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6章
57【窮鼠の夢】
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「──つ……璃津……」
誰かが呼んでいる。懐かしい、温かい声だ。
「……璃津……」
優しく頭を撫でられる感覚が心地いい。酷く安心する。
「璃津……」
抱きしめられて何度も名前を呼ばれる。心の底から喜びが湧き上がり、その体を強く抱きしめ返す。
やっと戻れたのか……良かった。寂しかったろう、心細かったろう。ずっと謝りたかった……。
「……もう離さないよ、璃津……」
ああ、もう離れない。その声も、体温も、何もかも狂おしいほど愛おしく、胸がいっぱいになる。
何があっても、二度と俺を離さないで。こんな思いはもうたくさんだ。また離れるくらいなら、いっそ……──
「……ぅ、ん……」
意識がゆっくりと浮上する。いつの間にか眠っていたらしい。誰かと強く抱き合っている。夢なのか現実なのか、区別がつかない。けれど確かに名前を呼ばれ、この手で抱きしめている。
次の瞬間、丹生の頭は完全に覚醒した。反射的に抱きついていた相手を突き離し、飛び起きた。
「おや、残念。起きてしまったか」
荒く息をつく眼前には、愉快そうに笑う王が横たわっていた。無意識とはいえ、あんな風に抱きついてしまったことに激しい自責の念が込み上げる。嫌な汗が吹き出して背を濡らし、動悸がする胸元を強く掴んだ。
「君から抱きついてくれるなんて、良い人の夢でも見ていたのかな?」
「……別に、そんなんじゃない。寝ぼけてただけだ」
額を押さえ、丹生は奥歯を噛み締めた。
(くそ! 自分を拉致監禁してる男にしがみつくなんて最悪だ! いや……そんなことより勘付かれたよな、多分……。こいつがどこまで把握してるか知らないけど、周りまで危険に晒すのは絶対に避けないと……)
焦る丹生とは対照的に、王は涼し気な声で言う。
「羨ましいな、君に愛されている者が」
「だから……そんなの居ないって。どうせ俺のことは調べてるんだろ?」
「君は10年以上、特定の相手を作っていないとか。しかし君ほど魅力的な人が独り身を貫いていたとは、到底信じられないね」
「仕事が仕事なんだ。むしろ特定の相手を作るほうが、どうかしてると思うけど」
「それを言うなら仕事は仕事、じゃないか?」
しつこいな、と思いながら緩く首を振る。この手の質問は今まで散々されてきたため、慣れきった返答をする。
「任務で体を使うことは少ないけど、皆無じゃない。仕事とは言え、そんなことしてるのに恋人を作れるほど器用じゃないんだ」
「君は真面目だね。それじゃあ、バディの彼ともそういう仲ではなかったと?」
「当然だろ。ていうかそれ、国家機密なんだけど。なに? もしかして情報が目当て?」
「違うよ、そんな目で見ないでくれ。私は君のことが知りたいだけだ」
「どうだか。俺はヒラ調査官でなんの権限も持ってない。探っても無駄だよ」
「君さえ手にできれば、他は必要ない。自覚は無いようだが、君の存在そのものが日本帝国のトップシークレットと言ってもいいんだからね」
丹生は片眉を跳ね上げて首を傾げた。
「確かに俺たちの素性は表沙汰にされないけど、トップシークレットは言い過ぎだ」
「そうじゃない、君自身の話だ。あらゆる手を使って君を調べようとしたが、予想以上に難航してね。公安庁職員ということを踏まえても、君の個人情報は異常なセキュリティレベルで秘匿されている」
それは自分に限った話ではない、と喉まで出かかった言葉を飲み込み、なるべく情報を与えないよう曖昧に答える。
「ああ……それは俺があんたに接触したからじゃない?」
「そうだろうね。手を尽くして簡単な経歴と住所を見つけたが、すべてフェイクだった」
「実際、住所不定だったんだよ。あのパーティの後から、ホテルを転々としてたから」
「光栄だな。私はそんなに影響力があったのか」
「当たり前だ」と呆れ顔をしながら、密かに安堵した。ホテル暮らしを疑われなかったということは、更科の家に身を寄せているとは知られていないのだ。ひと心地ついてミネラルウォーターを飲み、煙草に火をつける。
