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パラサイト

オシリス

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  知らない記憶が頭をめぐる。

  私は石畳の町にいた。

  遠くには、南アルプスが見える…

  が、それは私の思い違いだ。
  
  「やはり、本家は貫禄が違いますな。」
年配の男が語りかけてくる。
  が、彼は私に語りかけてはいない。
  これは誰かの記憶なのだ。

  彼らは、これからエジプト博物館へと向かうのだ。
  トリノのエジプト博物館は、エジプトに次ぐ古代エジプトの遺物を収蔵している。

  フランソワ・シャンポリオン等、ヒエログリフの解読者へ、その豊富な資料で貢献した。

  私を巡る記憶の主もまた、エジプトの謎の解読に挑もうとしていた。

  1922年以降…ウル、ツタンタカーメンの発見のニュースで、にわかに考古学が社会の注目を浴びていた。

  彼は、自称詩人の役人のようだった。
  渡欧に際し、愛読書の『ファーブル昆虫記』を携帯していた。日本語訳は、小松近江が担当していた。
  あと一冊は、趣味の仲間の作った同人誌『アザリア』。
  彼と志を同じくした農学生作品が納められていた。


  彼は、それらの本に無限の世界を見つめていた。
  
  虫にかける彼の情熱は、近年の発掘熱に浮かされて、古代エジプトの世界とつながりを持ち始めていた。
  彼は、太田と同じ農商務省の人物である。
  新種の…日本に利益のありそうな植物の採取や、農作物の病気などの研究を主にしていた。

  彼は東北の武士の家系で、特に、植物に感染する伝染病についての研究で成績を上げていた。

  1925年、彼がこうして渡欧を叶えることが出来たのは、並々ならない努力と、ジャガイモ飢饉についての論文が上の人間の目に止まったからだ。

  ジャガイモ飢饉とは、1845年頃、欧州を襲ったジャガイモの病気による飢饉の事である。

  特に、領主の意向でジャガイモの栽培に舵を切ったアイルランドは、惨憺たる状況に陥ることになる。

  同じく島国の日本としては、アイルランドに学ぶところが多い。
  利益だけではなく、新種の輸入にはリスクも伴うものだと言うことを、必ず頭に置いておかなければいけないのだ。

  
  1925年のパリ万博に向けて、準備をしていた彼と太田務は行動を共にしていた。

  そして、あの、ツタンタカーメンの呪いについても考えることになる。

  発掘に携わった人物を襲った呪いの原因が細菌類ではないか?と、言う謎の調査に参加を許されたのだ。
  
  そして、西洋のオカルト好きな貴族の計らいを受け、トリノにある膨大な資料を閲覧する権利を手にした。

  が、しばらくすると、彼は、別のものに興味を持つことになる。

  エジプトの九柱の一神、冥界の王、オシリス神である。
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