九段の郭公

四葩

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2章

21【月夜の明暗】

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 船の上とは思えない、まるで高級ホテルさながらのバスルームで、丹生たんしょうは化粧を落としながら熱いシャワーを浴びていた。
 充実したアメニティにホクホクしながら、高級ブランドのボディソープを泡立てていた時、なんの前触れもなくガラス張りのドアが開いた。

「ぉぎゃぁあああ────ッッッ!!!!」

 絶叫し、反射的に手近な物を投げ付ける。

「いっ……いたたっ! 痛いって、りっちゃん! 俺だよ、俺! アナタの長門ながとだよぉ!」
「はぁ、はぁ……長門……? あー、もう……ビビらせんなよバカ! 心臓飛び出したじゃねぇか!」

 湯気が晴れ、ようやく朝夷あさひなの姿を視認した丹生は、深呼吸しながら肩の力を抜いた。

「ハハ! ナイスリアクション。欲しい時に欲しい物くれるんだよなー。りっちゃんは本当に最高だ」
「お前ね……ドッキリ苦手だっつってんのに、いい加減にしろよ、まじで。しかもこんな状況でよぉ……」

 と、驚き過ぎて呆けていた丹生は、ハッと我にかえる。

「ってか、なにナチュラルに入って来てんの?」
「ん? 俺もシャワー浴びたくて」
「いやいやいや、今、俺が使ってるよね?」
「うん、分かってるよ。だから来たの」
「はぁ……もういいや……」

 最早、諦めの境地に達して解脱げだつ寸前の丹生は、文句のかわりに大きく溜め息をついて朝夷に背を向け、入浴を再開した。
 取り落としていたボディスポンジを拾い、再び泡立てていると、後ろから朝夷がそれを取って丹生の背に優しく当てる。
 しばらく無言のまま洗われていた丹生が、ぽつりと呟く。

「早かったな、戻るの」
「ああ、元の場所へ返すだけだからね。りっちゃんの仕事姿、やっぱり凄く可愛かったよ。心労で吐くかと思ったけど」
「なんだ、ちゃんと仕事してたのか。てっきりサボってるんだと思って、愛人とシケこんでるってネガキャンしちゃったわ」
「ええ? いくらなんでも、それはちょっと酷くない? まぁ別に、りっちゃんさえ分かってくれてれば、他人にどう思われようと構わないけどさ」
「お前が誰と何してようが、俺は何とも思わないよ。しかし、その詰めの堅さはさすがだね。やっぱりお前は完璧だよ」

 背を洗い終えた朝夷の腕が前へ回り込んできた。強く抱き締められると、背中に少し冷えたたくましい胸が密着し、その鼓動の速さに朝夷の胸中が穏やかでないことを知る。

「本当に心配したんだよ……。お前を失うかもしれないと思うと、怖くてたまらなかった……。今、こうして抱いていられることが、心底、幸せなんだ……」
「大丈夫だよ、俺は消えたりしないから」

 丹生は小さく答えると振り返り、そっと朝夷の濡れた頬に手を添えた。その端整な顔は苦しそうにも見え、まるで涙のように水滴が流れ落ちている。
 両手で朝夷の顔を引き寄せながら、自らもかかとを上げてゆっくりと顔を近付ける。労うように優しい口付けをして、丹生は少し笑った。

「頑張ったご褒美」
「初めて自分からしてくれたね。これ以上の褒美はないよ」

 朝夷も同じように微笑んで目を閉じ、丹生の体を正面から抱きしめる。繰り返される口付けの合間に「大好きだよ、璃津りつ」と囁く声は深く、何とも耳に心地よかった。



「……なんだか、やけに静かになったな」
「ああ……。しょっぱなの丹生さんの悲鳴と怒号からこっち、静まり返ってる……。逆に怖い……」

 その頃、バスルームの外ではそわそわと落ち着かない空気が流れていた。相模さがみ土岐ときがドアに張り付き、中の様子を伺おうと躍起である。

「もうやめとけよ、お前ら。趣味が悪いぞ」
「派手にやらかされたら、それはそれで気まずいでしょうが」

 苦い顔でたしなめる阿久里あぐりと、苦笑する郡司ぐんじ

「いやだって、相手は性欲底無し沼の朝夷さんですよ? さすがの丹生さんも、危険な任務を無事に完遂した達成感とアドレナリンが極まってこう、バーンとケミストリーをですね……」
「土岐、馬鹿丸出しの脳内妄想は心にしまっておけ」
「璃津に限っては絶対ありえねぇな。つーか、あってたまるか。あの程度の色仕掛け、璃津にとっちゃ日常茶飯事だぜ」

