混沌の宿縁

名もなき哲学者

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歪章

歪みの音(下)

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歪みの音(下)

 シンは小屋から出て去っていく砦の兵士を確認すると、木を降りて水路を覗きこんだ。水の流れは緩やかに走り、水嵩も低く浅くなっている。5メートルほどあった水路の窪みは人が歩ける幅の岸壁が剥き出しとなり、岸壁に沿って地下道に繋がる通路が見えていた。 
 程なくしてリュウキとシェリカがやって来る。辺りは暗みがかり、日は暮れはじめていた。蝉の音はいつしか、草むらにいる虫の音に変わり、小さな飛び虫が群をなして水辺を散策していた。

 リュウキ、シェリカ、シンは岸壁に繋がる梯子を見つけてつたって降りると足元に気を付けながら、ゆっくりと歩いた。路面が濡れているため、滑りやすくなっている。水の流れは弱くなっているとはいえ、水路に落ちたらやはり危険だ。
 シンは砂を巻きながら先頭に立って歩き始めた。その後をリュウキ、シェリカが続く。鉄格子のそばに来ると、シンは念入りにパイプを調べた。この水路の岸壁は中まで道が繋がっている、だとすればおそらく…

「中に繋っているのかしら?」
「たぶんな…」

 シンは鍵穴の見える錠前を見つける。ご丁寧に鍵も掛かっている。シンは懐を探り、白い鍵を取り出し穴に差し込み解錠し入口を開けた。

「鉄格子が開いたわ」
「シン、お前、解錠なんてこんな早く出来たっけ?」

 シンは指先でつまんでいる白い鍵をリュウキたちに見せた。

「鍵?いつの間に…どこで?」

「実はおれも驚いているのよ、すげぇな"ホビットの細工術"ってよ」シンはにやりと笑って見せる。



ーー「シン、これを持ってきなさいな!」

 シンはルザリィが放った"モノ"を受け止めると、先端が複雑に型どられた白い鍵に目を丸くさせ、小さなルザリィに顔を向けた。

「鍵?どこの鍵だ?」
「あんた鍵の掛かった錠前を解錠出来る?」
「ピックと針金さえあればできねえことはないぜ」
「バッカじゃないあんた、そんなの時間かかるし確実にできるものじゃないじゃない、そんなので解錠するなんて効率悪いわよ」
「おれは盗賊じゃねえんだ、それに人様のものを勝手に開けたりするのは嫌いなんだよ」

 シンの言葉を聞きルザリィはハァーと溜め息を吐く。…あんたって本当にくそ真面目ね、そんなでよく隠密術に長けると言われるわね…

「…まあいいわ、とにかくその鍵持っていきなさいな、ホビット族のルザリィ様が造った特注の鍵よ、あんたから貰ったサーベルバットの牙を細工したものよ、それがあれば大概の錠は開けられるわ」
「本当かよ、ウソくせーな、鍵穴の構造もわからねえのに、どうしてそう言い切れんだよ」
「ホビット族の細工術を嘗めないでよ、人間の造った構造なんてアタシたちからすれば"子供だまし"みたいな物よ。…まあ、その鍵持っておきなさい、きっと役に立つと思うから」

 自信満々にルザリィは小さな胸を張った。ー



 シンはルザリィから貰った白い鍵を見つめ、大切に懐にしまいこんだ。確かにこの鍵は凄い、まさかこうも簡単に錠前が開くとは…話を聞いた時は眉唾ものだったが、実際使ってみて、改めてホビット族の細工術の凄さを知った。…生意気だが、なかなかやるじゃねえか、あの姐さん。

「シン…!」
「ああ、中に入ろうぜ、外も暗くなって来やがった、水路周辺は危険だ、安全なとこを見つけて移動しねえと」

 ただでさえこの場所は滑りやすく危険な箇所だ、さらに闇に溶けてしまえば歩くのもままならない。
 チョロチョロと水の流れが聞こえ、中はひんやりとしていた。高い段差のある通りを見つけ、三人はそこに続く梯子を上って、用心深く周辺を窺った。不気味なくらい周りはしんと静まりかえっている。

