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第2部 嫁ぎ先を決めろと言われました
140.悩みは海よりも深いのです
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食品を扱う商人たちの騒ぎは瞬く間に沈静化した。やはり四神の花嫁を怒らせたというのが大きいだろう。
香子は春の大祭を除いて王城から出たことはないが、花嫁の寸法だという衣類が高値で売られていたのを衣類の適正価格にしたり、孤児院等に寄付をしたりと市井では評判がいい。本当か嘘か知らないがえばっていた四神の神官長を挿げ替えたり、また春の大祭の際には朱雀と青龍が王都の上を飛んだりしたことで、四神の花嫁は偉大な女性だと劇が作られたりもした。
四神の花嫁は不正を許さない正義の人のような立ち位置である。そしてそういう単純化された英雄は人気を得やすい。
大祭の時前門で手を振った花嫁の姿は小さくてみなはっきりとは見えなかったが、同じ暗紫紅色の髪をした朱雀に抱かれていた姿が、たおやかな美女のように民衆には映ったらしい。大祭後絵師の目に映った(ほぼ妄想に近い)香子の絵姿が飛ぶように売れたがもちろんそんなことを香子は知らない。
陽射しが強く、夏だなと香子が思うぐらいで四神宮はいつも通りだった。
その日、香子は青龍に付き合ってもらい書の練習をしていた。墨を擦るところから始め、張錦飛の書いた千字文をお手本にしながら丁寧に字を書いていく。三、四日に一度のペースで張が来てはくれているが、その時だけ練習しても意味がないと香子は思っていた。継続は力なりである。
『そこはもっと力を入れよ。細くなっておるぞ』
『はい』
青龍に注意されながら意味の繋がる四文字を何度も何度も書いていく。
千字文というのは重複しない千の漢字を使って作られた文章である。これを全てキレイに書くことができれば香子も自分で手紙などを認めることができるかもしれない。そんなことを香子は考えているが、実際は自分で手紙を書くなどということはできないだろう。身分の高い女性は自分でそういったものを書くことはしないものである。
(自己満足だってのはわかってるんだけどねー)
香子の筆で書いた文字がひどいのは確かである。
(自分の名前ぐらい美しく書けないと……)
それだけでなく全ての文字を安定して美しく書けたら喜ばしいと思うのだ。
それにしても千字文の文章は素晴らしい。習字の手本である初学(ある学問を初めて学ぶ、学問というものに初めて接すること)の教科書に使われているだけのことはある。四字を一句として二百五十句の四言古詩の形で作られたこの文章は神話や歴史、歴史上の人物、生活や人としてのあり方などが書かれている。
四言古詩の形なので内容を読み解くのは難しいが、それを四神に学ぶのもまた香子の喜びだった。
『海鹹河淡(海は塩辛く、川は淡白である)……鹹の字は特に難しいですね』
『そうだな。あまり書くことはないだろうが』
『口にする言葉ではありますよね』
食べ物が塩辛いでも『鹹』と言う。この千字文をまとめたのは六朝時代の梁の周興嗣という人である。六朝というのは三国時代の呉を始めとした東晋、宋、斉、梁、陳の六王朝をいう。日本では奈良時代に入る前にこのような素晴らしい文章ができていたと思うと感慨深い。
(それより前に諸子百家自体が紀元前に起こってるんだもんなぁ)
歴史などしっかり学ぼうと思うと人の一生など短いのではないかと香子は思う。
「あっ!」
『香子、如何した?』
張に書を習うのもそうだが、先々代の花嫁について張が何か知らないかと香子は考えた。だが先代の花嫁が降臨したのが元の時代である。その前というとどれぐらい前なのか香子には想像もつかなかった。
『青龍さまは私の前の花嫁から産まれたのですよね』
『そうだ』
『そのまた以前の花嫁について何か知っていることはありますか?』
『ふむ』
青龍は少し眉を寄せ、考えるような顔をした。
『……以前の花嫁について何が知りたい』
『んー……記録があるなら見せてもらえればとも思ったんですけど、先代はともかくそれ以前の花嫁はどうやって最初の夫を決めたのかなって』
気になったらもう書どころではない。しかたないので片付けることにした。道具を片付け終えてお茶を淹れる。さすがに墨の匂いがするので窓は全て開けた。
『もし……そなたの悩みが深いのならばまず玄武兄に嫁ぐといい。玄武兄だけでは嫌だというならば我らが通おう』
『そんな……』
そんな不誠実なことが許されるわけがないと香子は口唇を震わせた。
『香子、急ぐことはない。そなたが誰に嫁しようと我らの想いは変わらぬ。そうさな、かつては四神全てをほぼ同時に受け入れていた花嫁もいたと聞く』
『そ、それはなんか、聞いたことがあります、けど……』
香子は赤くなった。四神全員となんて、もうそれこそ後ろから前からたいへんなのではないだろうか。いくら体力を回復してもらえるとはいえ、精神が焼き切れそうである。
『そなたも、そうしてみるか?』
至近距離で、清流を思わせる涼やかな声に甘く囁かれ、香子は泣きそうになった。
『む、むむむ無理です~~~~!!』
それで青龍が許してくれるはずもなく、香子は昼から青龍に全身を愛でられたのだった。体力がもたないので最後まではされていないが、精神が焼き切れそうである。まともな相談相手がいないことが悔やまれる。
(誰かいないのー?)
