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7章
73【並行する不幸】
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ひとしきり皆を仰天させた暴露会議の後は、溜まった書類仕事に追われる通常業務に戻った。直近の任務依頼は無かったため、単調な事務作業を定時まで行い、伸びをして帰り支度をしているとオフィスのドアがノックされた。
「お疲れ様、璃津。もう帰れる?」
「うん。長門も上がり?」
「そうだよ。一緒に帰ろうと思って、お迎えに上がりました」
丹生は軽く笑ってジャケットとクラッチバッグを取り上げる。
「晩メシどうする?」
「食べて帰ろう。何が良い?」
「秋刀魚の塩焼き、今が旬だし」
「了解。じゃ、行こうか」
出勤時と同様に揃ってエレベーターへ乗り、共に朝夷の車で退勤する。東銀座の本格和食店で炭火焼きの秋刀魚を堪能し、丹生の仕事着を数着と日用品を買ってから帰宅した。
コーヒーを入れながら、カウンターの向こうに座る朝夷へ揶揄うような声をかける。
「やっぱりお前って舌が肥えてるよな。行くとこ行くとこ、雰囲気良くて美味い店ばっかりだわ。あの秋刀魚の味覚えたら、もう他じゃ食べられなくなるかも」
「秋は秋刀魚だよね。食べたくなったらいつでも連れて行ってあげる」
丹生はカウンターにもたれて頬杖をつき、首をかしげて笑った。
「それにしても、まさか会議中に交際宣言とはさすがに驚いた。結婚前提ってなんだよ。出来もしないことを言うヤツじゃないと思ってたんだけどな?」
「それくらい真剣って事実には違いないよ。結婚なんて書類上の約定に過ぎないけど、俺たちには誓約があるでしょ。形式なんて問題じゃないさ」
朝夷はいずれ、自分の子を産んだ女性の誰かを正式な妻とせねばならない。それは次期当主として重要な役割のひとつだ。当然、それは丹生も承知のうえである。
「ところで、阿久里との話はどうだった? 俺じゃなくお前を呼びつけるあたり、アイツらしい女々しさだったけど」
「どうってことなかったよ。璃津と付き合ってるのかって聞かれたから、そうだって答えただけ。ついでに、お前は璃津の眼中に無いって言っておいた」
「それで納得した?」
「少なくとも反論はしてこなかったよ。妄想野郎って罵られたけどね」
朝夷が愉快そうに答えると、丹生は鼻で笑って電子タバコを咥えた。
「妄想野郎はてめぇだって言ってやれば良かったのに。たかが1回舐めさせたくらいでのぼせやがって」
「しばらく注意したほうがいい。ああいうのがキレると、何しでかすか分からないから」
「分かってる。精々、刺激しないようにするさ」
朝夷はコーヒーをひと口飲み、煙草に火をつけながら呟いた。
「……少しだけ、憐れだと思ったよ。状況が違えば、俺も阿久里みたいになってたかもしれない……」
この男が同情するなんて初めてじゃないのか、と驚きつつカウンターを回り込み、朝夷の前に立つ。見上げてくる綺麗な瞳は、不安とも恐怖とも違う複雑な色に揺れていて、ずいぶん人間らしい表情をするようになったなと思った。そっと頬を撫で、髪に指を差し込みながら、丹生は優しく囁いた。
「長門は優しいな。そして誰よりも強い。だから俺はお前が良いのさ」
朝夷はどこか痛むような表情で笑うと、丹生の体に腕を回して抱きしめた。
「……俺は、ただの馬鹿かもしれないよ。お前の傍に居るために、自分から地雷源に飛び込んでいるみたいだ。どんなリスクを犯してもお前に近づきたくて、傍に居たくてたまらない。でも、地雷を踏むのも恐れてる……」
「良いんじゃないか、それで。俺たちは元々、壊れ者同士だ。うっかり吹っ飛んだとしても、何度だって直してやる。歪んでいようが欠けていようが気にしない。逆の立場でも同じだろ? お前の周りだって地雷だらけなんだから」
世界中を探しても、これ以上の理解者は居ないだろう、と朝夷は思った。何年経っても、何度繰り返しても必ず安堵をもたらしてくれる。この幸福感を伝える術がもっと多ければ良いのに、と残念に思いながら、朝夷は心を込めて囁く。
