祓魔師 短編集

のーまじん

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通り魔

ハーフムーン

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 月が見えた。

 ハーフムーン。

 それは、私にとって悪夢に導く象徴のようになっていた。

 それを今、パリの地で見つめている。

 「戦争が終わって、あなたが仕事を引退したら、パリに行きたいわ。」
「ハネムーン?」
「新婚旅行ですって⁈ 恥ずかしいわ。どちらかと言えば、私達はもう熟年夫婦(フルムーン)よ。
どちらも、行った事はないけれど。
新婚旅行。最近の若い子が羨ましいわ。ハネムーンかぁ。」
「だから、連れて行くって言ってるだろ?パリに随分と遅いハネムーンに。」
「本当なの?絶対よ。ああ、パリ。嘘でも嬉しいわ。」


 妻は明るくそう言った。
 妻のマリアは幼馴染みで、結婚してからも警察官の私の事を辛抱強くサポートしてくれた。
 移民の増加や、暴動、凶悪事件の増えるロンドンに働く私は、
 貧しさと忙しさで、彼女に何もしてやれなかった。

 しかし、ドイツ帝国との大戦の為に戦地に赴くとき、確かに約束したのだ。

 帰還したら、君を随分と遅れたハネムーンに連れて行くと。

 控えめで優しい彼女の、生涯ただ一度の、自分の為のお願いだった。

 しかし、戦場から戻った私を迎えてくれたのは、教会の隅の小さな彼女の墓標だった。
 私は、最期まで約束やぶりの悪い夫だ。

 一瞬、目頭が熱くなり、鼻が痒くなる。

 私は、おかしな感情を振りきるように歩き出した。
 ロンドンの空気は汚いと言うが、パリのそれも代わりはない。
 さっきから鼻が痒くて仕方ない。

 私は、勢いよく鼻をかみ、そして、近くのショーウィンドゥを鏡に身なりを整えた。

 これから、高級ホテルのロビーで待ち合わせなのだ。

 ホテルのドアボーイに門前払いを食らわされるのはごめんだ。


 身なりを整えた私は、上弦のハーフムーンを睨み付ける。

 マリアに心からの謝罪を胸に、最後の我儘(わがまま)を通すために。

 あの下弦の半月(つき)を見上げた惨劇の夜から既に30年。
 未解決事件としてスコットランドヤードを
 英国の警察に携わる全ての職員に汚名を着せたあの怪物の正体を、光の前に引きずり出し、汚名をすすぐ時が来たのだ。

 私は、月を睨み付けた。
 1888年8月も終わりのあの半月を睨み付けたときとは違う、確信と信念を胸に、名無しの切り裂き魔、
 ジャック・ザ・リッパーの名を暴き、地獄へと幽閉するために。



「ダンナ、アンドレの旦那、どうかしましたか?」
私の背中に手がかかり、聞き覚えのある気さくなダミ声に私は振り向いた。

私の後ろに立っていたのは、フランソワと言う名の雑誌記者だ。

近年流行りの神秘主義者向けの英・米国大衆雑誌「プレアティ」を担当している。

招待状を受けて、悩んでいた私の旅行の手配をしてくれたのは彼だ。

「フランソワ君。よくここにいるのが分かったね?」
待ち合わせは凱旋門のあたりだった。しかし、早く到着していた私は、物珍しさにシャンゼリゼ通りをコンコクルド広場方向へとぶらぶらと結構な距離を歩いていた。
よくも、こう、人通りの激しい場所で私を見つけ出したものだ。
「蛇の道は蛇。旦那も一緒でございましょう?」
フランソワは、含みのある笑顔を私に向ける。

「確かに。」
30年以上、警察業務に従事していた私も人混みの中から人を見つけるのは得意な方だ。

フランソワは、私の返事に納得し、それから、二人でホテルに向かって歩き出した。

「高級ホテルに向かうとなると、どうも緊張していけませんね。
アンドレの旦那、ダンナは仕事柄、そんな事はないんでしょうね?」
フランソワは、下町訛りの英語で話しかけながら、冬の近づくシャンゼリゼ通りを颯爽と歩いて行く。

ノルマン人を祖先に持つと言うだけあってフランソワは、2メートル近い長身で、澄んだアイスブルーの瞳をもつ、中々の美男なのだが、まだ、30才前後と言うわりには、年配者のような狡猾さと、下品な下町言葉がその美しさを壊していた。

