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第二十四話
動き始めた歯車
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ひんやりとした風が金木犀の香りを乗せて戸口の隙間から入ってきた。宮の敷地に植えてある金木犀の花は満開だ。最近は風が吹くたびに秋の訪れを感じる。飛鳥で過ごす秋はこれで二度目だ。
朝だというのに部屋の中は薄暗い。今日の天気は曇りだとわかり少しだけ気が沈んだ。それにしても何故こんなに早く朝が訪れるのだろう…。温かな明るい陽ざしの中で目覚めたかったと強く思いながらゆっくりと寝台から起き上がった。
今日、山代王は来るだろうか…何から話せばいいのだろう…いっそのこと真実を打ち明けてしまおうか?…もちろん彼に再会出来きてとても嬉しいが、今後の展開の不安がどうしても頭に付きまとう。考えすぎだろうか?…。朝から拉致の明かない思考を巡らせたあと深いため息をつき再び目を閉じた。
トントン、トントン
「燈花様起きられましたか?」
「えぇ…」
私が力なく答えると、小彩がカチャカチャと音をたて部屋の中へと入ってきた。同時に桂花茶の甘い香りが部屋中にたちこめた。小彩は茶器を寝台の横にある台の上に置くとお茶をコポコポと注ぎ始めた。いつもよりも熱い湯なのだろう、器からモクモクと白い湯気がたっている。
「燈花様、昨晩は寝られましたか?」
「えぇ、そう思うわ…」
私はもう一度大きく金木犀の香りを吸い込んだ後、熱いお茶に口をつけた。
「良かったです。山代王様はお見えになられるでしょうか?」
小彩は期待と不安が入り混じった表情で言った。
「そう思いたいけれど、昔と違って自由に出歩けないのでしょ?とにかく待ってみるわ」
彼を信じていないわけではないが、昔とは立場が違う事も重々に理解していたし、例え今日会えなくても焦る必要はないと思った。十三年間の適当な理由を考える必要もあるし、空白の時間はゆっくりと埋めていけばいい…。
「やはり、燈花様と王様は運命の糸で結ばれていらっしゃるのですね。昨日の王様は昔の王様と同様、変わらず燈花様を愛おしげに見つめておいででした」
小彩はしんみりと呟いた後、少し頬を赤らめた。私はそうね、とだけ言い再び熱いお茶を口に含んだ。まさかもう彼の前から突如消えることはないとは思うが、ぬか喜びしたくなかったしここから始まる未来が中宮の意図している事のような気がして胸が騒めいた。
山代王邸にて
「冬韻、今から橘宮に行ってくる」
山代王は出かける支度を終えると戸口の横に座る冬韻に向け言った。
「王様お待ちください!」
冬韻はすっと立ち上がると王の前に立ち両手を大きく広げた。そして静かに床に膝をつくと山代王を見上げ言った。
「王様、僭越ながら申し上げます。今行ってはなりません。朝廷が不安定なこの状況で軽はずみな行動は慎むべきです。まずは正当な順序を踏み適切な時期を待つべきかと」
覚悟を決めたような強く低い声が意思の強さを表していた。
「正当な順序を踏み時期を待てだと?」
山代王が声を荒げ言った。
「王様、落ち着いて下さい」
「落ち着いてなどいられるか!十三年だぞ。あの者が突如居なくなり十三年も苦しんだのだぞ!」
山代王が怒鳴った。廊下で待つ侍女たちが顔色を変えて怯えるほどの大きな声だったが冬韻はすかさず冷静沈着な態度で言い返した。
「だからこそです!だからこそ、慎重に事をすすめ燈花様をお迎えすべきです。まずは正室である王妃様や白蘭様、他の側室の理解を得たあと大臣や大連の許可を取るべきです。そして今は何よりも混乱している朝廷を鎮め先導すべきです。今こそ朝廷での地位権力を盤石のものとするべきです。そのあと燈花様を後宮の側室として正式に娶れば良いのです。燈花様の為でもあります」
「……くっ…くそっ」
山代王は唇を噛みしめると腰に刺した剣を床に叩きつけた。
「私に妙案がございますので、代わりに橘宮に行って参ります」
「妙案?」
「はい、とりあえずこの件は私にお任せ下さい。王様は朝廷に出向き田村皇子様のご病状について把握された方がよろしいかと思います、まさに緊迫しているのです。あちこちの大臣や大連達が祈願祭にて功を上げようと陰で躍起になっております」
山代王は少し沈黙しため息をついた後、投げ捨てた剣を床から拾い上げ言った。
「…仕方あるまい。ひとまず燈花の件はそなたに任せる」
「はっ」
冬韻は一礼したあと足早に部屋を出た。
橘宮にて
ちょうど午前中の仕事を終えて部屋の前に来たところで、門番の漢人に呼び止められた。
「燈花様、冬韻様がお越しです」
「冬韻様が?」
「はい、中庭にお通しいたしました」
「…そう、すぐに行くわ」
私はそう答えると急いで着替えを済ませ中庭へと向かった。山代王ではなく冬韻が来たという事は、やはり物事はそう簡単には進まないのだろう…。
庭の端に都を見つめる冬韻の少し痩せた背中があった。私は適度な距離の所で足を止め、一度大きく深呼吸したあと声をかけた。
「冬韻様…」
冬韻がすっと振り返った。少しだけ肩を落とした姿と物静かな澄んだ瞳が彼の落胆を物語っている。
「こんなことになるなんて思っていなかったのです…」
なぜか彼を裏切ってしまったような罪悪感が沸き起こり思わず言い訳がましく言った。
