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最終章
第百九夜 【伸び育つ茎】
しおりを挟むそうして朱理は、あれよあれよと万華郷へと連れて来られた。
見世の規模や豪奢な内装、働く娼妓らの美しさを目の当たりにして、逃げ出したくなった時には既に遅く。
更に声を掛けてきたのが、実質この見世の最高権力者であった事も輪を掛けて、朱理の肝胆を寒からしめた。
肩身の狭い思いで縮こまる姿に、黒蔓が愉快そうに微笑う。
「そう萎縮するな。お前はこの俺のスカウトだぞ。もっと自信を持て」
「い、いやぁー……そう言われましても……。俺、場違い過ぎませんか? 大体、廓のしきたりとか仕事内容とか、完全に無知ですよ? 勤まりませんって、こんな立派なとこで……」
「それも全く問題無い。俺が直接、みっちり叩き込んでやる」
「は、はぁ……」
とんでもない事になったと青ざめる朱理へ、未だ新造であった和泉と東雲が、少し離れた所から憐憫の眼差しを送っていた。
「遣手が直々に引っ張って来るなんて、驚いた。可哀想にな、彼奴」
「それだけ見込みがあるという事でしょう。しかし見た所、吉原にさえ慣れていない様子ですが……本当に大丈夫なのでしょうか……」
「さぁな。駄目なら直ぐ出て行くだろ。売られた訳じゃないんだし」
「え、ええ……。全く、あの方は相変わらず、無茶な事をなさいますね……」
一方その頃、上手太夫の蝶二と宇昆は階段の手摺に凭れて口角を吊り上げていた。
蝶二は鶴城が、宇昆は冠次が新造に付いている太夫である。この2人は歴代の太夫の中でも群を抜く自由人で、途方も無く破天荒なのだ。
「黒蔓のやつ、またすげぇ変り種を仕入れたもんだなぁ。流石、般若だわぁ」
「へーえ、なにあの存在感。まだ二十歳そこそこ? 美味そうじゃないの」
「おい見ろよ、宇昆。お前んとこの新造、ガチで目の色変えてやがる。ククッ……こりゃ面白い事になりそうだぜ」
「あーあー……冠次に目ぇ付けられて大丈夫かね、あの子。彼奴、あれで結構な粘着だからなー」
「ははっ、しっかり首輪しとけよぉ。俺が1番乗りすんだからな」
「はー? ざけんな、俺が先だっつーの」
太夫らの好奇の眼差しと、新造らの期待と憐憫の混ざった視線の中、また違った目で朱理を見つめる人物が2人居た。
言うまでもなく、陸奥と冠次である。
陸奥はこの時、初めて恋という物を知った。文字通りのひと目惚れであった。
冠次も陸奥と同様、朱理を見るなり、その異質なまでの存在感に堕ちたのだ。
そして、その日のうちにあっさり、朱理の万華郷就職が決まってしまったのだった。
翌日。
契約していた都内のマンションは解約され、新造用の座敷が宛てがわれた。
朱理の着物や生活に必要な細々とした物は、全て兄貴分の黒蔓が賄った。
この時、既に和泉らより上等な物が多く与えられ、誰の目にも明らかな依怙贔屓が始まっていたのだが、当時の朱理はそんな事に気付く余裕などなかった。
そして朝となく夜となく、寝る間も惜しんで廓のしきたりや娼妓とはなんたるかを叩き込まれる、怒涛の日々が始まったのだった。
「今日も可愛いねぇ、朱理ちゃん。お掃除してんのー?」
「あ、宇昆さん、お疲れ様です! 要領悪くて……お邪魔しちゃってすみません」
「全然、邪魔なワケないじゃない。なんか分かんない事とかないー? お兄さんが手取り足取り腰取り、イロイロ教えてあげるよ?」
「退け、宇昆。そんなカビ臭い台詞吐いてるオッサンはほっといて、あっちで俺とお喋りしねぇ? 楽しませてやれると思うぜ」
「有難うございます、蝶二さん。でも、まだ掃除が残ってるので……」
「じゃ、手伝ってやるよ。早く終わらせて休憩しようぜ?」
「ずっりーぞ蝶二! 俺も手伝うー!」
「い、いえ! 大丈夫です! 太夫に手伝って頂くワケには……」
「いーから、いーから。あー、あの部屋の掃除ってまだ? 先にやっちゃおーよ」
「おお、彼処なら暗くてあんま人も来ないから、丁度良いな。ナイスだ宇昆」
「え、でも其処って物置ですよね? 丁度良いってなに……」
「あははー、何でもないから気にしないでー」
「ほら、入って入って」
「ちょっ……あの……」
「てめぇら、其奴から離れろ、今すぐに」
「げっ、黒蔓ぅ……」
「チッ……見つかったか」
「ったく、油断も隙もねぇな。さっさと仕事に行け、馬鹿どもが。お前もお前だぞ、朱理。これから娼妓になろうって奴が、あっさり連れ込まれかけてんじゃねーよ」
「連れ込……? は、はぁ……ごめんなさい」
この様に、隙あらば朱理をつまみ食いしようと狙う自由人コンビから守るのも、黒蔓の新たな仕事なっていた。
他の太夫らは冷やかしたりいつまで持つか賭けたりと面白がっていたが、慣れぬ芸事や寝屋での立ち回りに右往左往しつつも、結局、朱理が音を上げることは無かった。
最初の2ヶ月程は元よりの破天荒さから問題児認定された上、失敗続きで愚痴ばかり零していたが、面倒見の良い和泉や東雲が献身的に慰め、支えてくれた。和泉と朱理が親しくなったのも、この日々がきっかけである。
黒蔓も教育自体は厳しかったが、朱理への接し方は周囲が眉を顰める程の猫可愛がりだった為、何とか山場を乗り切る事が出来たのだった。
そして1年後。
客を取らせても良しと判断された朱理は、時期外れの突き出しを迎える事となった。
通常ならば突き出しを終えている娼妓らばかりの筈だったが、都合良く行っていない者が1人だけ居たのだ。朱理と同じく、先代楼主のスカウトによって中途入楼した陸奥である。
陸奥は持ち前の器量と抜群の頭脳、一線を画す要領の良さにより、突き出しを行わずして客を取っていたのだ。
丁度良い機会だとばかりに、両者の突き出しはあっさり決まったのだった。
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