紫煙を吐きながら、ここに来てどれくらい経ったか考えてみた。意識がある時は王に犯され、気絶するように眠り、目が覚めればまた犯されるの繰り返しだ。食べ物などは眠っている間に補充されるため、食事の回数で日数は測れない。
拉致されてから1日ほど寝ていたのが事実だとすると、少なく見積もって3日か4日。眠っていた時間が予想より長ければ、5日以上経っているかもしれない。
(行方不明者の生存率は、72時間から格段に下がるんだっけ……。とっくに過ぎてるな。何の情報も得られなければ、捜索が打ち切られるのも時間の問題だ)
紫煙を吐きながら王を横目に見ると、愉しげな微笑を浮かべてこちらを眺めている。
「俺、まったく時間感覚が無いから分かんないけど、仕事とか平気なの? ここにいる時間、長くない?」
「おや、私の心配とは驚いたな。問題ないよ。君が眠っている間に、最低限のことは済ませているからね」
丹生は興味なさそうに「そうなんだ」と相槌を打った。
「それに面が割れている以上、出歩くより籠っているほうが安全だろう?」
「怒ってるなら怒ってると、はっきり言ってください」
皮肉と受け取った丹生が眉をひそめると、王は声を立てて笑った。
「逆だよ、願ってもない幸運な状況だ。こうして君と居られるからね」
「さすがポジティブ思考。俺は自分の首を絞めたに他ならないワケだけど」
「酷い言い草だな。そういえば腹は減っていないかい? 君は食が細いようだが」
「減ってない」
「しっかり食べなさい。好物はなんだ?」
煙草を指の間で揺らし、「これとコーヒー」と答えて口角を上げる。王は呆れ顔で首を横に振った。
「やれやれ、不健康な……。食べ物の好みだよ」
「うーん……果物とかケーキとか、甘い物はなんでも好きかな」
「偏り過ぎだ。もう少し栄養のある物を食べなければ駄目だ」
「良いじゃん、別に。長生きしたいなんて思ってないし」
「私としては、もっと体力をつけてもらわないと困るんだよ」
「困るってなに……っ」
唐突に口づけられ、強引な舌の動きに翻弄されて体から力が抜ける。
「ふ、ぅ……ッ……ちょっと、待って……」
「どうした?」
「こんな、ずっとヤるの……キツい……」
「だから体力をつけてと言っただろう?」
喉の奥で笑う王は妖艶で、どこか朝夷や更科に似た雰囲気を感じる。寝ぼけて間違えたのは、この少し意地悪な余裕のせいかもしれない。
「……スイッチ入るの、急過ぎるんだよ……。さっきまで普通に話してたくせに……」
「これでもセーブしているんだ。君が気を失わなければ、ずっと繋がっていたいくらいさ。ここも大分、私に馴染んできたしな」
暴かれ続けた後孔は、あっさりその長い指を受け入れた。違和感と快感が同時に押し寄せ、抵抗する気力も削がれる。
(駄目だ……また何も考えられなくなる……。そういう作戦か? だとしたら大成功だな。くそ……突破口が見えねぇ……)
丹生は歯噛みした。一旦、始まってしまうと、精魂尽き果てるまで終わらないのは、初日で嫌というほど分かったからだ。
今まで朝夷にハードな行為を覚え込まされた体が仇となり、常人より快楽を拾いやすく、意識も保っていられる。しかし激しすぎる行為の最中、冷静に思考することは難しい。結果的に、ただ王を喜ばせるだけとなっている現状が、なんとも腹立たしかった。
(でも、流石にずっとこんな状態ではないはず……。そのうち、もう少し自由な時間が出来るだろう。それまで焦らず、耐えるしかない……)
そうして丹生は絶え間なく続く律動に身を委ねた。
凶暴な交合が始まってから、恐らく数時間後。意識が朦朧とする丹生の耳に、久しく聞いていなかった音が飛び込んできた。携帯電話の着信音だ。必死で意識を覚醒させ、音源に視線を巡らせる。どうやら椅子にかけられた王のジャケットから響いているようだ。王が小さく舌打ちする。
「まったく……良いところで邪魔をしてくれる」
鬱陶しげに溜め息をついた王は、優しく丹生に口付けて微笑んだ。
「すまないが急を要するらしい。少し待っていてくれ」
ずるりと引き抜かれる感覚に身震いしつつ、丹生は耳をすませた。こちらに背を向けて話す会話は早口の華国語で、内容は分からない。声音から仕事だろうと察するくらいしか出来なかった。しかし、ここは携帯の電波が届くことが明確になる。重要な手がかりだ。
