九段の郭公

四葩

文字の大きさ
上 下
48 / 84
5章

46【空言哀歌】

しおりを挟む
「おかえり、璃津りつ。遅かったな」
「……ただいま。ちょっと疲れて、ソファで寝てた」

 1人きりの孤独感に耐えられず、すっかり眠気も覚めてしまった丹生たんしょうは、結局、更科さらしなのマンションへ帰って来た。いつもと変わらない更科の穏やかな表情に、罪悪感が胸を刺す。

「飯は?」
「あー……ごめん、今日はいいや。バイトで結構飲んだから、お腹空いてない」
「そうか。なんか顔色悪いな、早く休め」
「うん……」

 と、重い足を引きずって寝室へ行こうとした丹生の腕を、更科が掴んだ。

「何かあったな?」
「いや……なにも無いよ」

 相変わらずさとい更科に苦笑が漏れるが、事実、何も無かったのだから嘘ではない。嘘ではないが、何も無かった事こそが〝何か〟なのである。

「顔に『ツライ』って書いてあるぞ」
「ははっ、本当に? まあ、週末の混みようが予想以上につらかったかな」
「お前、顔に出てる自覚あるくせに、誤魔化すのが下手すぎるんだよ」
「ごもっともです……」

 プライベートでは感情がすぐ顔に出ることも、誤魔化すのが下手なことも分かっている。掴まれた腕から更科の体温が移ってきて、郡司ぐんじの熱を思い出した。
 抱きしめられたいな、と思った瞬間、優しく引き寄せられた。嗅ぎ慣れた更科の香水とタバコの匂いに、違和感と胸騒ぎがする。

「……誰だ」
「え?」
「この匂いは知らない」

 更科の鼻の良さにも驚くが、香りが移るくらい触れ合っていたのかと思うと、切なさを通り越していっそ笑えた。

「……オフィスで寝てた時、誰か来た気がする。でも眠かったし暗かったし、誰かは分からなかった」
「何かされたのか?」
「いや、なにも……。頭撫でられたような感じがしたくらい」
「誰だか分かんねぇ相手に、されるがままになってんじゃねぇよ。危ないだろうが」
「ははっ……大丈夫だよ。俺に変な気起こす奴なんて、たかが知れてるし」

 更科は皮肉っぽく「はっ」と息を吐いた。

「たかが知れてる、ねぇ……。朝夷あさひなを筆頭になつめ阿久里あぐり、それに総務省の……風真かざま、だったか。やけに仲良しみたいだが?」
「風真は違うよ、本当に。アイツにはベタ惚れしてる恋人が居るからね。むしろ俺は2人の協力者だよ」

 後頭部に回されていた手のひらが、優しく頭を撫でた。

「まぁいい。ここんとこ色々あったからな。精神負荷も大きかっただろ」
「大丈夫だよ……更科さんがこうして守ってくれてるから」
「俺にできることなんて知れてる。お前の心までは守れない」
「そんなの誰にもできないよ。自分の心は、自分で守るしかないんだからさ」
「……それを言うのか、よりによってお前が……」

 言葉を切った更科は、10年前のあの雨の日を思い出していた。
 長年、築いてきたはずの友情が呆気なく崩れ、親友だと思っていた男は訳も告げずに特別局を去り、これからどうすれば良いのか分からなくなった。たまらない不安と孤独を抱え、自分の信念を疑い、辞職することさえ考えていた。そんな時、「心配ないよ」と言って寄り添ってくれた丹生が居たから、今の自分があるのだ。
 傷付き、暗く闇に沈んだ更科の心を、明るい場所まで優しくすくい上げてくれたのは、他ならぬ丹生だというのに。慰めてくれたのと同じ口で、自分のこととなるとそんなふうに言うのか、と虚しくなる。
 うつむいて黙り込んだ更科を、丹生は訝しげに覗き込んだ。

「更科さん、どうしたの?」
「……俺じゃ、お前の心の隙間を埋められないのか?」
「え……」
「お前が俺との関係に不安を感じているのは分かっていた。だから態度で示して安心させようと、あえて何も言わなかった。だが、それが間違いだったのかもな」

 丹生はこれから更科が何を言おうとしているのか、すぐに分かった。鳩尾の辺りが、やけに騒つく。何も変わらないようでいて、揺蕩たゆたうような今までの関係とは、大きく変わろうとしている。何度も体を重ねながら、目覚めれば何も無かったかのようだったこれまでとは、180度違ってしまう。

