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第十六話
古の豪族
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ふぅ、寒い…外からしんしんと冷たい空気が入ってくる。あと、少しだけ、とむしろにくるまった。宇陀から戻って以来、飛鳥の都はこの数日でぐんと気温が下がった。山代王と最後に会ってから何日か過ぎたが連絡はまだない。
運よく橘宮は新年を迎える宴の準備を任された為、采女から使用人までみなが忙しく働いていた。もちろん私も例外ではない。むしろ忙しく過ごす事で色々と襲ってくる余計な考えなどから気を紛らわす事が出来た。
古代の冬だ、寒いはずである。朝の仕事は火起こしから始まる。パチッパチッという乾いた音がし、囲炉裏に火が灯った。少しだけかじかんだ手を温めたあと部屋の外に出た。吐く息は白くタバコの煙のようだ。今日の天気はまさに冬空で厚い灰色の雲がどんよりと漂っている。今にもはらはらと雪が降り出しそうだ。
寒くて寒くて、何もやる気がおきないわ…山代王様からの連絡もないし…そろそろ会いに来て下さるかしら?あぁ…しばらく馬にも乗ってないわね…
部屋の中へ戻り囲炉裏の火がパチッパチッと勢いよく燃え上がるのを眺めながら、熱い茶を飲み手を温めた。
その頃小墾田宮でも、中宮が庭に立ちどんよりとした冬空を眺めていた。
「誰かいるか?」
「はい」
少し離れた場所で待機していた侍女が言った。
「星宿台の神官、青昴を呼んできなさい」
「承知しました」
侍女は一礼すると急ぎ足で去って行った。
一方橘宮では、一人の男が門の前で大声を張り上げていた。
「誰かおるか!」
男のドスのきいた威勢ある声に驚いた六鯨が慌てて門を開けに来た。
「これは、これは巨勢様。朝からどうしたのでございますか?」
六鯨が恐る恐る尋ねた。
「六鯨、この屋敷の使用人を全て連れて今すぐに桃原墓に参れ」
「今からでございますか?」
「そうだ、明日は馬子様の法要の祭祀が執り行われるが、ほとんどの者が墓の造営にまわっていて人手不足だ。今日は雲行きも悪い。雨が降りだす前に祭祀の準備をすすめるゆえ、ついてまいれ」
「し、しかし、我々も朝廷より新年の準備を任されておりまして…此度の正月は今春の山代王様の婚儀の祝いも含めており、例年にない盛大な宴が催されるそうです。地方からの有力豪族も多数集まるの為、倍の品物を調達しなければなりません、よって…その…私どももここ数日は特に忙しくしておるのです…」
六鯨は尻つぼみに言い終えると、ちらっと徳多の顔色を見てまたうつむいた。徳多は目を見開くと案の定真っ赤な顔をして怒鳴り出した。
「何を戯けたことを申す!大王家一族も朝廷も、我ら蘇我一族の財力があってこそ栄華を誇っているのだぞ!!」
「は、はい、それは重々に承知しておりますが…その…」
おどおどしながら答えたものの珍しく六鯨もひかない。
「えぇい、つべこべ言わずに従え!!豊浦大臣様からの直々のご指示だぞ刃向かうのか?」
「豊浦大臣様!?いえ滅相もありません!…では早急に人を集めて参ります」
「手間をかけさせるな。急ぎ参れ!」
そう声を荒げて言うと徳多はさっと馬にまたがり行ってしまった。
徳多を見送ると六鯨は急いで門をしめ、屋敷の中へと戻った。中庭を歩く小彩に気づくと、大声で叫びながら駆け寄ってきた。
「小彩!小彩!待ってくれ~!」
「六鯨様、随分と朝から顔色が優れぬようですが、いかがされたのですか?」
事情を知らない小彩があっけらかんと尋ねた。
「実は今、巨勢様がいらしてな、桃原墓で急な仕事が入ってしまったのだ…」
六鯨は困った表情をし両手で頭を抱えた。
「しかし、新年の宴の準備をすすめないとこちらも間に合いませんよ」
小彩も困惑気味に答えた。
「わかっている!ゆえに困っているのだ!しかしな、豊浦大臣様のご命令とあらば逆らえぬ。今日は恐らく帰れぬだろう…あとでみなの飯を嶋の庄まで持ってきてくれ。宴の準備は侍女達に任せよう…悪いが漢人を使いに出し小墾田宮に応援を頼んでくれぬか?」
さすがの小彩もオロオロと冷や汗を流す六鯨を見てこれ以上責められないと思ったのだろう、
「それは、構いませんが…はぁ、承知いたしました」
と、素直に従った。
「良かった。頼んだぞ。とりあえず私は急ぎ男達を連れて桃原墓に向かうゆえ」
「お気をつけて下さい」
六鯨は顔を横に振ると頭をボリボリかきながら、小走りで去って行った。
「燈花様、燈花様、いらっしゃいますか?」
小彩が慌てた声で戸を叩いた。
「どうしたの?」
「実は急用が入ってしまい、今日は市には行けそうもありません」
「急用?」
「はい…」
小彩は申し訳ないとう表情をし、六鯨とのやり取りを話し出した。
「そう…では人手が必要ね。私も手伝うわ」
「いえいえ、燈花さまは中宮さまの客人なのに下働きなどお願いできません。私ども采女でなんとかいたします」
「でも、新年を迎える準備だってまだまだ終わっていないでしょう?今年の正月はいつになく盛大に祝うと聞いたわ。手抜かりがあったらそれこそ一大事よ、私も一緒に手伝うわ」
いつも宮の皆に良くしてもらっているので、こんな時こそ微力ではあるが日頃の恩返しも含めて役に立ちたかった。私の熱い思いが伝わったのか、小彩も素直に受け入れてくれた。
「面目ありません、ではお言葉に甘えてお願いいたします」
屋敷に残った人間はみな各々の仕事で精いっぱいで手が離せない。私も袖をたくし上げ小彩と二人で厨房を走り回った。食事が全て出来上がった頃には、昼をだいぶ過ぎていた。
「六鯨様、きっと待ちくたびれているかも…急ぎ嶋の庄まで届けに行って参ります」
小彩が大きな布を広げ荷を包みながら言ったが、かなりの量だ。
