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最終章
第百七夜 【丸い三角】
しおりを挟む午前2時半。何の前触れも無く、朱理の部屋の襖が開いた。
陸奥が首を傾げて其方を見遣ると、不機嫌を隠そうともしない表情で黒蔓が立っていた。
「あれ、早かったですね。もう上がりですか?」
「急いだんだよ。お前こそいつまで居るんだ、早く部屋へ戻れ」
「やれやれ、そう急かさなくても良いじゃないですか。心配しなくても、何もしてませんって」
「そんなの見たら分かるわ。良いから出てけ」
「だって俺が動くと起こしそうだし、もう今夜は諦めたらどうです? たまには添い寝くらい譲って下さいよ」
「お断りだね。おい朱理、起きろ」
「……ぅ……んん……」
痺れを切らした黒蔓が朱理へ声を掛けると、呻き声を上げながら陸奥の腕の中で身動ぎした。
しかし一向に起きる気配は無く、逆に抱き締めている陸奥の胸に頬擦りをしながら丸くなり、更に眠りを深くしている。
その有様に、黒蔓はいらっとするやら心配になるやらで、深く嘆息した。
「ったく、つけ込むお前もお前だと思ってたが、其奴も大概だな。平静で居られるお前、すごいわ」
「でしょ? こんな可愛い姿見せられて手ぇ出さないのなんて、俺くらいですよ」
「ふん。ま、そこだけは認めてやる。そう言うお前だからこそ、最大限、譲歩してやってるって事を忘れんなよ」
「はいはい」
黒蔓は諸々を諦めて、珈琲の準備をし始めた。陸奥はその姿に目を細めて問う。
「……その習慣、何方が先に始めたんですか?」
「なにが」
「珈琲ですよ、仕事終わりの」
「先も後も無い。たまたま同じ癖があっただけだ」
「ふぅん……。本当、厭になるくらい価値観相似してますねぇ」
「ふん。精々、無益な嫉妬心に苛まれろ。お前にとっちゃ貴重な体験だろ」
「まぁそうですけど」
そんな話をしていると、陸奥の横の文机にマグが置かれた。
「砂糖やらは自分で勝手に入れろ。お前の好みなんて知らねーからな。それ飲んだら出てけよ」
「うわ、まじか。吃驚したー。まさか遣手に珈琲淹れてもらう日が来ようとは」
「最初で最後だからな。味わって飲め」
「どうせなら朱理に淹れて欲しい所だけど、まぁこれはこれで悪くない。重ね重ね、貴重な経験をどーも」
「なんだその上からな物言いは。ガキのくせに腹立つな」
「すいませんねぇ、若くって」
「いや若くはねぇだろ」
「未だ30代ですし。貴方よりは若いですしおすし」
「しね」
軽口を叩き合い、黒蔓は陸奥の反対側に腰を下ろして煙草を吹かす。こんなに穏やかな時間が流れるのは部屋主のお陰か、と陸奥は2人の間で眠る朱理を見遣った。
暫しの沈黙の後、陸奥は静かに呟く。
「……こんな事を続けていれば、いつか知られますよ。今だって危ういのに、どうするつもりですか」
「どうもしもねぇよ。元より覚悟の上だ」
「貴方がそんな怪我を負った上、恋人を差し出してまで守った見世に、全く未練は無いと?」
「無いね。そもそも、俺は此奴を差し出した覚えはねぇからな」
「へえ……。じゃ、ゴシップ誌にでもリークしちゃおうかなぁ。万華郷、遣手と大関の熱愛発覚。しかも新旧般若太夫のカップルだなんて、新たな伝説の誕生ですよ。きっと吉原は蜂の巣を突いた大騒ぎになる。暫く楽しめそうじゃありませんか」
嫌味を含んだ陸奥の言葉を鼻で笑って、黒蔓は紫煙を吐いた。
「お前はそんな事、絶対しねーよ」