手短に会話を済ませた王が、携帯を置いて戻ってきた。
「悪かったね」
「いいよ……気にしないで……」
息も絶え絶えに答える丹生に、王は苦笑する。
「君にとってはこれ幸い、と言った所かな。そろそろ焦点が合わなくなっていたからね」
「……そりゃそうだよ……ハード過ぎる」
重い体に鞭打ってミネラルウォーターに手を伸ばす。
「それより大丈夫なの、電話。仕事だろ」
「ああ、少し出なければならなくなった。まったく、厄介事ばかり起こす連中だよ」
「誰が?」
「色々さ。黒社会の連中はもちろん、実業家や政治家の尻拭いまで押し付けられる」
「政治家……そんな所にまで根を張ってるなんて、闇が深いな」
「我々の存在は、日本のそれとは少し違うからね」
丹生は〝璃弊〟について教えられたことを思い出していた。
璃弊の前身は華国最大の金融都市、上海で勢力を奮っていた〝青弊〟だ。青弊は何十年も前に衰退し、消滅したとされていた。しかし、徐々に水面下で勢力を取り戻し、璃弊と名を改めて再結成。現首領、王の手腕により、再び上海マフィアの頂点に君臨する組織となった。
元を辿ればマフィアと言うより秘密結社に近く、国家規模の有事の裏には必ずその名が上がる政治的組織である。日本の極道とは違い、国や民に貢献する存在でもあるのだ。
身支度を整えた王が丹生の額へ口づけ、頬を撫でた。
「君は少し休んでいなさい。なるべく早く戻るよ」
「うん、いってらっしゃい」
何気なくかけられた丹生の言葉に、王は目を見開いた。無体を強いている相手だと言うのに見送りを言われるなど、思いもしていなかったのだ。
身動きしない王に、丹生は首を傾げて怪訝な顔をする。
「どうしたの」
「……いや、行ってくるよ」
そうして静かにドアが閉まり、丹生は煙草に火をつけてベッドへ寝転んだ。
(いってらっしゃい、なんて反射的に言っちゃったけど、思わぬ収穫だったな。あそこまで動揺するとは、案外、単純な男だ。しかも、ここに王が携帯を持って来てることが分かったのはデカい。そう簡単にはいかないだろうけど、外に知らせるチャンスはゼロじゃないかもな)
僅かに見えた光明に、丹生は口角を上げるのだった。
誰かが呼んでいる。懐かしい、温かい声だ。
「……璃津……」
優しく頭を撫でられる感覚が心地いい。酷く安心する。
「璃津……」
抱きしめられて何度も名前を呼ばれる。心の底から喜びが湧き上がり、その体を強く抱きしめ返す。
やっと戻れたのか……良かった。寂しかったろう、心細かったろう。ずっと謝りたかった……。
「……もう離さないよ、璃津……」
ああ、もう離れない。その声も、体温も、何もかも狂おしいほど愛おしく、胸がいっぱいになる。
何があっても、二度と俺を離さないで。こんな思いはもうたくさんだ。また離れるくらいなら、いっそ……──
「……ぅ、ん……」
意識がゆっくりと浮上する。いつの間にか眠っていたらしい。誰かと強く抱き合っている。夢なのか現実なのか、区別がつかない。けれど確かに名前を呼ばれ、この手で抱きしめている。
次の瞬間、丹生の頭は完全に覚醒した。反射的に抱きついていた相手を突き離し、飛び起きた。
「おや、残念。起きてしまったか」
荒く息をつく眼前には、愉快そうに笑う王が横たわっていた。無意識とはいえ、あんな風に抱きついてしまったことに激しい自責の念が込み上げる。嫌な汗が吹き出して背を濡らし、動悸がする胸元を強く掴んだ。
「君から抱きついてくれるなんて、良い人の夢でも見ていたのかな?」
「……別に、そんなんじゃない。寝ぼけてただけだ」
額を押さえ、丹生は奥歯を噛み締めた。
(くそ! 自分を拉致監禁してる男にしがみつくなんて最悪だ! いや……そんなことより勘付かれたよな、多分……。こいつがどこまで把握してるか知らないけど、周りまで危険に晒すのは絶対に避けないと……)
焦る丹生とは対照的に、王は涼し気な声で言う。
「羨ましいな、君に愛されている者が」
「だから……そんなの居ないって。どうせ俺のことは調べてるんだろ?」
「君は10年以上、特定の相手を作っていないとか。しかし君ほど魅力的な人が独り身を貫いていたとは、到底信じられないね」
「仕事が仕事なんだ。むしろ特定の相手を作るほうが、どうかしてると思うけど」
