万華の咲く郷 ~番外編集~

四葩

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【朝夷⠀陸奥】

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 これは朱理しゅりが吉原を出る2年前。万華郷史上、最もその名を轟かせた稀代の傾城けいせい上手かみて太夫だゆう朝夷あさひな 陸奥むつ。彼の娼妓人生、最後の夜の話である。

 冬の気配が濃く残る初春。 2時で上がった朱理の自室へ陸奥が訪れていた。ことりと文机に湯気の立つマグを置いて、朱理は感慨深そうな声を上げる。

「お前もいよいよ明日で年季明けか。何だかあっという間で、まだ実感が湧かないな」
「ああ。俺も良い歳だからね。世間的には遅すぎるくらいさ」
「そうか? まだまだ現役に見えるがな。むしろお前の場合、脂が乗ってる今が1番良い時期じゃないかと思うわ」
「朱理は少しも変わらないね。出逢った頃と同じで、ずっと綺麗なままだ」
「馬鹿言え。俺も充分、おっさんだよ」

 陸奥はマグから口を離すと窓の外を見遣った。暦の上では春だと言うのに、厳しい寒波のせいで真っ暗な空からは粉雪が落ちている。窓へ目を向けたまま、陸奥は囁くように問うた。

「……やはりあの話、考え直してくれる気は無いか」
「ああ。お前には感謝してる。でも、一緒には行けない」

 朱理は真っ直ぐ陸奥の目を見て答えた後、「すまんな」と優しい声音で付け足す。陸奥はいたたまれない心持ちになり、視線を逸らせて薄く笑った。

「そうか……。まぁ、駄目でもともと、当たって砕けろの精神で聞いたまでだよ。買わなきゃ当たらない宝くじさ」
「俺はお前にとっての宝くじか。相変わらず変なやつだな、陸奥は」

 隣で珈琲をすすっていた朱理は、からかうようにくつくつ笑う。三十も終盤になり、朱理は態度も口調も年相応に丸くなった。紫煙の燻る煙草を持った右手で肘をつき、半身はんしんを陸奥へ向ける。杏色の照明に照らされる陸奥の横顔は、いつか見た時と同じく、寂しげで弱々しい複雑な微笑だ。

「まぁ、明けが決まればそんな話を出してくるとは思ってたよ。冷帝なんて呼ばれてるくせに、昔から人一倍の寂しがり屋だもんな」
「ふふ……俺のことをそんな風に見るのも言うのも、お前くらいだよ。俺が寂しいと思うとすれば、それは──……」

 陸奥は言葉を切った。きっとそれは、変わらぬものへ対する羨望なのだろう。数年前、自分と朱理と黒蔓くろづるの三人で過ごしたひと時を思い出す。
 いつかこの二人の仲は問題になるだろうと思っていたが、結局、のらりくらりとかわし通した。
 そして黒蔓は引退が決まるとすぐ内輪を集め、今後は朱理の顧客になると明言したのだ。更に、陸奥の年季明けも黒蔓らの引退と同日に決まった。
 それらは陸奥の予想をことごとく裏切る展開だった。物理的に離れてしまえば、付け入る隙もあるだろうと高を括っていたところが、完全に出鼻をくじかれたのだ。
 結局、どれほど時間が経とうと、朱理と黒蔓の愛は少しも変わらなかった。これで本当に幕引きか、と苦い想いを噛み締めた時、朱理は穏やかな声で呟いた。

「なんとなく、お前はずっとここに居る気がしてたよ。実際、次期楼主にって推され続けてたしな」
「俺はお前が遣手にならないと分かった時点で残る意味を失ったからね。楼主なんて絶対に御免だよ」
「はは、そうだな。お前とひかるさんが切り盛りしてる見世なんて、想像も出来ないわ」

 屈託なく笑う姿は、本当に出会った頃とまったく同じで、陸奥の苦衷くちゅうをますます強くする。
 何十回、何百回と愛を伝え、この腕に抱き、肌を合わせてきた。今も手を伸ばせばすぐ触れられる所に居るというのに、その心には届かない。

(これが最後になるのなら、もう一度だけ朱理を抱きたい。心が駄目なら、身体だけでも繋がりたい。けれど、抱いたらきっと壊してしまう。ますます手放したくなくなって、堪らなくなって、彼を滅茶苦茶に汚してしまう。そんなことはしたくない。なるべく跡を濁さず、綺麗なままの朱理と、綺麗な思い出だけを残して去りたい)

「愛してるよ、朱理」

 口をついて出たのは、擦り切れた言葉で。

「お別れだな、陸奥」

 返ってきたのは、覆しようのない現実だった。
 気付けば、その白く細い首に手を掛けていた。少し捻れば簡単に折れてしまうだろう。跡を濁さず、綺麗な思い出で、なんて考えは綺麗さっぱり消え失せていた。
 朱理は穏やかに微笑んだまま、抵抗どころか身動みじろぎすらしないで、じっと陸奥を見つめている。笑っているはずなのに、その目は酷く冷たく見えた。
 陸奥は口元がひきつれて歪むのを自覚しながら朱理を見つめ返した。