「燈花様が悪いのではありません。これも全て運命なのでしょう…」
冬韻は澄んだ瞳でため息まじりに答えると、私を諭すように穏やかな口調で続けた。
「燈花様に非はございません。ただ、時期が非常に悪いのです。本日、王様はお見えになられません。事情があるのです、どうかお察し頂きたく思います」
「…えぇ」
私は小さな声で答えうつむいた。
「ご存知かと思いますが、厩坂宮におられる田村皇子様のご容態がよろしくありません。体調はますます悪化するばかり、正直に申し上げますと大変緊迫している状態です。朝廷の大臣や大連達も今後の行く先への不安と憂慮からか朝廷だけでなく都全体が非常に不安定です。王様の力でなんとか平穏を保っている状態なのです。そして、昨年後宮に入宮された白蘭様もご懐妊中で、最近やっと体調が回復したばかりで王様の支えが必要な時です」
「はい…」
「率直に申し上げますと、しばらくは王様にお会いするのは難しいかと…。朝廷が安定を取り戻した後、正式な順序を踏み大義名分のもと燈花様を後宮にお迎えするのが最も安全で最適な方法だと思うのです。そこで、私の案なのですが、燈花様は薬草や野草にお詳しいですし朝廷の薬草庫で少しの間、働かれるのはどうでしょうか?あそこなら、毎日とはいきませんが王様が朝廷に出廷した時に互いに堂々とお会いしお話することができます。朝廷の陰に潜み人を陥れるような陰湿な輩たちに王様の足元をすくわせるわけにはいきません。どうかお聞き入れください」
冬韻が深々と頭を下げた。彼が言う事はこれ以上ないくらいにもっともだ。歴史書と私の記憶が正しければ舒明天皇の余命はいくばくもなく、きっと朝廷に大きな混乱が起きる。山代王も例外なくこの混乱の渦にのまれるだろう。冬韻の提案に反論する気など微塵も起きなかった。
「仰るとおりに致します」
私が素直に彼の案を受け入れた事にホッとしたのか冬韻は顔を上げると安堵の笑みを浮かべた。彼にとって私の登場は不本意であっただろうに、それでも私の為に奔走してくれる姿に誠実さを感じた。彼は山代王にとって何物にも代えがたい真の忠実な側近である。彼が山代王から絶大な信頼と寵愛を受ける理由に心から納得した。
張り詰めていた雰囲気を破るように冬韻が軽やかな口調で言った。
「では、すぐにでも薬草庫の担当の者に話します。また追ってご連絡いたします」
「わかりました」
私が答えると冬韻は再び微笑み、一礼をしてその場を去った。色々な展開を事前にシュミレーションしていたもののやはり心は正直だ。ズキンと胸が傷んだ。私はすぐに部屋に戻る気になれず再び飛鳥の都を眺めた。
あいにくの空模様は意地悪く薄暗い雲で都を覆っている。山代王に会えない切なさが込み上げたが仕方がない。もう彼は以前のように自由な立場ではないし、後宮にも家族がいるのだから当然といえば当然だ。もはや私だけのものではないのだと改めて思い知らされた気がした。
冬韻が帰るとすぐに小彩が隣にやってきて不安げに私を見た。私は力無く微笑んだ後、彼女を東屋の石へと座らせた。冬韻と話した内容を伝えると、彼女も同感だというように大きく頷き寂しげに微笑んだ。
「とりあえず朝廷の薬草庫でしばらく働くわ。冬韻様が言うように、たまにでも堂々と王様にお会いできるのならそれだけで十分よ」
今持っているポジティブ思考を全力で使い自分に言い聞かせた。
「確かに今の山代王様が理由なくこの宮に来るのは難しいと思います…でもお二人の運命がまた動き始めたのですから」
小彩が少し気落ちしている私を励ますように言った。
ポツポツ、ポツポツという音と共にどんよりした暗い雲から雨が降り出した。
「大変!薪を小屋の外に積み上げたままなのです!」
小彩はそう叫び立ち上がると、裏山の奥にある小屋に向かって一目散に駆け出した。
あたりはみるみる暗くなり、ガラガラピシャンと大きな轟くような音と共にいくつもの青光りする稲妻が雲の中に見えた。まるで私の心の中を映し出しているようだ。肩にかけていた領布を頭からすっぽりとかぶった。
ふと視界の中に動くものが入り目を凝らした。都へと続く道に馬を走らせる男の後ろ姿が見える。馬に乗る後ろ姿が林臣に似ている。夏の早朝に蓮を見に行って以来彼を見ていない。こんな嵐の中どこに行くのだろうと一瞬疑問に思ったが、激しい大粒の雨が視界を遮ったので急いで部屋へと戻った。
この雨は予想以上に長く続いた。今日数日ぶりに顔を出した太陽は秋とは思えないほど眩しく煌めいている。ラッキーなことに今日が薬草庫での勤務初日だ。雨上がりの高く青い秋空が清々しい。天気一つでこうも気分が変わるとは…しばらく晴れが続いて欲しいと心から願った。
朝早くから出勤する必要はなかったが、山代王に会えるかもしれないと思うと、たとえ時間を持て余したとしても早く薬草庫に向かいたかった。
「おはようございます燈花様、いよいよ本日より朝廷でのお仕事が始まるのですね」
小彩が言った。今日の太陽のように明るい笑顔と弾んだ声だ。
「えぇ、でも緊張するわ」
「大丈夫ですよ、燈花様は器用で博識でございますので、すぐに新しい仕事も慣れますよ」
「ありがとう、そうだと良いのだけど…あれ?朝廷の薬草庫ってどこだったかしら?」
私は急に我に返り即座に小彩を見た。やってしまった…肝心要の薬草庫の場所の確認をすっかり忘れていた。
小彩は落ちていた枝を拾い上げると地面に描き始めた。