 熱弁をふるう土岐に、神前かんざきなつめの冷たい声が飛んだ。

「くそー。丹生さんの艷声、ちょっと聞いてみたかったのになー」
「相模……最っ低……!」
「あっ……いや! 違うんだ、生駒いこま! これは浮気とかじゃなく、ちょっとした好奇心というか、出来心というか……」
「出来心って……それ浮気した時の言い訳だぞ、相模」
「……もういい、知らない」
「い、生駒! 待って、ごめん! もうやめるから許してくれ!」

 しょうもない痴話喧嘩を始めた相模と生駒に、更科さらしなはじろりと阿久里と椎奈を睨む。

「お前んとこの教育、どうなってんだ? 色ボケまで受け継がすんじゃねぇよ」
「すみません、部長……。後できっちり言っておきます……」

 とばっちりで胃が痛む直属の上司と班長という立場に、若干の嫌気を覚える阿久里たちであった。
 と、バスルーム前であたふたと生駒に言い訳をしていた相模の顔面に、そこそこの勢いで開いたドアが直撃し、派手な音を立てた。

「────ッッッ!!!!」
「んあ? そんなとこで何やってんだ、相模。大丈夫かよ」

 ほかほか湯上りバスローブ姿の丹生が、ぽかんと足元の相模を見下ろす。鼻を直撃した激痛で声もなくうずくまる相模に、室内は大爆笑だ。

「ハハハ、自業自得だなー」
「あー、もしかして盗み聞きしてたわけ? ははっ、青いねぇ」
「当然の報いだな」
「うおぉ……俺、離れといて良かったぁ……。てか、めっちゃ普通に出てきましたね……」
「だから言ったろーが、土岐」
「激務の直後にサカれるほど若くねぇのよー。ご期待に添えず申し訳ないね。ふう……あっちー。空調下げていい?」
「ああ、下げとく。ほら、水飲め」
「ありがとナナちゃん」
「だ、大丈夫か、相模……」

 まだ立ち上がれない相模を心配し始める生駒と、そんな様子を笑う面々。豪華客船の夜は、かくも賑やかに更けていくのだった。



 数時間後。G社潜入調査報告を受けた内閣情報調査室では、本件に携わった分析官らが会議室につどい、上がってきた報告書を読んでいた。

「いやはや、これは驚いたな。各国が手を焼いていたG社のみならず、璃弊リーパンの首領まで釣り上げるとは、恐れ入った」
「信じられん。数名は死傷者が出ると踏んでいたが、まさか全員無傷で帰還とはな。璃弊リーパンの件は伏せていたというのに、特別局がこれほど力をつけていたなんて、予想外だったぞ」
「今までのらりくらりと昼行灯ひるあんどんを装っていたが、この成果……。あの邪智じゃちぶかい長官も、最早とぼけてはいられまい。ようやく、公安庁が1番の古狸ふるだぬきだと知らしめる機会を得たな」
「ああ。やはり、身内のことは身内に任せるのが最適だったようだ。奴らの馬脚ばきゃくあらわすことができたのは、すべて君がくれた情報と助言のおかげだよ」

 狡猾な顔つきで話し合う壮年男性らに話を振られたのは、皆より一層、悪意ある微笑を浮かべた四十路よそじそこそこの男だ。
 通った鼻筋と少し垂れ気味の二重で、かなり整った顔立ちをしているが、表情にはかなり曲者の感がある。煉瓦れんが色のパーマヘアを軽くかきあげ、男は片方の口角を吊り上げた。

「ははぁ、とんでもない。私はただ、風の噂をお話ししたまでですよぉ。〝特別局は我々の想定を遥かに超える有能な人材を確保しているにもかかわらず、その情報を秘匿しているようだ〟とねぇ」

 端正な顔立ちに似合わず、粘着質で嫌味な物言いは、男の底意地の悪さを如実に表していた。
 分析官の1人が報告書をばさりと机に置き、唸るように言う。

「しかしまぁ、特別調査官は一般調査官よりマシだとは聞いていたが、よもやここまでとは……。どこの馬の骨とも知れん烏合の衆だと、軽く見すぎていた。少々、考えが甘かったのは認めざるを得んな」
「それこそが公安庁の狙いだったのだろう。舐められることすら利用する、したたかな連中だ。でなければ、素性も経歴も問わぬ調査官など、恐ろしくて使えたものではない」
「とはいえ、この情報は我が国にとって非常に有益であるのも事実。見ればこのワンルイ、今まで送り込んだエージェントには目もくれなかったというのに、ある調査官をいたく気に入ったようじゃないか。利用しない手はないだろう」
「丹生 璃津か……。なるほど、興味深い男だな。これを餌に、より多く、実りある情報が得られるかもしれんな」
 
 指にくるくるとパーマヘアを巻き付かせながら会話を聞いていた男は、唇を三日月のように細く吊り上げて丹生の写真を見下ろす。その瞳の奥には、暗い光が宿っているようだった。
 この後、数日と経たないうちに丹生の名は官界を駆け巡り、注目の的となるのである。
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