混沌の宿縁

名もなき哲学者

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魂章

二点の太刀

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 紅は左手の感覚を確かめながら、指先を小刻みに動かして見せた。
 ルースから左手を意識して生活しろ…の言葉通り、紅は日常生活でも、なるべく利き腕の右よりも左手を優先して使い、物を持つ時でも、食べ物を食べる時でも左手を使った。
 
 紅が絶世界に来て目覚めてから、7つの夜を数えた。元の世界で言えば、1週間になる。絶世界には日にちの概念がない。1ヶ月が31日、1年が365日そういう常識は存在しない。ルースが言っていたインフィニティ パレスへの道のりはまだまだ先であった。
 ルースはいつものようにたきぎに火を起こし、冷え込む夜に備えた。

 爆ぜる枝木の炎を見ながら紅はルースから貰ったファーレーン王家の短剣を左手で抜き差しした。まだおぼつきないが、最初の頃に比べると紅はスムーズに鞘から抜けるようになっていた。


「抜き差しの方はだいぶん慣れてきたようだな」


 ルースはリンゴのような果実を取り、石の上に座っている紅に軽く投げた。左手で受け止めようとした紅であったが、うまく掴めず落とし損ねたところを膝を使って手と挟んで食い止めた。水場の少ないこの世界では、果実は貴重な水分だ。
 紅は落とさないよう確実に右手に持ち変えて果実を齧った。


「…だが、まだまだだ、二刀を使えるようになるには利き腕と同じレベルで動かせるようにならなくてはいけない、右、左、左、右、両方を即座に意識出来るよう努める必要がある」


 もちろんそれは簡単なことじゃない。左手で鞘の抜き差し出来るようになったばかりの紅には先のことだか、二刀流の使い手になるにはそのレベルにまで達しなければならない。 

 二刀流の使い手エッジ=スクアート、夢の中で憑依したあの感覚は何となくだが紅は覚えている。しかし実際にやるとなるとかなりの修練が必要だ。
 

「あんた、エッジ=スクアートと実際、会ったことあるんだろ、どんな奴なんだ?」


 紅は訊く。ルースは雲ひとつない天に瞬く星空を見ながら≪神戦≫の時に出会った。銀髪の戦士エッジ=スクアートの記憶を蘇らせた。


「私が出会った頃はすでに齢七十を越えていた、落ち着いた佇まいで、その眦は狼のように鋭く何者にも寄せ付けない雰囲気を持っていた。彼はお前の目と似ている」


 ルースは紅を見る、性格は違うが紅の目は彼エッジ=スクアートとそっくりだ。もの静かな中に荒々しさを感じた。それがルースが出会った彼の印象だった。


「七十って、あの夢のオレは若かったぜ、何であの夢に現れたオレがエッジ=スクアートってわかったんだ?」
「長い間生きているせいか、私も微量ながらも"魂"を感じることが出来る。お前の魂はエッジ=スクアートそのものであった、そしてお前の使っていた太刀筋はエッジ=スクアートと同じ、私は過去に彼と手合わせしたことがあったが、剣技にかけては私より上だ」


 レム オブ ワールドに現れた紅は若き日のエッジ=スクアートであろう。なぜ彼が若い姿で、紅に宿ったのかはわからないが、あの世界特有の空間が関係しているのであろう。
 レム オブ ワールドは時の概念がない世界だ。時間軸がずれていても不思議ではない。


「エッジ=スクアートは人間でありながら、神の戦士を倒したと言われている、私はディスバーンと異次元で戦っていたため実際その目で見たわけでないが、少なくとも神戦が始まったその時代では間違いなくエッジ=スクアートは地上において最強の戦士だった」
「その力がオレに宿っていると…」
「可能性はある、だがその力をうまく引き出せるかどうかはお前次第だ」


 その為には基本が大事だ。ルースは左手で鞘の抜き差しを繰り返す紅に次の段階に進む課題を告げた。


「"手で持って"の抜き差しはだいぶん慣れたようだから、今度は鞘を体に付けたまま"左手"だけで抜いてみろ」
「左手だけでか?」
「そうだ、右手は使わず左手一本で直接だ」
「鞘はどこに付ければいい?」
「どこでも構わないが、短剣はすぐに取り出せる懐、あるいは体の前側に付けた方がいい」

