祓魔師 短編集

のーまじん

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猿酒

酔い

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 「真田に探させた、世にも珍しい仙人酒じゃ。」
秀吉は興奮で頬を染めて、素の残忍さを顔の奥に覗かせる。
「おとぎ話に良く出る、あのお酒ですかな?」
用心深く利休は訊ねた。
 少年のような残酷さを浮かべて興奮する秀吉から、得意気に説明をする楽しみを奪っては、命がない。
 「おおっ。利休殿もご存じか!いや、そうじゃ、あれは有名な話じゃ、聡明な利休殿が知らないわけはない。それでは説明は、利休殿に頼もう。」
秀吉は気前良く、一番自分がしたかったろう自慢の口上を利休にくれた。
 が、利休からすればありがた迷惑だ。
 油紙と蝋を使い、厳重に封をされたその小さな壺は、日の本と言う国を統べる、この気まぐれな男を子供に戻し、無邪気な残酷さを小屋全体に解き放させる。利休は説明が悪ければ、どんなお叱りを受けてしまうのだろうか不安になった。
 とりあえず利休は、一度、深く息を吐き、それから、深く吸い込んだ。

 「申しわけございません。生意気な発言を致しまして、間違っているかもしれませんが、お話から、山男が噂する、山が醸す天然の酒の話を思い出しただけなのです。」
利休の答えを秀吉は気に入ったようだ。慎重に外側の蝋を外す作業の手を止めて、キラキラと瞳を輝かせながら、子供がイタズラを発見したときのような含みのある無邪気な笑顔で、利休を見上げた。
「そうじゃ。山で迷った男が、えもいわれぬ香りに誘われて、匂いをたどるその先の木のウロに、コンコンと湧いている赤い酒じゃ。」
秀吉は、外の蝋を取り外し、夢見るように軽く持ち上げて、日の光に淡く輝く白い陶磁の壺を見つめた。
「しかし、それには、ちゃんとカラクリがあってな、不思議な話でも、何でもないのだ。これは、木のウロに猿が葡萄を集めて忘れたものが発酵し、たまたま出来た酒なのじゃ。不思議でも、何でもない。が、しかし、実物を見るのはとても珍しい、貴重な体験だ。そうは思いませんかな?利休殿。」
壺の栓をとるにあたって、激しく興奮しながら秀吉は大きく瞳を見開いて、利休の一言を待った。

「まことに、その通りにございます。」
利休は、この短い言葉に自らの命を乗せて、腹に力を入れた。
 秀吉は、能面のように張り付く、穏やかで無感情な、この茶の道の師の顔を数秒間、ゆっくりと、思い出を焼き付けるように、名残惜しそうに眺めて、

「よし、よいぞ。」

と、深く低い覇者の号令を己(おのれ)の口から発した。すると、音をたてて窓の木戸が閉まり、漆黒の静寂が訪れる。


 利休は動かなかった。
 最近疑り深くなったこの男の残忍さは身にに染みている。自分の事を疎ましく感じ出している事も、とても好きでいてくれる事も、秀吉にとって、自分は、反抗期に越えられなかった父の代わりではないかと思うことがある。利休を壊すことで、何かの呪縛から逃れたい、そう考えているように思うのは、気の迷いなのだろうか。

 何があるかは知らないが、殺されたとしても、自分一人の事として秀吉を鎮めてしまいたかった。
 一族に類のかからないように。

 秀吉の心の核をしめる部分は、穏和で寛大なのだと思う。だから、一時、激しく怒り、無惨に殺されたとしても、落ち着いた瞬間、あの人懐っこい顔に涙を浮かべて、自分の死体にしがみつくようなそんな男だから、静かに殺されてしまえば、一族までは襲うまい。
 利休は不思議な穏やかさを暗い部屋のなかで感じていた。

 幾度となく、残忍な武将と席を共にしてきた。

 意味も分からず、命の危険を感じた事も一度ではない。

 それでも、今日は何か、いつもとは違う胸騒ぎが、体を駆け巡る。

 「この酒の薫りの部分から味わおう。」


  ぽん。

 闇の中、木の栓が抜ける軽快な音がして、甘い蒲萄の薫りが立ち上ってきた。

 それは、今まで嗅いだことの無いような、軽く全身を痺れさせるような甘い香りで、乙女の歌う恋のため息のように、心をなごませ恥ずかしいような、くすぐったい初恋の気持ちを呼び起こした。



 昔、野宿をしながら旅をした思い出が甦る。
 夏の美しい星空に、流れ星が雨のように降り注いで、それを見ている村の人達のざわめきが遠くから聞こえてきた。

 用水路の方から水を含む冷たい風が流れてきて、美しい乙女のわらべ歌が聞こえてきた。

 あれは、誰なのか?

