九段の郭公

四葩

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1章

11【恋は短し】

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「……」
「……」

 神前かんざきのオフィスには、何とも言いがたい沈黙が流れていた。対面のソファに無言で座る神前と丹生たんしょう。なぜこんなことになっているかと言うと、理由は1時間前に遡る。



「ちょっ……部長……も、駄目だってば……」
「もうちょっと」
「さっきも同じこと……んっ! んん……」
璃津りつ、くち開けろ」

 すっかり出来あがった丹生と更科さらしなだ。毎晩共に過ごしていると言うのに、更科は職場でも隙あらばちょっかいをかけている。よほど12年の我慢が恨めしいらしい。今も丹生のオフィスでスキンシップをはかっていた。

「これ以上は駄目……引っ込みつかなくなるから……」
「なら、いつもみたいに最後までヤるか?」
「真顔で言うの辞めて。冗談か本気か分かんなくて怖い」
「冗談だ。これで終わりにする」

 濃厚なキスを交わしていた、その時。入り口からバサバサと書類の散らばる派手な音が響いた。そこにはいつもの鉄面皮が剥がれ落ちた神前が、切れ長の目をまん丸に見開いて立ちつくしていた。

「な、ナナちゃんっ!?」
「ハハ。珍しく面白い顔になってんなぁ」
「ちょ……笑いごとじゃないだろ! もう、はやく出てってよ!」
「ハイハイ。またな、神前」

 更科が片手を振りながら出て行くと、オフィスには非常に気まずい沈黙が訪れた。

「……えっと……ここじゃアレだから……場所、変えて話したいんだけど……」
「あ、ああ……。じゃあ、俺のオフィスで……」



 そして今に至る。丹生は何から話せば良いか分からず、見られた動揺もあいまって口火を切れずにいた。神前も眉をひそめ、黙りこくっている。
 いつまでもそうしているわけにもいかず、丹生は両手を合わせて頭を下げた。

「ごめん! 早く言おうと思ってたんだけど、なかなかタイミング掴めなくて……」
「……いや、良いんだ。謝ることはない。少し驚いただけで、怒ってるんじゃないから」
「はぁ……良かったぁ……」

 どっと肩の荷がおりた丹生は、体を深くソファへ沈めた。

「いつからだ?」
「2週間くらい前かな」
「そうだったのか……まったく気付かなかった。だから最近、やたら疲れてたんだな」
「まぁね」
「そう言えばこの前、部長が城戸きどさんと話してたのって、お前とのことだったのかもな」
「……城戸さん……?」

 今度は丹生が顔色を変える番だった。

「知らなかったのか? たまたま鉢合わせたらしいが、俺も詳しくは知らないぞ」

 丹生は手足の先から、すっと体温が引いていくのを自覚した。
 神前との事件を抜きにしても、丹生は城戸を良く思っていなかった。明確な理由はない。ただ合わない、生理的に受け付けないと感じた。左遷された時、化けの皮が剥がれていい気味だと思ったほどだ。
 例の事件後、更科の落ち込みようは尋常ではなかった。城戸と一切の連絡や接触を絶ち、忘れ去ろうとしていた。
 それなのに、なぜ話してくれなかったのか、いつのまに許していたのか、と喉元に苦いものがせり上がってくる。

「おい、大丈夫か?」

 返事はできなかった。声を出したら、胃の中の物まで出てしまいそうだ。腹立たしさと嫌悪が込み上げ、必死で吐き気をこらえる。

「落ち着いて息をしろ」

 そうしてしばらく神前が背をさすってくれた。立ち上がれるようになると医務室へうながす神前を制して、ふらふらと自分のオフィスへ向かう。
 更科について、いかに無知か思い知った。
 更科はなぜ自分をスカウトしたのか。なぜあんな告白をしたのか。なにを考えて自分と抱き合っていたのか。そして今更、城戸となんの話をしていたのか。
 確実に判るものが、ひとつも無い。そのくせ、上手くことを進めていたつもりになっていた浅はかさにさいなまれる。
 昔馴染みの絆がどれほど深いかくらい、想像せずとも分かる。もてあそばれていたのは自分なのかと思うとまた嘔吐感に襲われ、丹生は廊下の端にうずくまった。
 自重じじゅうを支えることができなくなり、床に手をついた時、丹生の両肩を大きな手が支えた。