 
  紅はルースから貰った短剣の鞘ベルトを腰に巻き、太ももと右腰部分へ前よりに装着した。試しに抜いて見るが、タイミングが難しく、所作が鈍い。抜いた途端、変な方向へ左手が流れ紅がイメージした抜き差しとは"まるで合わない"。なんか、うまくいかねえ…
 苛立ちを押さえて紅は再び抜いた。右手の支えがないのでやはり動作はぎこちない。
 厳しく指摘することなく、ルースはそれが当たり前のように声を発した。


「最初はそんなものだ、それも"慣れ"しかない、1日三千回を目標に鞘の抜き差しを繰り返せ」
「三千回だと…!」


 無茶苦茶言ってじゃねえ…紅の目はそう言いたげだ。


「何も最初から三千回をやれとは言っていない、少しずつ回数を増やしていけばいい」


 確かにそんな難しい動作じゃねえが…紅はぎこちなく右腰に付けた鞘から短剣を抜いた。抜きづらいのは間違いないが、要は右手から左手に変わっただけの話、慣れたらそんなに時間はかからないだろう。紅は軽く考えた。



 ルースの第二の課題を告げられてから数日が経ち、紅は顔をしかめ、オアシスの水場に左腕を入れた。

 …冗談じゃねえぜ!

 ルースから告げられた第二の課題、"左手だけで鞘を抜く"慣れれば、簡単な動作だったが、これがとてつもなく過酷な習練であった。
 最初の頃、左手の抜き差しが慣れていただけあって、スムーズに鞘から短剣を抜くことに対してはそれほど時間はかからなかったが、苛烈を極めたのはその後の"三千回を目標に抜く"という動作であった。もちろん始めから三千回なんて無理な話だ、紅は小さな数から、徐々に短剣を抜く回数を増やしていった。だが、二百を超えた辺りからであった手首が棒のように張り、短剣が重く感じ、まともに物が握れないくらい手が痺れ、感覚がないほどの左手は激痛が走っていた。手のひらは血豆ができ、空気に触れるだけで皮の剥けた箇所はしみた。
 紅は左手のひらに包帯代わりのバンテージを巻き、嫌な汗をかいて固く布を巻きつける。ルースは水筒で水を汲み、しかめっ面の紅を表情を変えず軽く見た。


「どうした紅鋭児、今日はもう"終わり"か?」
「ざけんじゃねぇ!こんなの三千回も出来るわけねえ!腕が全然、動かねえよ」
「腕が動かないということは、筋力が足りていないからだ、無駄な筋肉を使い、強引に抜くからそういうことになる、そうではなくごく自然に無意識な形で抜くのだ、そうすれば余計な力が入らず腕も大きく傷めることはない」
「無意識だと、あんた言ってたじゃねえか、"左手を意識して"使えって、話が矛盾しているぞ!」
「意識するのは"最初の頃"だけだ、すべては"流れの中で"左手を使えるようにしなくてはいけない、意識をすればそのぶん余計な力が入る。右と左、そのバランス感覚が大事なのだ」


 ルースは水筒を放り、手頃な大きさの石を探した。直径30センチほどの円みのある石を見つけそれを片手で持ち、紅に短剣を貸すよう促すと、差し出された短剣を右腰に付けて、石を自分の頭上に高く放り投げた。


「よく見ておけ」


 ルースは落下する石に目を向けず右手で魔剣ソウルエクスを手に取ると鞘をつけたまま剣を振り上げ、真上に来た石に当てて角度をずらした。左手で素早く短剣を抜き、目の前に見えた瞬間、石を橫から真っ二つに切り裂いた。


「ファーレーン流剣術≪二点の太刀≫」


「二点の太刀…!」


 真っ二つに斬れ落ちた石を見て、左腕を押さえながら、紅はルースの言った技の名をリピートした。いつ左手から短剣が抜かれたのか気付かなかった。目の前に石が来たと同時にルースは石を真っ二つに斬り裂いたのだ。
 左手に不自然な動きはなく、滑らかな動きで瞬間、左の短剣で石を斬った。ルースが出した二点の太刀は居合い斬りのような一撃であった。

 ルースは姉の形見の短剣を鞘に収め、紅に返した。


「この技は私が姉セシルから一番最初に教わった技だ、相手の攻撃を右手の剣で受け流し、瞬間、左手の短剣を抜いて相手の急所を切り裂く、シンプルな技だが、相手の虚を衝く技としては威力は絶大だ」
 