「……大好きだよ、璃津」
「うん、知ってる」
恋人や夫婦の絆というのは、川の小石のように長い時間をかけて擦れ合い、角が取れて丸くなっていくと言う。
しかし、この2人は違う。お互いを引き裂き、砕き、叩き割ってバラバラにし、欠片をモザイクのように繋ぎ合わせる。繰り返すうちにどちらの欠片か分からなくなり、いつしか混ざり合ってひとつになっていく。歪で異質な愛の形は、世に二つとないモザイク画を創り上げているようだった。
◇
時は少し遡り、丹生たちが退勤したのと同じ頃。椎奈は阿久里のオフィスを訪ねていた。沈んだ表情でデスクワークに没頭する阿久里に、椎奈は重たい声をかける。
「今日も帰らないつもりか?」
「……ああ。ここの所、色々あったから立て込んでるんだ。葵は早く帰って休みな」
顔も上げずに答える阿久里に、椎奈は深く嘆息した。丹生が拉致された日から今日に至るまで、阿久里は局泊まりを続けている。家には着替えを取りに戻るくらいで、職場以外ではほとんど会っていない。
いよいよか、と椎奈は思った。阿久里の気持ちが自分から離れていることには、もう何年も前から気付いていた。人間関係に行き詰まるのは初めてではなく、むしろよく持ったほうだった。
椎奈は自閉症スペクトラム障害を抱えている。相手の気持ちを察することが出来ず、傷つけたり追い詰めるような言動を悪気なく取ってしまう。雑談が苦手で、何を話せばいいか分からない。自分のこだわりや考えを変えられず、周囲のアドバイスを受け入れないため、頑固者と敬遠される。
主にこのような症状で、昔から友人を作ることや集団で遊ぶことが極端に苦手だった。成長して恋人ができるようになっても、やはり長続きしなかった。
幸い、個人主義の特別局において支障は無く、エージェント同士で腹を割って話す必要も無いため、業務連絡さえこなせば事足りた。
唯一の問題は、バディとの関係だった。阿久里の整った造作も、物腰柔らかで穏やかな性格も好みで、付き合おうと言われた時はすぐに承諾した。
しかし、無自覚に出ていた椎奈の嫉妬と束縛により、阿久里は徐々に疲弊していった。それに気づいた時には既に遅く、また失敗したなと思った。いつ別れを切り出されるかと怯えていたが、結局、今に至るまで何も言われず、阿久里は疲れたように笑うだけだった。
ただ、丹生が奪還されてから判ったことがある。付き合い始めた頃、自分へ向けられていた熱のこもった視線が、丹生へ向けているのに気付いてしまったのだ。
不思議と怒りは湧かなかった。とっくに心が離れていると分かっていたからか、相手が丹生だからか、その両方か。
惜しむらくは、丹生との恋路を応援するのは無理だということだ。これまで有耶無耶だった丹生と朝夷の関係が明白になり、誰にも付け入る隙など無いのだと、今朝はっきり見せつけられた。
こんな自分に12年も耐えてくれた阿久里と、友人として気さくに接してくれた丹生、どちらも好きだ。2人が幸せになってくれれば最も良かったが、それはもう叶わぬ話となってしまった。せめて彼を解放してやらねばと、覚悟を決めてここへ来たのである。
「阿久里、話がある」
「……後にしてくれないか。手が離せないんだ」
「では、そのままで良いから聞いてくれ。別れよう」
ぴた、と阿久里の手が止まる。ゆっくりと視線を上げて椎奈を見た顔は、何を言われたか理解できていないようだった。
「これまでずっとお前を縛り付けてしまって、本当にすまなかった。お前の気持ちが、もう私に無いことは分かっていたが、今まで気付かないふりをしていた。卑怯な真似をしてしまった」
「……いつ、からだ……?」
絞り出すように問われ、椎奈は眉根を寄せて薄く笑った。
「数年前だ。お前から切り出されるまで、触れないでおこうと思った。しかし、お前はいつまでも自分を殺し、耐えていた。もう見ていられない」
「……そんなに前から……」
阿久里は指からボールペンを取り落とし、全身を脱力させてオフィスチェアに沈む。
