九段の郭公

四葩

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6章

58【思い想いの朝】

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 どんなに辛い事があろうと、どんなに哀しい事があろうと、必ず朝は来る。

阿久里あぐり
 枕元の携帯を取り、鳴り響くアラームを解除する。
 久し振りに夢を見た。つい数ヶ月前の何気ない日常だったが、随分、昔のことのように感じる。
 写真のフォルダを開いてみると、屈託の無い彼の笑顔が出迎えた。並んで映る2人は仲睦まじく、当時の会話が脳裏に蘇る。

「阿久里ー! 見て見て、機種変したー!」
「おお。それ、昨日出た最新型じゃん。性能はどう?」
「んー、よく分かんない。バッテリーは持つようになったよ」
「ハハ、それじゃあ宝の持ち腐れじゃないの。確か、液晶とカメラの精度が上がったって記事で見たけど」
「そうなの? じゃあ一緒に写真撮ろ!」
「いいよ。撮ったら俺にも送ってね」
「うん、いくよー」

 寄せられた顔に胸が高鳴った。香る彼の香水と煙草の匂い。今でも鮮明に思い出せる。肌の感触、唇、体温。
 美味しそうに食事する顔、楽しそうに歓談する顔、疲れてデスクで眠る顔。気づけばフォルダは彼の写真で溢れていた。スワイプしながら1枚ずつ見ていくと、状況も会話もはっきり思い出せる。彼を構成するすべてが脳裏に焼き付き、忘れることなど出来やしない。
 そっとタブを閉じ、重い体を起こして浴室へ向かう。
 振り返っている暇はない。再びこの手で抱きしめるまでは、絶対に諦めない。抱きしめたら二度と離さない。もう、ただの同僚ではないのだから。
 かつては、笑顔が見られる距離に居られれば、それだけで良いと思っていた。友達なら側に居てもおかしくないと。
 しかし、あっさり君に触れる男を見て、報われない想いばかりがつのっていって、どうしたらいいか分からなくなった。心がいっぱいいっぱいになる度に、君の優しさに触れて泣きたくなった。
 やっぱり友達ではいられなかった。だって君と繋がりたくて仕方がなくて、もう君を独占しないと満足できないから。
 嘘ならいくらでも吐けるのに、心だけは馬鹿みたいに正直だ。キスがしたい。抱きしめたい。繋がりたい。
 もう昔には戻れない。君に嫌われたら生きていけないと思うほど、君に溺れているから。
 必ず救い出してみせる。例えどんなに大きな代償を支払うことになっても。


朝夷あさひな
 朝となく夜となく、通知音を鳴らし続ける端末に嫌気がさす。画面を埋め尽くす通知の中に、良い知らせなどひとつも有りはしない。進展があったなら、電話で報告するはずだからだ。
 あちらも駄目、こちらも駄目。そんな知らせばかりが蓄積され、時間はただ浪費されていく。
 ツテというツテ、コネというコネは使い果たした。些細な情報も逃さぬよう、各方面に網を張り巡らせた。結果は先の端末の通りである。
 心底、使えない連中だとうんざりする。
 人ひとり探すだけなのに、何故こんなに時間がかかるのか。僅かな手がかりの一端も掴めないなど、まるで話にならない。
 ひと筋縄ではいかない相手だというのは、重々、承知だ。それにしても、お粗末と言わざるを得ない。
 もしも彼を失えば、自分はこの国を見限るだろう。ひとりの男すら守れないこの国にも、大層な家名にも、価値など見出せるはずがない。
 と、着信音が鳴り響いた。相手は修羅兄弟の片割れ、公安警察のなつめ 篤守あっしゅだ。僅かな期待と共に通話ボタンを押す。

【おはようございます、長門ながとさん】
「ああ、おはよう」
【なんですか、その覇気のない声は。貴方、また寝てないんですね】
「無能どもの無意味な通知音が鳴りっぱなしでね。睡眠妨害だよ」
【やたらめったら手を回すからでしょう。無価値な情報を溜め込むのは、愚の骨頂ですよ】
「お言葉、痛み入るよ。それで、この電話は価値あるものなんだろうね」
【当然です。逢坂おうさかが動きました。璃弊リーパンに接触するつもりでしょう】
「そうか。ようやく重い腰を上げたな、狸ジジイめ」
【そちらの美人さんのおかげですよ。但し、あまり期待し過ぎないように。ワンルイが出てくる可能性は、無いと思っておいたほうが良いでしょう】
「それは承知している。むしろ、下っ端のほうが色々と都合が良い。君たちとしても、そうじゃないのか?」
【そうですね。そこでひとつ、保険として欲しいカードがあります】
「マトリならもう手配済みだ。ヤツらも逢坂たちを張ってるはずだから、すぐ繋がるだろう。念の為、追加の人員を要請させるよ」
【話が早くて助かります。それから長門さん……】
「なにかな?」
茴香ういきょう事務次官から伝言です。〝鳥を放った〟と】
「鳥を……? それは確かか?」
【はい。それも赤い鳥、次官の愛鳥です。お姉様は随分、弟さん思いのようですね】
「信じられない……」
【これで少しは期待値が上がるでしょう。彼らが動いて、解決しなかった事例は無いと聞きますから】
「ああ……有難いよ……」
【長門さん、食事と睡眠はきちんと摂ってください。セルフコンディショニングも戦いのひとつですよ】
「……そうだな。有難う、篤守君」
【では、また進展があればご連絡します】

