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第1部 四神と結婚しろと言われました
41.隣の国なのにけっこう違うんです
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体が浮き上がるような感覚に香子は目覚めた。ぼんやりと顔を上げると、黒い布地が見えた。玄武のようだった。どうやらうたた寝していたようだった。
『起きたか。寝るならば床に運ぶが如何する?』
起き抜けのふわふわとした感覚の中、頭上から降ってくるバリトンに香子は身を震わせた。声フェチなわけではないが顔も声もいいなんて反則だ。
『いえ……起きます』
このまま床に下ろされても穏やかに眠れそうもない。疲れていることは疲れているのでいくらでも眠れそうな気もするのだが、そうすると夜眠れなくなる。
(バッグどうしようかなぁ……)
抱き上げられている状態だと視界が高い位置にある為卓の上にあるバッグの残骸がよく見えた。侍女に後で針と糸を貸してもらおうかと思っていると、死角から滑らかな手が伸びてきて中日辞典を手に取った。そしてぱらぱらとめくり、感嘆して言った。
『随分小さな文字だな。しかも紙も薄い。よくできているが、これが辞書なのか?』
耳に柔らかく届くテナーは朱雀のもの。
『ええ、中国語から日本語に訳す辞書です。わからない単語はこれで大体引けます』
『日本語、というのがそなたの母国語であったな』
玄武の言葉に頷く。
『この国の人間でないと言われればそうなのかもしれぬとも思うが、言われなければわからぬほどそなたは流暢に話すな』
香子はにっこりした。そう言われるととても嬉しい。
とはいえ今後は日本語自体を話す機会がないというのも切ないものである。ダメ元で聞いてみることにする。
『あの……四神は私が日本語で話しても理解できるんでしょうか?』
玄武と朱雀が顔を見合わせる。
『聞いてみないことにはなんともいえぬな。茶室に白虎と青龍がいる。移動してもよいか?』
誠実な答えに香子は頷いた。
抱き上げられたまま移動するのは本当に慣れない。部屋の外では紅夏と黒月が控えていて、待たせたと思うだけでもいたたまれなかった。
(堂々としていればいいのかなぁ……)
庭園に行けることになったらさすがに下ろしてもらおうと香子は思った。
茶室では白虎と青龍が眷族に茶を入れさせて待っていた。侍女は一人もいない。
『香子、茶を入れてくれぬか? 白雲の入れた茶はどうもまずくてな』
白虎に気軽に声をかけられて香子は苦笑した。
『いいですけど……人にお茶を入れてもらってその言い方はあんまりだと思います』
自分が言われたら確実にキれる、と白虎を睨むと白雲が笑んだ。
『花嫁様はお優しくていらっしゃる』
『白虎兄……』
青龍が呆れたように声をかけるのに白虎は苦笑した。
『そうだな、悪かった』
こういう屈託のなさはある意味魅力だろう。
香子は玄武に下ろしてもらうと、さっそくお湯の準備をしてもらうことにした。朱雀は興味深そうに香子の辞書に目を通している。
『この文字は似ているが、漢字なのか?』
話しかけられて見てみると、どうも簡体字が不思議らしい。
(あー……)
『漢字を簡略化したものです。この国で使われてる文字って、繁雑で画数が多いですよね?』
香子はそう言いながら紙と書く物がないか辺りを見回し、掛け軸を見つけた。掛け軸にかかった文字を見て、この国で使われている文字が旧字(繁体字)であることを確認する。
『ええとですね……元の世界にある中国、という国は国土が広く人口も多いのです。そこで文字の統一が行われていたはずですが……この国にも秦の時代ってありました?』
『ああ、短かい間だったがこの国土を統一したのが政という者であったな』
それに香子は頷いた。
『言うまでもないことですが、秦の始皇帝である政が文字やいろんなものを統一しました。けれど漢字は画数が多く繁雑で、農民は文字を書けない、読めない者、いわゆる文盲が近年まで多かったのです』
『ふむ……』
『現在の中国ではその文盲をなくすため、一九六〇年代、ええと今から約四十年ほど前に文字改革を行い、その辞書に使われている簡体字や簡化字を作ったのです』
『ほほう……』
四神だけでなくその眷族たちもなるほど、という表情をした。
お湯を持ってきた侍女も思わずその話には聞き入り、終ったと思ったところでそそくさと茶室を出て行った。
『ではこちらで使われている漢字を使っている者はもういないのか?』
青龍の問いに香子は首を振った。
『いいえ、一部ではまだ繁体字を使っているところもあります。けれども中国全体、私たちは大陸と呼んでいましたが、大陸では簡体字が一般的です』
『文盲をなくすためか……それはなかなかいい発想だな』
四神もこの話には興味を引かれたようだった。
『そなたの国でも漢字を使っていると聞いたが、それはどちらなのだ?』
『日本で使われている漢字は、繁体字を基本とした新字体と呼ばれる独自のものです。その他に漢字から派生したカタカナ、ひらがなという文字もあり、また他の国から入ってきたローマ字も使っています』
『それは随分と面白い』
香子はお茶を入れながら四神の質問に答えていく。
『漢字を使っていると言うことは音はどうなのだ? 文法は?』
『発音も文法も日本語と中国語では全く異なります。中国語の音は日本語の音よりもはるかに多いので一番難しいのはこの発音と言われています』
それに白雲がため息をつくように呟いた。
『花嫁様は、随分と努力されたのですね』
その科白に香子は泣きそうになった。自分の選んだ道ではあったが、できて当たり前と言われるのはやはりつらい。けれど香子は笑った。