「誰もいねえな」
「逆に好都合だ、シェリカ、シルフィの位置を探れるか?」

 リュウキに言われずともシェリカは絆を通してすでにシルフィの居場所を探っていた、だが奇妙なことに魂の力がぼやけて、うまく位置が掴みきれない、どういうこと?あのコの体が衰弱しているから?いや、何か違う、絆の力そのものが"薄い"感じがする。

「シェリカ?」
「わかってるわ…!少し静かにしてくれる」

 苛立ちながらシェリカはもう一度神経を集中させる。シルフィの絆の魂は確かにそこにある、だがぼやけていて、何か違和感を感じる。外にいた時ははっきり感じ取れていたのだが、今はなぜか絆の魂が感じづらい。
 疑問に思いつつも、シェリカはシルフィの居場所を割り出した。この場所よりひとつ上の階層から彼女の魂をうっすらとだが感じられる。

「上か…」
「だとすれば、この地下から上に繋がる階段か、通路があるはずだ」とリュウキ。
「暗いな、明かりが必要だぜ」

 シンはサーベルバットの牙を取り出し、油紙を巻きつけるとライターを取り出し、火を着けて簡易の松明で明かりを灯した。

「シン…それは?」
「ああ"こいつ"か?ハーマンが街に買い出しの時に手に入れた、異国の珍しい簡単に火が出る道具だ、確か名前は…」
「ライターか」
「おう、それそれ…ってお前この道具知ってんのか?」
「えっ、あ、ああ。昔、見たことがあったんだ」

 不意に道具の名前が出た。これはおそらく自分の記憶にはない、"もう一人の自分"の記憶だ。

「ハーマンが"オレには必要ねえ"って、おれにくれたんだよ、結構便利だぜ、この"ライター"つぅ火を出す道具」
「それは、そうだろな…」

 リュウキ自身は使用したことはないが、ライターがこの世界では便利であることがわかっている。ぼやけて感じる麻宮龍輝の記憶がリュウキ=インストーにはあった。
 そんな二人の会話を尻目にシェリカは先へ進んだ。

「こっちよ、シルフィたちはこの先にある階段を上った通路の方にいるわ」
「おい、まてよ、周りは真っ暗だ、むやみやたらと歩くのは危ねえぞ」

 シンは松明を翳して光を届ける。

「心配は無用よ、エルフは夜目も効くからこの程度の暗闇はどうってことないわ」

 素っ気なくシェリカは答える。

「…たく、よくわかんねえなエルフって種族は」
「なにか言った?」

 立ち止まりシェリカは振り向いてシン睨み付ける。慌ててシンは口を押さえる。そう言えばこいつらエルフって耳もいいんだっけな…

「急ぐ気持ちはわかるが、この先、何があるか危険だ、あまりにも静かすぎる」
「静か?そうでもないわよ、シルフィたちがいる、さらに上の階層では"正義の信徒"の歌声が聞こえているわよ」
「何…!」
「まさか…」

 リュウキたち人間の耳には聞こえてこないが、エルフであるシェリカの尖った耳にはしっかりと聞こえていた。

 …正義の信徒がなぜこの砦に?リュウキは考えるが、彼らが来ているとなると、あまりいい状況ではないかも知れない。

「急いだ方がよくって、正義の信徒がここに来るかも知れないわよ」

シェリカは階段を見つけ、そそくさと上って行った。

「シン」
「お、おう…」

 シンは松明を照らしシェリカの後を追って、石造りの苔つく湿り気のある段差を踏んだ
 上った先ではシェリカが周囲を窺い。動きを止めて、視野を広げていた。ぽつぽつと壁に差し込んである薪が見えるが、通廊は暗く、手入れの行き届いていない。石床のタイルが剥がれている箇所もあり、何の水滴がわからない音とカビ臭いにおいがした。
 
「この場所が砦地下の上の階層か…」

 伝った壁には鉄格子で覆われた部屋がいくつもある。この階層のどこかにヒューたちがいるのだろうか?
 シンは真っ暗で見えない目の前の牢獄の部屋を鉄格子ごしに松明を照らし、入り口に手を掛けた。錆びついてびくともしない。ずいぶん古い時代からある牢獄のようだ。