「どうしたの、璃津。顔が真っ青だよ」
「……なが、と……」

 朝夷あさひなの顔を見た途端、丹生の中で何かが弾けた。反射的にすがり付き、胸に顔をうずめる。嗅ぎ慣れたシトラスムスクの香水に、吐き気がすっと引いていく。

「大丈夫? 気分が悪いの?」
「……長門……助けて……」
「分かった。仮眠室まで運ぶよ」

 朝夷はすべて悟ったような落ち着いた声で答えると、丹生を横抱きにかかえた。
 仮眠室へ着き、ベッドへ降ろされても丹生は朝夷の首から離れない。かすかに笑うと朝夷も共にベッドへ乗り上げ、震える細い体を大事そうに抱きしめた。

「もう疲れた……無理だ……限界だ……」
「心配無いよ、璃津。俺が居るから」
「ごめん、長門……ごめん……」

 丹生の頭をそっと自分の胸に抱き寄せ、言葉を紡ぐのを制する。

「謝らないで、なにも考えなくていい。お前が何をしようと、俺の気持ちは少しも変わらない」

 もう抑えられなかった。丹生は朝夷の腕の中で、嗚咽を漏らして泣いた。
 しゃくり上げる丹生を抱きしめたまま横になってから、随分、経った気がする。泣き疲れたのか、丹生は涙の跡をつけたまま眠っていた。頬に張り付いた髪をはらってやる。

「可哀想な璃津。お前のせいじゃないのにね」

 小さくうめいて頭を擦り寄せてくる丹生を抱きしめ直し、朝夷は久々に満たされた気分で目を閉じた。



「ちょっとなに、この人だかり。うっざ、くそ邪魔。なぁ米呂まいろ、なんの騒ぎ?」
「お疲れ羽咲うさき。いやさぁ、まさかの2人が仮眠室でイチャイチャしてるって聞いたんで、野次馬しにきた」
「はー? 誰と誰?」
朝夷あさひなパイセンと璃津りつ
「嘘だろマジか!」
「な? びっくりだろ」

 仮眠室前にできた黒山の人だかりに足を止めた羽咲は、つじの言葉に耳を疑った。

「え、マジにあの2人!? 見間違いじゃなくて!?」
「マジ。だからみんな驚いてんのよ。朝夷さんが璃津をお姫様抱っこして、璃津もしがみついてたんだってさ。何があったのかね」

 辻の隣で、椎奈しいなが顔をしかめながら嘆息する。

「どうせまた朝夷さんが無茶したんだろう。まったく、あの人はいつまで経っても学習しない」
「でもさー、それならわざわざイントレルームから出ないんじゃね? もし治療が必要なら、仮眠室じゃなくて医務室行くだろ」
「確かに……。何にせよ迷惑だ。こんな騒ぎを起こされては、業務に支障をきたしてしまう」
「とか言って、ちゃっかり見に来てるってことは、椎奈も気になってんじゃん」

 羽咲の言葉に、椎奈はバツが悪そうに咳払いした。

「べ、別に……私は通りがかっただけだ。お前たちと違って、好奇心で居るんじゃない」
「はいはい。しっかし、まさかの展開だわー。あとでりっちゃんに根掘り葉掘り聞かなくちゃなー」
「デリケートな問題かもしれないし、そっとしておいたほうが良いんじゃない?」
「相変わらずいい子ちゃんだなー、小鳥遊たかなしは。こんな面白そうなこと、ほっとくなんて無理だっつーの」

 小鳥遊の心配そうな顔とは正反対に、羽咲は好奇心に目を輝かせている。

「こーら、お前ら! こんな所で溜まってないで仕事しろ! ほら、散った散った」

 やおら現れた阿久里あぐりに急き立てられ、大半の野次馬は蜘蛛の子を散らすようにその場を後にした。阿久里はやれやれと頭をかかえる。

「まったく……。たかが寝てるくらいで、そんなに大騒ぎするほどのことかね」
「ま、あの2人だからなぁ。しゃーないだろ」
「璃津はもともと心身虚弱なんだから、下手にいじくるんじゃないよ。仕事に影響したら洒落にならん。羽咲、分かってるな?」
「分かった、分かった。うっさいなぁ、もー。事情聴取は朝夷サンからするってば」