「こんなに沢山の荷をあなた一人では運べないでしょう?私も共にゆくから」
私はそう言うと大きな荷をひとつ掴みひょいっと肩から背負った。ずっしりと重い。
「燈花様!…何から何まで申し訳ありません…」
小彩は泣き出しそうな顔をしている。
「良いから、急いで向かいましょう。雨が降りだしそうよ」
見上げた空は朝よりも一段とどんよりと薄暗くなっていた。私たちは大きな荷物を抱え歩き出した。嶋の庄という名前は以前に何度か聞いた事があったが、不思議と今までどこにあるかなどを気にしたことはなかった。でも救援を申し込んできたところを見ると橘宮にほど近い場所にあるのだろう。
東門をくぐり少し下った先に飛鳥川が流れている、川沿いを上流に向かい歩き始めた。緩い上り坂がしばらく続いたあといつの間にか林の中を歩いていた。生い茂る木々の枝には葉こそなかったが均衡な距離を保ち美しかった。よく見てみると全て桃の木だ。この時、この場所が桃原と言われていることが腑に落ちた。
東橘宮の裏に位置するこの付近を訪れるのは今回で二度目だ。一度目はここから更に奥に入り込んだ場所で、小彩と二人で薬草採りに行きイノシシに襲われた山だ。
あの時は散々な目にあったのだ。髪飾りも失くしてしまったし、久しぶりに髪飾りの事を思い出し気分が沈んだ。
更に桃林の中を歩みを進めると、先にきらりと光る水面が見えた。近づいてみるとそれは大きな苑池で正確に測量されているのか綺麗な正方形をしている。中央には中洲が造られていてまるで小さな島が浮いているようだ。
水面には数匹の水鳥が寄り添い羽をブルブルと小刻みに動かし冬空の下この寒さをしのいでいるように見えた。
「ここは?」
息を切らしながら少し前を歩く小彩に尋ねた。
「嶋宮でございます」
ここが嶋宮…さきほどの正四角形の苑池といい、等間隔で植えられている桃林といい広い敷地なのだろうが全てのものがしっかり管理されているようで感心した。
今までは緩い坂を上がってきたが池を過ぎたあたりから今度は急な登り坂へと変わった。
重い荷を包んだ布が肩にくいこみ痛い…。
何度も立ち止まると前方を仰いだが、当然坂の上の景色は見えない。
「燈花様、大丈夫ですか?もう少しですよ、この坂を上がって、その先を少し歩けば…」
小彩が何度も振り返り励ましてくれたが、もう限界だ…足はパンパンだしこれ以上は歩けない…そう思い立ち止まった時、
「燈花様、着きましたよ!」
先を進んでいた小彩が上から叫んだ。
「燈花様、そこでお待ちになって下さい!今、向こうにいる六鯨様を呼んで参ります!」
小彩はその場で荷を下ろすとどこかへ姿を消した。なんとか小彩が荷を下ろした場所まではたどり着かないと、と思い自分に鞭を打ち上へと向かった。荷の傍まで来るとその場に倒れるように転がった。
どんなに深呼吸をしてもなかなか息が整わない。
はぁ、疲れたわ…もう歩けない…
どんよりとした重い雲で重なる冬空を見ながら目を閉じた。ザクッ、ザクッと誰かが近づいてくる足音が聞こえた。
私は起き上がらずに目を閉じたまま尋ねた。
「小彩?六鯨様は見つかった?」
「……」
……おかしい、返事がない。不審に思った私はのそのそと体を起こし顔を上げた。見ると若い少年が無表情のままじっと私を見ている。
そう、この冷淡な顔立ち…林臣太郎だ。私は慌てて立ち上がると、拝礼をした。中宮の庭での蹴鞠以来なので久しぶりの対面だ。若いのにこの威圧的な態度はいったいどこから来るのだろうと、頭を下げながら思った。
「林臣様にご挨拶いたします」
林臣は私の目の前に立つと黙ったまま足元に置かれた荷に視線を落とした。
気まずい…彼がなぜここにいるのかはわからないが、私の事など無視してすぐに去って欲しかった。なぜこんなに一秒一秒が長く感じるのだろう…沈黙に耐えかねて自分から話を振った。
「橘宮の使用人たちがこの辺りで御用勤めをしておりまして、食事を運んできたのです…」
「数日食を抜いたとて、死にはせぬ」
相変わらず冷たい口調だ。そしていつも上から目線なのが鼻につく。人生の八割をきっと損しているに違いない…そんな事を考えながら衣の袖をぎゅっと握りなおし、静かにきっぱりと言った。
「今日は新年を迎える準備で大変多忙な日でしたが、皆こちらの作業を優先する為にやってまいりました」
「当然だ、主従関係があるからな」
林臣は当然のことだろうという風に言うと、ふんっと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「…林臣様が朝廷でどのようなお立場かは存じませんが、主従関係といえども私どもは中宮様、はたまた大王様に忠誠心をもってお仕えする立場にございます」
「…ふん」
林臣は一言放つとその場から去った。彼の遠くなる後ろ姿を確認しほっと胸をなでおろした。しばらくすると小彩が六鯨を連れて戻ってきた。
「燈花様、お待たせしました。この先は六鯨様達が荷を運んでくださりますので、少し休みましょう」
「良かった~」
嬉しさのあまり胸の前で両手をパチパチと叩いた。
「燈花様にまで、ご面倒をおかけしてしまい誠に申し訳ありません。もう少し登った先に東屋がありますのでそちらでお休みください」
六鯨が申し訳なさそうに額の汗を拭きながら言った。もう一度気合を入れ直し、ゆるい登り坂を歩き出した。六鯨の言ったとおり、東屋の屋根らしきものが坂の上に見えた。息を整えながら小彩にさきほどの出来事を話した。
「さっき、林臣様と下ですれ違ったのよ」
「林臣様ですか?お見えになられていたのですね」
「相変わらず、冷たい感じで嫌だったわ」
私が少し嫌味ったらしく言うと、
「シィー燈花様、声が大きいですよ!誰かに聞かれたら大変です」