「この辺の牢獄にはシルフィたちはいないわ、感じるのはもっと先の方よ」
「わかるのか?」
「ええ。ついて来て」

 シェリカは周りの牢獄には目もくれず、先へと進んで行く。途中、幾つもの通路があり、そのたびに足を止め、道を見定めながら選んだ道…シルフィの絆が感じる方向へ足を進めた。進んだ先の終着点には自分の背丈の2倍はある大きな鉄扉が聳え固く閉ざされていた。

「…どうやらこの区域は普通の牢獄とは別の隔離された牢獄のようだな」

 シェリカの隣に来たリュウキは扉を見上げる。

「この先の区画にシルフィが捕まっている牢獄があると思うわ…ここまで来て」

 シェリカは行き止まりの扉に下唇を噛む。あと少しなのに…
 リュウキは試しに扉を押して見るがぴくりとも動かない。やはり無理か…

「こうなったら、強行突破しかないわ」

 シェリカは魔気エネルギーを手に宿らせた。これぐらいの扉、魔法の力をもってすれば破壊することなどわけない。砦の兵士に気付かれるかも知れないが、おとなしく引き下がる訳にはいかない。

「まあ、待てよ魔法を使う前にひとつ確認だ」

 シンは脇から入り、扉表面を調べた。もし、この扉に鍵穴でもあれば、ルザリィから貰った白い鍵が使えるかも知れない。
 シンは少しひんやりとした鉄扉に触れて、松明の明かりを当てて注意深く表面の構造を見た。調べると取っ手近くに小さな鍵穴らしきものが見えた。彼は白い鍵を手に取り、穴に鍵を入れて表面に耳に当てながら、ゆっくりと鍵を回転させた。カチリと音が聞こえ、シンは少し身を引いて、取っ手を掴んだ。

「開いたのか?」
「さあな…でも、ストッパーらしきものが外れる音はしたぜ」

 …あとは姐さんの作った鍵の力を信じるのみだ。

 シンは取っ手を引くと鈍い音が響き、微かに扉が開いた。重い。少し錆びついているのか簡単には開かない。

「リュウキ、手を貸せ、結構、重いぜこいつ」
「ああ…」

 開いた隙間に手を入れ、リュウキも力を貸す。扉を開けるとその先には長い通路が伸びていた。先と同じ、罪人を収容する牢獄の区域だが、雰囲気は明らかにに違う。薄暗いが一定の感覚で松明があって光が行き届いており、周囲の壁もまだ新しく感じられた。
 地響きのような低い歌声が唸り声のように上の階層から聞こえている。ヘドが出るような"くそ"な歌。

「正義の信徒、シェリカの言った通り、この砦に来ているようだな」
「ちっ…何で奴らがこの砦に」
「…!」シェリカは絆の反応を感じ取り「こっちよ!」と声を走らせた。


 
"悪を穿つ正義の刃、我らはジャスティスの導き手、正義の信徒の名の元に、正義の信徒の名の元に"

 壁を突き破って聞こえてくる、くぐもった声の歌声に、ヒューは頭がおかしくなりそうだった。正義の信徒がこの砦にいる、なぜ、奴らがこの砦に…。耳を押さえても響き渡る低い声、どうやったらこんな声が出るんだ。やはり正義の信徒は異常だ。普通じゃない。

「…地獄の亡者の叫び、行き場を失って絶望の果てに入り込んでしまった狂人たちの嘆きの声にわたくしは聞こえます」

 壁にもたれてうっすらと目を開けるシルフィは言った。

「シルフィ…気が付いたんだね」
 
「…三狂士とはまた違う、もうひとつの"狂"。精神崩壊によって産み出された彼らは可哀想な被害者なのです。三狂士の"狂"とはまた別物、彼らの声には意志がありません」
「シルフィ…君は一体何を言ってるの?」

 目覚めた途端、唐突に話を切り出したシルフィの告白にヒューは戸惑いを隠せない。彼女は静かに呼吸し"生命の鼓動"を感じ取っていた。

「わたくしの古い記憶の中に"三狂士伝説"が浮かびました、不老不死の力をもつ呪われた聖騎士、圧倒的な破壊で世界を蹂躙する狂戦士、神に戦いを挑み神を殺した戦士、神殺し、彼らが現れる時、世界は滅ぶ…」
「シルフィ、もう少し休んでいていいよ、君は疲れている」

 意味不明な言動を発したシルフィの言葉を気にしつつ、ヒューは落ちつかない様子で唇を噛んだ。突然そんな話をするなんて、シルフィ、君はどうしちゃったんだ?

