九段の郭公

四葩

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8章

81【フレネミー】

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 ばさっと叩きつけるように書類が置かれ、丹生たんしょうはデスクから顔を上げた。そこには心底、不機嫌そうな神前かんざきが立っている。
 朝夷あさひなとの交際宣言からこっち、任務で忙しかった神前と顔を合わせるのは半月ぶりだ。

「久し振り、ナナちゃん」
「呑気なもんだな。一体どういうつもりだ?」
「なにがだよ」
「とぼけるな。お前、あの人と付き合ってたんじゃなかったのか? なんでいきなり朝夷さんと恋人になってるんだよ」

 丹生はボールペンを置き、オフィスチェアにもたれて腹の上で手を組んだ。

「ナナちゃんこそ、郡司ぐんじほったらかして城戸きどさんと付き合ってるじゃん。俺のこと、とやかく言えるのかね」
「ほったらかすもなにも、俺は郡司と付き合ってない。同じにするな」
「同じだろ。まだ愛されてると知りながら、有耶無耶にしたまま好き勝手してるんだから」

 ぴり、と空気が張り詰める。丹生は鋭く神前をめ上げており、初めて向けられた敵意にたじろいだ。丹生は今まで、こんな声も視線も向けてきたことはなかった。拳を握り、負けじと睨み返す。

「……お前には関係ない」
「あっそ。なら俺のこともお前には関係ない。キレられる筋合いもない」
「っ……でも、それじゃあの人が……」
「可哀想か? だったらお前が慰めてやれよ。傷心に付け入るのは得意だろ」
「お前……っ!」

 神前は丹生の胸ぐらを掴み、奥歯を噛みしめた。すんでのところで殴るのは堪えたらしい。反して丹生は冷えきった目で神前を見ていた。そろそろこの関係も終わりだな、と思いながら口角を上げる。

「お前って、どうしてそう自分で自分の首を絞めてばかりなんだろうな? 昔から不思議でしかたなかったんだよ。やっぱり恋は盲目ってヤツなのか、それとも単に馬鹿なだけか」
「なに……?」

 神前が動揺したのを見ると、丹生は胸ぐらを掴む手を払いのけた。襟元を正しながら話しを続ける。

「簡単なことだ。好きなら好きって伝えりゃ良かったんだよ。なのに下策で逆に傷つけて、周りも巻き込んで、自分まで追い込んで。結局、よく分かんねぇとこに落ち着こうとして、でもそんなに怒るほど未練タラタラでさ。もう何がしたいのかさっぱり分からねぇよ」
「そ、れは……」

 神前は急所をひと突きされて言葉を失う。それでも丹生の追い込みは止まらない。

「まあ、結局は叶わぬ恋だったけどな。あの人、最初から俺しか見てなかったし。それなのにお前ときたらしつこく想い続けて、郡司みたいな上玉に見向きもしないでさ。俺がどんな気持ちだったか知りもしないで、まじでムカついてんのはこっちのほうだぜ」
「……なにを、言ってるんだ……?」

 腹の底から憎悪を吐き出すような丹生に、神前は総毛立って後ずさる。しかし、丹生の腕がそれを許さなかった。先ほどとは逆に、立ち上がってデスクを回り込んだ丹生が神前の胸ぐらを掴み、引き寄せたのだ。

「お前にだけは文句言われたくねぇし、言わせねぇぞ。友達ヅラの裏で、お互いさんざん傷つけ合ってきただろうが。今更そんなクソみてぇな正義感ふりかざすなんて正気か、おい」

 神前は背に冷や汗が伝うのを感じながら「そうだったな」と呟いて片方の口角を上げた。
 丹生と神前の関係は、決して気の置けない友人などではなかった。むしろ正反対だ。互いを暗に傷つけ、素知らぬふりで笑い合う。ただし、任務においては私情を挟まず、業務妨害はしない。
 丹生は神前が更科さらしなに惚れ抜いていると知っていながら手を貸さず、無視していた。最近では更科との関係を見せつけ、煽っていた。
 神前は丹生が城戸を嫌悪していると知りつつわざと名前を出し、当てつけに付き合った。
 結局、更科や城戸との関係で得ていた充足感は、報復しあって得た歪な優越感だったのだと、2人はこの時ようやく理解した。
 しかし、やたらと郡司の名を出してくるのは何なんだ、と神前は疑問に思い、ある答えに行きついた。

「まさかお前、郡司のことを……」
「……ああ、割と最近まで好きだった。お前は気づいてなかったけど、俺たちは最初からずっと痛み分けてたんだよ」

 しばしの沈黙の後、神前から乾いた笑いがこぼれる。丹生も同じ悩みを抱えていたなど、想像もしていなかったのだ。しかし、神前の胸に込み上げたのは歓喜ではなく、途方もない虚しさだった。

「いつから、いつまで……?」
「初めて見た時から、拉致される少し前まで」
「そんなに長く……お前、よく耐えられたな……。俺は何も知らずに、必死で張り合おうとしてたのか……。悔しくてたまらなくて、同じ痛みを味わわせたいと……そればかり考えて……」

 丹生は神前から手を離した。神前の両手が丹生の肩にかかり、やがてずるずると落ちていく。どれほど無意味で自己中心的な意地を張ってきたか、思い知ったのだ。

「俺たちはずっと同じ地獄の中で蹴落とし合ってたんだ。冷静になってみりゃ、呆れるほど間抜けだよな」
「……本当にお前は大馬鹿だ……。早く言ってくれていれば、俺たちは……もっと……」
「確かに馬鹿だ。でもさ、俺は割と楽しかったぜ。なぁ、親友」