小彩は口に指をあてしかめっ面をするとキョロキョロと周りに人が居ないかを確認した。林臣様にはいつまでたっても慣れないのか、随分と怯える。”十七、八のただの子どもじゃないの!”と喉まで言葉が出かがったが、私は大人だ。馬鹿な事はしない。
「さ、ここで休みましょう」
突如目の前が開けると東屋全体が見えた。更にその奥には巨大な小山と石の塊が見えた。下半分は土が盛ってあるが、上は平べったい大きな石の表面が剥き出しになっている。
ここって、石舞台古墳じゃないの⁉︎
一瞬で背筋は氷りつき体中が身震いした。この古墳には以前来たことがある。その巨大な石が横たわる圧巻の姿を今もしっかり思い出せる。間違いない、ここは石舞台古墳だ。しかも造営真っ只中の…
「小彩、ここってまさか、蘇我馬子の…」
「ここは昨年亡くなった大臣蘇我シマさまの桃原墓です」
「シマ?」
そういえば文献で読んだ事がある…シマって…確か、蘇我馬子の呼び名よ
「先ほど燈花様が会われた、林臣様の御祖父さまです」
「えっ!?えっっっっ⁉︎」
思わず自分でも驚くほどの悲鳴に近い声を上げ心臓がドクンと強く脈打った。
「そんなに驚くことですか⁈」
「い、いいえ…もちろん驚いてなど…い、いないわ」
一瞬でカラカラになった喉に唾をのみ込みながら答えたが、明らかに動揺しているのは伝わったと思う。嘘であってほしかった、まさか、林臣様が…蘇我入鹿だなんて…あの、極悪非道、残虐無慈悲な冷酷人間の蘇我入鹿…どうしよう…今更情けないが出来ることなら時を巻き戻したい…
「はぁ…」
深いため息がこぼれた。小彩は不思議そうに私を見つめている。両手で顔をふさぎ空を仰いでいるとポツリ、ポツリと冷たいものを感じた。どんよりした薄暗い冬の空から雨が降り出した。
「燈花様、せっかくここまで来ましたがここの東屋では雨風をしのげません。あちらの母屋に移動しましょう」
小彩はほどいた荷を包み直しながら早口で言うと、少し先の緩い坂沿いにある母屋に向かって駆け出した。すぐに雨はサァーっと強くなり冷たい風も吹き始めた。
東屋を出てクタクタの足を引きずりながら歩いていると、雨の中、少し脇道にそれた小道に黒い人影が見えた。笠を被っているし濃い霧雨の中では誰なのかよくわからないが…こちらに近づいて来る。遠目で見ても凛とした美しい歩き姿だ。
すぐ近くまで来ると男は笠を上げこちらを見た、真っすぐな瞳と目が合った…
そう…林臣こと蘇我入鹿だ。
なんて日なのだろう…嘘であってほしい…また彼だ…
一気に気分が沈んだ。
今日一日で二度も会うなんて、ツイてなさすぎると思った。しかも蘇我入鹿と分かったとたん怖気づいたのか足がすくみ動けない。その場で立ちすくむしかなかった。今更、
「これまでの私の無礼をお許し下さい!」
などの命乞いなど出来ない…手遅れだ…しかも疲労とかじかむ寒さで声がでない。彼は私の前に立ち黙ったままずぶ濡れの私を見ている…何も話さない。
彼の手が大きく動き私の顔に向かって伸びた。
ぶ、ぶたれる
瞬時にそう思い目をつむった。すぐに、ズッ、という音がし頭の結髪に何かを挿された。
えっ?…
そして、自分の被っていた笠を外すとポンと雑に私の頭の上に置き黙ったまま去って行った。
何が起こったのか全然わからない…わかる事といえば結い上げた髪に感じる違和感だけだ。
恐る恐る笠を外し頭を触ると何か挿っている。そっと抜いて手に取り見てみると、以前あの山で失くした瑪瑙の髪飾りだった。
こ、これ、あのとき山で落とした髪飾り…何故林臣様が…はっ⁈
石を留めていた金具の部分は一度壊れたらしく綺麗に直され簪となり以前よりも美しく生まれ変わっていた。そして、数か月前、北山に薬草採りに入りイノシシに襲われこの髪飾りを失くした時の出来事を思い出していた。
確かに、あの時イノシシが前方に見えて、間違いなく絶対絶命だった…けど、急に姿が見えなくなり、私たちは逃げる事ができた…冬韻さまの話では、イノシシは人の手により確かに殺されていた…林臣様も同時期に山中で深手を負われた…まさかあの時、林臣様が傍にいた?とか?…
頭の中がパニックだったが、同時に中宮の庭で蹴鞠をした日の事も思い出していた。
あの庭で、大王様の臣下が放った毬を、林臣様が体当たりで止めその場に倒れた…大王様と山代王様は、
「そんなに毬が取りたいか⁉︎若いからといって負けん気が強すぎるぞ、ハッハッハッ!」
と笑ったけど、地べたに倒れた林臣様は黙ったまま腕を押さえていた…でもあの時…思い出した…あの毬…私と中宮様の方に目掛け確かに飛んで来ていた…林臣様が私を助けた?まさかね…きっと偶然…だって蘇我入鹿よ。冷酷非道で無慈悲な男がそんな事はしない…
美しく生まれ変わった瑪瑙の簪を握りしめ雨の中をヨロヨロと歩き出した。当然だが思考は完全停止し動かない。いよいよ雨が激しく降り始めた。重い足取りでなんとか母屋まで辿り着いた。
先に到着していた小彩が竈に必死で火を起こそうとしているが濡れている薪を使っているのか苦戦している。何度か声をかけたが火起こしに必死らしく気が付かない。仕方がないので入り口近くに積まれた藁の山の上に座り外の雨の様子を見ていた。
しばらくするとパチパチと音がし竈に火がついた。小彩はようやく私の存在に気が付いたらしく、
「すいません燈花様、気が付かずにおりました。随分と衣が濡れていらっしゃるのですね!!さあこちらに来て火に当たって下さい」
と言い、小さな切り株を竈の側に置いてくれた。私はそこに座るとすっかり冷たくなった手と足を出し暖を取った。竈の火は勢いよく燃え始め、広い母屋ではあったがすぐに温かくなった。いつの間にか雨は止んだらしい。外を覗いた小彩が空を見上げながら言った。