 正義の信徒の歌声が異様に響く、この歌声のせいで彼女はおかしくなっちゃったのか?
シ=ケンはリュウキたちが助けに来ると言っていた、でも疑念を感じる、本当に助けは来るのか?なぜ、彼はすぐに助けにこない?様々な憶測が飛び交い、ヒューの思考は歪んだ。なぜ?なぜ?押し問答のように自分自身を問いかけた。なぜ、僕がこんな目に…!なぜなら自分が弱いから…弱いから彼女をこんな目に…違う!僕だって好きで弱いわけないじゃない、なぜなら…

「大丈夫ですわ…エスがもうすぐ来てくれます」

 不安を覗かせるヒューを見て、シルフィは天使のような笑顔でにこりとした。


「こっちよ…!」

 足早にブーツの音を鳴らして身に付けている外套を押さえ、シェリカは走る。壁にもたれて座り込んでいるシルフィを見つけて、すぐに掛け寄った。

「エス…」
「シルフィ…よかった無事で…」
 
 シェリカは身を寄せて、シルフィの肩に触れる、ふと布地を表面で巻いている彼女が下に何も身に付けていないこと気付き、シェリカのカーチフに隠れた尖った耳が垂れた。

「シルフィ…何てこと…酷い目にあったのね」

 シェリカが両腕で優しくシルフィの身体を包み込む、あのどろどろした悪寒の正体…彼女の身に何が起こっていたのか、シェリカはすぐに悟った。

「エス…。エスの身体、暖かい…」
「何を言ってるの?それは今、アタシが走って来たからよ」
「…大人になったね、エス…」

 シルフィは悪戯っぽく笑う。

「シルフィ…。バカ、アタシだっていつまで子供じゃないわ」

 シルフィは悠久の時を生きる精霊の化身だ、エルフのシェリカよりずっと長い時を生きている。今さら何よと言いたげに彼女は少し恥ずかしさが込み上げた。

「君は…」
「無事か、ヒュー」

 ヒューがシェリカを見ると続けて、リュウキが姿を現した。
 物静かな佇まいで、外套を身に纏い剣を携帯した姿で、彼はヒューのそばに近づいた。

「…リュウキ、やっぱり砦に来てたのは君だったんだね」
「ああ」と返事するとリュウキは周囲を見渡した。

 薄汚れたかび臭い壁、何もない変哲な牢獄だが、リュウキは奇妙な違和感を覚えた、ヒューの足首に付けられた足枷、彼が連行される時に見た、面妖な腕輪が外れている、床には細かな粒子の砂が床に落ちている。鉄格子の錠が外れていたこと自体おかしく感じていたが、ともあれ彼が無事だったことには感謝した。

「ここへ来たのはシェリカと君だけ?」
「いや…もうひとりシンも一緒だ」

 遅ればせながらシンも姿を現した。シンは息を弾ませ、難しい顔をしながら静かな足取りで歩み寄った。

「やっぱりなんか変だぜ、この界隈、巡回している兵士らしき奴らが見たらねえ」
「やはり、そうか」
「シン、君も」
「おう、無事だったかヒュー、今、足枷外してやるよ」

 シンは白い鍵を得意げに取り出し、ヒューの足首についた重石の鎖の錠を外した。

「そっちの姉ちゃんのも外してやるよ」
「…鍵を貸して、アタシが外すわ」

 シンから鍵を受け取ると、シェリカはシルフィの足枷を解いた。そして自分の覆っている外套を外し、シルフィの身体を巻きつけ、彼女をいたわるように肩を抱いて立ち上がった。外套を外したシェリカは丈の短いスカートと膝上まである白いニーハイソックスを履き、深緑のチュニックを着ていた。腰元にぐるぐる巻きにされた鞭が見え、彼女は軽装姿でシルフィを支えていた。