 困ったように微笑む丹生の声は優しく、柔らかく神前の鼓膜を震わせる。2人が初めて本音で話した瞬間だった。
 丹生は嗚咽を漏らす神前の背に手を当てながら思う。ここに集う者は、誰も彼もが不完全で歪だ。
 無意味な駆け引きや残酷なゲームに興じていたのは、丹生と朝夷だけではない。皆が笑顔の裏で嘘をつき、歪んだ感情のぶつけ合いを繰り広げている。
 諜報員は凡庸では勤まらない。まともな人情や良心を持っていても駄目だ。誰よりも秀でていながら、誰よりも壊れていなければならない。悲しい狂人の吹き溜まりだ。
 そんな者たちが正気を保っていられる理由はただひとつ。この国を守るという信念である。万人を影で支え、愛する者の安寧を維持している事実だけがよすがだ。その細い蜘蛛の糸に、全局員がしがみついている。
 ふと、丹生は特別局を創ったのは誰だったかと考えた。数十年前の政務官だと聞いた気がする。きっとその人物も、国の未来を憂えた1人だったのだろう。
 丹生は、もしその人に会えたら聞いてみたいと思った。ここは貴方が期待したような働きができているのか、と。



「どうしたの、璃津りつ。何かあった?」

 帰宅後。朝夷が優しい声音で問うてきた。

「ちょっと疲れただけ。ナナちゃんと派手に言い合ってさ、本音ぶちまけちゃったよ。まあ、結果オーライだと思うけど」

 朝夷は丹生の隣へ腰掛けながら「ふうん」と相槌を打つ。

「お前たち、典型的なフレネミーだったもんね。ちゃんとフレンドになれたの?」
「さぁね。少なくとも、無意味に傷つけ合うことはなくなるだろうな」

 紫煙を吐きながら答えると、朝夷は優しい手つきで丹生を膝の上へ抱きあげた。

「お疲れ様。なんだか俺たちがこうなってから、いろんな所のよじれが治っていくみたいだね」
「治ってんのか崩れてんのか、微妙なとこも多いけどな。阿久里あぐりたちはとうとう別れたって聞いたし」
「あいつらはそれで良かったんだよ。とっくの昔に終わってたんだから」

 首筋に口付けられながら、「そうだな」と吐息混じりに答える。

「お前は大丈夫か? 溜め込んでないか?」
「大丈夫だよ。璃津のおかげで最近、全然苦しくないんだ」
「それなら良かった。ところで今日ふと思ったんだけど、うち創ったのって誰だっけ」

 素肌に引っ掛けていたカーディガンが肩から落ち、朝夷の唇も降りていく。朝夷は肩に口付けながら答えた。

「朝夷 大和やまと

 丹生は「へえ」とぼんやり答えたあと、朝夷の胸に両手をついて体を離した。

「今なんて?」
「特別局を創ったのは、当時の政務官だったお爺様だよ」
「……まじ?」
「うん。ネットで経歴調べてごらん。法務省に居たことも載ってるから」

 丹生は悲鳴のような溜め息のような声を漏らして身震いした。朝夷は困ったように笑う。

「怖いでしょ。あの方の展望は壮大過ぎて、計り知れないのさ」
「なんか、知れば知るほど凄いっていうか、素直に尊敬するわ。さすが国帝だな」
「お爺様が聞いたら喜ぶよ」

 2人は口付け合いながら互いの体をまさぐる。丹生は朝夷の肩にすがりつき、甘えた声で言った。

「ベッドいこ」
「うん」

 朝夷は丹生を抱えて立ち上がり、寝室へ向かった。広々としたキングロングのベッドで、2人はいつものように絡み合う。全身に口付けながら、朝夷は低く甘い声で睦言を囁く。

「大好きだよ、璃津」
「……なぁ、もし俺がそれに応えたら、やっぱり怖い?」

 朝夷は肌から顔を上げ、目をまん丸にしている。丹生は思わず吹き出した。

「そんなに驚くか? 今まで応えなかったのはお前のためだって、分かってるくせに」
「そうだけど、でも……」

 朝夷は視線をさまよわせ、眉尻を下げている。

「でも、なんだよ」
「……璃津は、真剣な相手にはそういうの言葉にしないでしょ? だからそれを言っちゃったら、なんていうか、その……」

 言葉を濁す朝夷に、丹生は「ああ」と唸った。
 今まで相手を利用するため、数え切れないほど好きだの愛してるだのと口にしてきた。だからこそ、本当に好きな相手には軽々しく言わないと決めているのだ。しかし、本心から好きと言えないわけではない。むしろ言いたいほうだ。

「確かにややこしくしたのは俺だけど、本気で好きな相手にだって言うぜ。こう見えても一途なんだからな」
「璃津が一途なのはよく分かってるよ。こんな俺に12年も付き合ってくれてるんだから」
「それに、俺たちはお互いに嘘つかないルールがあるだろ。まあ、言って欲しくないなら言わないけど」

 朝夷は少し躊躇ためらったあと、丹生と目線を合わせ、真剣な声で言った。

「璃津が本気で応えたいと思ってくれるなら、そうして欲しい。幸せすぎて怖いけど、それ以上に嬉しいよ」

 丹生は朝夷の頬を両手で包み、小さく頷いた。

「好きだよ、長門ながと。俺にはお前しか居ない」
「ああ……璃津、大好きだ。俺にもお前だけだよ」

 丹生の言葉に、真摯な瞳に、朝夷は感極まった吐息を漏らした。丹生も同じく、心からの想いを伝えられた喜びに震える。
 その夜の2人は普段よりもずっと深く、溶け合うように体を重ねたのだった。
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