「燈花様、雨は止みましたがじき真っ暗闇になります。歩いて帰れる距離ではありますが、足元がぬかるんでいるし、万が一水路や川にでも落ちたら大変です。念のため今日はこちらで暖をとり、明日の朝一番で帰りませんか?」
「そうね、その方が安全だわね…」
そう言い終わるやいなや、六鯨を先頭にぞろぞろと橘宮の使用人たちが母屋の中へと入ってきた。雨が止んだタイミングで小さな小屋から移ってきたのだ。
母屋に入りすぐに私達に気が付いた六鯨は飛び上がると今日一日の事を謝罪し、先に火を起こし小屋を温めていたことに大いに感謝した。皆で竈の火を囲み暖を取ったが、流石に真冬の夜は寒さがこたえた。
残りの薪も心もとない感じだし果たして朝まで持つだろうか…そう思っていた時、外からパカッパカッと馬のひずめの音がしギギーっと戸が開いた。
戸の向こうの暗闇から林臣の臣下である|巨勢徳多がひょっこり現れた。
「巨勢様⁉︎」
六鯨が叫んだ。
「六鯨よ、荷と薪を持ってきたから皆で使え」
徳多はそう言うと馬の後ろの荷台に積まれた何枚かのむしろと、酒が入った甕を降ろし始めた。六鯨と使用人達は慌てて起き上がると荷下ろしを手伝った。
「こ、これは?」
六鯨が驚いた表情で酒の甕を抱えながら徳多に尋ねた。
「林臣様の心遣いだ。ありがたく思え、明日も早朝から仕事を始めるからな、飲みすぎるなよ」
「ありがたき、お心遣いに感謝いたします」
六鯨は深々と頭を下げ丁寧に感謝をすると、徳多の姿が見えなくなるまで外で見送った。徳多が去ると皆で荷を母屋の中へと運んだ。
「本当に林臣様からなのでしょうか?」
小彩が疑わしげに小声で六鯨に尋ねた。
「実に珍しい事ではあるが、林臣様の計らいであろう。この酒は嶋宮の屋敷の人間しか飲めぬ高級な酒だ。使用人でさえもおそらく口にすることは滅多になかろう」
甕の蓋を開けると、梅の良い香りが小屋いっぱいに漂った。皆で配られたむしろにくるまり酒を飲み暖を取った。
良いところも、少しはあるのね…腕の怪我は治ったのかしら…
一口飲むと梅の良い香りが全身を包んだ。そしてウトウトとし、いつのまにか寝てしまった。
深い眠りの中で夢を見ている…
山代王様、どうかお聞きいれ下さい!そのような志は捨てて下さい!
燈花よ、許せ、兄上の志しを継いだのだ。必ずや聖君となり、この国を治めてみせる!!
そんな、山代王様…
燈花様、危ない!矢が!
ドサッ…矢が刺さったのだろうか…
『ヒャア!!』
自分の声に驚き目を覚ました。額も手も身体中汗をびっしょりとかいている。
なんなのいったい…嫌な夢を見てしまったわ…喉が乾いた、水が飲みたい…確か外に水飲み場があったわね…
小屋の中を見渡すと、皆すっかり酔って寝静まっている。起こさないように忍び足で歩き戸を開けた。ツーンとした冷たい空気を一気に吸い込んだ。体中の臓器が一瞬で凍りつきそうだ。
あぁ…寒い…見上げた夜空には昼間のような厚い雲はなく、北極星や北斗七星がまばゆいばかりにキラキラと輝いている。
水を飲み終えた時だ、どこからかボロン、ボロンという音が微かに聞こえてきた。こんな夜更けに、いったいなんの音だろうか…それとも私の聞き間違いだろうか…
少し怖かったが、勇気を出して音の鳴る方へと歩き出した。月明りに照らされた桃林は幻想的に青白く光っている。遠くに桃の木の下に座る人影が見えた。足元に置かれた細長い物が月明りに照らされてキラキラと光っている。形はぼんやりとしか見えずわからない。
しばらく立ち止まり様子を見ていると、再び音が鳴り始めた…間違いない琴の音色だ。ボロン…ボロン…冷たい澄んだ空気に溶け込むように琴の音色が優しく静かに響き渡っている。
こんな冬の寒い夜にいったい誰が奏でているのだろうか?美しい旋律だが、どこか寂しげで儚い…胸がきゅっと締め付けられる感じがした。寒さも忘れしばらくその場に立ち、美しい琴の音を聞いていた。
小墾田宮の宮では、、
「中宮様、夜更けに申し訳ありません。まだ起きておいでですか?」
「ん?誰だ」
中宮は眠っていたが、侍女の慌てた口調を察しすぐに床から起き上がった。
「先ほど、星宿台の神官の青昴様が早急に会いたいとやって参りました。見るからに急用のようでございますが、どうされますか?」
「そうか…すぐに支度をして参るゆえ、奥の部屋に案内しなさい」
「はい、承知しました」
「青昴よ、待たせたな」
「中宮様、こちらこそ夜更けに大変申し訳ありません。ですが至急外に出て星の動きを確認して頂きたいのです」
青昴が深刻な眼差しをしかつ震える声で言った。庭は月明りで隅々まで青白く照らされている。
「中宮様、あれをご覧下さい」
そう言うと青昴が東の空を指差した。
「な、なんと…」
見上げた東の夜空に青白く光る彗星が見える。尾は東から西へと長く伸び北斗七星に向かっている。青昴が息をひそめて言った。
「文献によると、あの彗星は古代より過去、現在、未来を結ぶ不思議な力があるそうです。古代人はこの摩訶不思議な力を忌み嫌い、祈祷師を幾人も集め魔除けをしたとあります。私自身この光景を見るまでは半信半疑でしたが、今宵はっきりと北斗星に向かい彗星が現れたということは、中宮様が以前より予知し危惧されていたとおりなのかもしれません。明らかに不吉な予兆です。すぐに、星宿台の者達全員を集め祈祷を始めます。恐らく明日の夜あたりに、一番彗星がこの飛鳥の地に近づくかと…」
「明日の夜にか⁉︎急であるな…わかった…仕方あるまい。悪いがすぐに祈祷を初めておくれ。あと、朝一番に豊浦大臣を連れてきなさい」
「はっ、承知しました」
中宮は部屋に戻るとタンスの奥にしまってあった黄色の絹布にくるまれた小箱を取り出した。もう何年も何年も長いこと開けていない、まるでパンドラの箱だ。蝋燭一本の明かりのもと布をほどき、ゆっくりと小箱の蓋を開けた。