 こんな具合で年中、話題作りに事欠かない2人である。
 結局その日、局内は丹生と朝夷のある事ない事の噂話で持ちきりになった。特に丹生狙いだった連中は、とんびに油揚げをさらわれた格好で、戦々恐々である。
 そして数時間後。ようやく仮眠室から出てきた丹生には囲み対策として神前が付き添い、後から出てきた朝夷が好奇心旺盛な調査官達の餌食となった。
 特に食いついてきたのは羽咲、なつめ、辻だ。

「朝夷サン、何やらかしたの? なんでりっちゃん、あんなやつれてんの?」
「1週間監禁しても折れなかったのにな。ヤバい薬でも盛ったか?」
「ついに12年越しの想いが実ったってことっすか?」
「まぁまぁ。みんなちょっと落ち着けって。そういうんじゃないから」

「ええー」と全員からブーイングが起きる。

「この状況ではぐらかすとか有り得ないわ、まじで」
「本当に違うんだって。俺もよく知らないんだよ。偶然、璃津が真っ青な顔でうずくまってたとこを見つけて、ここまで運んだだけ」
「ってことは、ただの体調不良?」
「さぁね、ストレス溜まってたんじゃないかな。俺は心配だったから付き添ってただけで、何があったかは聞いてない」
「つまんね。どんなやべぇ手使ったのか、尋問の参考にしようと思ったのに」
「ちょっと棗、やめなって」

 興味を無くした者、安堵した者、まだ裏を疑う者。様々な騒めきが広まる中、パンパンと手を打つ乾いた音が響いた。

「おーまーえーらー、いい加減にしろよ。事情も分かったんだから、もう良いだろ。さっさと仕事に戻れ」
「出た、阿久里のママ節。でもなー、ただの体調不良なんて、なーんか釈然としないんだよなー」
「ま、璃津なら無くも無いだろうけど。朝夷さんが絡むと怪しいぜ」
「羽咲も辻も考えすぎだよ。阿久里を困らせちゃうから、もう行こう」
「はいはい」

 羽咲と辻は納得できていないようだったが、阿久里と小鳥遊の取りなしによってようやく立ち去った。
 人けが無くなったところで、阿久里は朝夷に真剣な眼差しを向ける。

「朝夷さん、あの子は大丈夫なんですよね?」
「ま、取り敢えずな」
「本当に事情は分からないんですか?」
「ああ、何も聞いてない」
「そうですか……。何かあったら必ず報告して下さい。あの子のことは、貴方が1番よく知っているでしょうから」
「了解。じゃ、俺も仕事戻るわ」
「はい」

 去っていく朝夷の背を見つめながら、阿久里は深く嘆息した。



 丹生をオフィスへ送った後、神前はその足でまっすぐ部長のオフィスへ向かっていた。すれ違う職員らは、鬼気迫る雰囲気に声もかけられない。
 そして部長室へ入るなり、開口一番、厳しい声を上げた。

「一体、どういうつもりなんですか」
「なんだ、珍しい。お前がそんなに怒るとこ、久し振りに見たわ」
「ふざけないで下さい」
「ふざけてねぇよ。どうせ璃津のことだろ」

 鷹揚に構えて煙草を吹かす姿に、己が引き起こした事態のくせに、どうせとは一体どういう了見だと怒りが込み上げる。

「……ご自身の仕出かしたことはお分かりでしょう」
「仕出かしただぁ? 随分な言い草だな、おい。誰かさんのときと違って、しっかり合意の上だぞ」
「そういう話ではありません。なぜ、彼に城戸さんのことを話さなかったんですか」
「なにを言えって? アイツと出くわしたのはただの偶然だ。璃津とは関係無い」
「そんな無責任な──」
「神前」

 低く唸るように名を呼ばれ、神前は口を噤んだ。その威圧感に、背筋を冷たい物が駆け抜ける。

「仕出かしたのは俺じゃなく、てめぇだ。余計なことを話して不安にさせて、あいつを追い詰めたのはてめぇだろうが」

 その言葉に、神前はようやく気づいた。自分より、更に言うと他の誰よりも怒っているのは更科だったのだ。

「……すみません……。俺は、そんなつもりじゃ……」
「黙れ、聞きたくない。今、てめぇの言葉は俺になんの効力も無い。解ったらさっさと出て行け」
「……はい」

 意気消沈した神前が退室すると、更科は煙草で黄ばんだ天井へ向かって紫煙を吐き出した。

「……大事なものってのはどうしてこう、いつも突然、離れていくんだろうな」

 その呟きに答える者はなく、紫煙と共に霧散した。
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