「それを言うなら仕事は仕事、じゃないか?」
しつこいな、と思いながら緩く首を振る。この手の質問は今まで散々されてきたため、慣れきった返答をする。
「任務で体を使うことは少ないけど、皆無じゃない。仕事とは言え、そんなことしてるのに恋人を作れるほど器用じゃないんだ」
「君は真面目だね。それじゃあ、バディの彼ともそういう仲ではなかったと?」
「当然だろ。ていうかそれ、国家機密なんだけど。なに? もしかして情報が目当て?」
「違うよ、そんな目で見ないでくれ。私は君のことが知りたいだけだ」
「どうだか。俺はヒラ調査官でなんの権限も持ってない。探っても無駄だよ」
「君さえ手にできれば、他は必要ない。自覚は無いようだが、君の存在そのものが日本帝国のトップシークレットと言ってもいいんだからね」
丹生は片眉を跳ね上げて首を傾げた。
「確かに俺たちの素性は表沙汰にされないけど、トップシークレットは言い過ぎだ」
「そうじゃない、君自身の話だ。あらゆる手を使って君を調べようとしたが、予想以上に難航してね。公安庁職員ということを踏まえても、君の個人情報は異常なセキュリティレベルで秘匿されている」
それは自分に限った話ではない、と喉まで出かかった言葉を飲み込み、なるべく情報を与えないよう曖昧に答える。
「ああ……それは俺があんたに接触したからじゃない?」
「そうだろうね。手を尽くして簡単な経歴と住所を見つけたが、すべてフェイクだった」
「実際、住所不定だったんだよ。あのパーティの後から、ホテルを転々としてたから」
「光栄だな。私はそんなに影響力があったのか」
「当たり前だ」と呆れ顔をしながら、密かに安堵した。ホテル暮らしを疑われなかったということは、更科の家に身を寄せているとは知られていないのだ。ひと心地ついてミネラルウォーターを飲み、煙草に火をつける。
紫煙を吐きながら、ここに来てどれくらい経ったか考えてみた。意識がある時は王に犯され、気絶するように眠り、目が覚めればまた犯されるの繰り返しだ。食べ物などは眠っている間に補充されるため、食事の回数で日数は測れない。
拉致されてから1日ほど寝ていたのが事実だとすると、少なく見積もって3日か4日。眠っていた時間が予想より長ければ、5日以上経っているかもしれない。
(行方不明者の生存率は、72時間から格段に下がるんだっけ……。とっくに過ぎてるな。何の情報も得られなければ、捜索が打ち切られるのも時間の問題だ)
紫煙を吐きながら王を横目に見ると、愉しげな微笑を浮かべてこちらを眺めている。
「俺、まったく時間感覚が無いから分かんないけど、仕事とか平気なの? ここにいる時間、長くない?」
「おや、私の心配とは驚いたな。問題ないよ。君が眠っている間に、最低限のことは済ませているからね」
丹生は興味なさそうに「そうなんだ」と相槌を打った。
「それに面が割れている以上、出歩くより籠っているほうが安全だろう?」
「怒ってるなら怒ってると、はっきり言ってください」
皮肉と受け取った丹生が眉をひそめると、王は声を立てて笑った。
「逆だよ、願ってもない幸運な状況だ。こうして君と居られるからね」
「さすがポジティブ思考。俺は自分の首を絞めたに他ならないワケだけど」
「酷い言い草だな。そういえば腹は減っていないかい? 君は食が細いようだが」
「減ってない」
「しっかり食べなさい。好物はなんだ?」
煙草を指の間で揺らし、「これとコーヒー」と答えて口角を上げる。王は呆れ顔で首を横に振った。
「やれやれ、不健康な……。食べ物の好みだよ」
「うーん……果物とかケーキとか、甘い物はなんでも好きかな」
「偏り過ぎだ。もう少し栄養のある物を食べなければ駄目だ」
「良いじゃん、別に。長生きしたいなんて思ってないし」
「私としては、もっと体力をつけてもらわないと困るんだよ」
「困るってなに……っ」
唐突に口づけられ、強引な舌の動きに翻弄されて体から力が抜ける。
「ふ、ぅ……ッ……ちょっと、待って……」
「どうした?」
「こんな、ずっとヤるの……キツい……」
「だから体力をつけてと言っただろう?」
喉の奥で笑う王は妖艶で、どこか朝夷や更科に似た雰囲気を感じる。寝ぼけて間違えたのは、この少し意地悪な余裕のせいかもしれない。