 二点の太刀は連発では使えない、だが、ひとたび決まれば一撃で相手を仕留めることが出来る…ルースはそう言い、放った水筒を拾った。

 相手を一撃で仕留めるには正確無比な攻撃と無駄な力を除いた左腕のスピーディーな動きは必要だ。紅は受け取った短剣を見つめ、ルースの披露した二点の太刀を脳裏に焼きつけた。


「左手一本で鞘を抜けるようになればこれぐらいの技は出来るようになる…紅鋭児お前には二刀流の才がある、この技をものに出来るかどうかはお前の努力次第だ」


 …二点の太刀か…

 離れるルースを見送ると紅は鞘を腰に括りつけ、舌打ちして嫌々ながらも痛めている左腕でゆっくり短剣を引き抜く練習を再開した。

 明くる夜、ルースは焚き火の前に座り、精神を集中させていた。目を閉じ無言のまま、体を休めている。何者が来ても相手ではないが、居眠りしながらも、彼は周りへの警戒は怠っていなかった。
 紅鋭児の姿はない、彼はいつものようにひとりになって休んでいるのだろう。寒くなれば彼は火のそばに暖を取りに来る。
 旅の途上でルースは紅にサバイバル技術を教えていた。彼にはこの不毛の地で生き抜く最低限の生存術は教えてある。"ヘタな行動"を起こさない限り、彼の身は心配することないだろう。

 脳裏に流れた声に気付き、ルースは目を開いた。


「…ディアか?」


 ルースは鋭く声を走らせる。


≪あらあら、お休みだったかしら…"ルース坊や"≫

「坊やはやめろ、私はそんな歳ではない」

≪あら、わたくしからすればあなたは"坊や"よ"わたくしの大切"なね…≫

「人を"自分の所有物"のような言い方をするな、私はお前の道具ではない」

≪道具だなんて言ってなくてよ、あなたはわたくしの"大切な人"なのだから≫

「…何の用だ?」

≪何の用だなんてご挨拶ね、わたくしの"世界"に断りもなく入ってきておきながら≫

「急を要していたのだ、それにこの世界に入るのに、なぜ、"お前の許可"が必要なのだ?」

≪この世界はわたくしの世界よ、わたくしの為のわたくしだけの世界≫

「この不毛の地をよく言う」

≪この世界は強い者だけが生き残る世界、その理に何の問題はないわ…で、あなたが連れてきた"異世界の坊や"は何なのかしら?わたくしへの"貢ぎ"もの≫

「貢ぎものではない、彼は夢見人だ」

≪夢見人?それは"珍しい珍品"を連れてきたわね、でも彼、本当に夢見人?≫

「当然だ、夢見人の世界から連れてきたのだからな」

≪ふ~ん、でも彼、"夢見人の力を感じない"のわよ、なぜなのかしら?≫

「どういう意味だ?」

≪この世界にきたのなら、わたくしはだいだい"この世界に入った人間がどんな能力の持ち主か"見分けることができるわ、あなたが連れてきた坊や、剣士としての才はあるかも知れないけど夢見人のような、"特殊な能力"を感じられないわ、どういうことかしら?≫

「そんなはずはない、彼は現にレム オブ ワールドにも現れている」

≪あなたを疑うわけではなくてよ、でもわたくしにはあなたが連れてきた坊やの"特殊能力"は感じられない≫

「……」

 …どういう事だ?

 ルースは疑念を抱く。ディアは嘘をつかない。異次元最強の魔女と呼ばれる彼女にとって"欺きは"何も意味を持たないからだ。彼女がその気になれば実力行使で"そんなもの"はかき消すことが出来る。

 ディア=インフィニアンの言葉をルースは意味深長に感じ取った。夢見人の能力が感じられない紅鋭児、彼の中に"何かが起きている"のか?