「エス、わたくしは大丈夫ですわ」
「外套を取っちゃだめよ、シルフィ、ここには"野蛮な男たち"もいるから」

 刺つく声でシェリカは言った。

「野蛮な男たちって、おれたちのことかよ…」とシンは憮然とする。
 
ヒューはその事に関しては否定は出来なかった。その"野蛮な行為"を彼は目の当たりに、無理やり見せつけられたのだ。"自分だけが知っている"シルフィが汚される様を…

「…リュウキ、君はだいぶん前に、この砦に到着していたと、聞いたけど…」声を殺してヒューが呟く。
「聞いた?誰に」
「君がここへ来る前、"治療士の人"が来てそう言ったんだ、その時、僕もシルフィも酷い有り様で、その人が傷いていた僕を助けてくれたんだ」

 ヒューは敢えて"フロイアの治療士シ=ケン"の名を避けた。フロイアはA.J.F連合国家の一角だ、妙な勘繰りはされたくなかった。

「その話は事実だ、正面突破は難しく、他の侵入経路を見つけて中に入る必要があった、だが、見つけた経路には"タイミング"が必要だった、より確実で安全な方法を取るために」
「そう…リュウキらしいね、でもそのタイミングが来る間に僕たちが殺されていたかも知れないよ」
「それはない」
「なぜ?」
「もし、サンの兵士がお前を殺すつもりであったら、捕らえた瞬間にお前を殺していたはずだ、だが、お前たちは殺されず砦に連れてかれた、それは何か意図があってのこと、砦に到着した時もそれほど騒ぐことなく大きな動きもなかった、だからオレはすぐに処刑されることはないと踏んだ、より安全で確実な方法で助けにいける、チャンスはあるとオレは考えた」
「…君はいつも冷静だね、どんな状況でも感情に左右されず的確な動きをする、その心は僕も見習いたいよ」

 ヒューは皮肉を交えて感服する。そしてその判断は外れることはない。同じ年に生まれたのに、どうしてこうも自分とは違うのだ。ヒューは少し悔しい思いを感じた。

「…だが、そうのんびりもしてられないようだな、この正義の信徒の異様な歌声、砦内で何か異変が起きているような感じがする」
「正義の信徒は、僕たちを連行しに来たんだ」
「なに…!」
「砦の領主は僕たちを正義の信徒に明け渡すためにこの砦に彼らを呼んだんだ、僕たちの処分を彼らに任せるために…」
「なるほど、それが"意図"か」
「てことは、早えぇここを離れたほうがいいぜ、正義の信徒がここに来るかも知れねえ」

 しゃがみ込んでいたシンは言った。

「立てるかヒュー、手を貸そう」

 リュウキは座ったままのヒューに手を差し出す。ヒューは差し出されたリュウキの手をじっと見つめ、その手に触れることなく自らの足で立ち上がった。

「…大丈夫だよ、ひとりで立てるから」
「…そうか」

 視線を落として立ち上がるヒューを見て、リュウキは言った。その時、リュウキの脳裏に何かが迸った。浮かんだのは十代の若い少年だった。角ばった顔の少し太めの体格をした少年。その少年はすれ違い様に自分を一瞥し、横を通り過ぎて行った。

 …これは、これはオレの記憶ではない、もうひとりの龍輝の記憶か?

 とても重要なメッセージを伝えているような気がする。またひとつ、彼の頭にある言葉が浮かび上がった。

 …宿縁とはどのような次元、時代であっても必ず出会う縁…たとえ姿、形が変わっていたとしても…

「で、どうするよ?」

 シンの声に反応し、僅かに滲み出た動揺を隠すとリュウキは顔を横へ向けた。そこにはシェリカが緑の瞳で自分をじっと見つめ観察している様子が目に映った。
 リュウキは平静を装い、シェリカの視線には気にしないよう言葉を濁した。

「ヒューを救出した今、ここにいる理由はない、すぐに脱出する」

 砦の様子も気になるところだが、今はまず脱出することが先決だ。

「その前に僕の所持品を取り戻さなきゃ、牢番に剣と服を取られているんだ」

 ヒューは今、半裸の丸腰状態であった。傷は消えているが、一刻前は牢番たちに暴行され、身も心もぼろぼろにされた。シ=ケンが来なかったら、今頃は嘆き悲しみ、傷の痛みに呻いていただろう。

