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第2部 嫁ぎ先を決めろと言われました
78.書は芸術なのです
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趙文英は香子の意図を正しく読み取ってくれたらしく、王英明を通じて皇帝に『”春の大祭”に出席する』旨を伝えてくれたらしい。もちろんその報は皇太后にも届き、香子はまた呼び出される羽目になった。
”春の大祭”というぐらいである。唐が建国してから毎年のように行われてきた祭祀だが、四神が出席したという記録はない。祭祀にどう四神とその花嫁を組み込むか。天壇の神官たちは頭を悩みに悩むこととなった。しかしここで四神や花嫁が満足するような祭祀が行えれば四神の加護が国全体に行き渡るだろうという打算もある。宮廷との兼ね合いもあり、神官と文官たちはほぼ毎日のように意見交換をすることとなった。
そんな大事になっているとは思いもよらない香子は、詳細が決まるまでいつも通り過ごすように言われていた。
(いろいろあるんだろうな)
おそらくただ笑っているだけではいけないのだろうが、香子が難色を示すようなことについては四神が断ってくれるだろう。
そういえば、この国の宗教に当たるものはなんだろうと香子はふと疑問を持った。
儒教が宗教に当たるかどうかわからない。仏教はおそらくないだろう。なによりもこの国には四神がいる。
(四神を祀っている状態が宗教になるのかな?)
おそらくこれは四神に聞いてもわからないだろうと考え、ちょうど今日は張錦飛に書を習う日なので尋ねてみることにした。
張錦飛に習っている書体は楷書である。この書体を唐では公式文書で採用しているらしい。
ただ見たかんじ香子の知っている楷書よりは隷書に近いようだ。
(篆書や草書じゃないだけまし!)
篆書というのは古代に使われていた書体であり、絵に近い。対する草書は楷書や隷書などを速記したものである。英語の筆記体のようなものと香子は解釈している。
うまい人の字はそれ一つ一つが芸術品である。書画とはよく言ったものだ。さらさらとよどみなく書かれる文字に香子はほうっと嘆息した。
『花嫁様、手が止まってますぞ』
張の厳しい声に姿勢を正す。そしてその日も慣れない筆に悪戦苦闘するのだった。
半刻(一時間)ほど書を習い、香子は凝り固まった肩を回すことで少し筋肉をほぐした。こんなことならもっと真面目に書道を習っておけばよかったと毎回香子は思う。そうでなくてもこの国の漢字は日本でいうところの旧字なので画数がやたら多い。
(あーでも、中国でも書は旧字だったかも)
確か清の皇族の末裔という人が書いた書を見たことがある。”龍”という字だった。現在中国は簡体字を使っているので普通に書くとしたら”龙”である。でも書ではきちんと”龍”と書かれていたから、書の世界はやはり旧字なのかもしれない。
『文字を覚えるのでしたら千字文がよろしいでしょうな』
張が持ってきてくれた冊子は張がかつて手習いとして書いたものだったと言うが、少なくとも香子の書く字よりは綺麗だった。
『千字文、というと梁の周興嗣が編纂したというあれですか?』
『さよう。まこと花嫁様の知識には脱帽です。……それでいて何故字は書かかれないのか……』
香子は苦笑した。見るのは好きだが筆で文字を書く習慣はなかったし、と自分に言い訳をする。
千字文というのは中国でいう”いろは”のようなものである。いろはなら四十七字だが漢字だと千字、と思った時点で気が遠くなりそうだ。しかし日本でも小学校卒業までに習う漢字は約千字。漢字しかない国で漢字が読み書きできないのは確かに死活問題かもしれない。
『張老師、ありがとうございます。練習します』
せめて自分の名前ぐらい綺麗に書きたいと香子も思う。千字文の中には残念ながら”香”の字はなかったが”馨”はあった。けれど読み方も意味も微妙に違うのでやはり違う字なのだろう。張にそれを尋ねれば果たして『違います』という答えだった。張から名を書いてもらった紙はあるので時間を作って練習しようと香子は改めて思った。
『ところで、よいようになったそうですな。いい顔をしていらっしゃる』
しみじみと張に言われ、香子はその言葉の意味に思い至った。そういえば前回”春の大祭”に出るか出ないかの話をしていたのだった。
『は、はい……おかげさまで……。その節はありがとうございました』
『ほ、ほ。この年寄としても花嫁様のお役に立てたならなによりじゃわい』
香子はうっすらと頬を染めた。さすがに青龍に抱かれたことまでは知られていないだろうがなんだか落ち着かない。そんなわけで早々に話題の転換を図ることにした。
『あの……ところで張老師に教えていただきたいことがあるのですがよろしいでしょうか?』
『なんなりと』
『”春の大祭”では五穀豊穣を祈ると聞いたのですが、どの神に祈るのでしょう?』
すると張が驚いたような顔をした。どうも微妙な空気である。
『花嫁様、それはまだどなたにもお尋ねされてないのですかな?』
『? はい、ふと思ったもので』
張が嘆息した。どうも背後からの視線が痛いと香子は感じた。
『”春の大祭”は孟章神君(青龍)と陵光神君(朱雀)の祭祀ですぞ』
(……あれ?)