≪興味深い子ね、夢見人が、"夢見人の能力を失って"いるなんて、その坊やインフィニティ パレスに連れてくる気でしょ、わたくしが調べて差し上げますわ、"全身隈無く"その坊やをね≫

 ディアの卑しい含み笑いが、ルースの脳裏に通じて聞こえてきた。また、彼女はよからぬ事を考えているようだ。

「あまり手荒いマネは考えるな、彼らの肉体はそれほど丈夫ではない、大事な夢見人なのだぞ」

≪ものは"やりよう"よ、"取って食おう"わけじゃないのだから≫

「お前のその言葉は"信用できない"、だが、お前が言った通り、彼が夢見人の力を失っているのなら、その原因を調べる必要はあるだろう」

≪うふふ、楽しみねその坊や、でもそれ以前に旅の途中で"死なせない"ないようにすることね、彼を"見放す"のはあまりよろしくないのじゃなくて?≫


 ディアの声はそれ以上聞こえなくなった。

 意味ありげな最後のディアの言葉に、ルースは気が付いたように立ちあがった。
 


 …くそ、オレがこんな奴らに…

 太い枝で何十にも重ねられた狭い檻に放り込まれた紅は柵ごしに竈のようなものが立て掛けられた、たきぎの炎を見ながら毒づいた。


 …1時間前…

「九百九十八…九百九十九…千…」

 鞘抜き千回を達成したところで、紅は短剣を砂上へ放った。じんじんと痺れている左腕を押さえ彼はぶっきらぼうに吐き捨てる。「やってられるか!こんなこと!」

 地べたにお尻をつけ、紅は座り込んだ。
 
 鞘抜き三千回、それを目標に紅は辛抱強く数を重ねてきたが、千回で限界だ。
 紅は右手で髪を掻きあげながら、目の前を睨みつける。なぜ、オレがわけのわからない世界に来て、左腕で鞘を抜く練習をしなきゃいけねえんだ!
 紅は己の行いに疑問を感じていた。何の為?さやかの仇を打つ為?混沌の僕をぶち殺す為?ルースを見返してやる為?二刀流を極める為?様々な葛藤が渦巻き、紅は不安定に感情を昂らせていた。

 オレは何をやっている?

 はけ口の見つからない異常な事態に彼はストレスを感じた。
 
 膝を立てて顔をうずめる紅の前に黄緑色の光を放つ夜光虫が横切った。ゆらゆら飛んでいる夜光虫の光に紅は疲れた様子で顔をあげ、立ち上がって彼は短剣を拾い、外套の内側のポケットのような窪みに挟み込んだ。
 ふらふらと飛んでいる夜光虫の後を追い、紅は先に見える草木が生い茂げる林に足を踏み込んだ。

 紅の気分は滅入っていた、もとの世界は滅び、わけのわからない絶世界という異世界に連れてこられ、左腕が痛くなるほど鞘抜きをし、うだつが上がらない状態に彼は精神的に疲れていた。林に入ったのは気晴らしのつもりだった。…しかしこの行動がこんな"ハメ"に陥るなんて…


 紅は檻の外で横切る、自分の体の半分ほどしかない額に角のついた全身が灰色の体毛で覆われた、猿のような生き物を睨みつけた。
 雑誌や漫画でアレに似たような生物を見たことがあった。確かゴブリンとかいうモンスターだ。紅のイメージではゴブリンは最弱モンスターの印象があった。アレがゴブリンとかいう生物なのか定かではないが、林の中を歩いていた途中、紅はこの生物の仕掛けた、罠に嵌まってしまった。

 落とし穴に落ちた瞬間、網で掬い上げる原始的な罠だ。罠に嵌まった紅を見つけるとどことなくこの生物が現れ、巣穴のような場所へ自分は連れて来られたのでだった。

 しかもコイツら…


「人間ダ人間ガ捕マッタゾ」
「食料ダ、人間ヲ食ベレルゾ」

 どういうことかわからないが、言葉が喋れる。しかも自分を食べるつもりでいる。

 …オレがこんな雑魚に…

 紅は檻枠を掴み叫んだ。


「オレをここから出せ!ぶち殺すぞ!」


 見張りをしているゴブリンは小さく尖った耳をたて瓢箪の中に入ったエールを片手に酒臭い息を吐きながら、ガンを飛ばす紅を覗き込んだ。


「コロス?誰ヲコロスダッテ、オマエハ食料ダ、食べ物ダ、コロスセルモノナラコロシテミロ?」


 牢番のゴブリンはプハァーと酒臭い息を吐きつけ、そばにいる仲間のゴブリンは面白おかしく、長い毛むくじゃらの手を頭の上で叩いてはしゃいだ。
 自分を小馬鹿にした態度に紅はいきり立ち、中から檻を蹴りつけた。