とはいえ、無言でマロニエの並木道を歩く彼は、主に女性の人目を引き、どこかの役者か何かと勘違いされているようだった。

「パリくんだりまで足を運んできたんだ。ダンナ、ズバリお伺いしますが、犯人は奴だと確信してるんでしょうね。」
私の一歩先を猫のように軽快に歩いていたフランソワが、私に歩速を合わせて並んできた。

奴と言うのは、ホワイトチャペルの娼婦殺人事件の犯人、通称切り裂きジャックの容疑者。
私は複数犯を思い描いていた。

と、言っても、当時、星の数ほど囁かれていた容疑者候補にはのぼらず、
スコットランドヤードも、マスコミも、私の上司すら、相手にしなかった、そんな人物だ。

「アンドレ、お前の考えはもういい。早く、持ち場に戻れ!」
今は亡き上司の声が記憶の底から浮上してきた。

 当時の上司の叱責も、仕方が無いと思う。

 私が容疑者としてあげたのは悪魔なのだから。

 1880年代は、神秘主義と科学の入り交じった不思議な活気が溢れていた。

 上流階級の人間たちは、盛んにサロンで交霊会を行い、
 一方で、シャーロック・ホームズシリーズなど、近代的な科学捜査に人々は憧れていた。

 一見、水と油の様に見えるこの二つは、実はドレッシングのように良く混ざりあい、雑誌と言う媒体の力を借りて民衆に絡み付いた。

 魔術と言う荒唐無稽(こうとうむけい)なものに、催眠術やら、新手の奇術を使った新しい詐欺が出没し始めたのだ。

 表立って事件にならない事柄を、貴族や資本家から私が相談を受け始めた時期でもあった。

 切り裂き魔の事件に隠れてしまったが、この時期、ある団体が誕生した。

 黄金の夜明け団。ゴールデン・ドーンと言うべきか。

 悪魔を召喚し、願いを叶えてもらう、などと言葉巧みに騙し、純朴な資産家の青年から金を巻き上げる、私にはそんな団体に思えた。

 案の定、去年、彼らの暴露本(ばくろぼん)とも言える小説が、かの団体に所属していた男、クローリーによって出版された。

 私は読んではないが、月の子供…
 進化した超人類を魔術で作り出す話らしい。

30年も昔の事とは思えないほど鮮明に思い出せる、子宮を奪われた被害者達をその本の話は思い起こさせた。

 勿論、人の子宮を摘出して、それで子供を作れる道理はない。

 ただ、近年、我々世代には到底理解できないような不条理をすんなりと受け入れる若者が増えてきたのは確かな事だった。

 思えば、私がまだ小さかった頃は、空は鳥と神様だけが住まえる場所で、
 戦闘機が、空から町を攻撃するなんて恐ろしいことを考えたことも無かった。

 これから何を標(しるべ)に生きたら良いのだろう?

 漠然とした不安が胸の辺りから沸いてきて、私は、急いで切り裂き魔の事件に集中した。

 先の事なんて分からない。

 しかし、あの陰惨な事件の犯人を白日のもとにさらし、罪を償わせる事が出来るならば、その時、全ては明るく変わるような気がしてきた。


 しかし、本当にそんな事出来るかは懐疑的でもある。

 私は、人を魔物に変える本物の悪魔を探している。
 私は、犯人はフランスにいて、催眠術か、何かの方法で儀式の生け贄を捕まえさせたのだと考えているからだ。

 当時、マスコミや市民、犯人に奔走させられていた警察は、私の奇想天外な意見まで聞き入れる余裕なんて無かったからだ。


 深い思考から我にかえり、音が耳に戻ってきた。

 新聞売りの少年の激しく鳴らす号外の呼び鈴と共に、シャンゼリゼ通りは大きな歓声の波に飲み込まれていた。

 次の瞬間、号外を持つフランソワに抱きつかれ、頬にいやと言うほどキスをされた。
 怒ることは、出来なかった。
 その前に、フランソワの言葉を聞いたからだ。

「ダンナ、やりやしたぜ。連合国軍がドイツ帝国を負かしたんです。
 戦争がおわったんですよっ!!」

 1918年11月11日。この日、男に抱きつかれて見上げた月は、歓喜と喜びに溢れていた。

 私の中で、運が開けて行くような、そんな気持ちが広がった。


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