九段の郭公

四葩

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6章

63【嗤う蝉より啼く蛍】

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「本当に良かったの?」
「なにが?」
「今夜、ここに来て」

 小さなペンダントライトがひとつ灯る薄暗い寝室で、彼らは向き合っていた。

「さぁ……。なにが良くてなにが悪いのか、今は分からない。ただ、どうしてもお前に言いたいことがあったんだ」
「なに?」
「独りにしてごめん。消えないって言ったのに、嘘になってごめんな、長門ながと

 その言葉に、「ああ……」と感嘆のような、何かを押し殺しているような吐息が漏れた。

「良いんだよ、璃津りつ……。そんなことは、少しも気にしなくて良いんだ。生きていてくれたなら、それ以上なんて望まないから……」
「望めよ、今夜くらい。求めろよ、少しくらい」
「駄目だよ……。許されない……」

 諦念の表情で首を振る朝夷あさひなを見つめ、どうしても伝えたかった言葉を声に乗せる。

「俺、あのとき思ったんだ。帰らなきゃ、またお前が独りになるって。それが何よりも怖かった」

 仄暗闇の中、かすかに朝夷の体が震える。形のいい唇が幾度か開いたり閉じたりした後、こぼすように心もとない声が降ってくる。

「……そんなこと言われたら、俺……耐えられない……。嬉しくて、幸せすぎて……死んでしまいそうだ……」
「死なせないよ、俺が死ぬまで。お前が俺を殺すまで、俺がお前を生かし続ける」

 夜の静寂しじまにこもった嗚咽が響く。膝からくずおれた体を優しく胸に抱き、ようやく聞くことのできた泣き声に、丹生たんしょうは心の底から安堵する。「ごめん」と囁く柔い声音に呼応して、幸福に窒息した嗚咽は泣涕きゅうていへ変わる。
 大気を震わせ、闇を裂き、天を貫く。狼の遠吠えにも似たその慟哭は、しんと冷えた寝室の壁にこだました。



 救出された後、特別局へ戻った丹生は、おおむね予想通りの歓迎を受けた。
 任務を放り出して帰って来ていた羽咲うさきを筆頭に、椎奈しいな小鳥遊たかなしつじ神前かんざきまで目に涙を溜め、おしくらまんじゅうよろしく丹生をもみくちゃにした。クロス研修官たちも泣きながら輪に加わり、口々に安堵の声を上げる。
 少し離れた所で阿久里あぐりは目頭を押さえてうつむき、郡司ぐんじは泣き笑いのような顔をしていたが、なつめは丹生をひと目見るなりラウンジから出て行った。
 ユーバ研修官らは阿久里たちの傍に立ち並び、顔を手や腕でおおって感極まっている。それを横目に丹生は、甲子園で見るような光景だな、と思った。
 救出されてからこっち、今までのことや現在のすべてが、他人事ひとごとのように遠く感じていた。全体がぼんやりしていて現実味がなく、まるで夢でも見ているようだ。
 最初は、極限状態から急に開放されたせいで、まだ実感が湧いていないのだろうと思っていた。皆の歓迎を受けてもなお、その妙な感覚は抜けず、顔では笑って見せていたが、感動も安堵も起こらなかった。
 その後、今回の件は第一級特務秘匿事案に認定されていたため、事情聴取を受けに1人で内閣情報調査室へおもむいた。更科さらしなが付き添うと言ったが、情報漏洩を防ぐためと内調から拒否されたのだ。
 最初に出迎えたのは、朝夷あさひな 周防すおうだった。

「やぁやぁ、君が丹生君だねぇ。初めまして、長門の兄の周防です」
「初めまして」

 誰も居ない小会議室へ通されると、貼り付けたような笑みを浮かべ、わざとらしいほど朗らかな挨拶と共に歩み寄ってくる。握手でもするのかと思いきや、力強く抱きしめられた。初対面なのに、いやに馴れ馴れしいなと思っていると、耳元で低く囁かれた。