「……スイッチ入るの、急過ぎるんだよ……。さっきまで普通に話してたくせに……」
「これでもセーブしているんだ。君が気を失わなければ、ずっと繋がっていたいくらいさ。ここも大分、私に馴染んできたしな」
暴かれ続けた後孔は、あっさりその長い指を受け入れた。違和感と快感が同時に押し寄せ、抵抗する気力も削がれる。
(駄目だ……また何も考えられなくなる……。そういう作戦か? だとしたら大成功だな。くそ……突破口が見えねぇ……)
丹生は歯噛みした。一旦、始まってしまうと、精魂尽き果てるまで終わらないのは、初日で嫌というほど分かったからだ。
今まで朝夷にハードな行為を覚え込まされた体が仇となり、常人より快楽を拾いやすく、意識も保っていられる。しかし激しすぎる行為の最中、冷静に思考することは難しい。結果的に、ただ王を喜ばせるだけとなっている現状が、なんとも腹立たしかった。
(でも、流石にずっとこんな状態ではないはず……。そのうち、もう少し自由な時間が出来るだろう。それまで焦らず、耐えるしかない……)
そうして丹生は絶え間なく続く律動に身を委ねた。
凶暴な交合が始まってから、恐らく数時間後。意識が朦朧とする丹生の耳に、久しく聞いていなかった音が飛び込んできた。携帯電話の着信音だ。必死で意識を覚醒させ、音源に視線を巡らせる。どうやら椅子にかけられた王のジャケットから響いているようだ。王が小さく舌打ちする。
「まったく……良いところで邪魔をしてくれる」
鬱陶しげに溜め息をついた王は、優しく丹生に口付けて微笑んだ。
「すまないが急を要するらしい。少し待っていてくれ」
ずるりと引き抜かれる感覚に身震いしつつ、丹生は耳をすませた。こちらに背を向けて話す会話は早口の華国語で、内容は分からない。声音から仕事だろうと察するくらいしか出来なかった。しかし、ここは携帯の電波が届くことが明確になる。重要な手がかりだ。
手短に会話を済ませた王が、携帯を置いて戻ってきた。
「悪かったね」
「いいよ……気にしないで……」
息も絶え絶えに答える丹生に、王は苦笑する。
「君にとってはこれ幸い、と言った所かな。そろそろ焦点が合わなくなっていたからね」
「……そりゃそうだよ……ハード過ぎる」
重い体に鞭打ってミネラルウォーターに手を伸ばす。
「それより大丈夫なの、電話。仕事だろ」
「ああ、少し出なければならなくなった。まったく、厄介事ばかり起こす連中だよ」
「誰が?」
「色々さ。黒社会の連中はもちろん、実業家や政治家の尻拭いまで押し付けられる」
「政治家……そんな所にまで根を張ってるなんて、闇が深いな」
「我々の存在は、日本のそれとは少し違うからね」
丹生は〝璃弊〟について教えられたことを思い出していた。
璃弊の前身は華国最大の金融都市、上海で勢力を奮っていた〝青弊〟だ。青弊は何十年も前に衰退し、消滅したとされていた。しかし、徐々に水面下で勢力を取り戻し、璃弊と名を改めて再結成。現首領、王の手腕により、再び上海マフィアの頂点に君臨する組織となった。
元を辿ればマフィアと言うより秘密結社に近く、国家規模の有事の裏には必ずその名が上がる政治的組織である。日本の極道とは違い、国や民に貢献する存在でもあるのだ。
身支度を整えた王が丹生の額へ口づけ、頬を撫でた。
「君は少し休んでいなさい。なるべく早く戻るよ」
「うん、いってらっしゃい」
何気なくかけられた丹生の言葉に、王は目を見開いた。無体を強いている相手だと言うのに見送りを言われるなど、思いもしていなかったのだ。
身動きしない王に、丹生は首を傾げて怪訝な顔をする。
「どうしたの」
「……いや、行ってくるよ」
そうして静かにドアが閉まり、丹生は煙草に火をつけてベッドへ寝転んだ。
(いってらっしゃい、なんて反射的に言っちゃったけど、思わぬ収穫だったな。あそこまで動揺するとは、案外、単純な男だ。しかも、ここに王が携帯を持って来てることが分かったのはデカい。そう簡単にはいかないだろうけど、外に知らせるチャンスはゼロじゃないかもな)
僅かに見えた光明に、丹生は口角を上げるのだった。
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