「璃津、俺と──」

 更科が口を開いた瞬間、丹生は反射的にその唇を自分のそれで塞いでいた。込み上げる激情のままに、という風でいて、その実、はっきりと言葉にされるのを拒んだのだ。それに応えることが出来ないと、分かったからだ。
 丹生にとって、態度や体の関係など些事さじである。彼が真剣な相手に対して重んじるのは、本心を明確に言葉にすることだ。
 何度も角度を変えながら口付ける。しばらく互いの口腔を暴きあった後、丹生は更科を見つめながら言った。

「好きだよ、更科さん」

 ああ、やっぱり言えてしまった、と丹生は残念に思った。つい数時間前、寝言のフリで郡司に言った物とはまったく違う。自分でも吐き気がするほど軽薄で、空虚な言葉だった。そんな胸中などつゆ知らず、更科は微笑みながら答えてきた。

「俺もだ。ずっとお前が欲しかった、お前以外は欲しくない」
「嬉しいよ」

 阿久里にも棗にも、平然と嘘の愛を囁いた。更科にも出来てしまった事実が何を示すのかを自覚して、涙が滲みそうになる。やはり更科でも駄目なのだと思い知り、失望した。

(分かってたくせに、勝手に期待して勝手に失望してる。最低だな、俺。きっとろくな死に方しないわ……。ま、別に良いけど)

 そんなことを思いながらも、表情はしっかり歓喜に瞳を潤ませる初心うぶを演じる。
 冷静に考えれば、恋人になったからといって何が変わるわけでもない。何故ならこの関係は、絶対に外部へ公表されるものではないからだ。
 更科との間に淡く起こりかけていた恋の微温火ぬるびも、この関係が続くほどに小さく、やがて消えていくだろう。
 なにもかも呑み込んで嘘にする丹生の切り替えは、ほとんど無意識になされる。照れ笑いを浮かべ、小首を傾げて言った。

「恋人かぁ。そういうの久し振りすぎて、何だかまだピンとこないな。天下の特別局の部長様と付き合うなんて、まるでフィクションだよ」
「俺だってお前以上に久し振りだわ。まあ、この俺と付き合うからには、先に死ぬのだけは絶対に許さないからな」
「そっくりそのままお返ししまーす」
「いや、順当に行けば俺が先だろうが」

 軽口を叩き、互いに笑みをかわしながら、丹生はやはり何も変わらないと安堵する。ただ、郡司の熱と匂いだけが脳裏を離れず、一刻も早く上書きしてしまわねばと、そればかり考えていた。

 恋人として初めて合わせた更科の肌は、いつもより昂ぶっていて熱く、行為は激しく、譫言うわごとのように告白を繰り返された。

「愛してる……璃津……」

 囁くように言われたその言葉で、丹生の中を虚無感が駆け抜けて涙が溢れた。それを拭うように、更科の舌が舐めとっていく。

「……俺も、愛してるよ……」

 空々しくて無意味な言葉が、自分の口から発せられるのを、まるで他人事のように聞いていた。

 事後。いつもより乱れたシーツに身を横たえて向かい合っていると、不意に問われる。

「お前、どこのが良い?」
「何が?」
「指輪。好きなブランドがあれば任せるけど」
「ゆび……なんて?」
「指輪だよ、揃いのな」

 丹生は一瞬、ぽかんとした後、驚きに目を見開いた。

「……それはつまり、ペアリングってこと……?」
「なんだ、嫌なのか?」
「い、嫌じゃないよ! ただ、更科さんがそんなこと言うと思わなくて……なんというか、度肝を抜かれました」
「俺は普段は付けらんねぇけど、ちゃんと持っとく。お前のは中指辺りのサイズにして、ファッションの一環にすれば良いだろ」
「うん、凄く嬉しいよ」
「そういやこの前、新聞にブシュロンの新作が載ってたな。お前に似合いそうだと思ってたんだわ。それで良いか?」