「帰ってきちゃったのかぁ……しかも無傷で。本当に残念でならないよ……」

 内調に推していた話といい、G社の件から何かおかしいと思っていたが、これではっきりした。近頃の厄介事は、やはりこの男が糸を引いていたのだ。G社と璃弊リーパンの繋がりも、恐らく周防の入れ知恵で隠されていたのだろう。丹生と長門を引き離すか、どちらかが負傷か死亡するよう仕向けていたのだ。

(こいつの悪意には際限がないのか? 拉致まで仕組んだとは考えにくいけど、やりかねないな。少なくとも捜索に協力はしてないだろうし、むしろ妨害してそうだ。こんなのが身内とは、つくづく長門が可哀想になるな)

 周防と長門の深い溝を知る丹生がそんなことを考えていると、じわじわと抱きしめる腕の力が強くなり、痛みを伴い始める。

「……どいつもこいつも、本当に目障りだなぁ。邪魔なんだよなぁ……特にお前がさぁ……。なに戻ってきてんだよ……なんで生きてんだよ……。お前さえ居なきゃ、あんな不具者、とっくに追い出せてたのにさァ……。ああァ鬱陶しい……鬱陶しいなァ本当にィ! 頼むからさっさと死んでくれよォ!」
「……ぐっ……ぅ゙、あ゙……ッ!」

 ぎりぎりと締め上げながら、周防はどす黒い声で怨嗟の言葉を吐く。ひょろりとした体つきからは想像もできない怪力で、抜け出すのはもう無理だった。
 肩が、腕が、肋骨が、背骨が、上半身の骨と関節が乾いた音を立てて軋む。肺が押し潰され、呼吸ができなくなる。「死ね」と繰り返す呪詛の叫声きょうせいが鼓膜を叩く。
 そうしてようやく、丹生に現実感が戻ってきた。

(長門の兄弟とは思えない馬鹿さ加減だな、イカレっぷりは相当だけど。ここで俺を締め殺したら、それこそ次期当主を狙うどころじゃなくなるだろうに。そんなんだから、誰からも認められないんだわ。ああ、でもこんな所で死んだら、やっぱりあいつが可哀想だ……どうしようかな……)

 苦痛に顔を歪ませながら思案していると、会議室の扉が音を立てて開き、鋭い一喝が響いた。

「やめなさい!」

 一瞬で強靭な腕から開放され、反動で倒れかけるのを背後の人物に支えられた。声の主は朝夷 茴香ういきょうだった。周防と茴香は直系の姉弟である。

「姉さん……。なぜここに……」
「貴方、なにを仕出かしたか分かっているの? 無関係な人達まで巻き込んで、許されないわよ。これ以上、馬鹿な真似はしないでちょうだい」

 周防は呆然と茴香を見つめていたが、やがて低く笑いながら呟いた。

「……ああ、そうか……それを助けたのは姉さんだったのかぁ……。どうりで無事に戻ってきたワケだ……。そっかそっかぁ……姉さんまで僕を裏切るのかぁ……」
「周防! いい加減に目を覚ましなさい!」
「目を覚ますべきは姉さん達だ! あんな木偶でくが跡取りだなんて、どう考えてもおかしいだろう! そこの試情馬が居なきゃ、子種も残せない不能だぞ!? お爺様もお父様もどうかしてるが、いよいよ姉さんまでおかしくなったのか!?」
「……おかしいのは貴方でしょう……。もう辞めてちょうだい、お願いよ……」

 切々と訴える茴香に、周防はしばし押し黙っていたが、おもむろに手のひらで顔をおおい、けたたましい笑い声を上げた。それはもはや、狂人そのものに見えた。
 弟のそんな姿を直視するのが辛いのか、茴香は唇を噛んで目を伏せる。丹生は金属が擦れるような高笑いがやむまで、ぼんやり周防を見つめていた。
 やがて周防は脱力し、笑いすぎて掠れた声で呟いた。