そして箱の中から丸く美しい瑪瑙の石を取り出した。石には橘の実と葉が刻まれている。
そなた、こんなに早くに行ってしまうのか…
取り出した瑪瑙の石をじっと見つめながら中宮は深いため息をついた。
運よく橘宮は新年を迎える宴の準備を任された為、采女から使用人までみなが忙しく働いていた。もちろん私も例外ではない。むしろ忙しく過ごす事で色々と襲ってくる余計な考えなどから気を紛らわす事が出来た。
古代の冬だ、寒いはずである。朝の仕事は火起こしから始まる。パチッパチッという乾いた音がし、囲炉裏に火が灯った。少しだけかじかんだ手を温めたあと部屋の外に出た。吐く息は白くタバコの煙のようだ。今日の天気はまさに冬空で厚い灰色の雲がどんよりと漂っている。今にもはらはらと雪が降り出しそうだ。
寒くて寒くて、何もやる気がおきないわ…山代王様からの連絡もないし…そろそろ会いに来て下さるかしら?あぁ…しばらく馬にも乗ってないわね…
部屋の中へ戻り囲炉裏の火がパチッパチッと勢いよく燃え上がるのを眺めながら、熱い茶を飲み手を温めた。
その頃小墾田宮でも、中宮が庭に立ちどんよりとした冬空を眺めていた。
「誰かいるか?」
「はい」
少し離れた場所で待機していた侍女が言った。
「星宿台の神官、青昴を呼んできなさい」
「承知しました」
侍女は一礼すると急ぎ足で去って行った。
一方橘宮では、一人の男が門の前で大声を張り上げていた。
「誰かおるか!」
男のドスのきいた威勢ある声に驚いた六鯨が慌てて門を開けに来た。
「これは、これは巨勢様。朝からどうしたのでございますか?」
六鯨が恐る恐る尋ねた。
「六鯨、この屋敷の使用人を全て連れて今すぐに桃原墓に参れ」
「今からでございますか?」
「そうだ、明日は馬子様の法要の祭祀が執り行われるが、ほとんどの者が墓の造営にまわっていて人手不足だ。今日は雲行きも悪い。雨が降りだす前に祭祀の準備をすすめるゆえ、ついてまいれ」
「し、しかし、我々も朝廷より新年の準備を任されておりまして…此度の正月は今春の山代王様の婚儀の祝いも含めており、例年にない盛大な宴が催されるそうです。地方からの有力豪族も多数集まるの為、倍の品物を調達しなければなりません、よって…その…私どももここ数日は特に忙しくしておるのです…」
六鯨は尻つぼみに言い終えると、ちらっと徳多の顔色を見てまたうつむいた。徳多は目を見開くと案の定真っ赤な顔をして怒鳴り出した。
「何を戯けたことを申す!大王家一族も朝廷も、我ら蘇我一族の財力があってこそ栄華を誇っているのだぞ!!」
「は、はい、それは重々に承知しておりますが…その…」
おどおどしながら答えたものの珍しく六鯨もひかない。
「えぇい、つべこべ言わずに従え!!豊浦大臣様からの直々のご指示だぞ刃向かうのか?」
「豊浦大臣様!?いえ滅相もありません!…では早急に人を集めて参ります」
「手間をかけさせるな。急ぎ参れ!」
そう声を荒げて言うと徳多はさっと馬にまたがり行ってしまった。
徳多を見送ると六鯨は急いで門をしめ、屋敷の中へと戻った。中庭を歩く小彩に気づくと、大声で叫びながら駆け寄ってきた。
「小彩!小彩!待ってくれ~!」
「六鯨様、随分と朝から顔色が優れぬようですが、いかがされたのですか?」
事情を知らない小彩があっけらかんと尋ねた。
「実は今、巨勢様がいらしてな、桃原墓で急な仕事が入ってしまったのだ…」
六鯨は困った表情をし両手で頭を抱えた。
「しかし、新年の宴の準備をすすめないとこちらも間に合いませんよ」
小彩も困惑気味に答えた。
「わかっている!ゆえに困っているのだ!しかしな、豊浦大臣様のご命令とあらば逆らえぬ。今日は恐らく帰れぬだろう…あとでみなの飯を嶋の庄まで持ってきてくれ。宴の準備は侍女達に任せよう…悪いが漢人を使いに出し小墾田宮に応援を頼んでくれぬか?」
さすがの小彩もオロオロと冷や汗を流す六鯨を見てこれ以上責められないと思ったのだろう、
「それは、構いませんが…はぁ、承知いたしました」
と、素直に従った。
「良かった。頼んだぞ。とりあえず私は急ぎ男達を連れて桃原墓に向かうゆえ」
「お気をつけて下さい」
六鯨は顔を横に振ると頭をボリボリかきながら、小走りで去って行った。
「燈花様、燈花様、いらっしゃいますか?」
小彩が慌てた声で戸を叩いた。
「どうしたの?」
「実は急用が入ってしまい、今日は市には行けそうもありません」
「急用?」
「はい…」
小彩は申し訳ないとう表情をし、六鯨とのやり取りを話し出した。
「そう…では人手が必要ね。私も手伝うわ」
「いえいえ、燈花さまは中宮さまの客人なのに下働きなどお願いできません。私ども采女でなんとかいたします」
「でも、新年を迎える準備だってまだまだ終わっていないでしょう?今年の正月はいつになく盛大に祝うと聞いたわ。手抜かりがあったらそれこそ一大事よ、私も一緒に手伝うわ」
いつも宮の皆に良くしてもらっているので、こんな時こそ微力ではあるが日頃の恩返しも含めて役に立ちたかった。私の熱い思いが伝わったのか、小彩も素直に受け入れてくれた。
「面目ありません、ではお言葉に甘えてお願いいたします」
屋敷に残った人間はみな各々の仕事で精いっぱいで手が離せない。私も袖をたくし上げ小彩と二人で厨房を走り回った。食事が全て出来上がった頃には、昼をだいぶ過ぎていた。
「六鯨様、きっと待ちくたびれているかも…急ぎ嶋の庄まで届けに行って参ります」
小彩が大きな布を広げ荷を包みながら言ったが、かなりの量だ。
「こんなに沢山の荷をあなた一人では運べないでしょう?私も共にゆくから」
私はそう言うと大きな荷をひとつ掴みひょいっと肩から背負った。ずっしりと重い。
「燈花様!…何から何まで申し訳ありません…」
小彩は泣き出しそうな顔をしている。
「良いから、急いで向かいましょう。雨が降りだしそうよ」