 丹生は(なにそれ、指輪の種類? それともブランド? どっちにしろ聞いたことないんだけど)と思いながら、にっこり笑って答えた。

「俺、あんまり詳しくないから任せるよ」
「分かった。本当は一緒に買いに行きたいんだけどな」
「そうだね。でも仕方ないよ、明日から出張でしょ?」
「ああ。間が悪いぜ、まったく。お前は明日と明後日、休みだろ?」
「 いや、明日はバイト入れてる」
「はあ? 働きすぎだ。ちっとは緩急ってもんを付けろ。ぶっ倒れるぞ」
「いやぁ、スケジュール管理って苦手でさぁ。どうせ更科さん居ないし、暇するのもアレだなって。日曜はちゃんと休むから大丈夫」
「やれやれ、妙なとこまで俺に似やがって。あんま無理すんなよ」
「はぁい。更科さんもね」

 更科は「分かったよ」と緩く笑って口付け、抱き合ったまま眠りについた。



 そして週明け。プレゼントされた指輪を中指に嵌め、丹生はいつも通り出勤した。オフィスラウンジでコーヒーをいれていると、阿久里が驚いたように声を掛けてきた。

「その指輪、どうしたの?」
「んー? 貰った」
「貰ったって……誰に? 朝夷さん?」
「違うよ。バイト先のお客から」

 眉根を寄せる阿久里の反応に、丹生は怪訝な顔をする。

「え、なに。なんかおかしい?」
「いや、だって……それブシュロンの新作でしょ?」
「あー、確かそんなこと言ってた気がする。有名なとこのなの?」
「有名もなにも、グランサンクのハイジュエラーだよ。しかもそのデザインならグレードは最高ランク。かなり良いお値段するからさ」
「グランサンクってなに?」
「パリ五大宝飾店。それくれた相手、かなり本気っぽいけど、大丈夫なのか?」
「まぁ、大丈夫だよ、多分。ファッションの一環にしてって言ってたし」
「ファッションって……。一体どんなブルジョア相手にしてんのよ……」

 呆れた声を上げる阿久里をよそに、そんな高級品とは思いもしていなかった丹生は、手汗が噴き出ていた。

「そのー、因みにおいくらぐらいか聞くのって、やっぱ野暮かな?」
「流石にそれは……。プレゼントなんだったら、俺からは言えないな」
「そ、そうだよねー……。無くさないようにしよう……」

 怖々と指輪を眺める丹生に、少しばかり嫉妬心を煽られつつ、もう指輪はあげられないなと溜め息をつく阿久里なのであった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

男色医師

虎 正規
BL
ゲイの医者、黒河の毒牙から逃れられるか?

性的イジメ

ポコたん
BL
この小説は性行為・同性愛・SM・イジメ的要素が含まれます。理解のある方のみこの先にお進みください。 作品説明:いじめの性的部分を取り上げて現代風にアレンジして作成。 全二話 毎週日曜日正午にUPされます。

無理やりお仕置きされちゃうsubの話(短編集)

みたらし団子
BL
Dom/subユニバース ★が多くなるほどえろ重視の作品になっていきます。 ぼちぼち更新

食事届いたけど配達員のほうを食べました

ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
なぜ自転車に乗る人はピチピチのエロい服を着ているのか? そう思っていたところに、食事を届けにきたデリバリー配達員の男子大学生がピチピチのサイクルウェアを着ていた。イケメンな上に筋肉質でエロかったので、追加料金を払って、メシではなく彼を食べることにした。

バイト先のお客さんに電車で痴漢され続けてたDDの話

ルシーアンナ
BL
イケメンなのに痴漢常習な攻めと、戸惑いながらも無抵抗な受け。 大学生×大学生

手作りが食べられない男の子の話

こじらせた処女
BL
昔料理に媚薬を仕込まれ犯された経験から、コンビニ弁当などの封のしてあるご飯しか食べられなくなった高校生の話

壁穴奴隷No.19 麻袋の男

猫丸
BL
壁穴奴隷シリーズ・第二弾、壁穴奴隷No.19の男の話。 麻袋で顔を隠して働いていた壁穴奴隷19番、レオが誘拐されてしまった。彼の正体は、実は新王国の第二王子。変態的な性癖を持つ王子を連れ去った犯人の目的は? シンプルにドS(攻)✕ドM(受※ちょっとビッチ気味)の組合せ。 前編・後編+後日談の全3話 SM系で鞭多めです。ハッピーエンド。 ※壁穴奴隷シリーズのNo.18で使えなかった特殊性癖を含む内容です。地雷のある方はキーワードを確認してからお読みください。 ※No.18の話と世界観(設定)は一緒で、一部にNo.18の登場人物がでてきますが、No.19からお読みいただいても問題ありません。

処理中です...