「飛鳥川沿いを下り苑池を通り過ぎると、槻木の広場に出ますよね?広場の西側に何棟か茅葺小屋があるのですが…」
そうだ…思い出した。山代王から乗馬を習った広場だ…。胸が一気に熱くなった。
「大丈夫、わかるわ。よくあの広場で乗馬の練習をしたから…」
「そうでございましたね!」
小彩がパチンと思い出したように手を叩いた。
山代王から初めて乗馬を手ほどきされた日の事が鮮明によみがえった。あの日、黒光りする美しい毛並みの駿馬を自慢気に見せてくれたのだ。あの時の彼の誇らしげな顔といったらない。まだまだあどけなかった少年のような笑い顔を思い出していた。
宮を出る直前に小彩が小さな梨をいくつか持たせてくれた。飛鳥川は数日続いた雨で水かさが増しゴウゴウと勢いよく水しぶきを上げ流れている。川沿いの土手も土がぬかるみ歩きづらい。苑池を横目に通り過ぎ少しすると槻木の広場に出た。
山代王と一緒に何周も馬を走らせた記憶が一気によみがえった。つい一年ほど前の出来事だが、色々あったせいかとても遠い昔のように感じる。
広場を囲むように植えられた柳の葉が秋風に吹かれゆらゆらと揺れている。広場は飛鳥寺の西側に隣接していて、五重塔がすぐ真横にそびえ立っている。壁の向こう側は更に回廊で囲まれていて詳しい中の様子は見えないが、瓦屋根からして五重塔の西、北、東側に金堂があることがわかる。中を覗いてみたい好奇心を抑え再び歩きはじめた。
小彩が教えてくれたとおり、広場の北西側の端に何棟かの藁葺小屋が見えた。十三年前の記憶ではあそこに小屋などなかったと思いながらも足早に向かった。一番大きな小屋の前に着いた時、ちょうど中から白い麻布を着た小太りの男が出てきた。白い頭巾のようなものを頭に被っている。目が合ったので慌てて挨拶をした。
「あの、こちらの小屋が朝廷の薬草庫ですか?」
「さようでございますが、あなた様は?…」
「はい、橘宮より参りましたものです。本日よりこの薬草…」
「燈花様でございますか?」
男は私の言葉が終わらないうちに返した。
「えぇ」
「大変失礼いたしました。北上之宮の冬韻様よりお話を伺っております。まさかこんなに朝早くからお見えになるとは知らなかったものですから…私はこの薬草庫の責任者の玖麻と申します。どうぞ中にお入り下さい」
玖麻は丁寧に頭を下げながら言うと、どうぞ小屋の中へという風に手招きをした。私は聞こえるか聞こえないか位の小さな声ではい、と言い案内されるがままに小屋の中へと入った。
小屋の中の空気は藁が含んだ雨の匂いと薬草の香りが入り混じり湿った感じだ。この独特なくすんだ匂いが鼻を突いた。私は玖麻に失礼のないように自然な素振りで軽く鼻を押さえたあと小屋の中をまじまじと見渡した。
小屋の中は外から見るよりも断然広い。壁一面には沢山の小さな木箱がサイズごとに分けられ天井近くまで綺麗に積み重なっている。ひとつひとつの箱には薬草名が墨で書かれていた。遣唐使や商人らが運ぶ大唐からの生薬も多くあり、中には現在も使用されている薬草もいくつかあり驚いた。
一つ一つの棚から薬草を取り出し夢中になって確認していると、後ろで黙って立ってこの様子を見ていた玖麻がコホンと一度咳払いをし小声で話し始めた。
「お話は冬韻様より伺っております。我が家は代々大王家に仕えておりますので、決して他言はいたしません。ご存知だとは思いますが、田村皇子様のご病状が悪いため、ほとんどの医官が厩坂宮に常駐しております。何人かの医官と医女はこちらで働いてはおりますが、常駐しているわけではないので王様もきっと足を運び易いかと…」
さすが冬韻だ。完璧な根回しに驚いた。
「燈花様は薬草学の心得があると聞いております。人手不足な為このような時にお手伝いいただけるとは大変ありがたいことでございます」
玖麻はそう言うと、隣の小屋の中も案内してくれた。ひとしきりの説明を受け終わった時にはすっかり午後になっていた。
「燈花様、すっかり昼を過ぎてしまいました。本日はご説明だけで特別にすることもありませんので、どうぞご帰宅ください」
玖麻は一礼をし、また別の奥まった所にある小屋へと歩いて行った。
目の前に広がる槻木の広場はがらんとしていて、下級官吏らしき者達がぱらぱらと集まり立ち話をしているだけだった。初出勤の緊張が解けたのかお腹がぐぅっと鳴った。小彩から渡された梨を思い出し袋から取り出すと、柳の木の下に腰を下ろした。
山代王は今日は朝廷には来ていないのだろうか…美しくそびえ立つ五重塔を眺めながら小さな梨をかじった。
そう簡単に彼に会えるはずがないと頭では分かっていてもどこか期待していた自分がいたのだろう…思いの外落ち込んでいる。手を胸に当てそっと目を閉じた。
温かな日差しの中で爽やかな秋風が天香具山の方から吹いてきた。遠くにコスモスの花が風に揺れているのが見える。近くに誰も居ない事を確認してゴロンと草の上に寝転がった。
秋の空はどこまでも高い。青空に浮かぶ鱗雲を見ているうちにいつのまにかウトウトと眠ってしまった。
「燈花起きなさい。こんな所で寝てはいけないよ」
優しくて懐かしい声だ…。
「燈花」
…この声って現実だろうか…
ぱっと目を開けると目の前に優しく微笑む山代王の顔が見えた。
「きゃっ!」
思わず大きな声で叫んだ。山代王は片手で口を押えクスクスと笑っている。恥ずかしさで顔が熱くなっていくのが自分でもわかった。よりにもよって寝顔なんて見られたくなかった…。