頭の中を様々な思いが駆け巡った。なぜ今更そんなことを。どうしてこのタイミングで。よりにもよって、この最低で最悪な日に切り出したのか。
もうこれ以上、最悪な気分になることは無いと思っていたのに、まだ下があったのか、と阿久里は自嘲の笑みを漏らした。卑怯なのは自分だと思っていたが、とんだ勘違いだったと日に2度も思い知らされるとは、予想していなかった。
疑う余地も無く愛されていると思っていた者の片方はただの気まぐれのお遊びで、もう片方は見て見ぬふりをしていたのだ。
まるで道化だな、と阿久里は思った。無知な己は酷く滑稽で愚かで惨めだ。
交際宣言をした丹生と朝夷は誰より幸せそうで、別れ話を切り出した椎奈は潔く毅然としている。最後の最後まで幻想にしがみついていた自分だけが醜く、吐き気がするほど矮小だった。
やがて思い悩むのにも疲れ果て、何もかもどうでも良い、と阿久里は思考を放棄した。
「私は今夜のうちに荷物をまとめて出ていく。だからお前もいい加減、家に帰って体を休めてくれ。バディの解消は任せる。私はどちらでも構わない。では、今まで有難う。これからはチームメイトとして、よろしく頼む」
「……ああ。こちらこそよろしく、椎奈」
阿久里の口から聞く数年ぶりの苗字に胸が痛んだが、椎奈は笑ってオフィスを後にした。
静まり返った廊下を歩くうち、椎奈の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。口を手でおおい、嗚咽を堪えながらよろよろと歩いていると、向かいの角から現れた羽咲が駆け寄ってきた。
「どうした、椎奈! 大丈夫か!?」
「……な、何でもない……。大丈夫だ……」
羽咲はすぐ後ろの阿久里のオフィスを見て、即座に何があったか察した。そっと椎奈の肩に手を置き、労るように囁く。
「よく頑張ったな」
そのひと言で張り詰めていた神経が弛み、椎奈は羽咲に縋り付き、声を殺して泣いた。
(どこもかしこもボロボロかよ。まるでドミノ倒しだな。まぁ、嘘にまみれて窒息するより、よっぽどマシだけど。くっついただけでこんなに被害者が出るとは、つくづく厄介なバディだな、アイツら)
羽咲は皮肉っぽく口角を上げながら、そんなことを思うのだった。
「お疲れ様、璃津。もう帰れる?」
「うん。長門も上がり?」
「そうだよ。一緒に帰ろうと思って、お迎えに上がりました」
丹生は軽く笑ってジャケットとクラッチバッグを取り上げる。
「晩メシどうする?」
「食べて帰ろう。何が良い?」
「秋刀魚の塩焼き、今が旬だし」
「了解。じゃ、行こうか」
出勤時と同様に揃ってエレベーターへ乗り、共に朝夷の車で退勤する。東銀座の本格和食店で炭火焼きの秋刀魚を堪能し、丹生の仕事着を数着と日用品を買ってから帰宅した。
コーヒーを入れながら、カウンターの向こうに座る朝夷へ揶揄うような声をかける。
「やっぱりお前って舌が肥えてるよな。行くとこ行くとこ、雰囲気良くて美味い店ばっかりだわ。あの秋刀魚の味覚えたら、もう他じゃ食べられなくなるかも」
「秋は秋刀魚だよね。食べたくなったらいつでも連れて行ってあげる」
丹生はカウンターにもたれて頬杖をつき、首をかしげて笑った。
「それにしても、まさか会議中に交際宣言とはさすがに驚いた。結婚前提ってなんだよ。出来もしないことを言うヤツじゃないと思ってたんだけどな?」
「それくらい真剣って事実には違いないよ。結婚なんて書類上の約定に過ぎないけど、俺たちには誓約があるでしょ。形式なんて問題じゃないさ」
朝夷はいずれ、自分の子を産んだ女性の誰かを正式な妻とせねばならない。それは次期当主として重要な役割のひとつだ。当然、それは丹生も承知のうえである。
「ところで、阿久里との話はどうだった? 俺じゃなくお前を呼びつけるあたり、アイツらしい女々しさだったけど」
「どうってことなかったよ。璃津と付き合ってるのかって聞かれたから、そうだって答えただけ。ついでに、お前は璃津の眼中に無いって言っておいた」
「それで納得した?」