香子の悩みは深い。
香子は春の大祭を除いて王城から出たことはないが、花嫁の寸法だという衣類が高値で売られていたのを衣類の適正価格にしたり、孤児院等に寄付をしたりと市井では評判がいい。本当か嘘か知らないがえばっていた四神の神官長を挿げ替えたり、また春の大祭の際には朱雀と青龍が王都の上を飛んだりしたことで、四神の花嫁は偉大な女性だと劇が作られたりもした。
四神の花嫁は不正を許さない正義の人のような立ち位置である。そしてそういう単純化された英雄は人気を得やすい。
大祭の時前門で手を振った花嫁の姿は小さくてみなはっきりとは見えなかったが、同じ暗紫紅色の髪をした朱雀に抱かれていた姿が、たおやかな美女のように民衆には映ったらしい。大祭後絵師の目に映った(ほぼ妄想に近い)香子の絵姿が飛ぶように売れたがもちろんそんなことを香子は知らない。
陽射しが強く、夏だなと香子が思うぐらいで四神宮はいつも通りだった。
その日、香子は青龍に付き合ってもらい書の練習をしていた。墨を擦るところから始め、張錦飛の書いた千字文をお手本にしながら丁寧に字を書いていく。三、四日に一度のペースで張が来てはくれているが、その時だけ練習しても意味がないと香子は思っていた。継続は力なりである。
『そこはもっと力を入れよ。細くなっておるぞ』
『はい』
青龍に注意されながら意味の繋がる四文字を何度も何度も書いていく。
千字文というのは重複しない千の漢字を使って作られた文章である。これを全てキレイに書くことができれば香子も自分で手紙などを認めることができるかもしれない。そんなことを香子は考えているが、実際は自分で手紙を書くなどということはできないだろう。身分の高い女性は自分でそういったものを書くことはしないものである。
(自己満足だってのはわかってるんだけどねー)
香子の筆で書いた文字がひどいのは確かである。
(自分の名前ぐらい美しく書けないと……)
それだけでなく全ての文字を安定して美しく書けたら喜ばしいと思うのだ。
それにしても千字文の文章は素晴らしい。習字の手本である初学(ある学問を初めて学ぶ、学問というものに初めて接すること)の教科書に使われているだけのことはある。四字を一句として二百五十句の四言古詩の形で作られたこの文章は神話や歴史、歴史上の人物、生活や人としてのあり方などが書かれている。
四言古詩の形なので内容を読み解くのは難しいが、それを四神に学ぶのもまた香子の喜びだった。
『海鹹河淡(海は塩辛く、川は淡白である)……鹹の字は特に難しいですね』
『そうだな。あまり書くことはないだろうが』
『口にする言葉ではありますよね』
食べ物が塩辛いでも『鹹』と言う。この千字文をまとめたのは六朝時代の梁の周興嗣という人である。六朝というのは三国時代の呉を始めとした東晋、宋、斉、梁、陳の六王朝をいう。日本では奈良時代に入る前にこのような素晴らしい文章ができていたと思うと感慨深い。
(それより前に諸子百家自体が紀元前に起こってるんだもんなぁ)
歴史などしっかり学ぼうと思うと人の一生など短いのではないかと香子は思う。
「あっ!」
『香子、如何した?』
張に書を習うのもそうだが、先々代の花嫁について張が何か知らないかと香子は考えた。だが先代の花嫁が降臨したのが元の時代である。その前というとどれぐらい前なのか香子には想像もつかなかった。
『青龍さまは私の前の花嫁から産まれたのですよね』
『そうだ』
『そのまた以前の花嫁について何か知っていることはありますか?』
『ふむ』
青龍は少し眉を寄せ、考えるような顔をした。
『……以前の花嫁について何が知りたい』
『んー……記録があるなら見せてもらえればとも思ったんですけど、先代はともかくそれ以前の花嫁はどうやって最初の夫を決めたのかなって』
気になったらもう書どころではない。しかたないので片付けることにした。道具を片付け終えてお茶を淹れる。さすがに墨の匂いがするので窓は全て開けた。
『もし……そなたの悩みが深いのならばまず玄武兄に嫁ぐといい。玄武兄だけでは嫌だというならば我らが通おう』
『そんな……』
そんな不誠実なことが許されるわけがないと香子は口唇を震わせた。
『香子、急ぐことはない。そなたが誰に嫁しようと我らの想いは変わらぬ。そうさな、かつては四神全てをほぼ同時に受け入れていた花嫁もいたと聞く』
『そ、それはなんか、聞いたことがあります、けど……』
香子は赤くなった。四神全員となんて、もうそれこそ後ろから前からたいへんなのではないだろうか。いくら体力を回復してもらえるとはいえ、精神が焼き切れそうである。
『そなたも、そうしてみるか?』
至近距離で、清流を思わせる涼やかな声に甘く囁かれ、香子は泣きそうになった。
『む、むむむ無理です~~~~!!』
それで青龍が許してくれるはずもなく、香子は昼から青龍に全身を愛でられたのだった。体力がもたないので最後まではされていないが、精神が焼き切れそうである。まともな相談相手がいないことが悔やまれる。
(誰かいないのー?)
香子の悩みは深い。
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