「くそ猿どもが、出しやがれ!ぶっ殺してやるからよ!」


 紅は何度も足で蹴りつけるが、檻はびくともしない。無意味な行動にゴブリンたちは笑い声をあげ、余興を見るかのように檻の中で足掻いている彼を罵った。

 …くそ、檻から出ればこんなチビどもに…


「オレタチヲ殺スダト…」


 周りゴブリンたちの間から一際大きな体躯のゴブリンが進み出た。背丈は紅の胸のあたりまであり、ずんぐりとした体につぎはぎのレザープレートを身に付けている。頭は大きくしゃくれた下顎から太い牙が伸びている。
 その姿を見て、紅は瞬時に気が付いた。コイツがこのくそ猿どもの"ボス"に違いない。

 スキンヘッドの3本角が生えたボスゴブリンが、しげしげと紅を見て首を傾ぐ。
 紅は気圧されないように睨むと、ボスゴブリンは大きな口を開けて喉を鳴らし低い声色で声を発した。


「オマエ強イノカ?弱イダロ、脆弱デ貧弱ナ人間メ、オマエハ"エサ"ダ食料ダ、オマエノ手足ヲバラバラニシテ、脳ミソカラ喰ラッテヤル」
「オレが強いか弱いか試して見ろよ、拘束せず檻に入れたことを後悔させてやるからよ!」

 檻から出た瞬間、てめぇの顔面ぐしゃぐしゃだ!

 紅は挑発する。この檻はちょっとやそっとでは壊せない、逃げ出す瞬間があるとしたら、奴らが檻を開けた時だ。
 
 ボスゴブリンは低く喉を鳴らして笑い。檻の錠前に手をかける。
 開けろ…開けた瞬間、てめぇのツラに一発ぶちこんで退散だ。

 紅は心の中で思いながら、檻が開くのを待つ。柵が開くと紅は予定通りボスゴブリンの顔面にパンチを入れ、その場を立ち去ろうとした…が、ボスゴブリンに肩を掴まれ凄まじい力でカビ臭い薄汚れた壁に放り飛ばされた。
 ボスゴブリンはこきこきと太い首の骨を鳴らし、掴み飛ばした紅の方に何事もなかったようににじり寄る。周りのゴブリンはキャキャと手を叩いて、笑い声をあげた。


「何カヤッタカ、貧弱ナ人間ヨ」
「このやろう…オレのパンチを食らって」


 自分のパンチは間違いなく、あの顔面にヒットした。拳には硬い感触が残っている。だがボスゴブリンの様相から見て、あまり効いていないようだ。

 …くそ、マジかコイツ、この世界の生物はガンプ並みに、頑強だっていうのか?

 攻撃が効かないとなると取るべく行動は逃げるしかない。逃げるのは紅の性にはあわないが、何度も異世界の者に痛い目にあっている彼にとってはそれが最善であった。

 紅は方向転換し逃走を試みるが、子分のゴブリンに足を引っかけられ、無様に転ばされた。転ばされた先にはぐつぐつと煮えたぎる竈があった。
 紅の額からは一筋の嫌な汗が流れ落ちた。


「弱イゾ、コイツ」
「弱イ弱イ」
「オマエハエサダ食料ダ」
「の…やろう!」


 ゴブリンに食って掛かろうする紅であったが、ボスゴブリンに外套の襟を掴まれ、元にいた壁際に放り飛ばされた。


「逃ゲラレルト思ッテイルノカ人間ヨ」
「くそが…」


 ぬるりとした湿り気のある石畳を感触を感じ、紅はボスゴブリンを睨みつける。ボスゴブリンは太い腕で棍棒や槍、銅剣などが入った武器立てを掴み、座り込んでいる紅の前にそれを放り出した。


「オマエニチャンスヲヤル、決闘ダ、俺様ニ勝ッタラ、見逃シテヤッテモイイゾ」
「んだと!」


 予想だにしない言葉に紅は目を剥いた。周りに集まったゴブリンは陰湿に笑い。勇敢なボスゴブリンを讃え柏手を打った。
 紅にとっては屈辱的なセリフだった。ボスゴブリンの言葉は自分が絶対敗れることはない自信の現れでもあった。ボスが紅に負けることはない。子分のゴブリンはそれを確信しているから、歓喜に湧いているのだ。