「……昔、言ったよね。愛してるなら殺してくれって。覚えてる?」
「ああ、覚えてるよ」
「じゃあ、こうすればお前はここに残れるし、俺は愛を証明出来るよね」

 ほんの少し両手の指に力を込めると、朱理はふっと漏らすように笑った。

「魂がどうこうって話か? 生憎、俺はそういう物は信じてないし、お前は何も証明する必要ないぞ」
「……必要ない、か……。近づけば近づくほど遠ざかるんだな……。お前はずっと近くて遠くて、いつまでも追い付けやしない……。もう疲れたよ……」

 20年近くかけても、その隣に寄り添うことは出来なかった。

(すべてが欲しいとは言わない。お前が愛する者へ注ぐ想いの、ひと匙で良いから分けて欲しかった。一生とは言わない。一瞬で良いから、俺だけを見て欲しかった。ただ、ひと欠片の愛が欲しかっただけなんだ)

 それがこんなにも叶わぬ望みだったとは、最後の最後まで陸奥には分からなかったのだ。

 幼い頃から、欲しいと思えば何でも手に入った人生だった。勉強も運動も人間関係も、努力や挫折とは無縁だった。それを人は神童や天才と呼び、更に陸奥の歩みを容易くし、日々を退屈にさせた。
 初めて朱理と逢った、あの晩秋の夜。異質なほどの存在感は、初めて見る名画のような感動をもたらした。
 久し振りに人に興味を持ち、欲しいと思った陸奥は、朱理の気を引こうと積極的に話しかけた。しかし今まで当たり前にあった手応えが、まるで感じられない。入ったばかりで緊張しているのかと思っていたが、彼の入楼から1年が経っても何の変化もなかった。
 朱理がまったく自分に興味が無いという事実と、その要因が何であるかを知ったのは、皮肉にも突き出しの時だった。
 黒蔓と網代あじろの立ち会いのもとで始まった行為の最中、彼が見ていたのは黒蔓だったのだ。艶やかな吐息を漏らし、身体は完全に陸奥を受け入れているというのに。
 流石と言うべきか、彼が視線を余所よそへ向けたのはほんの一瞬で。相手が陸奥でなければ、きっと気付きもしなかっただろう。その瞬間から、陸奥の生涯で朱理だけが苦難で、苦悩で、手に入らないものになった。故に、強く惹かれたのだ。

「愛してる……。まだ、こんなにも愛してるんだ、朱理……」
「うん」
「……死んでくれよ……どうしても愛してくれないなら……」
「殺して良いよ、そんなに苦しむくらいなら」

 違う、と陸奥は思った。前に聞いた台詞ではない。それでは、まったく意味が変わってしまうではないか。

「……この状況で、どれほど危ういことをしてるか解ってるのか……?」
「解ってるよ。昔も今も、俺の言葉は本心だ。このまま殺されても、俺はお前を恨んだりしない。そこまで愛してもらえたことに感謝する。そして、そんなにも苦しませたことを申し訳なく思う」

 自分も大概、異質な人生を送ってきたと思うが、そんな思考になる朱理の人生とは一体、どんなものだったのだろう。
 愛していないから殺されても良いと、愛せないから死んで償うと、こうもあっさり言えるのは、やはり狂っているのだと思った。
 深く愛し合う相手が居る者の考え方ではない。かと言って投げやりな訳でもない。理屈に合わない、理解出来ない。この世の者とは思えない。

「……おかしいよ、お前……」
「ああ、おかしいよな。でも、そんな俺を受け入れてくれるんだ、あの人は。何をしようと、何を言おうと。例えその結果、死んでしまったとしても、きっと笑ってくれるんだ。お前らしいなって」
「──……」

 俺も同じだ、とは言えなかった。もしも朱理が他人に殺されたら、絶対に許せない。もしも死んでしまったら、到底笑えない。一切合切、受け入れられない。
 嗚呼、そうかと心の底から納得した。愛の深さなら負けていないと、今の今まで本気で信じていた自分が、とんでもなく間抜けに思えた。
 遠く及ばないのは、朱理との距離だけではなかった。それに気付けなかったから、自分は負けたのだ。黒蔓は陸奥が思うよりずっと深く朱理を理解し、愛し抜いているのだ。
 微かな望みも絶たれたと知った陸奥は細い首からゆっくりと手を離す。朱理は何もかも察しているような笑みを浮かべ、陸奥の頬へ手を当てた。

「有難う、陸奥。お前が居てくれたお陰で何度も救われた。お前は間違いなく、俺にとって唯一無二だ。お前に出逢えて良かったよ」

 冷たい朱理の手に自分の手を重ねる。
 視界が滲んで、優しい笑顔が見えなくなって初めて、自分が泣いているのだと理解した。目が熱い。鼻の奥が痛い。耳の奥で何かが鳴り響いて、頭が割れそうだ。
 泣くのにもこれほど体力が要るんだなと思った時、覚えている限り、一度も経験が無かったと気付く。物心ついてから今まで、涙が出るほど心が動いたことは無かったのだ。

「俺も……お前に出逢えて、本当に良かった。愛してるよ。今までも、これからも……死んでもお前を愛し続ける」

 情けないほど声が震えていて、「締まらないな」と泣き笑った。「格好良いぜ」と囁く朱理の声音が、更にとめどなく涙を溢れさせた。

(お前に愛と祝福を。俺にゆるしと決別を。ようやく人らしくしてくれた、この四角いはこの住人たちに心からの感謝を。有難う。さようなら。この先、お前たちの歩む道が幸多きものでありますように)

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