「少なくとも反論はしてこなかったよ。妄想野郎って罵られたけどね」
朝夷が愉快そうに答えると、丹生は鼻で笑って電子タバコを咥えた。
「妄想野郎はてめぇだって言ってやれば良かったのに。たかが1回舐めさせたくらいでのぼせやがって」
「しばらく注意したほうがいい。ああいうのがキレると、何しでかすか分からないから」
「分かってる。精々、刺激しないようにするさ」
朝夷はコーヒーをひと口飲み、煙草に火をつけながら呟いた。
「……少しだけ、憐れだと思ったよ。状況が違えば、俺も阿久里みたいになってたかもしれない……」
この男が同情するなんて初めてじゃないのか、と驚きつつカウンターを回り込み、朝夷の前に立つ。見上げてくる綺麗な瞳は、不安とも恐怖とも違う複雑な色に揺れていて、ずいぶん人間らしい表情をするようになったなと思った。そっと頬を撫で、髪に指を差し込みながら、丹生は優しく囁いた。
「長門は優しいな。そして誰よりも強い。だから俺はお前が良いのさ」
朝夷はどこか痛むような表情で笑うと、丹生の体に腕を回して抱きしめた。
「……俺は、ただの馬鹿かもしれないよ。お前の傍に居るために、自分から地雷源に飛び込んでいるみたいだ。どんなリスクを犯してもお前に近づきたくて、傍に居たくてたまらない。でも、地雷を踏むのも恐れてる……」
「良いんじゃないか、それで。俺たちは元々、壊れ者同士だ。うっかり吹っ飛んだとしても、何度だって直してやる。歪んでいようが欠けていようが気にしない。逆の立場でも同じだろ? お前の周りだって地雷だらけなんだから」
世界中を探しても、これ以上の理解者は居ないだろう、と朝夷は思った。何年経っても、何度繰り返しても必ず安堵をもたらしてくれる。この幸福感を伝える術がもっと多ければ良いのに、と残念に思いながら、朝夷は心を込めて囁く。
「……大好きだよ、璃津」
「うん、知ってる」
恋人や夫婦の絆というのは、川の小石のように長い時間をかけて擦れ合い、角が取れて丸くなっていくと言う。
しかし、この2人は違う。お互いを引き裂き、砕き、叩き割ってバラバラにし、欠片をモザイクのように繋ぎ合わせる。繰り返すうちにどちらの欠片か分からなくなり、いつしか混ざり合ってひとつになっていく。歪で異質な愛の形は、世に二つとないモザイク画を創り上げているようだった。
◇
時は少し遡り、丹生たちが退勤したのと同じ頃。椎奈は阿久里のオフィスを訪ねていた。沈んだ表情でデスクワークに没頭する阿久里に、椎奈は重たい声をかける。
「今日も帰らないつもりか?」
「……ああ。ここの所、色々あったから立て込んでるんだ。葵は早く帰って休みな」
顔も上げずに答える阿久里に、椎奈は深く嘆息した。丹生が拉致された日から今日に至るまで、阿久里は局泊まりを続けている。家には着替えを取りに戻るくらいで、職場以外ではほとんど会っていない。
いよいよか、と椎奈は思った。阿久里の気持ちが自分から離れていることには、もう何年も前から気付いていた。人間関係に行き詰まるのは初めてではなく、むしろよく持ったほうだった。
椎奈は自閉症スペクトラム障害を抱えている。相手の気持ちを察することが出来ず、傷つけたり追い詰めるような言動を悪気なく取ってしまう。雑談が苦手で、何を話せばいいか分からない。自分のこだわりや考えを変えられず、周囲のアドバイスを受け入れないため、頑固者と敬遠される。
主にこのような症状で、昔から友人を作ることや集団で遊ぶことが極端に苦手だった。成長して恋人ができるようになっても、やはり長続きしなかった。
幸い、個人主義の特別局において支障は無く、エージェント同士で腹を割って話す必要も無いため、業務連絡さえこなせば事足りた。
唯一の問題は、バディとの関係だった。阿久里の整った造作も、物腰柔らかで穏やかな性格も好みで、付き合おうと言われた時はすぐに承諾した。
しかし、無自覚に出ていた椎奈の嫉妬と束縛により、阿久里は徐々に疲弊していった。それに気づいた時には既に遅く、また失敗したなと思った。いつ別れを切り出されるかと怯えていたが、結局、今に至るまで何も言われず、阿久里は疲れたように笑うだけだった。