 …なめやがって…

 元の世界でこれほど自分が嘗められることはなかった。喧嘩無敗の自分がここまで…こんなチビどもにバカにされ、甘く見られるなど屈辱以外なにもない…だが、これはチャンスでもあった、ボスゴブリンをなんとかすれば、もしかしたら"突破口"は見いだせるかも知れない。こうなったらイクとこまでイッてやる…


「スキナ武器ヲ選ンデイイゾ人間、素手ダト相手ニナラナイカラナ」
「…上等だ、後悔するなよてめぇ」

 
 ボスゴブリンは喉を鳴らして笑う。

 紅は目の前に散乱している武器を見た。銅剣、穂先が尖った槍、石斧どれも原始的でボスゴブリンに通じそうな武器はない。銅剣は短く、斬るというより叩くような刀身だ、石斧と槍は穂先が折れたら終わり、ただの棒きれなってしまう、紅はざっと見渡し棍棒に目を止めた、木製バットより長さのない短棒だが鉄に近い材質で出来ていて堅さに関しては申し分ない、適度の太さで威力もありそうだ。それに"バットの扱い"には"不良ども"との争いで慣れていた。

 紅は棍棒を選択した。


「ドッカラデモカカッテコイ!イッテオクケド俺様ハ強イゾ!」


 ボスゴブリンは隆起している毛むくじゃらの筋肉を見せつける。武器は持っていない、素手で紅を捻り潰すつもりだ。


「くそ猿が!どたまかち割ってやらー!」


 巻き舌で声帯を震わせ紅が棍棒を振り回した。
 ボスゴブリンはひょいと体を橫に流すと目を見開き、上背のある紅の顔面に張り手をぶちこんだ。彼の体は転がるようにふっ飛ばされ、さらに追い討ちをかけんと、ボスゴブリンは跳躍して足裏をつきだした。
 紅は体を横に転がし、顔を踏まれる寸前のところを躱した。
 

「調子乗ってんじゃねえぞ!」


 鼻腔から流れる血を拭わず、紅はボスゴブリンの側頭部に棍棒を叩きつけた。
 この一撃が決まった!…かに思われたが、ボスゴブリンは目をギョロリとさせ、殴りつけた彼を睨み、顎を掴んで大きな壺が並んだ方角へ投げ飛ばした。
 砕けた壺の破片とともに酒臭い臭いが辺りに充満した。
 紅の意識は混濁した。全身に破片が突き刺さった痛みと流れる血に己の身に危険を感じた。…こいつは、やべえ…


「ハナッカラオマエニ勝チ目ハナインダ、脆弱デ貧弱ナ人間ヨ、デモ今ノハチョット痛カッタゾ」


 ボスゴブリンのこめかみから、血のような液体が流れていた。右目は真っ赤に充血し、転がる棍棒を手に持ち、唸りながら時間をかけて近づいて来る。
 一匹のゴブリンが、棒を持って瓢箪の底を軽く叩く、それに呼応して回りのゴブリンたちも続けて瓢箪の底を叩いて音を鳴らした。 
 紅の罵しり声は消え、辺りは瓢箪の底を叩く乾いた音で埋めつくされる。
 何かの"儀式"のようなものなのか、いよいよもって紅はゴブリンたちの異常な行動に"ヤバさ"感じた。このままでは殺される。 

 体に力が入らない紅は、ふと外套の内側にある重みのある物体に気が付いた。

 ルースから貰ったファーレーン王家の短剣。

 こいつなら、あのボスゴブリンの堅い皮膚を切り裂くことが出来るかも知れない。
 紅はいつの間にか手放し、そばに転がる自分の持っていた棍棒の柄を取り、壁に背をもたれながらおもむろに立ち上がった。
 出血で意識が朦朧とする。どうせ、このまま殺られて奴らに食われぐらいなら…せめて一撃だけでも、一矢を報いてから死んでやる…

 覚悟を決めた紅はルースの言葉を思い出した。


 "お前たち夢見人は他の異世界の人間に比べて筋力はない、それをカバーするには技術が必要だ"