見上げた空は朝よりも一段とどんよりと薄暗くなっていた。私たちは大きな荷物を抱え歩き出した。嶋の庄という名前は以前に何度か聞いた事があったが、不思議と今までどこにあるかなどを気にしたことはなかった。でも救援を申し込んできたところを見ると橘宮にほど近い場所にあるのだろう。
東門をくぐり少し下った先に飛鳥川が流れている、川沿いを上流に向かい歩き始めた。緩い上り坂がしばらく続いたあといつの間にか林の中を歩いていた。生い茂る木々の枝には葉こそなかったが均衡な距離を保ち美しかった。よく見てみると全て桃の木だ。この時、この場所が桃原と言われていることが腑に落ちた。
東橘宮の裏に位置するこの付近を訪れるのは今回で二度目だ。一度目はここから更に奥に入り込んだ場所で、小彩と二人で薬草採りに行きイノシシに襲われた山だ。
あの時は散々な目にあったのだ。髪飾りも失くしてしまったし、久しぶりに髪飾りの事を思い出し気分が沈んだ。
更に桃林の中を歩みを進めると、先にきらりと光る水面が見えた。近づいてみるとそれは大きな苑池で正確に測量されているのか綺麗な正方形をしている。中央には中洲が造られていてまるで小さな島が浮いているようだ。
水面には数匹の水鳥が寄り添い羽をブルブルと小刻みに動かし冬空の下この寒さをしのいでいるように見えた。
「ここは?」
息を切らしながら少し前を歩く小彩に尋ねた。
「嶋宮でございます」
ここが嶋宮…さきほどの正四角形の苑池といい、等間隔で植えられている桃林といい広い敷地なのだろうが全てのものがしっかり管理されているようで感心した。
今までは緩い坂を上がってきたが池を過ぎたあたりから今度は急な登り坂へと変わった。
重い荷を包んだ布が肩にくいこみ痛い…。
何度も立ち止まると前方を仰いだが、当然坂の上の景色は見えない。
「燈花様、大丈夫ですか?もう少しですよ、この坂を上がって、その先を少し歩けば…」
小彩が何度も振り返り励ましてくれたが、もう限界だ…足はパンパンだしこれ以上は歩けない…そう思い立ち止まった時、
「燈花様、着きましたよ!」
先を進んでいた小彩が上から叫んだ。
「燈花様、そこでお待ちになって下さい!今、向こうにいる六鯨様を呼んで参ります!」
小彩はその場で荷を下ろすとどこかへ姿を消した。なんとか小彩が荷を下ろした場所まではたどり着かないと、と思い自分に鞭を打ち上へと向かった。荷の傍まで来るとその場に倒れるように転がった。
どんなに深呼吸をしてもなかなか息が整わない。
はぁ、疲れたわ…もう歩けない…
どんよりとした重い雲で重なる冬空を見ながら目を閉じた。ザクッ、ザクッと誰かが近づいてくる足音が聞こえた。
私は起き上がらずに目を閉じたまま尋ねた。
「小彩?六鯨様は見つかった?」
「……」
……おかしい、返事がない。不審に思った私はのそのそと体を起こし顔を上げた。見ると若い少年が無表情のままじっと私を見ている。
そう、この冷淡な顔立ち…林臣太郎だ。私は慌てて立ち上がると、拝礼をした。中宮の庭での蹴鞠以来なので久しぶりの対面だ。若いのにこの威圧的な態度はいったいどこから来るのだろうと、頭を下げながら思った。
「林臣様にご挨拶いたします」
林臣は私の目の前に立つと黙ったまま足元に置かれた荷に視線を落とした。
気まずい…彼がなぜここにいるのかはわからないが、私の事など無視してすぐに去って欲しかった。なぜこんなに一秒一秒が長く感じるのだろう…沈黙に耐えかねて自分から話を振った。
「橘宮の使用人たちがこの辺りで御用勤めをしておりまして、食事を運んできたのです…」
「数日食を抜いたとて、死にはせぬ」
相変わらず冷たい口調だ。そしていつも上から目線なのが鼻につく。人生の八割をきっと損しているに違いない…そんな事を考えながら衣の袖をぎゅっと握りなおし、静かにきっぱりと言った。
「今日は新年を迎える準備で大変多忙な日でしたが、皆こちらの作業を優先する為にやってまいりました」
「当然だ、主従関係があるからな」
林臣は当然のことだろうという風に言うと、ふんっと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「…林臣様が朝廷でどのようなお立場かは存じませんが、主従関係といえども私どもは中宮様、はたまた大王様に忠誠心をもってお仕えする立場にございます」
「…ふん」
林臣は一言放つとその場から去った。彼の遠くなる後ろ姿を確認しほっと胸をなでおろした。しばらくすると小彩が六鯨を連れて戻ってきた。
「燈花様、お待たせしました。この先は六鯨様達が荷を運んでくださりますので、少し休みましょう」
「良かった~」
嬉しさのあまり胸の前で両手をパチパチと叩いた。
「燈花様にまで、ご面倒をおかけしてしまい誠に申し訳ありません。もう少し登った先に東屋がありますのでそちらでお休みください」
六鯨が申し訳なさそうに額の汗を拭きながら言った。もう一度気合を入れ直し、ゆるい登り坂を歩き出した。六鯨の言ったとおり、東屋の屋根らしきものが坂の上に見えた。息を整えながら小彩にさきほどの出来事を話した。
「さっき、林臣様と下ですれ違ったのよ」
「林臣様ですか?お見えになられていたのですね」
「相変わらず、冷たい感じで嫌だったわ」
私が少し嫌味ったらしく言うと、
「シィー燈花様、声が大きいですよ!誰かに聞かれたら大変です」
小彩は口に指をあてしかめっ面をするとキョロキョロと周りに人が居ないかを確認した。林臣様にはいつまでたっても慣れないのか、随分と怯える。”十七、八のただの子どもじゃないの!”と喉まで言葉が出かがったが、私は大人だ。馬鹿な事はしない。
「さ、ここで休みましょう」
