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第2部 嫁ぎ先を決めろと言われました

138.価格には相応の理由があるものです

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 北京の夏は長い。日本と違い梅雨がない分ずっと夏が続く。
 四神宮の中はいつもちょうどいい気候なので忘れがちだが、庭に出るとその陽射しの強さから今がとても暑い季節なのだということがわかる。気温や風の通りはよくても陽射しでやられてしまう為、その日香子は書を学んだ後張錦飛をそのまま茶室でもてなした。
 窓を全て開けさせることで換気をし、墨の独特な匂いを飛ばす。侍女たちが茶室を整える間、香子は彼女たちの邪魔をしないように張と日陰で話をしていた。

張老師ジャンラオシー、本日のお茶は特別ですよ。期待してくださいね』
『ほほう。そう伺うとどれほどいいお茶なのか考えてしまいますな』
『絶対損はさせません!』

 香子は笑顔で意気込んで言う。そんな香子を張は微笑ましくみやった。
 

 つい先日のこと。
 香子は皇太后に招かれて慈寧宮を訪れていた。その日香子を抱き上げて共に向かったのは玄武だった。皇太后からのご指名である。

老佛爷ラオフオイエ、この度は……』
『花嫁さま、この老人にそのような堅苦しい挨拶はなしじゃ』

 わざわざ皇太后、皇后共に出てきての歓待である。何が起きたのかと香子は内心首を傾げた。慈寧宮に足を踏み入れると珍しく大きな茶壷からお茶を振舞われた。

(今日は蓋碗は使わないんだ?)

 ちょっとした違和感である。

『花嫁さまはお茶に詳しくていらっしゃる』
『え? ええ、まぁ……多少は嗜んでおりますが』

 なんの話だろうと香子はいぶかしげな顔をした。ちなみに振舞われたお茶は緑茶である。皇太后は落ち着かないように目を泳がすと、声を潜めた。

『実はの……これから商人が参るのじゃ』
『はあ……』

 四神宮には一切入れないようにしているが、商人が来るのは珍しいことではない。広げられた商品を買う、買わないはこちらの自由である。ただ大概の場合は何かしら買うのが礼儀であるらしい。

『その商人はの、雲南から茶葉を仕入れてきたのだという。普洱(プーアル)茶とかなんとか申しておったが、それがどうなのか妾には判断がつかぬのじゃ。故に花嫁さまに味わっていただいてから返事をしようと思うての』
『そうなのですか』

 皇后の方を窺うと皇后もまた頷いた。確かに緑茶であれば多少判断はできるかもしれないが普洱茶については無理かもしれない。物流には大運河が利用されてはいるが、あまり北方には出回っていないようである。

『おいしいお茶だといいですね』
『そうじゃのう』

 そんな風に話をしていると商人が来たらしい。商人のイメージとは違い、すっきりとした体格の男性が従者に大量の荷物を抱えさせてやってきた。

『叩見執明神君、叩見老佛爷……』(執明神君:玄武のこと)
『免礼』(かまわぬ)

 皇太后が商人の長々と続きそうな挨拶を遮った。

『謝老佛爷!』(皇太后、ありがとうございます)

 本来は全て言わせてから返す言葉ではあるが、皇太后も面倒くさかったのだろうと香子は思った。

『長口上はいらぬ。茶に関しては白香娘娘バイシャンニャンニャンが詳しい。飲ませてみよ』
『承知いたしました。では淹れながら説明をさせていただきます』

 商人は心得たように、広いテーブルに茶器を用意しはじめた。
 まず三種類の茶葉が用意され、香りを嗅ぐよう示された。皇太后、皇后、玄武の後に香子が嗅ぐ。茶葉の色味も全く違い、最初の葉はまるで緑茶のようだった。最後の黒くかたまっているように見える茶葉はもう香りもしない。
『こちら、色の薄い茶葉から順に十年未満の生茶、十年物、二十年物でございます』
 普洱茶というのは黒茶と呼ばれる発酵茶である。一般的に流通しているのは人工的に発酵を促された熟茶と呼ばれるものだが、この商人が持ってきたのは経年により熟成させる生茶だった。
 なので熟成させる期間が短い最初のお茶は緑茶のような味わいで、渋みも強い。
 商人の説明を聞きながらようやっと淹れてもらったお茶を飲む。茶の色も全然違っていた。