 技術…紅の脳裏にその言葉が浮かんだ。


「マダ戦ウツモリカ、軟弱デ非力ナ人間ヨ、モウオワリにスルゾ、ハラヘッテキタカラナ」


 広がる瓢箪の音はピタリと止まり、辺りは静寂に包まれる。ボスゴブリンは満身創痍の紅の前に立ち、下顎の牙を剥き出す。
 自分より背が低いはずなのに、ボスゴブリンが大きく見える。鞘抜きで痛めている左腕は完璧ではない。が、やるしかない"あの技"でチャンスは一度しかない。

 棍棒を持つ右手をだらりと下げ、紅は懐の短剣を"意識する"。荒い呼吸を静かに整え、"その時"を待つ。紅の目の前の光景が二重に霞んだ、やべえ…"意識"が…

 ボスゴブリンの棍棒が振り下される。下げていた紅の右腕が動いた、無言で彼は振り下ろされた棍棒を右手の棍棒で外へ流すと、左腕が動き、懐の短剣の鞘を抜いてボスゴブリンの喉を搔き切った。
 
 …確か、こんな感じだったな、≪二点の太刀≫って…虚ろな目で紅は短剣の柄を握ったまま膝から崩れ倒れた。体はもう動かねえ、後は…好きにしろ…

 予想外の展開にゴブリンたちは騒ぎ立てた。


「ソンナバカナ!ボスガヤラレター!」
「ボス!ボス!起キテクダサイ!」


 ボスゴブリンは目を見開き、頸動脈を裂かれた状態で大の字になって息絶えていた。


「人間メヨクモボスヲ!」
「八ツ裂キダ!細切レニシテ、竈ノ中ヘ放リコンデヤル!」


 ゴブリンたちは足を踏み鳴らし、気を失っている紅の周りに集まった。そんな中、部屋の外から、一匹のゴブリンが飛び込んで来た。


「大変ダ!侵入者ダ!侵入者ガコノ巣穴ニ入ッテ来タゾ!」
「侵入者ダト!」
「何者ダ!」
「人間ダ!人間ノ男ガ一人、コノ巣穴ニ入ッテタ!」
「オノレ人間メ!コノ男ハ後ダ!先ニソノ侵入者ヲナブリ殺スゾ!」


 ゴブリンたちは気を失った紅をあとにして、慌ただしく動き出した。


 ……ややあって…

 返り血だらけのルース=ホルキンスは姉の形見の短剣の柄を固く握った紅の指をほどき、それを彼の懐から見える鞘に収めると、紅の体を両手で抱え、ゆっくりと立ち上がった。
 割れた壺の破片で紅の全身は傷ついていたが、命には別状はない。
 ルースはそばで仰向けで倒れて首筋を切り裂かれて死んでいる体躯のいいゴブリンの死体を見た。見事に急所を裂かれ、一撃で仕留めた痕が残っている。
 この短期間で"二点の太刀"を覚えたか…ルースの唇は心なしか緩んだ。やはりこの男は二刀流の才がある。

 ルースは傷ついた紅を両手で抱え、静かに歩き出した。
 壁のあちらこちらに、擦り殴った血が滴り落ち、無造作に転がるゴブリンたちの死体が、辺り一帯に散らばっていた。そんな"もの"には目もくれず、ルースは異次元界最強の魔女ディア=インフィニアンの言っていた言葉を思い出した。

 紅鋭児が"夢見人"の力を失っている。
 
 ルースは気を失っている紅鋭児を見ながらその意味を考え、血みどろのカビ臭い死臭が漂うゴブリンの巣穴をあとにした。



 …闇…真っ暗な闇?

 龍輝は倒壊した建物、焦土と化した街を眺め、どこか見覚えある暗雲漂うその光景に危うさを感じた。

 …ここは、もしかしたらレム オブ ワールド?
 
 龍輝はどす黒い水たまりに映る自分の姿を見た。金髪の繊細な髪、白いマントを羽織った自分、リュウキ=インストー。…いや、待て、オレは麻宮龍輝だ!
 龍輝は映った姿を改めて自分の目で確認した。その容姿は水面に映ったリュウキ=インストーと同じだ。

 オレはリュウキ=インストー?いや麻宮龍輝?これはどういう事だ?

 戸惑う龍輝に天から声が響いた。

≪逃げて下さい…!≫

 
 天から聞こえた声は龍輝の知っている声、それはまぎもなく朝霧涼子こと、ドリームプリンセス月神ルナムーンの声であった……。

 

 
 




 




 

 
 

 

 


 

 









 
 











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