私は勢いよく立ち上がると真っ赤な顔を隠したくて深々と頭を下げた。
「まだ、そなたがいてくれて良かった。午後一番にここに来るつもりだったが、思いのほか朝議が長引いてしまい、遅くなってしまったのだ。もう帰ってしまったと思っていたからそなたに会えて実に嬉しい」
「山代王様…」
「まだ薬草庫に玖麻はいるか?少しあそこでそなたと話しがしたい、かまわぬか?」
山代王が一番大きな小屋を指差した。中に玖麻がいるかどうかはわからなかったが、少しでも山代王を引き留めたくて頷いた。
「冬韻少し薬草庫に立ち寄るゆえあとで馬車を小屋の前によこしなさい」
「はっ」
山代王の少し後ろで見守っていた冬韻が答えた。小屋の中に人の気配はなく静まり返っている。私達は周りに人が居ない事を確認して小屋の中へと入った。
「久しぶりだな」
「はい…」
山代王の真っ直ぐに私を見つめる視線が妙に恥ずかしくて顔をそらした。十三年前は彼の方が年下だったからどこか弟のような気もしていて気さくに接する事が出来たけれど、今の彼は見た目も実年齢も私より歳上の大人の男性だ。威厳と自信に満ち溢れた姿は誇らしいし頼もしいが、どことなく遠い存在になってしまったような気もしていた。
「改めてそなたと話すことができて嬉しい。まさかこんな日は来るとは夢にも思わなかった…この十三年間は辛い日々だった…」
そう言うと、山代王様は視線を床に落とした。
「正直そなたへの思いは完全に断ち切ったと思っていた。しかし深田池で再会し、そなたへの想いがまだあると改めて気づいたのだ」
「山代王様…」
私は両手をぎゅっと握りしめた。
「…燈花、そなたが去った理由はもう気にしない。今後は離れていた十三年間の溝をゆっくりと埋めていきたい。良いか?」
私がうなずくと山代王は優しく私を抱きしめた。気のせいだろうか茅渟王がつけていた沈香の香りを感じた。確かに今の彼は茅渟王の生き写しのように容姿から話し方までそっくりだ。茅渟王の事はまた順を追って聞けば良い…今はただただ、この温かな胸の中に抱きしめられていたい…。
二人だけの穏やかな時間がしばらく流れた。
「宮までおくろう」
「はい」
幸せな時間は一瞬で過ぎる。重い足取りのまま小屋の前で待つ馬車に乗り込んだ。馬は私の心を察したのかゆっくりゆっくりと歩き始めた。
「橘宮には実は何年も訪れてなかった…。こんなに目と鼻の先なのにいつのまにか疎遠になってしまっていた…」
どこか寂しげな横顔だ。以前にも茅渟王のこんな横顔を見た事を思い出した。
「…茅渟王様のことお聞きしました。誠に残念で悲しみの言葉が見つかりません…」
山代王は遠くを見つめ少し沈黙した後、重い口を開いた。
「…兄上の無念を晴らす為に、私はここまで生きてきた…いつか、必ず…」
山代王が唇をキュッと噛んだ後、握った拳にもう一度力を込めたのがわかった。私も黙ったまま山代王の横顔を見つめた。馬車のガタガタという音だけが響いた。山代王は深く深呼吸を一つして言った。
「そなたも今の都の状況を知っているはず、しばらくは会う事が難しいかもしれぬが、出来る限り機会を見つけそなたに会いに行くゆえ、もう少しだけ待っていて欲しい」
「はい…」
馬車はいつのまにか橘宮へと続く坂の下に着いていた。
「では、また…」
私はそう言い軽く一礼をしたあと馬車を降りた。別れの時間を長引かせたくなんかない。
「何かあれば玖麻に相談しなさい。すぐに参るゆえ」
山代王が言った。私が頷くと彼は微笑み、掛け声をあげ馬車を出発させた。徐々に馬車が遠く小さくなっていく。次はいつ会えるのだろう…
真っ赤に染まった空を見上げながら宮の門へと歩いた。
東門に近づくと門の横で薪を割っていた漢人が駆けてきた。
「燈花様、お帰りなさいませ。先ほど山代王様の馬車をお見受けいたしましたが…」
「送ってもらったのよ」
「さようでございますか、やはり燈花様と山代王様には切っても切れない特別なご縁があるように思います」
漢人が感慨深げに言った。
「そうね…」
漢人がいうように、私達の間には切っても切れない縁がある…たとえそれがどんな形だとしても…。
「燈花様?大丈夫ですか?なにか心配ごとでも?」
漢人が不思議そうに覗き込んだ。
「え?いいえ、お腹空いたのよ」
「そうですよね、すぐに夕飯を運びますので、部屋で休まれて下さい」
「ありがとう」
慌てて誤魔化すように答えたが、そんなに思い詰めた顔でもしていたのだろうか?満たされた幸せな気持ちでいるのに…
部屋に戻るとすぐに小彩が夕食を運んできてくれた。
「燈花様、今お戻りでございますか?こんなに遅くまで、燈花様をこき使うなんて薬草庫の責任者はどういうつもりかしら?」
小彩は顔をしかめて言った。
「違うのよ。…帰りがけに山代王様とお会いしたのよ」
「ま、まことでございますか?初日からお会いできたのですか?」
「まぁね…」
今日の一日の出来事全てを小彩に伝えた。
「安心いたしました。王様に十三年前の事を責められるかもしれないと少し心配していたのです。茅渟王様の事は、きっと時がくればお話してくださるのでは?」
「そうね、何があったかはわからないけど、きっと時がくれば話して下さるわね。それよりも今は離れていた時間を埋めていくつもりよ」
「良かった、本当に安心しました」