「牢番たちはどこに?」
「あの階段を上った先にいると思う。治療士の人がここへ来る前、薬で眠らせたと言ってたから、すぐ取り戻せると思う」
「わかった。シン、すまないが少し待っていてくれないか?オレはヒューと共に所持品を取り戻してくる」
「おう、わかった」とシン。リュウキはシェリカの方なも目を向けるが、シェリカはシルフィの隣で腕を組み、早くしてよねと言わんばかりに顔をそっぽ向けた。

 二人は静かに階段を上り、上の階層につくと凹凸のある壁に隠れ、注意深く通廊を確認した、誰もいない。だが、相変わらず正義の信徒の歌声だけが響き渡っている。二人は部屋の明かりがついている牢番のいる部屋に素早く近づくと開けっ放しになっているドアの隙間から中の様子をかすみ見た。
 ヒューを痛めつけていた三人の牢番はいびきをかいて眠っている。酒らしきものが入っていたと思われるコップがテーブルの上で転がり、頭頂部を剃り上げた牢番のひとりザクスが長い腰掛け椅子に仰向けとなって片手を腹に添えて、足を放り出している。
 黒い眼帯をした逆毛立つ髪のデンシモは床の上で寝そべり、刺青のデニスはベットに上体を預けてうつ伏せに眠っていた。
 部屋の中は蒸し暑いせいか、三人は上半身、裸となって眠っていた。
 テーブルの上に置いてあった自分の持ち物を取ると、ヒューは静かな足取りで眠っている三人を盗み見た。
 長椅子の上で眠っているザクスはズボンの裾を膝まで捲りあげ、大きく股を開いていびきをかいている。ヒューは手に預けたショートソードを強く握り、殺気のこもった視線で睨んだ。眠り薬を食らってこの男は前後不覚。シルフィを汚した"その股ぐら"に剣を突き立ててやろうか…。憎悪に似た感情が沸き上がる。視界が歪み、押さえきれないほど感情が高ぶった。ヒューが柄に手をかけた時、部屋の外からリュウキの声が聞こえてきた。

「ヒュー、早いところ頼む、何か胸騒ぎがする」

 リュウキの声にはっと我に返り、ヒューは少し頭を振って前を向いた。

「…わかっている、今いくよ…」

 終始目を虚ろにさせ、ヒューは荷物を持ち直して部屋を出た。


 
 サンの砦の将軍シードとの"面会"を終えた正義の信徒の長ローグは唇を切った血をハンカチーフで拭うと不敵な笑みをこぼした。

「さすがは勇猛果敢な武闘派で知られるお方、まさか私に血を流させるとは…」

 司令官室では正義の信徒の頭が叩き割られた死体、五体不満足の正義の信徒の屍が多数散らばっていた、致命傷を負っていても、それでもなお歌い、手足を動かしている切断された遺体があった。彼らは痛みを感じない兵士たちではあるが、ここまで損傷してしまえばもはや"使い物"にならない。
 ローグは顔を剥がしてジャスティス国の旗差し布地の上から壁面に突き刺したシード将軍の頭を見、徘徊するように部屋をひとつ往復した。

「あまい…甘いですよシード将軍、あなたはやはり領主の資格はない、即座に捕らえた魔女魔術師を処刑し、私をここへ呼び寄せなければ"こんなこと"にはならなかったのですよ」

 総司令室のテーブルやカーテンには血糊が張りついていた。床の絨毯には頭のないシード将軍の大柄な遺体が横たわっている。

 穢れた魔術師どもに命の猶予を与えるとは反吐が出る。そのような甘い管理では街を支配することなど出来ない。やはり私こそが、領主に相応しい。ローグは含み笑いを漏らす。
 司令官室のドアが開き、若い兵士が血みどろな床に片膝をつき敬を服した。

「ローグ卿、ご命令通りサンの砦にいる兵士たち(シードの部下)を訓練場に集めました」

 新鋭の騎士トバルはそばかすのあるまだあどけなさが残る顔を沈め、正義の信徒の長ローグにひれ伏しながら報告を伝えた。

「そうですか、ご苦労」

 ローグ卿は血と香水の混じった顔をトバルに近づけ、目の前にいる若い騎士の顎をクイとさせた。

「若いとはよいものだな、肌に張りがあり美しい」
「は…はぁ」トバルは目を合わせないよう視線を落とした。
「ういやつだ、後で私の部屋に来なさい"ご褒美"あげよう」

 甘ったるい流し目でローグはトバルを見た。
 ローグ卿には逆らえない、声色を落としトバルは「…はい」と弱々しく返事した。
 
「ローグ卿…!」

 トバルの後ろからまた若い騎士が現れた。トバルより年上で大人びた凛々しい顔つきをしている。姿を見せた騎士は美顔でさらさらとした髪を靡かせていた、彼らは裏仮面とは違うローグに選ばれた正義の信徒直属の兵士であった。