「あーあ……姉さんだけは解ってくれてると信じてたのになァ……もういいや。これからは自分だけを信じることにするよ……」
「待ちなさい、周防! 話を聞いて!」

 茴香の呼び掛けに振り返ることなく、周防はゆらゆらと体を揺らしながら出て行った。
 重い沈黙が流れた後、茴香は毅然とした面持ちを取り戻して丹生へ向き直った。緩く巻かれた黄褐色のロングヘアで、四十しじゅうを過ぎているとは思えない瑞々しい美貌だ。凛とした知性と威厳を持ち、芯のある聡明な顔つきをしている。
 丹生は初めて見る姿に、実の姉弟なのに周防とはまったく似ていないなと思った。それは恐らく、性格の違いによるものなのだろう。

「貴方にはいくら謝っても足りないわね。言葉もないわ……。とにかく、無事で良かった」
「いえ。こちらこそ何度も助けて頂き、有難うございます。初めまして、丹生 璃津です」
「ああ、私としたことが、挨拶が遅れてごめんなさい。朝夷 茴香よ。いつも愚弟がお世話になっているわね、丹生調査官」

 握手を交わして微笑を浮かべる茴香からは、若くして防衛事務次官に上り詰めただけある利発さと、さっぱりした気風の良さが伺えた。
 12年も関わっていれば、朝夷家にまつわる事情にもある程度、詳しくなる。
 長門の家庭事情はかなり複雑で、腹違いの姉、兄、弟と実妹が居る。茴香と周防の母は同じだが、陸奥むつはまた別だ。
 茴香と長門は疎遠だったが、今回の拉致事件に少なからず周防が絡んでいると知り、実弟の粗相に責任を感じると同時に、異母弟とそれに深く関わる丹生の身を案じ、救出に動いたのだった。
 周防と違い、茴香は長門を跡取りとして認めており、身内の情もあるらしい。丹生にも友好的であることは、一連の行動から見て取れた。
 その後の聞き取りでは、状況説明のほとんどを茴香がおこない、丹生は簡単な質問に淡々と答え、日没にはすべての聴取が終了した。
 特別局まで送るという茴香の申し出を丁重に断り、丹生は内閣府庁舎前をゆったりと歩く。
 職務から開放された丹生は、大きな二択に直面していた。今夜、どこへ帰るのか。誰の元へ行くのか。ぼんやりと中指にはまった指輪を見つめながら考える。

(これは偽物、代替品だ。あの人から貰った物じゃない。思えば、あの人とはなぜかすれ違ってばかりだ。12年越しに体を繋いですぐ離れて、恋人になったかと思えばまた離れて……。1歩進むたびに障害が出る。縁がない……って気がする。こういうの信じてないつもりなんだけど、やっぱり擦り込まれてるのかな……)

 指輪をくるくると回してみる。まったく同じ物だ。黙っていれば誰にも分からない。それでも嘘だ。「好きなのは貴方だけ」と呆気なく嘘をついた。この嘘も重ねて塗り固めてしまえば、再び仮初の恋人生活が始まるのだろう。
 行き着く先はどうなるのか、考えるまでもない。自分から離れるのが先か、向こうが気付くのが先かの違いしかない。そんな関係に意味があるのか、面白みがあるのか、楽しみがあるのか。
 分からない。
 ゲーム理論で考えれば、失うには痛い駒だ。それは間違いない。
 しかし、感情論では駒もゲームも、もうどうでも良かった。今、したいことはひとつだけ。求めているのはひとつだけ。会いたいのは1人だけ。
 丹生はポケットから再支給された社用携帯を出し、迷わず電話をかけた。3コールもしないうちに繋がった相手へ短く伝える。

「迎えに来て、内閣庁舎前。連れて帰って、お前ん家に」
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