 端末を置くと、思わず深い溜め息が出る。
 ようやく希望が湧いたと同時に驚愕していた。まさか『籠の鳥』を出してくるとは、予想もしていなかったのだ。
 朝夷あさひな 茴香ういきょうは長門の異母姉で、防衛省の事務次官を務めている。防衛省にも、特別局のように表向き存在しない特殊部隊がある。それが通称『籠の鳥』だ。非常に機密性が高く、官界でも都市伝説と化している存在である。
 おそらく、これから一気に事態は進展するだろう。ヘッドボードの煙草を取って火をつけ、肺の奥まで燻すように吸い込んだ。丁子ちょうじを含んだ独特の甘い薫香に、少しだけ気が落ち着く。
 数度ゆっくり燻らせた後、再び携帯を取り、発信ボタンに指をかけた。


郡司ぐんじ
 ヘッドボードの端末が着信音を響かせる。心臓がギクリと嫌な音を立てた。良くも悪くも、何かあったのは間違いない。
 冷や汗の滲む手で携帯を取った。

「……はい」
【おはよう、郡司。朝早くに悪いな】
「おはようございます、朝夷さん。何か進展が?」
【逢坂が動いたと、修羅兄弟から連絡が入った】
璃弊リーパンに接触する気でしょうか」
【恐らくな。そこで、お前に頼みたいことがある。椎奈しいなが手配してくれてるマトリに、あと数人、急ぎで増員したい。厚労省に掛け合ってくれるか?】
「ええ、もちろん。どこまで話しても?」
【すべて話してもらって構わない。この際、出し惜しみは無しだ。但し、口止めは忘れないでくれ】
「了解です。彼らは璃津りつに山ほど借りがあるので、喜んで協力してくれるはずですよ」
【ああ。お前なら上手く転がしてくれると期待してるよ】
「分かりました」

 通話を終えて大きく息を吐く。心底、良かったと思った。最悪の知らせも予想していたからだ。
 起き出してコーヒーメーカーをセットしながら、ふと考える。この12年、良き同僚であり友人であった彼との関係が微妙に変わったのは、つい数週間前だ。
 寝ぼけて抱きつかれ、好きだと囁かれた時の動揺たるや、我ながら酷い物だった。
 突然のことに驚いたのは当然としても、その後に湧き上がった喜びに、何より自分自身が驚いたのだ。
 言い訳ならいくらでもこじつけられる。人肌が恋しかったのだとか、誰にも靡かない彼の希少性だとか、久しく向けられていない好意が嬉しかったのだとか。
 その週末は彼のことで頭がいっぱいで、何も手に付かなかった。このまま有耶無耶にしておくのが得策だと解っていながら、ある種の好奇心と、ひと欠片の期待がそれを許さず。結局、翌週には彼を問い詰めてしまったのだ。
 そして初めて知った彼の想い。好意を持たれていたという事実に、ますます混乱した。正直、本人から聞かされても疑問に思うほど、そんな素振りは微塵も無かったからだ。からかわれたのではないかとさえ思う。
 確かに彼はよく懐いてくれていた。しかし、それは自分にだけではない。阿久里や棗、つじなどを始め、神前かんざき羽咲うさき椎奈しいならクロスとも仲が良かった。もういっそ、ほぼ全職員と親しかったと言ってもいい。
 何をするにも目立つ彼の言動の中に、友愛以上を感じたことはなかった。そもそも、彼自身が恋愛を遠ざけていたのだ。言い寄ってくる相手をことごとくそでにし、バディさえ歯牙にもかけない姿は、いっそ清々しかった。
 そんな彼が、一時期でも自分を想っていたなど、およそ信じられない。しかし、あの告白が嘘だったとも思えなかった。そんなことをする理由もメリットも無い。彼の性格なら、ほぼ本音だったのだろうと思う。
 人一倍、甘えたがりで寂しがりな彼が、12年も恋愛を遠ざけ続けていた理由が自分だったなら、それは罪悪感と少しの優越感をもたらした。
 だがあの時、大丈夫だと言ってくれた表情は満ち足りているように見えた。ずっと空いていた穴が塞がったような、絡んだ糸が解けたような、そんな印象を受けたのだ。きっと、彼を満たしてくれる存在ができたのだろう。自分のことを応援してくれる姿には、影も裏も無く、素直に嬉しかった。いつも僅かに寂しげだった彼の、あんなに晴れやかな顔を見るのは初めてで、心から良かったと思った。
 それなのに何故、と何度思ったか知れない。きっと、大勢が同じように思っているだろう。何故、彼がこんな目に合わなければならないのか。
 右も左も分からず、特殊な世界へ放り込まれながらも、常に明るく人当たりも良く、とても優しい。正直で、裏表も損得もなく、平等に人と向き合える。眩しいほどの存在感と、どこか不安定な危うさを持ち合わせ、皆を魅了してきた美しい男。
 彼が大切に想い、想われる相手ができたのなら、何としてもその人の元へ返してやらねばならない。それが自分に出来なかったことへの、せめてもの償いになれば良いと思うのだ。
 思い返せば、未来はどこまでも輝いているというのに、自分たちはいつも少しだけ怯えながら生きてきた。
 青紫の美しい朝焼けに、窓が染まっていく。前を向いていれば、きっとまた会える。眩しい未来は、この先もずっと続いているはずだから。今は会えない人に、見えない居場所に繋がることを祈りながら、そっと窓を開けて新しい朝を迎え入れる。好きだったと言ってくれた笑顔を、もう一度見るために。
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