「……何故そう言い切れるんです。分かりませんよ? 手負いの獣は凶暴なんですから」
「よく言う。お前はこの吉原の誰より利口な獣だからな。自分で自分の首を絞めるような真似、する訳無いだろ」
ふう、と煙を吐いて陸奥は黙った。どうやら自分の憶測は間違っていなかったと解ったからだ。
この2人は、少し引っ掻き回せば直ぐに壊れると思っていたが、前回の件から得た結果は真逆だった。
──踠き、足掻き、苦しみ喘ぐ朱理は美しかった。
自責と絶望に打ち拉がれる黒蔓を見るのは、とても愉快だった。
しかし、それも一時の事だった。
半年も経たぬうちに2人はより深い絆で結ばれ、眼前に存在している。まるで、折れた骨が以前より強靭になって戻ったが如くに。
人の心は容易く離れ、壊れる物だと。縁など蜘蛛の糸より脆い物だと、たかを括っていた。
それが唯一の誤算だった。そして取り返しのつかない失敗となった。
あの時がこの10年でただ1度、彼を手に入れられる好機だったと言うのに、遣り方を間違えてしまったのだ。
漸く見つめ返してくれた瞳に、名を呼んでくれる声に、縋ってくる腕に舞い上がり、偽りの幸福と気付いていながら酔い痴れてしまった。
結果がこれだ──
「嗚呼、厭だ厭だ。何でも知ってる女王様と、何も知らないお姫様のタッグだなんて、最強過ぎるでしょ。王道過ぎてつまんないでしょ、世間的に」
「他所は他所、うちはうちだ。大体、世間的に言ったら何でもできる王子様と、皆を虜にするお姫様の方が王道だろ」
「そう思うのなら王道ルートを下さい」
「断る。王道過ぎちゃつまんないんだろ?」
「……近々、揚げ足取りの黒蔓ってふたつ名が流行りますから、覚悟しといて下さいね」
「じゃ、お前のは悲恋の冷帝だな」
「なにこの人、めちゃくちゃうざい」
そんな事を言い合っていると、2人の間からくぐもった笑い声が上がった。
「ふふっ……意外と仲良いよね、貴方たちって」
「やっと起きたのか、寝坊助」
「おはよ、朱理」
んんー、と唸りながら伸びをして、朱理が身体を起こす。名残り惜しげに纒わり付いてくる陸奥の腕をすり抜け、黒蔓へ凭れ掛かった。
「お帰り、志紀さん」
「ただいま」
抱き合いながら口付ける2人をじとりと見遣って、陸奥は非難がましい声を上げた。
「ちょっとー、俺まだ居るんですけどー。て言うか、いつの間に名前呼び?」
「教えなーい。つか、なんでまだ居んの?」
「えぇ……寝こけてたお前を支えてた人に対して、その言い方は酷くない?」
「そもそも、普通に抱き起こしてベッド入れりゃ、支えてなくても良かっただろ」
「そーだ、そーだ。人の寝顔見て興奮してたんだろ、この変態」
「ちょっと待って、多勢に無勢過ぎる。あんたら1人で5人分くらい口達者なんだからね」
「「お前に言われたくない」」
2人揃って畳み掛けられ、陸奥は溜息を吐いて額に手をやった。
「はぁ……なんか疲れた……」
「ならさっさと部屋帰って寝ろ」
「窶れた顔もいなせだねぇ、男前。良い夢見ろよー」
「はいはい……。ったく、生き生きしやがって、腹立つな」
けらけらと笑って手を振る朱理たちを睨みながら腰を上げる。
と、自分も自然と口角が上がっている事に気付いた。
──欲しくて欲しくて堪らない人に選ばれなくても。
自分以外の誰かと仲睦まじく寄り添っていても。
こうして穏やかに笑い合っていられる。
そう、こんな日々が続くのも、確かに悪くないのだ──
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