小彩は安堵のため息をつき微笑んだ。そう、焦る事はない。ゆっくり時間をかけて二人の時間を取り戻そう…。
その晩、私は小彩に無理やり頼んで沈香を焚いてもらった。そして今は亡き茅渟王を偲んだ。
朝だというのに部屋の中は薄暗い。今日の天気は曇りだとわかり少しだけ気が沈んだ。それにしても何故こんなに早く朝が訪れるのだろう…。温かな明るい陽ざしの中で目覚めたかったと強く思いながらゆっくりと寝台から起き上がった。
今日、山代王は来るだろうか…何から話せばいいのだろう…いっそのこと真実を打ち明けてしまおうか?…もちろん彼に再会出来きてとても嬉しいが、今後の展開の不安がどうしても頭に付きまとう。考えすぎだろうか?…。朝から拉致の明かない思考を巡らせたあと深いため息をつき再び目を閉じた。
トントン、トントン
「燈花様起きられましたか?」
「えぇ…」
私が力なく答えると、小彩がカチャカチャと音をたて部屋の中へと入ってきた。同時に桂花茶の甘い香りが部屋中にたちこめた。小彩は茶器を寝台の横にある台の上に置くとお茶をコポコポと注ぎ始めた。いつもよりも熱い湯なのだろう、器からモクモクと白い湯気がたっている。
「燈花様、昨晩は寝られましたか?」
「えぇ、そう思うわ…」
私はもう一度大きく金木犀の香りを吸い込んだ後、熱いお茶に口をつけた。
「良かったです。山代王様はお見えになられるでしょうか?」
小彩は期待と不安が入り混じった表情で言った。
「そう思いたいけれど、昔と違って自由に出歩けないのでしょ?とにかく待ってみるわ」
彼を信じていないわけではないが、昔とは立場が違う事も重々に理解していたし、例え今日会えなくても焦る必要はないと思った。十三年間の適当な理由を考える必要もあるし、空白の時間はゆっくりと埋めていけばいい…。
「やはり、燈花様と王様は運命の糸で結ばれていらっしゃるのですね。昨日の王様は昔の王様と同様、変わらず燈花様を愛おしげに見つめておいででした」
小彩はしんみりと呟いた後、少し頬を赤らめた。私はそうね、とだけ言い再び熱いお茶を口に含んだ。まさかもう彼の前から突如消えることはないとは思うが、ぬか喜びしたくなかったしここから始まる未来が中宮の意図している事のような気がして胸が騒めいた。
山代王邸にて
「冬韻、今から橘宮に行ってくる」
山代王は出かける支度を終えると戸口の横に座る冬韻に向け言った。
「王様お待ちください!」
冬韻はすっと立ち上がると王の前に立ち両手を大きく広げた。そして静かに床に膝をつくと山代王を見上げ言った。
「王様、僭越ながら申し上げます。今行ってはなりません。朝廷が不安定なこの状況で軽はずみな行動は慎むべきです。まずは正当な順序を踏み適切な時期を待つべきかと」
覚悟を決めたような強く低い声が意思の強さを表していた。
「正当な順序を踏み時期を待てだと?」
山代王が声を荒げ言った。
「王様、落ち着いて下さい」
「落ち着いてなどいられるか!十三年だぞ。あの者が突如居なくなり十三年も苦しんだのだぞ!」
山代王が怒鳴った。廊下で待つ侍女たちが顔色を変えて怯えるほどの大きな声だったが冬韻はすかさず冷静沈着な態度で言い返した。
「だからこそです!だからこそ、慎重に事をすすめ燈花様をお迎えすべきです。まずは正室である王妃様や白蘭様、他の側室の理解を得たあと大臣や大連の許可を取るべきです。そして今は何よりも混乱している朝廷を鎮め先導すべきです。今こそ朝廷での地位権力を盤石のものとするべきです。そのあと燈花様を後宮の側室として正式に娶れば良いのです。燈花様の為でもあります」
「……くっ…くそっ」
山代王は唇を噛みしめると腰に刺した剣を床に叩きつけた。
「私に妙案がございますので、代わりに橘宮に行って参ります」
「妙案?」
「はい、とりあえずこの件は私にお任せ下さい。王様は朝廷に出向き田村皇子様のご病状について把握された方がよろしいかと思います、まさに緊迫しているのです。あちこちの大臣や大連達が祈願祭にて功を上げようと陰で躍起になっております」
山代王は少し沈黙しため息をついた後、投げ捨てた剣を床から拾い上げ言った。
「…仕方あるまい。ひとまず燈花の件はそなたに任せる」
「はっ」
冬韻は一礼したあと足早に部屋を出た。
橘宮にて
ちょうど午前中の仕事を終えて部屋の前に来たところで、門番の漢人に呼び止められた。
「燈花様、冬韻様がお越しです」
「冬韻様が?」
「はい、中庭にお通しいたしました」
「…そう、すぐに行くわ」
私はそう答えると急いで着替えを済ませ中庭へと向かった。山代王ではなく冬韻が来たという事は、やはり物事はそう簡単には進まないのだろう…。
庭の端に都を見つめる冬韻の少し痩せた背中があった。私は適度な距離の所で足を止め、一度大きく深呼吸したあと声をかけた。
「冬韻様…」
冬韻がすっと振り返った。少しだけ肩を落とした姿と物静かな澄んだ瞳が彼の落胆を物語っている。
「こんなことになるなんて思っていなかったのです…」
なぜか彼を裏切ってしまったような罪悪感が沸き起こり思わず言い訳がましく言った。
「燈花様が悪いのではありません。これも全て運命なのでしょう…」
冬韻は澄んだ瞳でため息まじりに答えると、私を諭すように穏やかな口調で続けた。
「燈花様に非はございません。ただ、時期が非常に悪いのです。本日、王様はお見えになられません。事情があるのです、どうかお察し頂きたく思います」