『薄い、ですね。まるで普洱茶ではないみたいです』
『はい。経年によって熟成していきますので、時間が短いものほど緑茶に近いです』
『ほほう』

 皇太后が十年未満のお茶を飲んで、難しそうな顔をした。どうやら好みではなかったらしい。

『価格に限らず、こういうものは好みですので。飲んでいただいてお好みのものがあればいいのですが』

 商人の言葉に内心頷く。香子も順番にゆっくりと飲み、色も香りも香子がよく見かける黒っぽい二十年物を飲んだ時、信じられないような顔になった。

『……えええええ~~』
『如何ですか』

 商人はにんまりとしている。
 やられた! と香子は思った。
 二十年物は今まで味わったどんなお茶とも異なっていた。すっきりとした飲み口で、全く渋味がない。口の中で転がしてもかつて飲んだことのある普洱茶とは違う。そしてそれがコクリと喉を通った時、ふわりと鼻を通る香りが普洱茶であることを香子に伝えた。

『……おいしい』
『それはよかった』

 すっきりとしているのに確固とした味があり、けれど全然胃に負担を与えない。正直香子はそのお茶がほしいと思った。
 けれど。

(絶対これ、法外に高いやつだ!)

 今まで数限りなくお茶を飲んできた香子の味覚が警告する。

『確かに味わい深い。それなりの価格はするようじゃな』
『はい。雲南の希少な葉を使用して作っている茶葉ですので』

 皇太后が香子を見た。やはり相当高いらしい。香子はだらだらと冷汗をかいた。

香子シャンズ、如何した?』

 玄武に声をかけられてはっとする。そして玄武の腕にそっと触れた。心話で話す。

《多分これ、すごく高いお茶です》
《そうなのか。欲しいのならば……》
《欲しいですけど……でもそんな贅沢は……》

江緑ジャンリー。香子はこの茶葉がほしいそうだ』(江緑:皇太后の名前)

 話している途中だというのに玄武は皇太后に話しかけた。

『ほほう。花嫁さまがほしがるほどの茶ですか。では購入いたしましょうぞ』
『えええ!? いえ、でもこれすっごく高いですよね? さすがに……』

 何を言うのかと玄武を睨み、香子は慌てた。しかしそれに対する皇太后は笑顔であった。

『ほほ。妾からの贈物を断わると花嫁さまはおっしゃられる?』
『え!? いえ、そ、そんな、ことは……』
『ではよろしかろう。せっかく花嫁さまが褒めたお茶じゃ。茶の淹れ方などもしっかり教わるのじゃぞ』
『承知いたしました』

 女官や侍女が礼を取る。商人は満面の笑みを浮かべ、その後皇太后と香子を大絶賛した。もちろん皇后や玄武を立てるのも忘れない。さすが王宮に顔を出している商人だなと香子は感心した。ある意味現実逃避である。
 どうも茶葉は餅茶ビンチャーと呼ばれる円形に平べったく固めた物で、それを何枚か一度に購入するという形だった。餅茶の状態で保管しておけばそのまま熟成が進み更においしくなる。なんと皇太后はそれを7枚も購入し、1枚を自分に、1枚を皇后に、そして5枚を香子に贈ったのだった。

『こ、こここんなすごい贈物をいただくわけには……』
『ほう? 花嫁さまは妾からの贈物は受け取れないと?』
『いえいえいえいえ……』

 だらだらと冷汗を流しながらも受け取った茶葉で淹れたお茶は、とんでもなくおいしくて思わず恍惚としてしまうほどだった。ちなみに四神もいいものだとはわかったようだが、香子ほどの思い入れはないので香子が淹れれば普通に飲んでいる。

(おいしいけど……価格も妥当だとは思うけど……これ、こちらに来てなかったら絶対に手に入らないお茶だなぁ……)

 しみじみとそう思いながら、張が来た時に振舞おうと香子は笑顔になる。
 張の反応は香子が想像した通りで、香子はひどく満足したのだった。



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脱線回です。先日質のいいプーアル茶を飲ませてもらったので香子にも飲ませてみました(笑)
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