突如目の前が開けると東屋全体が見えた。更にその奥には巨大な小山と石の塊が見えた。下半分は土が盛ってあるが、上は平べったい大きな石の表面が剥き出しになっている。
ここって、石舞台古墳じゃないの⁉︎
一瞬で背筋は氷りつき体中が身震いした。この古墳には以前来たことがある。その巨大な石が横たわる圧巻の姿を今もしっかり思い出せる。間違いない、ここは石舞台古墳だ。しかも造営真っ只中の…
「小彩、ここってまさか、蘇我馬子の…」
「ここは昨年亡くなった大臣蘇我シマさまの桃原墓です」
「シマ?」
そういえば文献で読んだ事がある…シマって…確か、蘇我馬子の呼び名よ
「先ほど燈花様が会われた、林臣様の御祖父さまです」
「えっ!?えっっっっ⁉︎」
思わず自分でも驚くほどの悲鳴に近い声を上げ心臓がドクンと強く脈打った。
「そんなに驚くことですか⁈」
「い、いいえ…もちろん驚いてなど…い、いないわ」
一瞬でカラカラになった喉に唾をのみ込みながら答えたが、明らかに動揺しているのは伝わったと思う。嘘であってほしかった、まさか、林臣様が…蘇我入鹿だなんて…あの、極悪非道、残虐無慈悲な冷酷人間の蘇我入鹿…どうしよう…今更情けないが出来ることなら時を巻き戻したい…
「はぁ…」
深いため息がこぼれた。小彩は不思議そうに私を見つめている。両手で顔をふさぎ空を仰いでいるとポツリ、ポツリと冷たいものを感じた。どんよりした薄暗い冬の空から雨が降り出した。
「燈花様、せっかくここまで来ましたがここの東屋では雨風をしのげません。あちらの母屋に移動しましょう」
小彩はほどいた荷を包み直しながら早口で言うと、少し先の緩い坂沿いにある母屋に向かって駆け出した。すぐに雨はサァーっと強くなり冷たい風も吹き始めた。
東屋を出てクタクタの足を引きずりながら歩いていると、雨の中、少し脇道にそれた小道に黒い人影が見えた。笠を被っているし濃い霧雨の中では誰なのかよくわからないが…こちらに近づいて来る。遠目で見ても凛とした美しい歩き姿だ。
すぐ近くまで来ると男は笠を上げこちらを見た、真っすぐな瞳と目が合った…
そう…林臣こと蘇我入鹿だ。
なんて日なのだろう…嘘であってほしい…また彼だ…
一気に気分が沈んだ。
今日一日で二度も会うなんて、ツイてなさすぎると思った。しかも蘇我入鹿と分かったとたん怖気づいたのか足がすくみ動けない。その場で立ちすくむしかなかった。今更、
「これまでの私の無礼をお許し下さい!」
などの命乞いなど出来ない…手遅れだ…しかも疲労とかじかむ寒さで声がでない。彼は私の前に立ち黙ったままずぶ濡れの私を見ている…何も話さない。
彼の手が大きく動き私の顔に向かって伸びた。
ぶ、ぶたれる
瞬時にそう思い目をつむった。すぐに、ズッ、という音がし頭の結髪に何かを挿された。
えっ?…
そして、自分の被っていた笠を外すとポンと雑に私の頭の上に置き黙ったまま去って行った。
何が起こったのか全然わからない…わかる事といえば結い上げた髪に感じる違和感だけだ。
恐る恐る笠を外し頭を触ると何か挿っている。そっと抜いて手に取り見てみると、以前あの山で失くした瑪瑙の髪飾りだった。
こ、これ、あのとき山で落とした髪飾り…何故林臣様が…はっ⁈
石を留めていた金具の部分は一度壊れたらしく綺麗に直され簪となり以前よりも美しく生まれ変わっていた。そして、数か月前、北山に薬草採りに入りイノシシに襲われこの髪飾りを失くした時の出来事を思い出していた。
確かに、あの時イノシシが前方に見えて、間違いなく絶対絶命だった…けど、急に姿が見えなくなり、私たちは逃げる事ができた…冬韻さまの話では、イノシシは人の手により確かに殺されていた…林臣様も同時期に山中で深手を負われた…まさかあの時、林臣様が傍にいた?とか?…
頭の中がパニックだったが、同時に中宮の庭で蹴鞠をした日の事も思い出していた。
あの庭で、大王様の臣下が放った毬を、林臣様が体当たりで止めその場に倒れた…大王様と山代王様は、
「そんなに毬が取りたいか⁉︎若いからといって負けん気が強すぎるぞ、ハッハッハッ!」
と笑ったけど、地べたに倒れた林臣様は黙ったまま腕を押さえていた…でもあの時…思い出した…あの毬…私と中宮様の方に目掛け確かに飛んで来ていた…林臣様が私を助けた?まさかね…きっと偶然…だって蘇我入鹿よ。冷酷非道で無慈悲な男がそんな事はしない…
美しく生まれ変わった瑪瑙の簪を握りしめ雨の中をヨロヨロと歩き出した。当然だが思考は完全停止し動かない。いよいよ雨が激しく降り始めた。重い足取りでなんとか母屋まで辿り着いた。
先に到着していた小彩が竈に必死で火を起こそうとしているが濡れている薪を使っているのか苦戦している。何度か声をかけたが火起こしに必死らしく気が付かない。仕方がないので入り口近くに積まれた藁の山の上に座り外の雨の様子を見ていた。
しばらくするとパチパチと音がし竈に火がついた。小彩はようやく私の存在に気が付いたらしく、
「すいません燈花様、気が付かずにおりました。随分と衣が濡れていらっしゃるのですね!!さあこちらに来て火に当たって下さい」
と言い、小さな切り株を竈の側に置いてくれた。私はそこに座るとすっかり冷たくなった手と足を出し暖を取った。竈の火は勢いよく燃え始め、広い母屋ではあったがすぐに温かくなった。いつの間にか雨は止んだらしい。外を覗いた小彩が空を見上げながら言った。
「燈花様、雨は止みましたがじき真っ暗闇になります。歩いて帰れる距離ではありますが、足元がぬかるんでいるし、万が一水路や川にでも落ちたら大変です。念のため今日はこちらで暖をとり、明日の朝一番で帰りませんか?」
「そうね、その方が安全だわね…」
そう言い終わるやいなや、六鯨を先頭にぞろぞろと橘宮の使用人たちが母屋の中へと入ってきた。雨が止んだタイミングで小さな小屋から移ってきたのだ。