「…えぇ」
私は小さな声で答えうつむいた。
「ご存知かと思いますが、厩坂宮におられる田村皇子様のご容態がよろしくありません。体調はますます悪化するばかり、正直に申し上げますと大変緊迫している状態です。朝廷の大臣や大連達も今後の行く先への不安と憂慮からか朝廷だけでなく都全体が非常に不安定です。王様の力でなんとか平穏を保っている状態なのです。そして、昨年後宮に入宮された白蘭様もご懐妊中で、最近やっと体調が回復したばかりで王様の支えが必要な時です」
「はい…」
「率直に申し上げますと、しばらくは王様にお会いするのは難しいかと…。朝廷が安定を取り戻した後、正式な順序を踏み大義名分のもと燈花様を後宮にお迎えするのが最も安全で最適な方法だと思うのです。そこで、私の案なのですが、燈花様は薬草や野草にお詳しいですし朝廷の薬草庫で少しの間、働かれるのはどうでしょうか?あそこなら、毎日とはいきませんが王様が朝廷に出廷した時に互いに堂々とお会いしお話することができます。朝廷の陰に潜み人を陥れるような陰湿な輩たちに王様の足元をすくわせるわけにはいきません。どうかお聞き入れください」
冬韻が深々と頭を下げた。彼が言う事はこれ以上ないくらいにもっともだ。歴史書と私の記憶が正しければ舒明天皇の余命はいくばくもなく、きっと朝廷に大きな混乱が起きる。山代王も例外なくこの混乱の渦にのまれるだろう。冬韻の提案に反論する気など微塵も起きなかった。
「仰るとおりに致します」
私が素直に彼の案を受け入れた事にホッとしたのか冬韻は顔を上げると安堵の笑みを浮かべた。彼にとって私の登場は不本意であっただろうに、それでも私の為に奔走してくれる姿に誠実さを感じた。彼は山代王にとって何物にも代えがたい真の忠実な側近である。彼が山代王から絶大な信頼と寵愛を受ける理由に心から納得した。
張り詰めていた雰囲気を破るように冬韻が軽やかな口調で言った。
「では、すぐにでも薬草庫の担当の者に話します。また追ってご連絡いたします」
「わかりました」
私が答えると冬韻は再び微笑み、一礼をしてその場を去った。色々な展開を事前にシュミレーションしていたもののやはり心は正直だ。ズキンと胸が傷んだ。私はすぐに部屋に戻る気になれず再び飛鳥の都を眺めた。
あいにくの空模様は意地悪く薄暗い雲で都を覆っている。山代王に会えない切なさが込み上げたが仕方がない。もう彼は以前のように自由な立場ではないし、後宮にも家族がいるのだから当然といえば当然だ。もはや私だけのものではないのだと改めて思い知らされた気がした。
冬韻が帰るとすぐに小彩が隣にやってきて不安げに私を見た。私は力無く微笑んだ後、彼女を東屋の石へと座らせた。冬韻と話した内容を伝えると、彼女も同感だというように大きく頷き寂しげに微笑んだ。
「とりあえず朝廷の薬草庫でしばらく働くわ。冬韻様が言うように、たまにでも堂々と王様にお会いできるのならそれだけで十分よ」
今持っているポジティブ思考を全力で使い自分に言い聞かせた。
「確かに今の山代王様が理由なくこの宮に来るのは難しいと思います…でもお二人の運命がまた動き始めたのですから」
小彩が少し気落ちしている私を励ますように言った。
ポツポツ、ポツポツという音と共にどんよりした暗い雲から雨が降り出した。
「大変!薪を小屋の外に積み上げたままなのです!」
小彩はそう叫び立ち上がると、裏山の奥にある小屋に向かって一目散に駆け出した。
あたりはみるみる暗くなり、ガラガラピシャンと大きな轟くような音と共にいくつもの青光りする稲妻が雲の中に見えた。まるで私の心の中を映し出しているようだ。肩にかけていた領布を頭からすっぽりとかぶった。
ふと視界の中に動くものが入り目を凝らした。都へと続く道に馬を走らせる男の後ろ姿が見える。馬に乗る後ろ姿が林臣に似ている。夏の早朝に蓮を見に行って以来彼を見ていない。こんな嵐の中どこに行くのだろうと一瞬疑問に思ったが、激しい大粒の雨が視界を遮ったので急いで部屋へと戻った。
この雨は予想以上に長く続いた。今日数日ぶりに顔を出した太陽は秋とは思えないほど眩しく煌めいている。ラッキーなことに今日が薬草庫での勤務初日だ。雨上がりの高く青い秋空が清々しい。天気一つでこうも気分が変わるとは…しばらく晴れが続いて欲しいと心から願った。
朝早くから出勤する必要はなかったが、山代王に会えるかもしれないと思うと、たとえ時間を持て余したとしても早く薬草庫に向かいたかった。
「おはようございます燈花様、いよいよ本日より朝廷でのお仕事が始まるのですね」
小彩が言った。今日の太陽のように明るい笑顔と弾んだ声だ。
「えぇ、でも緊張するわ」
「大丈夫ですよ、燈花様は器用で博識でございますので、すぐに新しい仕事も慣れますよ」
「ありがとう、そうだと良いのだけど…あれ?朝廷の薬草庫ってどこだったかしら?」
私は急に我に返り即座に小彩を見た。やってしまった…肝心要の薬草庫の場所の確認をすっかり忘れていた。
小彩は落ちていた枝を拾い上げると地面に描き始めた。
「飛鳥川沿いを下り苑池を通り過ぎると、槻木の広場に出ますよね?広場の西側に何棟か茅葺小屋があるのですが…」
そうだ…思い出した。山代王から乗馬を習った広場だ…。胸が一気に熱くなった。
「大丈夫、わかるわ。よくあの広場で乗馬の練習をしたから…」
「そうでございましたね!」
