代王はそう言うと強く私を抱きしめ直した。
「燈花よ、知っていると思うが、私の住まいはここではないのだ。なれど、そなたに会いに頻繁に訪れると約束する」
「存じております。でもおそばに居られてとても嬉しいです。私も早くここでの暮らしに慣れるよう努めます」
「そなたのそのような健気な心に惚れているのだ」
山代王は私を見つめ顔を近づけた。ゆっくり目を閉じると彼の唇の感触が伝わってきた。なんて優しく温かな唇なのだろう…いつまでもこの幸せで穏やかな時間が続きますように…
「そなたもさぞ疲れたであろう、ゆっくり休みなさい。また明日ゆっくり話そう。私の家族も紹介せねばならぬしな。後ほど食事を運ばせるゆえ食べなさい」
「ありがとうございます」
そう言うと、山代王は名残惜しそうにため息をつき部屋から出ていった。一人になった部屋はガランとし静まり返っている。寝台に座り部屋に差し込む光をボーッと眺めた。
橘宮のみんなは今頃何をしているだろうか…夕方だからみんな忙しく厨房を走り回っているのだろう…。小彩と小帆はいつものように竈をめぐる小競り合いをしていないだろうか?
ふっと涙がこみ上げた。袖から中宮からもらった手巾を取り出し見つめた。手巾の上にポタポタと涙がこぼれ落ちた。
中宮様、とうとう運命が動き出しました…
あなたの想いを果たす事が私に出来るでしょうか?もし何も見出せぬままこの地に埋もれてしまっても私を許してくれますか?
寝台に寝ころびなおし天井に反射する夕方の陽ざしを見ていた。いつのまに深い眠りに落ちたのだろう…部屋の外から侍女の呼ぶ声がかすかに聞こえたが、目を開けることができなかった。
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