ただ、丹生が奪還されてから判ったことがある。付き合い始めた頃、自分へ向けられていた熱のこもった視線が、丹生へ向けているのに気付いてしまったのだ。
不思議と怒りは湧かなかった。とっくに心が離れていると分かっていたからか、相手が丹生だからか、その両方か。
惜しむらくは、丹生との恋路を応援するのは無理だということだ。これまで有耶無耶だった丹生と朝夷の関係が明白になり、誰にも付け入る隙など無いのだと、今朝はっきり見せつけられた。
こんな自分に12年も耐えてくれた阿久里と、友人として気さくに接してくれた丹生、どちらも好きだ。2人が幸せになってくれれば最も良かったが、それはもう叶わぬ話となってしまった。せめて彼を解放してやらねばと、覚悟を決めてここへ来たのである。
「阿久里、話がある」
「……後にしてくれないか。手が離せないんだ」
「では、そのままで良いから聞いてくれ。別れよう」
ぴた、と阿久里の手が止まる。ゆっくりと視線を上げて椎奈を見た顔は、何を言われたか理解できていないようだった。
「これまでずっとお前を縛り付けてしまって、本当にすまなかった。お前の気持ちが、もう私に無いことは分かっていたが、今まで気付かないふりをしていた。卑怯な真似をしてしまった」
「……いつ、からだ……?」
絞り出すように問われ、椎奈は眉根を寄せて薄く笑った。
「数年前だ。お前から切り出されるまで、触れないでおこうと思った。しかし、お前はいつまでも自分を殺し、耐えていた。もう見ていられない」
「……そんなに前から……」
阿久里は指からボールペンを取り落とし、全身を脱力させてオフィスチェアに沈む。
頭の中を様々な思いが駆け巡った。なぜ今更そんなことを。どうしてこのタイミングで。よりにもよって、この最低で最悪な日に切り出したのか。
もうこれ以上、最悪な気分になることは無いと思っていたのに、まだ下があったのか、と阿久里は自嘲の笑みを漏らした。卑怯なのは自分だと思っていたが、とんだ勘違いだったと日に2度も思い知らされるとは、予想していなかった。
疑う余地も無く愛されていると思っていた者の片方はただの気まぐれのお遊びで、もう片方は見て見ぬふりをしていたのだ。
まるで道化だな、と阿久里は思った。無知な己は酷く滑稽で愚かで惨めだ。
交際宣言をした丹生と朝夷は誰より幸せそうで、別れ話を切り出した椎奈は潔く毅然としている。最後の最後まで幻想にしがみついていた自分だけが醜く、吐き気がするほど矮小だった。
やがて思い悩むのにも疲れ果て、何もかもどうでも良い、と阿久里は思考を放棄した。
「私は今夜のうちに荷物をまとめて出ていく。だからお前もいい加減、家に帰って体を休めてくれ。バディの解消は任せる。私はどちらでも構わない。では、今まで有難う。これからはチームメイトとして、よろしく頼む」
「……ああ。こちらこそよろしく、椎奈」
阿久里の口から聞く数年ぶりの苗字に胸が痛んだが、椎奈は笑ってオフィスを後にした。
静まり返った廊下を歩くうち、椎奈の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。口を手でおおい、嗚咽を堪えながらよろよろと歩いていると、向かいの角から現れた羽咲が駆け寄ってきた。
「どうした、椎奈! 大丈夫か!?」
「……な、何でもない……。大丈夫だ……」
羽咲はすぐ後ろの阿久里のオフィスを見て、即座に何があったか察した。そっと椎奈の肩に手を置き、労るように囁く。
「よく頑張ったな」
そのひと言で張り詰めていた神経が弛み、椎奈は羽咲に縋り付き、声を殺して泣いた。
(どこもかしこもボロボロかよ。まるでドミノ倒しだな。まぁ、嘘にまみれて窒息するより、よっぽどマシだけど。くっついただけでこんなに被害者が出るとは、つくづく厄介なバディだな、アイツら)
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