小彩がパチンと思い出したように手を叩いた。
山代王から初めて乗馬を手ほどきされた日の事が鮮明によみがえった。あの日、黒光りする美しい毛並みの駿馬を自慢気に見せてくれたのだ。あの時の彼の誇らしげな顔といったらない。まだまだあどけなかった少年のような笑い顔を思い出していた。
宮を出る直前に小彩が小さな梨をいくつか持たせてくれた。飛鳥川は数日続いた雨で水かさが増しゴウゴウと勢いよく水しぶきを上げ流れている。川沿いの土手も土がぬかるみ歩きづらい。苑池を横目に通り過ぎ少しすると槻木の広場に出た。
山代王と一緒に何周も馬を走らせた記憶が一気によみがえった。つい一年ほど前の出来事だが、色々あったせいかとても遠い昔のように感じる。
広場を囲むように植えられた柳の葉が秋風に吹かれゆらゆらと揺れている。広場は飛鳥寺の西側に隣接していて、五重塔がすぐ真横にそびえ立っている。壁の向こう側は更に回廊で囲まれていて詳しい中の様子は見えないが、瓦屋根からして五重塔の西、北、東側に金堂があることがわかる。中を覗いてみたい好奇心を抑え再び歩きはじめた。
小彩が教えてくれたとおり、広場の北西側の端に何棟かの藁葺小屋が見えた。十三年前の記憶ではあそこに小屋などなかったと思いながらも足早に向かった。一番大きな小屋の前に着いた時、ちょうど中から白い麻布を着た小太りの男が出てきた。白い頭巾のようなものを頭に被っている。目が合ったので慌てて挨拶をした。
「あの、こちらの小屋が朝廷の薬草庫ですか?」
「さようでございますが、あなた様は?…」
「はい、橘宮より参りましたものです。本日よりこの薬草…」
「燈花様でございますか?」
男は私の言葉が終わらないうちに返した。
「えぇ」
「大変失礼いたしました。北上之宮の冬韻様よりお話を伺っております。まさかこんなに朝早くからお見えになるとは知らなかったものですから…私はこの薬草庫の責任者の玖麻と申します。どうぞ中にお入り下さい」
玖麻は丁寧に頭を下げながら言うと、どうぞ小屋の中へという風に手招きをした。私は聞こえるか聞こえないか位の小さな声ではい、と言い案内されるがままに小屋の中へと入った。
小屋の中の空気は藁が含んだ雨の匂いと薬草の香りが入り混じり湿った感じだ。この独特なくすんだ匂いが鼻を突いた。私は玖麻に失礼のないように自然な素振りで軽く鼻を押さえたあと小屋の中をまじまじと見渡した。
小屋の中は外から見るよりも断然広い。壁一面には沢山の小さな木箱がサイズごとに分けられ天井近くまで綺麗に積み重なっている。ひとつひとつの箱には薬草名が墨で書かれていた。遣唐使や商人らが運ぶ大唐からの生薬も多くあり、中には現在も使用されている薬草もいくつかあり驚いた。
一つ一つの棚から薬草を取り出し夢中になって確認していると、後ろで黙って立ってこの様子を見ていた玖麻がコホンと一度咳払いをし小声で話し始めた。
「お話は冬韻様より伺っております。我が家は代々大王家に仕えておりますので、決して他言はいたしません。ご存知だとは思いますが、田村皇子様のご病状が悪いため、ほとんどの医官が厩坂宮に常駐しております。何人かの医官と医女はこちらで働いてはおりますが、常駐しているわけではないので王様もきっと足を運び易いかと…」
さすが冬韻だ。完璧な根回しに驚いた。
「燈花様は薬草学の心得があると聞いております。人手不足な為このような時にお手伝いいただけるとは大変ありがたいことでございます」
玖麻はそう言うと、隣の小屋の中も案内してくれた。ひとしきりの説明を受け終わった時にはすっかり午後になっていた。
「燈花様、すっかり昼を過ぎてしまいました。本日はご説明だけで特別にすることもありませんので、どうぞご帰宅ください」
玖麻は一礼をし、また別の奥まった所にある小屋へと歩いて行った。
目の前に広がる槻木の広場はがらんとしていて、下級官吏らしき者達がぱらぱらと集まり立ち話をしているだけだった。初出勤の緊張が解けたのかお腹がぐぅっと鳴った。小彩から渡された梨を思い出し袋から取り出すと、柳の木の下に腰を下ろした。
山代王は今日は朝廷には来ていないのだろうか…美しくそびえ立つ五重塔を眺めながら小さな梨をかじった。
そう簡単に彼に会えるはずがないと頭では分かっていてもどこか期待していた自分がいたのだろう…思いの外落ち込んでいる。手を胸に当てそっと目を閉じた。
温かな日差しの中で爽やかな秋風が天香具山の方から吹いてきた。遠くにコスモスの花が風に揺れているのが見える。近くに誰も居ない事を確認してゴロンと草の上に寝転がった。
秋の空はどこまでも高い。青空に浮かぶ鱗雲を見ているうちにいつのまにかウトウトと眠ってしまった。
「燈花起きなさい。こんな所で寝てはいけないよ」
優しくて懐かしい声だ…。
「燈花」
…この声って現実だろうか…
ぱっと目を開けると目の前に優しく微笑む山代王の顔が見えた。
「きゃっ!」
思わず大きな声で叫んだ。山代王は片手で口を押えクスクスと笑っている。恥ずかしさで顔が熱くなっていくのが自分でもわかった。よりにもよって寝顔なんて見られたくなかった…。
私は勢いよく立ち上がると真っ赤な顔を隠したくて深々と頭を下げた。
「まだ、そなたがいてくれて良かった。午後一番にここに来るつもりだったが、思いのほか朝議が長引いてしまい、遅くなってしまったのだ。もう帰ってしまったと思っていたからそなたに会えて実に嬉しい」
