貴方色に染まる

浅葱

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本編

50.石舫(石船)

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 手前の建物をくぐり、塔に上ったり、山を登ったりした。紅夏ホンシャーと一緒だったせいか山頂まで行ってもそれほど疲れなかった。
 宗教的な建物があったが、そういうものがさっぱりわからない紅児ホンアールはそれほど興味も持たなかった。
 のんびりと回っていたせいかいつのまにか太陽は中点にさしかかっていた。少しおなかがすいてきたかもしれないと思った時、どこからともなく沈が現れて驚いた。

「お楽しみのところたいへん申し訳ありません。昼食の準備が整いましたのでお声掛けに参りました」
「どこだ」

 紅夏の静かな声に沈は頭を下げた。

「少し歩きます。よろしければ輿を用意させていただきます」
「必要ない」
「承知しました。長廊の先にございます、清晏舫チンイエンファンにご用意しました」
「わかった」

 紅夏は場所を聞くと紅児を促した。腕を取られて歩くと、時間もそうかからずに目的地に着いた。移動中景色は飛んでいるように見えるし、着いた時疲れもしないのが不思議だと紅児は思う。

「ここですか?」
「そのようだ」

 紅児は目を丸くした。
 湖の上にあるそれは2階建の船のようだった。だが陸地にくっついているようにも見える。

「これは……」
石舫せきぼうだ」
「石舫?」

 聞いたことのない単語に紅児は首を傾げる。

「石でできた船だ」
「石の船!?」

 そんなものが浮くのだろうか。紅児はまじまじと石舫を見る。
 つい一歩近づき、その石舫に乗るのかと思った途端背中を冷汗が伝った。

(……え?)

 紅夏に腰を抱かれたままもう一歩近づくと胸が早鐘を打つように激しくどきどきするのを感じた。背中を伝う冷汗の量が増える。そしてとうとう体がカタカタと震えだした。

(な、何? なんなの?)

 瞳が潤んでくる。

〈紅児?〉

 頭に直接話しかけられる声に紅児は縋った。

〈紅夏様、紅夏様……なんで……わかんない、わかんない……〉

 腰を抱く腕がきつくなる。
 そして紅夏は何かに気付いたようだった。

〈……そうか。……紅児、あの船は動かぬ。あれは船の形を模しただけの建物だ〉
(動かない……建物……)

 船ではない。
 そう認識した時、冷汗、動悸、体の震えがだんだん治まってきた。
 どれほどの時間が経ったろうか、全てが治まってから紅児はゆっくりと顔を上げた。
 改めて石舫を見る。
 確かにそれは固定されているように見えた。どうやっても水の上で動きそうもない。
 そもそも石の船が水に浮かぶはずはない。

(でもなんで……)

 先程気分がいきなり悪くなったのは何故だろう。今まであんなに急激に体調がおかしくなったことはないように思う。

(思ったより疲れているのかしら……?)

 紅児は首を傾げた。

「こちらの2階にお席をご用意させていただきました」

 いつのまにか沈が近くに来ていた。急いでくるのはたいへんだっただろうに息をきらせている様子もない。
 一流という言葉が頭に浮かんだ。
 案内され、石舫の2階に上がる。
 とても、美しい眺めだった。
 湖に面した清漪園チンイーユエンの内側が一望できる。いくつか島のような物も見えた。

「きれい……」

 思わず呟くと、

「ご希望があれば船で巡ることも可能です。ご用意いたしましょうか」

 沈が心得たように言う。

「それは素敵、です……ね……」

 船に乗る、ということを想像した途端、また背中を冷汗が伝った。だらだらと汗が吹き出し、心の臓がどきどきと激しく脈打つ。体までカタカタと震えだすのを紅夏が受け止めた。

「こうして見ている方がいいだろう。水の上で何かあってはいけない」

 紅児を愛しくてならないというように見ながら紅夏がさらりと言う。

「そのように」

 紅児の異常な様子を見ているだろうに沈は何の反応も示さなかった。余計なことは何も言わず頭を下げる。
 紅夏は湖を見ているような体で紅児の背を優しく撫でていた。

〈船には乗らぬ。後ほど周りを散策しよう〉
〈は、はい……〉

 船に乗らないと聞いて紅児はほっとした。そして紅夏の背を撫でる手の動きに合わせて呼吸をする。
 そうしてどうにか落ち着きを取り戻すと、すでに準備が整っているテーブルにつくよう促された。
 当り前のように紅夏の隣に腰掛けさせられる。湖面がよく見えるように配置された席だった。
 こうして湖を見ているだけでは何も起こらない。つい先程の己の反応は、ただ気分が悪くなっただけとはいえない気がした。

(いったい、どうしたっていうの?)

 今までこんなことはなかったのに。
 隣の椅子に腰掛ける紅夏を窺う。あんなに激しく紅児の体が反応したことなどなんということもないように見えた。
 飲み物を沢山載せた盆を持った給仕の者がやってきた。

「彼女には茶を」
「菊花、龍井、鉄観音、祁門紅キーマンティー香片ジャスミンティーがございますがどれになさいますか」

 紅夏は一瞬眉根を寄せた。そんなに種類があるとは思わなかったようである。紅児もいったい何を言われたのかわからなかった。

「女性には菊花か香片を好まれる方がいらっしゃいます。香りをかいでお決めになっては」

 よどみなく言われて紅児は頷いた。
 お茶葉が入っているらしい小さな入れ物の蓋を開けてもらい一つ一つ香りをかぐ。
 香片は食堂でよく飲んでいるものだった。茉莉花茶という名だったように思うが、香片とも言うらしい。結局花をお茶にする、というのが気になったので菊花茶を入れてもらうことにした。
 すると玻璃ガラスの急須が用意される。紅児は目を丸くした。
 こんなものは見たことがなかった。
 もしかしたら四神宮の茶室にはあるのかもしれないが、足を踏み入れたことがない紅児にとっては未知の物だった。
 菊の花を乾燥させたものがお湯の中でふやける。菊の花は白いのにお茶の色が透明な薄い黄緑色になるのが不思議だった。おそろいの玻璃の茶杯に注がれたものに口をつける。
 ふわり、と菊の香りが口の中に広がる。少しクセがあるようにも思えたがすっきりとして飲みやすい。紅児は思わず笑んだ。
 そうしている間に前菜が運ばれてきた。
 どれもキレイに盛り付けられていて、見たことがないような物もあった。
 それらを紅夏が当り前のように箸で摘み紅児の口元に持ってくる。

「あの……」

 箸を取ろうとする手をやんわり押さえられた。紅児は頬を染める。
 このような場所でも紅夏は紅児に給餌を怠らない。

〈自分で食べたいです……〉
〈だめだ〉

 答えはわかっていても抵抗せずにはいられない。
 給仕する人々がいて、近くには沈もいて。みな知らない人ばかりなのに。
 仕方なく紅児は口を開けた。ぱくりと前菜を食べると、紅夏がとろけるような笑みを浮かべた。
 さっきとは別のどきどきで胸がいっぱいになりそうだった。
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