『勉強、すごく楽しかったですよ? こちらでも歴史書とか小説とか読みたいです』
それに四神も笑みを浮かべる。
香子が自分たちの花嫁でよかったと心から思った。
『起きたか。寝るならば床に運ぶが如何する?』
起き抜けのふわふわとした感覚の中、頭上から降ってくるバリトンに香子は身を震わせた。声フェチなわけではないが顔も声もいいなんて反則だ。
『いえ……起きます』
このまま床に下ろされても穏やかに眠れそうもない。疲れていることは疲れているのでいくらでも眠れそうな気もするのだが、そうすると夜眠れなくなる。
(バッグどうしようかなぁ……)
抱き上げられている状態だと視界が高い位置にある為卓の上にあるバッグの残骸がよく見えた。侍女に後で針と糸を貸してもらおうかと思っていると、死角から滑らかな手が伸びてきて中日辞典を手に取った。そしてぱらぱらとめくり、感嘆して言った。
『随分小さな文字だな。しかも紙も薄い。よくできているが、これが辞書なのか?』
耳に柔らかく届くテナーは朱雀のもの。
『ええ、中国語から日本語に訳す辞書です。わからない単語はこれで大体引けます』
『日本語、というのがそなたの母国語であったな』
玄武の言葉に頷く。
『この国の人間でないと言われればそうなのかもしれぬとも思うが、言われなければわからぬほどそなたは流暢に話すな』
香子はにっこりした。そう言われるととても嬉しい。
とはいえ今後は日本語自体を話す機会がないというのも切ないものである。ダメ元で聞いてみることにする。
『あの……四神は私が日本語で話しても理解できるんでしょうか?』
玄武と朱雀が顔を見合わせる。
『聞いてみないことにはなんともいえぬな。茶室に白虎と青龍がいる。移動してもよいか?』
誠実な答えに香子は頷いた。
抱き上げられたまま移動するのは本当に慣れない。部屋の外では紅夏と黒月が控えていて、待たせたと思うだけでもいたたまれなかった。
(堂々としていればいいのかなぁ……)
庭園に行けることになったらさすがに下ろしてもらおうと香子は思った。
茶室では白虎と青龍が眷族に茶を入れさせて待っていた。侍女は一人もいない。
『香子、茶を入れてくれぬか? 白雲の入れた茶はどうもまずくてな』
白虎に気軽に声をかけられて香子は苦笑した。
『いいですけど……人にお茶を入れてもらってその言い方はあんまりだと思います』
自分が言われたら確実にキれる、と白虎を睨むと白雲が笑んだ。
『花嫁様はお優しくていらっしゃる』
『白虎兄……』
青龍が呆れたように声をかけるのに白虎は苦笑した。
『そうだな、悪かった』
こういう屈託のなさはある意味魅力だろう。
香子は玄武に下ろしてもらうと、さっそくお湯の準備をしてもらうことにした。朱雀は興味深そうに香子の辞書に目を通している。
『この文字は似ているが、漢字なのか?』
話しかけられて見てみると、どうも簡体字が不思議らしい。
(あー……)
『漢字を簡略化したものです。この国で使われてる文字って、繁雑で画数が多いですよね?』
香子はそう言いながら紙と書く物がないか辺りを見回し、掛け軸を見つけた。掛け軸にかかった文字を見て、この国で使われている文字が旧字(繁体字)であることを確認する。
『ええとですね……元の世界にある中国、という国は国土が広く人口も多いのです。そこで文字の統一が行われていたはずですが……この国にも秦の時代ってありました?』
『ああ、短かい間だったがこの国土を統一したのが政という者であったな』
それに香子は頷いた。
『言うまでもないことですが、秦の始皇帝である政が文字やいろんなものを統一しました。けれど漢字は画数が多く繁雑で、農民は文字を書けない、読めない者、いわゆる文盲が近年まで多かったのです』
『ふむ……』
『現在の中国ではその文盲をなくすため、一九六〇年代、ええと今から約四十年ほど前に文字改革を行い、その辞書に使われている簡体字や簡化字を作ったのです』
『ほほう……』
四神だけでなくその眷族たちもなるほど、という表情をした。
お湯を持ってきた侍女も思わずその話には聞き入り、終ったと思ったところでそそくさと茶室を出て行った。
『ではこちらで使われている漢字を使っている者はもういないのか?』
青龍の問いに香子は首を振った。
『いいえ、一部ではまだ繁体字を使っているところもあります。けれども中国全体、私たちは大陸と呼んでいましたが、大陸では簡体字が一般的です』
『文盲をなくすためか……それはなかなかいい発想だな』
四神もこの話には興味を引かれたようだった。
『そなたの国でも漢字を使っていると聞いたが、それはどちらなのだ?』
『日本で使われている漢字は、繁体字を基本とした新字体と呼ばれる独自のものです。その他に漢字から派生したカタカナ、ひらがなという文字もあり、また他の国から入ってきたローマ字も使っています』
『それは随分と面白い』
香子はお茶を入れながら四神の質問に答えていく。
『漢字を使っていると言うことは音はどうなのだ? 文法は?』
『発音も文法も日本語と中国語では全く異なります。中国語の音は日本語の音よりもはるかに多いので一番難しいのはこの発音と言われています』
それに白雲がため息をつくように呟いた。
『花嫁様は、随分と努力されたのですね』
その科白に香子は泣きそうになった。自分の選んだ道ではあったが、できて当たり前と言われるのはやはりつらい。けれど香子は笑った。
『勉強、すごく楽しかったですよ? こちらでも歴史書とか小説とか読みたいです』
それに四神も笑みを浮かべる。
香子が自分たちの花嫁でよかったと心から思った。
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