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第2部 嫁ぎ先を決めろと言われました

60.それは青天の霹靂です

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『花嫁殿がしなければならぬことは他にあるのではないのかえ?』


 香子はとっさに返事ができなかった。
 そんなことは誰かに言われなくても香子自身がよくわかっている。
 香子は目を伏せた。そうしなければ皇太后を睨みつけてしまいそうだった。この場で言ってはならないことを言ってしまいそうだった。
 小刻みに震える手から、お茶の入った蓋碗を取られ、そっとテーブルの上に置かれる。そして守るように抱きしめられた。体温の高い体から与えられる熱に、香子は少しだけほっとする。思ったよりも身体が冷えてしまっていたようだった。

江緑ジャンリー

 香子の頭上からテナーが響く。

『そなたも四神の花嫁についてよく知らぬようだな』

 静かだが怒りを内包した声音に香子は肩を竦めた。ぶわっと溢れるように建物内を充満した威圧感に、恐ろしさと同時に頼もしさも覚える。

(随分遠くへきたものだわ……)

 ほだされている自覚はある。己が召喚された原因に縋るしかないという状態。
 そんなことを考えて現実逃避する。
 けれど皇太后の反応は意外だった。

『……ほ……差し出がましいことを申しました。どうかお許しを』
『皇后といい……二度目はないぞ。朱雀兄、戻りましょう』

 白虎が唸る。朱雀に腕を撫でられ香子は頷こうとしたが、少し気になることがあって顔を上げた。

香子シャンズ?』
『……あの……皇族ってどれぐらい四神や四神の花嫁について理解しているものなんでしょう?』

 皇帝はある程度知っていて当然だが、皇后や皇太后、そして皇太子たちはどうなのだろうと香子は疑問に思ったのだ。皇女に関してはいずれ降嫁するので知らなくても仕方がない。昭正公主のようにちょっかいをかけてくるのは論外だが。
 四神はこの国の守護。
 なのにその花嫁である香子への対応がどうしても解せない。
 皇太后の目が細められる。そして、

『お開きじゃ。花嫁殿とちと話がある故、そなたたちは戻られよ』

 優雅な所作で席を立った。
 皇后はなにか言いたそうだったが、黙って席を立つ。みな一度席を立ち、部屋を出た。
 皇后と徳妃たちは通り一遍の挨拶をすると慈寧宮を後にした。彼女たちの姿が見えなくなると門が閉められる。内密な話なのだなと香子は朱雀の腕の中で居住まいをただした。

『こちらへ』

 案内されたのは更に奥のこぢんまりとした部屋だった。そこが皇太后のプライベートスペースなのだろう。
 小ぶりの圓卓丸テーブルに、先ほどと同じく皇太后の左横に朱雀(香子付き)、右横に白虎が腰掛ける。延夕玲は今度は腰掛けず朱雀の後ろに控えた。侍女がお茶と茶菓子を運んでくる。卓のセッティングがされると皇太后は人払いをした。
 ぞろぞろ……という表現が正しく思えるほど侍女や女官が部屋を出て行き扉が閉められた。

『……誰もいなくなったかえ?』

 皇太后が呟くように言うと、

『大丈夫だ』

 と白虎が応えた。これで部屋の中にいるのは皇太后と夕玲を除いて四神関係者のみとなった。

(それでもけっこうな数だけど……)

 香子が遠い目をしそうになった時、皇太后が香子に向き直った。

『花嫁様』
『? は、はい……』

 聞き慣れない響きに香子も急いで居住まいをただした。

『図々しいことは重々承知しております。数々のご無礼、どうかお許しください』

 そう言うと皇太后は深く頭を下げた。
 後方に控えていた夕玲は目を見開き、黒月もまた眉をピクリと動かす。

(え?)
『あ、え、あのっ……顔を上げてください!』

 これはまさに青天の霹靂と言えよう。香子は慌てて皇太后に手を伸ばした。

『江緑、顔を上げよ』

 白虎は苦笑したようだった。皇太后はゆっくりと顔を上げたが、その表情はひどく硬い。
 その様子に、香子は今までの皇太后の態度が演技だったのだということを悟った。

(まぁ……"老佛爷ラオフオイエ"とまで呼ばれている方が本気で愚かな言動をしているとは思わなかったけど)

 おそらく香子の反応を見ていたのだろうが、そこまでしてリスクを冒す必要があったのかは疑問である。

『あの……老佛爷は何故あのような危険なことを?』

 もし四神の花嫁が本気で皇太后の言動に腹を立てていたらどういうことが起こるのか。それを皇太后本人がわからないはずはないのである。

(皇后は全くわかってなかったみたいだけど……)

 それはそれで頭が痛いが、香子が今考えることではないと頭を切り替える。
 皇太后は口元に笑みを浮かべた。

『……聡明な花嫁様には全て御見通しでしたか』
『いえ……私のような若輩者ではとても老佛爷の意図までは見抜けません。ですが、”四神の花嫁”に皇太后ともあろう方が尊大に振る舞われるのは奇異に感じました』

 素直に答えると、皇太后は声を上げて笑った。

『ほほ……花嫁様は正直でいらっしゃる。確かに妾は花嫁様を試すような真似をしました。誠に申し訳ありません』

 皇太后は言い訳をしなかった。しかしその理由も話す気はないらしい。

(なんとなく想像はつくけど……)

『……老佛爷のお考えあってのことでしょうから今までのことは咎めませんが、まさか本当に夕玲を白虎様の妾にすることなどは……』
『それはありえませぬ』

 皇太后はきっぱりと答えた。香子は内心ほっとする。こればかりはいくら白虎に”おあずけ”をさせている状態でも許容できることではない。

『ならばかまいません。ですが、いずれ理由をお聞かせ願いたいとは思います』
『はい、すぐにとはお約束はできませぬがいずれ』

 とりあえず皇太后が敵ではなかったというのは僥倖だろう。香子はぐったりと朱雀に身をもたせかけた。他にもいろいろ聞きたいことはあるが、今はもう四神宮に戻りたくてしかたない。

『江緑、そなたの侍女や皇后についてはどうするのだ』

 白虎は鋭い眼差しを皇太后に向けた。それに動じることなく皇太后はにっこりと笑む。

『その件につきましてはのぅ、妾が花嫁様の不興を買ったということにして抑えましょうぞ』
『え』
『それではまるで香子が悪いようではないか』

 白虎が唸る。香子は目を白黒させた。

『四神宮には手を出させませぬ。春の大祭の準備が始まる頃までにはおとなしくさせましょう』
『その言葉、違えるでないぞ』
『必ず』

 皇太后の返事を合図に朱雀と白虎が席を立つ。

『夕玲は今宵こちらで預かります』
『あ、はい。お願いします』

 上からではあったが香子は皇太后に頭を下げた。皇太后が満面の笑みを浮かべる。

『落ち着きましたら改めて茶会にお誘いします』
『……はい』

 どうやら香子は皇太后に気に入られてしまったらしい。理由はわからないが、ギスギスした関係よりはずっといいと思うことにした。


『先に戻る』

 建物から出ると、朱雀と白虎はそう言ってその場から消えた。一瞬で変わった景色に香子はきょろきょろする。この空間移動というやつは何度されても慣れることはない。

(そう頻繁でもないけど……)
『玄武兄もお待ちしていることだろう。湯を使うぞ』
『え』

 朱雀に抱かれたまま、香子が浴室に連れ込まれたのは言うまでもない。
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