「山代王様…」
「まだ薬草庫に玖麻はいるか?少しあそこでそなたと話しがしたい、かまわぬか?」
山代王が一番大きな小屋を指差した。中に玖麻がいるかどうかはわからなかったが、少しでも山代王を引き留めたくて頷いた。
「冬韻少し薬草庫に立ち寄るゆえあとで馬車を小屋の前によこしなさい」
「はっ」
山代王の少し後ろで見守っていた冬韻が答えた。小屋の中に人の気配はなく静まり返っている。私達は周りに人が居ない事を確認して小屋の中へと入った。
「久しぶりだな」
「はい…」
山代王の真っ直ぐに私を見つめる視線が妙に恥ずかしくて顔をそらした。十三年前は彼の方が年下だったからどこか弟のような気もしていて気さくに接する事が出来たけれど、今の彼は見た目も実年齢も私より歳上の大人の男性だ。威厳と自信に満ち溢れた姿は誇らしいし頼もしいが、どことなく遠い存在になってしまったような気もしていた。
「改めてそなたと話すことができて嬉しい。まさかこんな日は来るとは夢にも思わなかった…この十三年間は辛い日々だった…」
そう言うと、山代王様は視線を床に落とした。
「正直そなたへの思いは完全に断ち切ったと思っていた。しかし深田池で再会し、そなたへの想いがまだあると改めて気づいたのだ」
「山代王様…」
私は両手をぎゅっと握りしめた。
「…燈花、そなたが去った理由はもう気にしない。今後は離れていた十三年間の溝をゆっくりと埋めていきたい。良いか?」
私がうなずくと山代王は優しく私を抱きしめた。気のせいだろうか茅渟王がつけていた沈香の香りを感じた。確かに今の彼は茅渟王の生き写しのように容姿から話し方までそっくりだ。茅渟王の事はまた順を追って聞けば良い…今はただただ、この温かな胸の中に抱きしめられていたい…。
二人だけの穏やかな時間がしばらく流れた。
「宮までおくろう」
「はい」
幸せな時間は一瞬で過ぎる。重い足取りのまま小屋の前で待つ馬車に乗り込んだ。馬は私の心を察したのかゆっくりゆっくりと歩き始めた。
「橘宮には実は何年も訪れてなかった…。こんなに目と鼻の先なのにいつのまにか疎遠になってしまっていた…」
どこか寂しげな横顔だ。以前にも茅渟王のこんな横顔を見た事を思い出した。
「…茅渟王様のことお聞きしました。誠に残念で悲しみの言葉が見つかりません…」
山代王は遠くを見つめ少し沈黙した後、重い口を開いた。
「…兄上の無念を晴らす為に、私はここまで生きてきた…いつか、必ず…」
山代王が唇をキュッと噛んだ後、握った拳にもう一度力を込めたのがわかった。私も黙ったまま山代王の横顔を見つめた。馬車のガタガタという音だけが響いた。山代王は深く深呼吸を一つして言った。
「そなたも今の都の状況を知っているはず、しばらくは会う事が難しいかもしれぬが、出来る限り機会を見つけそなたに会いに行くゆえ、もう少しだけ待っていて欲しい」
「はい…」
馬車はいつのまにか橘宮へと続く坂の下に着いていた。
「では、また…」
私はそう言い軽く一礼をしたあと馬車を降りた。別れの時間を長引かせたくなんかない。
「何かあれば玖麻に相談しなさい。すぐに参るゆえ」
山代王が言った。私が頷くと彼は微笑み、掛け声をあげ馬車を出発させた。徐々に馬車が遠く小さくなっていく。次はいつ会えるのだろう…
真っ赤に染まった空を見上げながら宮の門へと歩いた。
東門に近づくと門の横で薪を割っていた漢人が駆けてきた。
「燈花様、お帰りなさいませ。先ほど山代王様の馬車をお見受けいたしましたが…」
「送ってもらったのよ」
「さようでございますか、やはり燈花様と山代王様には切っても切れない特別なご縁があるように思います」
漢人が感慨深げに言った。
「そうね…」
漢人がいうように、私達の間には切っても切れない縁がある…たとえそれがどんな形だとしても…。
「燈花様?大丈夫ですか?なにか心配ごとでも?」
漢人が不思議そうに覗き込んだ。
「え?いいえ、お腹空いたのよ」
「そうですよね、すぐに夕飯を運びますので、部屋で休まれて下さい」
「ありがとう」
慌てて誤魔化すように答えたが、そんなに思い詰めた顔でもしていたのだろうか?満たされた幸せな気持ちでいるのに…
部屋に戻るとすぐに小彩が夕食を運んできてくれた。
「燈花様、今お戻りでございますか?こんなに遅くまで、燈花様をこき使うなんて薬草庫の責任者はどういうつもりかしら?」
小彩は顔をしかめて言った。
「違うのよ。…帰りがけに山代王様とお会いしたのよ」
「ま、まことでございますか?初日からお会いできたのですか?」
「まぁね…」
今日の一日の出来事全てを小彩に伝えた。
「安心いたしました。王様に十三年前の事を責められるかもしれないと少し心配していたのです。茅渟王様の事は、きっと時がくればお話してくださるのでは?」
「そうね、何があったかはわからないけど、きっと時がくれば話して下さるわね。それよりも今は離れていた時間を埋めていくつもりよ」
「良かった、本当に安心しました」
小彩は安堵のため息をつき微笑んだ。そう、焦る事はない。ゆっくり時間をかけて二人の時間を取り戻そう…。
その晩、私は小彩に無理やり頼んで沈香を焚いてもらった。そして今は亡き茅渟王を偲んだ。
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