「何事かな?」
「シード将軍が捕らえたとされる魔術師と魔女を捜しに地下牢獄に行ったのですが、その姿は確認できず、牢はもぬけの殻になっておりました」
「ほお…それはそれは…」
「…牢番の話だと、その者は抗魔のブレスレットと足枷の重石が付けられ身動きが取れない状態だったのですが、それが外され牢が開いていたとか」
「脱走したというわけですか…牢番は何をやっていたのですか?」
「はい、彼らの話だと何者かが、飲み物に眠り薬を混ぜ、そのせいで深い眠りに落ちてしまったとか、どうやら誰かが脱走の手助けをしたようです」
「その"何者"とは一体誰なのですか?」
 「詳細はわかりませんが、砦内に関係した者だと思われます」

 静かに報告を聞いていたローグは、くわっと突然見開き、剣を抜いて床にへばり付いたシード将軍の顔の皮を突き刺した。そのまま剣を立ててシード将軍の顔皮を掲げ、凍りつくような声色で口を開いた。

「すぐに脱走した魔術師と魔女に追っ手を差し向けなさい、そして関与した者が何者かも調べなさい、私はこのまま訓練場に入り、集まった砦の兵士を裏仮面と選別したのち、脱走した魔術師と魔女を追いかける。今からこの砦は正義の信徒の支配下とする!」

 ローグはそう宣言をし、掲げたシード将軍の顔皮を睨みつけた。
 …だから、あなたは甘いというのですよ…



「砦があわただしく動いておるな…」

 サンの砦から離れた山草が生い茂る丘から街の様子を眺めているマッカス=グラハムは篝火が忙しなく動く光景を見ながら馬の手綱を引いた。その隣には従者のシ=ケンもいる。
 シ=ケンは表情を変えず、その光景を見据えやがて口を開いた。

「サンの砦が正義の信徒に支配されたためでしょう」
「ほお…わかるのか?」
「…正義の信徒の歌が絶え間なく、ここまで聞こえています、ローグ卿自らが多勢の裏仮面を引き連れて砦を支配したのではないのでしょうか?」
「ローグ卿がクーデターを起こしたという事か?」
「おそらく…」
「となるとシード将軍は?」
「殺されたと思われます。もとよりローグ卿は街の、いち支配下の人間の下に甘んじるよお方ではございません、遅かれ早かれこのクーデターは起こるべくして起こったもの、そのタイミングが今日だったことなのでしょう」
「偶然か?」
「偶然でもありますが、この流れは"必然"でもあります、あの方の"歪みの質"はそれだけ大きい、いつ起きてもおかしくなかった」
「ふん…まあワシらには関係ないことか、ローグ卿がクーデターを起こそうが、起こすまいが知ったことではない」
「サンの街はこの先、正義の信徒の支配下のもと、絶望の道を歩むでしょう、残念なお話しです」
「学者としての見解か?」
「いえ、治療士としての見解です」とシ=ケンは言った。

 マッカスは鼻を鳴らし馬首を返した。シ=ケンは不気味に蠢く砦近辺の篝火と低い唸り声のような正義の信徒の歌声が響くサンの街をしばし眺めると、マッカスに続いて馬首を返す。

 …無事に逃げ切れたでしょうか?ヒュー=ハルツさん。もし生き残ることが出来たら、是非フロイアへ…私、シ=ケンを訪ねて下さい、あなたの"大切な方"と共に…

 地下牢で出会い、投獄されていたヒュー=ハルツ。彼とまた再会出来ることを願うとシ=ケンは 微かに笑みを浮かべた。その表情は少し歪み、辺り一面に無数の影が霧散した。





 

 

 








 




 






 




 
 
 

 





 



 

 



 

 
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