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最終章
第百六夜 【空中楼閣】
しおりを挟む──始まる前から、結末は判っていた。
始まった時には、もう終わっていた。
結局、そう言う事なのだ。
だったら触れさせてくれよ、もう1度だけ。
赦してくれよ、2度目の失敗を。
恵んでくれよ、束の間の錯覚を。
嘘を虚に押し込めて、覚めない夢を見ていよう──
「……朱理」
肩口に凭れ掛かっている頭部が答える事は無く、規則正しい寝息を立てている。
共に映画を見始めて小一時間。ことり、と倒れて来たその身体を受け止めた。
それからずっと、ただそのあどけない寝顔を見つめている。映画など勿論、早々にどうでも良くなっていた。久し振りに間近で感じる匂い、体温、息遣いには、どんな名作も勝てやしない。
夏から秋に変わって、いつの間にか香水の匂いも変わっていた。それに煙草と体臭の混ざった独特の匂いがする、毛量の多い髪。
最近、色を変えたらしい。以前より明るくなったその髪は、杏色の照明をきらきらと反射している。
どうしていつもこうなのか、と頭を抱えたくなった。
朱理の性格は厭と言う程、分かっている。
寝込みを襲った事も、弱みに漬け込んで囲った失敗も、喉元過ぎれば何とやらの如く、変わらず接してくれている。幾度ぶつかり合おうと、問題が解決してしまえば綺麗さっぱり水に流してくれる。
それはとても有り難い事だが、同時に途方も無く虚しく、切なく、徒爾なのだ。
何故ならそれは、共に過ごした年月も、交わした言葉も、合わせた肌も、訴えた愛すら、彼の中には留まっていないのだと、知らしめられる事と同じだから。
反面、自分には忘れられる物などひとつも無くて、募り続ける想いばかりだ。
刹那的にこの手に掴んでも、瞬く間にすり抜けていくと解っている。その上で、朱理と出逢えた事に幸福を感じていた。
自分は朱理を、彼の想像も及ばぬ形で想っているのだ。誰より広量な彼であっても、恐らくこの感情を理解する事は出来ないだろう。
だから在り来りな言葉に倒置する。好きで好きで、どうしようも無いほど愛している、と。
朱理が見ているのはこの10年、ただ1人きり。そんな事は、あの人が朱理を連れて来た時から解っていた。
どれほど寄り道をしようと、どれほど迷子になろうと、結局、帰り着く先はあの人の腕の中なのだ。
どうしてあの人だったのか、どうして自分じゃなかったのか。完璧な男になど興味は無い、と彼が嗤ったのが、悔しくて悔しくて堪らなかった。
どんなに言葉を尽くしても、どんなに心を込めて抱いても、終わってしまえば全て零になる。合わせた身体、言葉、熱、全ては彼の中で透過する。
それ故、こんな仕事をしていてさえ何者にも染まらず、まっさらで居られるのだ。
そのくせ、情に脆くて傷付きやすくて流されやすい。有り体に言えば碌でもない。
それが彼の性分で、そんな彼だからこそ、こんなにも愛おしいのだ。
息を殺して腕を回し、重力のままに傾ぐ身体を抱きとめる。
寝付きが悪いくせに、こうして突然、無防備な寝姿を晒すのはあざとさか、もしくは厚い信頼か、それとも単なる無頓着か。
どれでも良いから触れていたい。なんでも良いから傍に居たい。どうなっても良いから、このままずっと腕の中に仕舞い込んでおきたい。
また壊してしまえば良いのか、と流れる睫毛を見ながら思う。
跡形も無く木っ端微塵にして、あの日々の様に壱から創り直してやれば、手に入るのだろうか。
きっと駄目だろう、と直ぐに解った。
折角、壊してやったのに、今も変わらず綺麗なままじゃないか。その心を再び繋ぎ合わせる、傷だらけの黒い手があるじゃないか。
背後から抱き締めたまま、その首筋に唇を付ける。華奢な腰の線に掌を滑らせ、そのまま内腿へ這わせながら耳元で呟いた。
「……このまま抱いたらどうする? 怒る? それとも、また寝たふりで遣り過す?」
暫く待ってみるが、答えどころか僅かな反応も無い。どれだけ熟睡しているのやら、と苦笑が漏れた。
もういっそ、滅茶苦茶に犯してやりたい。途中で目覚めて抵抗されたとしても、抑え付けて捻じ込んでやりたい。
無防備なお前が悪い。危機感の無いお前が悪い。俺を愛さないお前が悪いと言ってやりたい。
激しく攻めて、責めて、せめてその口から愛してると言わせたい。
それが叶わないのなら、お前の両目を潰してやりたい。そうしたら、お前が最後に見る物は間違いなく俺の顔になるだろう。
ついでに足の腱も切っておこう。逃がさない様に。何処へも行かせない様に。
離したくない。誰にも触れさせたくない。その姿さえ、誰にも見せたくない。
俺だけのお前になって欲しい。お前だけの俺になるから。他の物など、何ひとつだって欲しくない。
──『死んでくれないか、俺を愛さないのなら』
『殺せば良いだろ、そんなに愛してるなら』──
いつだったか、そんな遣り取りをした事を思い出す。この妄執を、呆気無く白い狂気で呑み込んで嗤うお前が、やっぱり途方も無く綺麗で。
殺してしまいたい欲望と、その存在を永遠に失くす絶望とに挟まれて潰れた自分は、まるで真夏の蛙だ。
車輪に轢かれてぺしゃんこになって乾涸びて、誰かと手を取り笑い行くお前は、此方に気付きもしない。
顎を掬い上げて此方へ向かせると、色素の薄くなった髪が流れ落ち、微かな音を立てた。
閉じた瞼も、通った鼻筋も、尖った顎も、流れる髪の1本に至るまでこの心を掴んで激しく揺さぶる。
「愛してる、朱理……。どうしようもないほど、愛してるんだ……」
哀願も懇願も、精も魂も尽き果てるまで叫び続けてやるのだ。例え無意味と解っていても、訴える事だけは辞めてやらない。
だって、独占したくて仕方が無い反面、手に入らなくても良いと思っているから。
お前にさえ理解されないだろうこんな矛盾撞着でも、捧ぐ事を赦してくれるなら、それで満足だ。
何故なら俺は、お前に拒絶されてしまったらきっと、簡単に壊れてしまう。想う事さえ赦されなくなったら、生きる希望も目的も、見失ってしまう。
逆に、もしもお前が俺を受け入れてくれたら、俺はきっと、お前を壊してしまう。何十年も溜め込んできた激情を、全てお前にぶつけてしまう。
お前が欲しくて堪らないけれど、振り返らない確信に安堵している俺は、これからもずっと砂上の楼閣で眠り続けるのだろう。
愛していると伝えて、お前が呆れた様に笑う日々を維持するのも、なかなかどうして愉快なのだ。
束の間の夢を、嘘を、錯覚を、微かな畏怖と共に、ぎゅっと抱き締める。
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