香子は自分がいろいろ勘違いしていたらしいということにやっと気づいた。天壇という場所は皇帝が五穀豊穣を天に祈る為のものである。つまり天壇は本来歴代皇帝の廟なのだ。しかしこちらの世界では違う。天壇はこの世界の神々を祀る場所らしい。
『すいません……元いた場所と混同してました……』
その後張の好奇心を満たす為質問責めに遭い、終わった頃には四神に呼び出されるというオマケがついた。もちろんそのオマケが非常に長くなるのはしかたないことである。
(先に四神に聞いておけばよかった……)
口は災いの元。この世界にきてから何度となく思ったことである。香子はそっと嘆息した。
”春の大祭”というぐらいである。唐が建国してから毎年のように行われてきた祭祀だが、四神が出席したという記録はない。祭祀にどう四神とその花嫁を組み込むか。天壇の神官たちは頭を悩みに悩むこととなった。しかしここで四神や花嫁が満足するような祭祀が行えれば四神の加護が国全体に行き渡るだろうという打算もある。宮廷との兼ね合いもあり、神官と文官たちはほぼ毎日のように意見交換をすることとなった。
そんな大事になっているとは思いもよらない香子は、詳細が決まるまでいつも通り過ごすように言われていた。
(いろいろあるんだろうな)
おそらくただ笑っているだけではいけないのだろうが、香子が難色を示すようなことについては四神が断ってくれるだろう。
そういえば、この国の宗教に当たるものはなんだろうと香子はふと疑問を持った。
儒教が宗教に当たるかどうかわからない。仏教はおそらくないだろう。なによりもこの国には四神がいる。
(四神を祀っている状態が宗教になるのかな?)
おそらくこれは四神に聞いてもわからないだろうと考え、ちょうど今日は張錦飛に書を習う日なので尋ねてみることにした。
張錦飛に習っている書体は楷書である。この書体を唐では公式文書で採用しているらしい。
ただ見たかんじ香子の知っている楷書よりは隷書に近いようだ。
(篆書や草書じゃないだけまし!)
篆書というのは古代に使われていた書体であり、絵に近い。対する草書は楷書や隷書などを速記したものである。英語の筆記体のようなものと香子は解釈している。
うまい人の字はそれ一つ一つが芸術品である。書画とはよく言ったものだ。さらさらとよどみなく書かれる文字に香子はほうっと嘆息した。
『花嫁様、手が止まってますぞ』
張の厳しい声に姿勢を正す。そしてその日も慣れない筆に悪戦苦闘するのだった。
半刻(一時間)ほど書を習い、香子は凝り固まった肩を回すことで少し筋肉をほぐした。こんなことならもっと真面目に書道を習っておけばよかったと毎回香子は思う。そうでなくてもこの国の漢字は日本でいうところの旧字なので画数がやたら多い。
(あーでも、中国でも書は旧字だったかも)
確か清の皇族の末裔という人が書いた書を見たことがある。”龍”という字だった。現在中国は簡体字を使っているので普通に書くとしたら”龙”である。でも書ではきちんと”龍”と書かれていたから、書の世界はやはり旧字なのかもしれない。
『文字を覚えるのでしたら千字文がよろしいでしょうな』
張が持ってきてくれた冊子は張がかつて手習いとして書いたものだったと言うが、少なくとも香子の書く字よりは綺麗だった。
『千字文、というと梁の周興嗣が編纂したというあれですか?』
『さよう。まこと花嫁様の知識には脱帽です。……それでいて何故字は書かかれないのか……』
香子は苦笑した。見るのは好きだが筆で文字を書く習慣はなかったし、と自分に言い訳をする。
千字文というのは中国でいう”いろは”のようなものである。いろはなら四十七字だが漢字だと千字、と思った時点で気が遠くなりそうだ。しかし日本でも小学校卒業までに習う漢字は約千字。漢字しかない国で漢字が読み書きできないのは確かに死活問題かもしれない。
『張老師、ありがとうございます。練習します』
せめて自分の名前ぐらい綺麗に書きたいと香子も思う。千字文の中には残念ながら”香”の字はなかったが”馨”はあった。けれど読み方も意味も微妙に違うのでやはり違う字なのだろう。張にそれを尋ねれば果たして『違います』という答えだった。張から名を書いてもらった紙はあるので時間を作って練習しようと香子は改めて思った。
『ところで、よいようになったそうですな。いい顔をしていらっしゃる』
しみじみと張に言われ、香子はその言葉の意味に思い至った。そういえば前回”春の大祭”に出るか出ないかの話をしていたのだった。
『は、はい……おかげさまで……。その節はありがとうございました』
『ほ、ほ。この年寄としても花嫁様のお役に立てたならなによりじゃわい』
香子はうっすらと頬を染めた。さすがに青龍に抱かれたことまでは知られていないだろうがなんだか落ち着かない。そんなわけで早々に話題の転換を図ることにした。
『あの……ところで張老師に教えていただきたいことがあるのですがよろしいでしょうか?』
『なんなりと』
『”春の大祭”では五穀豊穣を祈ると聞いたのですが、どの神に祈るのでしょう?』
すると張が驚いたような顔をした。どうも微妙な空気である。
『花嫁様、それはまだどなたにもお尋ねされてないのですかな?』
『? はい、ふと思ったもので』
張が嘆息した。どうも背後からの視線が痛いと香子は感じた。
『”春の大祭”は孟章神君(青龍)と陵光神君(朱雀)の祭祀ですぞ』
(……あれ?)
香子は自分がいろいろ勘違いしていたらしいということにやっと気づいた。天壇という場所は皇帝が五穀豊穣を天に祈る為のものである。つまり天壇は本来歴代皇帝の廟なのだ。しかしこちらの世界では違う。天壇はこの世界の神々を祀る場所らしい。
『すいません……元いた場所と混同してました……』
その後張の好奇心を満たす為質問責めに遭い、終わった頃には四神に呼び出されるというオマケがついた。もちろんそのオマケが非常に長くなるのはしかたないことである。
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