 娘の白いふくらはぎだけが、沈みかけた月明かりを含み真珠のように目に焼き付き、艶かしい気持ちを誘った……。

 こんな夜更けに娘が一人で出歩くとしたら、それは、愛しい男と逢瀬を重ねるつもりなのだろう。

 そう考えると、若い利休は、いたたまれなくなり、しかし、見つかりたくもないので、どうやってその場を離れようか思案した。

 闇をまとい、音を消して、静かに上半身を引き起こした時、娘が帯を解いて裸になった。

 月の光が流れるように娘の背中を撫でてゆく。それを気持ち良さそうに受けながら、娘は長い髪を解き放ち、用水路に向かって飛び込んだ。

 利休の心臓が鋼のように鳴り出した。

 混乱する頭の中で、今が逃げ時と思い立ち上がるが、足は、不思議と用水路に向かう。

 このままでは、裸の娘と鉢合わせしてしまうと言うのに、娘の背中から目が離せない。

 用水路へと向かう自分の姿に気がついて娘がこちらに泳いできた。

 心臓がうるさい。


 利休は折り畳まれた娘の着物の横で彼女が来るのをまつ。

 体が熱い。


 やがて、娘は岸につき、顔に張り付く髪を耳にかけながら、静かに岸に立ち上がり、月の光を背に浴びて、乳房と顔に闇をまとい、両手を開いて利休に微笑みかける。

 白い体の縁に月の光と滴が集い、後光のように神々しく娘を飾る。

 利休は娘の顔を良く見ようと近づく。

 娘は両手を利休の頬にかけて、自分の顔を近づけてくる。利休はそのとき、薄暗く彼女を覆う意識の闇を取り払い、その顔を見た。

 刹那の衝撃と一瞬の破壊的快楽に突き動かされるように利休は娘を引き寄せる。

 次の瞬間、利休は目を見開いて、娘から手を離した。

 「利休殿?」
聞き覚えのある、深い脅しを含むような秀吉の声が、利休の背中をざらつかせる。
 女は、女の顔は、あの秀吉の顔に塗り替えられ、美しい体は、月の光で静かに溶けて流れてゆく。


 う、うあぁぁぁぁ……。


 利休は、利休であることも忘れ、力の限り叫び声をあげながら、闇に含まれる見えない何かを取り払おうとした。




 しばらくして、強く脈を打つ自分の心臓の音を聞きながら、利休は深い夢想から解き放たれ、作業小屋にいることを思い出させた。

 「酔いは、覚めましたかな?」
 いつのまにか、窓は開き、陶磁の薄い茶碗に、先程のぶどう酒が、赤々と見事な曼珠沙華のように色めき煌めいている。

「申しわけございません。わたくしは、何か大変な粗相をしてしまったようですね。」
利休は、深い反省をしながら憂いだ瞳で秀吉を見た。
 が、秀吉は穏やかに、むしろ、とても好意的に利休に微笑みかけている。
「気にしなくてもよい。ほんの一時、酔いに任せて眠りについていたそれだけの事、それより、ほれ、一緒に味わおうではありませんか。信長さまも口に出来なかった甘露の酒を。」

 利休の顔に、不安な気持ちが滲(にじ)み、それを見つけた秀吉は、とても愛しそうに目を細めた。

 「川魚は燻(いぶ)した物を用意した。この葡萄酒にはとても良くあいますぞ。」
秀吉の言葉に、利休はいつもの穏やかな作り笑いで気持ちを覆い、美しい箸さばきで川魚に手をつけた。

「はい、桜の枝で薫製にされたアユの香りに、この酒は良く合います。」
利休は鼻から抜ける、不思議な酒の香りに、ふと、気をそらされる。

 気になって、今度はぶどう酒だけを慎重に一口含む。

 「何か、気がつきましたか?」
秀吉の声に、利休はこの酒が、普通の代物ではないことを悟る。

 目を閉じて、舌の感覚に集中する。

 爽やかな若い山ぶとうの酸味と、柿や桑、アケビのような果物の甘さと芳香に混ざり、何かの古酒、カビを思わせる独特の苦味が鼻孔の奥にまとわりつく。

 確かに、独特の、飲み物ではあるが、毒の類いを感じることもない。
 不可解に思いながらも、利休はこう答えるしかなかった。

 「特に、何も……ただ。申し上げにくいのですが、これは、山の神が醸したものではございません。これは人による人工物だと思われます。」

 利休は覚悟を決めて秀吉の顔を見つめた。

 あれほど自慢していた代物を偽物だと言ってしまった以上、それなりの罰は受けねばならぬのだろう。

 しかし、秀吉は怒る事なく感心するように利休を見つめた。

 「さすがは利休殿!この酒の秘密を暴いてしまうとは。こうもあっさりと見破られると、残念にも思わぬものだな。これは、南蛮人に貰ろうた酒を元に、真田に改良を加えさせた輸出用の酒じゃ。そうだ、わしに献上された南蛮人の酒と飲み比べてもらおうかのう。」
秀吉は声をあげて人を読んだ。すぐさま用意された赤い液体が、お猪口にほんの少し入れられてきた。

 「それでは、ご相伴に預かります。」
利休は、少し濁りのある、怪しげな赤い液体を用心深く口に入れた。
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