母屋に入りすぐに私達に気が付いた六鯨は飛び上がると今日一日の事を謝罪し、先に火を起こし小屋を温めていたことに大いに感謝した。皆で竈の火を囲み暖を取ったが、流石に真冬の夜は寒さがこたえた。
残りの薪も心もとない感じだし果たして朝まで持つだろうか…そう思っていた時、外からパカッパカッと馬のひずめの音がしギギーっと戸が開いた。
戸の向こうの暗闇から林臣の臣下である|巨勢徳多がひょっこり現れた。
「巨勢様⁉︎」
六鯨が叫んだ。
「六鯨よ、荷と薪を持ってきたから皆で使え」
徳多はそう言うと馬の後ろの荷台に積まれた何枚かのむしろと、酒が入った甕を降ろし始めた。六鯨と使用人達は慌てて起き上がると荷下ろしを手伝った。
「こ、これは?」
六鯨が驚いた表情で酒の甕を抱えながら徳多に尋ねた。
「林臣様の心遣いだ。ありがたく思え、明日も早朝から仕事を始めるからな、飲みすぎるなよ」
「ありがたき、お心遣いに感謝いたします」
六鯨は深々と頭を下げ丁寧に感謝をすると、徳多の姿が見えなくなるまで外で見送った。徳多が去ると皆で荷を母屋の中へと運んだ。
「本当に林臣様からなのでしょうか?」
小彩が疑わしげに小声で六鯨に尋ねた。
「実に珍しい事ではあるが、林臣様の計らいであろう。この酒は嶋宮の屋敷の人間しか飲めぬ高級な酒だ。使用人でさえもおそらく口にすることは滅多になかろう」
甕の蓋を開けると、梅の良い香りが小屋いっぱいに漂った。皆で配られたむしろにくるまり酒を飲み暖を取った。
良いところも、少しはあるのね…腕の怪我は治ったのかしら…
一口飲むと梅の良い香りが全身を包んだ。そしてウトウトとし、いつのまにか寝てしまった。
深い眠りの中で夢を見ている…
山代王様、どうかお聞きいれ下さい!そのような志は捨てて下さい!
燈花よ、許せ、兄上の志しを継いだのだ。必ずや聖君となり、この国を治めてみせる!!
そんな、山代王様…
燈花様、危ない!矢が!
ドサッ…矢が刺さったのだろうか…
『ヒャア!!』
自分の声に驚き目を覚ました。額も手も身体中汗をびっしょりとかいている。
なんなのいったい…嫌な夢を見てしまったわ…喉が乾いた、水が飲みたい…確か外に水飲み場があったわね…
小屋の中を見渡すと、皆すっかり酔って寝静まっている。起こさないように忍び足で歩き戸を開けた。ツーンとした冷たい空気を一気に吸い込んだ。体中の臓器が一瞬で凍りつきそうだ。
あぁ…寒い…見上げた夜空には昼間のような厚い雲はなく、北極星や北斗七星がまばゆいばかりにキラキラと輝いている。
水を飲み終えた時だ、どこからかボロン、ボロンという音が微かに聞こえてきた。こんな夜更けに、いったいなんの音だろうか…それとも私の聞き間違いだろうか…
少し怖かったが、勇気を出して音の鳴る方へと歩き出した。月明りに照らされた桃林は幻想的に青白く光っている。遠くに桃の木の下に座る人影が見えた。足元に置かれた細長い物が月明りに照らされてキラキラと光っている。形はぼんやりとしか見えずわからない。
しばらく立ち止まり様子を見ていると、再び音が鳴り始めた…間違いない琴の音色だ。ボロン…ボロン…冷たい澄んだ空気に溶け込むように琴の音色が優しく静かに響き渡っている。
こんな冬の寒い夜にいったい誰が奏でているのだろうか?美しい旋律だが、どこか寂しげで儚い…胸がきゅっと締め付けられる感じがした。寒さも忘れしばらくその場に立ち、美しい琴の音を聞いていた。
小墾田宮の宮では、、
「中宮様、夜更けに申し訳ありません。まだ起きておいでですか?」
「ん?誰だ」
中宮は眠っていたが、侍女の慌てた口調を察しすぐに床から起き上がった。
「先ほど、星宿台の神官の青昴様が早急に会いたいとやって参りました。見るからに急用のようでございますが、どうされますか?」
「そうか…すぐに支度をして参るゆえ、奥の部屋に案内しなさい」
「はい、承知しました」
「青昴よ、待たせたな」
「中宮様、こちらこそ夜更けに大変申し訳ありません。ですが至急外に出て星の動きを確認して頂きたいのです」
青昴が深刻な眼差しをしかつ震える声で言った。庭は月明りで隅々まで青白く照らされている。
「中宮様、あれをご覧下さい」
そう言うと青昴が東の空を指差した。
「な、なんと…」
見上げた東の夜空に青白く光る彗星が見える。尾は東から西へと長く伸び北斗七星に向かっている。青昴が息をひそめて言った。
「文献によると、あの彗星は古代より過去、現在、未来を結ぶ不思議な力があるそうです。古代人はこの摩訶不思議な力を忌み嫌い、祈祷師を幾人も集め魔除けをしたとあります。私自身この光景を見るまでは半信半疑でしたが、今宵はっきりと北斗星に向かい彗星が現れたということは、中宮様が以前より予知し危惧されていたとおりなのかもしれません。明らかに不吉な予兆です。すぐに、星宿台の者達全員を集め祈祷を始めます。恐らく明日の夜あたりに、一番彗星がこの飛鳥の地に近づくかと…」
「明日の夜にか⁉︎急であるな…わかった…仕方あるまい。悪いがすぐに祈祷を初めておくれ。あと、朝一番に豊浦大臣を連れてきなさい」
「はっ、承知しました」
中宮は部屋に戻るとタンスの奥にしまってあった黄色の絹布にくるまれた小箱を取り出した。もう何年も何年も長いこと開けていない、まるでパンドラの箱だ。蝋燭一本の明かりのもと布をほどき、ゆっくりと小箱の蓋を開けた。
そして箱の中から丸く美しい瑪瑙の石を取り出した。石には橘の実と葉が刻まれている。
そなた、こんなに早くに行ってしまうのか…
取り出した瑪瑙の石をじっと見つめながら中宮は深いため息をついた。
応援ありがとうございます!
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