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最終章
第百二夜 【閑話休題】
しおりを挟むさて、いよいよ万華郷史上初となる、太夫総揚げの日がやって来た。
午前10時。携帯のアラームを止めた黒蔓は、隣で眠る朱理の背に寄り添って腕を回す。
「……んん……もう朝……?」
「……ああ」
「どしたの? 厭な夢でも見た?」
「いや……何でも無い……」
背後から聞こえてくる黒蔓の声音に、朱理は苦笑を漏らした。最近分かった事だが、黒蔓は不安や焦燥に駆られた時、こうして暫く寝具から出ようとしない。
腕を上げてその頭を撫でると、抱き締めてくる力が強まった。
「未だ、起きたくない……」
「ん。じゃあ、もう少しこのままで居よう」
「……行くな……なんて言えれば、どれだけ幸せか……」
「珍しいね。今日の客はそんなにタチが悪いの?」
「最悪だ。もしお前が気に入られでもしたらと思うと……厭だ」
「そっか……」
ごく稀に出る様になった黒蔓の弱音が、愛しくて堪らない。
これまで10年近く押し殺して来たであろう剥き出しの感情は、酷く切なくも甘美で、朱理は身体の向きを変えて抱き締め返す。
「……悪い」
「謝らないで。寧ろ、もっと聞かせて欲しいくらい。俺は嬉しいんだよ」
弱り顔の黒蔓の髪や額に幾度も口付けを落とすと、ますます眉を顰めるのが可愛いと思う自分は捻くれ者なのだろうか、とぼんやり思った。
「大好きだよ、志紀さん。何もかも愛してる」
「俺も愛してる」
「珈琲作ってくるよ。今日はベッドで飲もう。少しでも長く触れ合っていたいから」
「なら俺が……」
「良いから寝てて。今日は俺が淹れたい気分なんだ」
そうして、普段とは少しだけ違う朝を迎える。黒蔓は朱理の作るその微妙な差異が好きだ。
自分の精神が弱っている時、敏感に察して労ってくれる。僅かな非日常を意図的に生じさせ、気を紛らわせてくれるのだ。
湯気の立つマグを渡してくる穏やかな表情で、今日も明日も明後日も、何とかなると思える。
最悪な目覚めは、最高の朝に塗り替えられたのだった。
午後12時。風呂と朝食を済ませた朱理は、皆よりひと足先に執務室へ呼ばれていた。
ソファに隣り合って座り、書類を見せられながら今夜の客たちの説明を受ける。
「まず主催の相良大臣だが、言うまでも無く政界の重鎮。あらゆる省庁に顔が利く傑物だ」
「奈央と陸奥の顧客だね」
「そうだ。奴には和泉と陸奥が付くから、お前は顔と名前だけ頭に入れておけば良い」
「了解」
「この宴席の目的は、相良大臣の威光を示す事だ。それによってBEPS寄りの議員を租税回避側に引き込む。最も重要なのはこの男、橘財務副大臣だ」
「財務省の副大臣かー、超大物じゃん」
「橘は政界では珍しく誠実な男らしい。が、善い人過ぎる所為で、こういう謀の障壁になり兼ねない。おまけに浮いた話の無い、真面目一貫な人物だ」
「なるほど。目下、最大の難問はこのロマンスグレーな紳士を真っ黒に染める事ってワケか」
「そうだ。橘と親しくなり、あわよくば同じ穴の貉にしてしまえ、と言うのが大臣の腹積もりだ。下手な色仕掛けは通用しないだろうが、成功すればプロジェクトは完全に凍結するだろう」
「なるほどね、理解した。まぁ、なんとか頑張ってみるよ」
黒蔓は橘の資料を置くと、別の書類を取り上げて見せた。
「後は間島国会議員、岩塚国会議員、辻堂国会議員、そして蜂須賀永年党民。議員どもは、蜂須賀を堕とせば勝手に付いてくるだろう」
「なんか厳しい爺さんだね、蜂須賀って人。稲本の大旦那にちょっと似てるかも」
「其奴は狸だぞ。あまり表舞台には出て来ないが、手駒を動かして暗躍しているらしい。まぁ、奴らには妹尾と松雪を付ければ充分だろう。官界でも有名な好色じじいだからな」
「ふうん。大丈夫かねぇ、あの子達だけで」
「平気だろ。若くて美人なら何でも良いって輩だ。まぁ一応、お前も余裕があれば目を配ってやれ」
「はーい」
と、話がひと段落した所へ、太夫と新造達が入室して来た。
「失礼します。お早うございます」
「お早うございます」
「説明終わりました?」
「おう。丁度、終わったとこだ。お前ら、演武の支度は抜かりないか?」
「何度か合わせたので大丈夫です。な、棕櫚」
「うん。和泉達は?」
「俺たちも問題無い。土壇場で朱理がトチらなければな」
「俺、本番強いから大丈夫。歌詞トんでも節で誤魔化すし」
「まぁ長唄だからどうとでもなるだろ。音程とリズムさえ押さえてりゃ、なに言ってるかなんて分かりゃしねぇさ」
「思いの外、適当なんですね……」
「良いんですか、それで……」
大一番と言っても過言では無い芸事に対する緊張感の無さに、渡会と松雪は眉を顰めている。
「此奴は声でカバー出来るから良いんだよ。お前らは兄貴達をしっかり見とけ。1人ひとつは何かしらの芸を極めさせるからな」
「は、はい……!」
「勉強させて頂きます」
黒蔓の言葉に、妹尾と玖珂が緊張した面持ちで答える。
朱理は先程の資料を机から取り上げ、傍に居る松雪の方へ差し出した。
「これ、今日来る人らの資料。見てない子たちは目ぇ通しときなよ」
「有難うございます」
「宴会は今夜20時からだ。昼見世が終わったら、それまでに支度を済ませておくように」
「はい」
「了解です」
「うはぁー、楽しみだなぁ! 夜が待ち遠しいぜー! 朱理の声は天人も裸足で逃げ出すレベルだからな! 今日だけは遣手に感謝するわぁ」
「辞めろ、馬鹿陸奥。ハードル上げんじゃねぇよ。やり辛くなるだろうが」
「もの凄くうきうきしてる……」
「陸奥さんが1番楽しそうだな……」
小躍りする陸奥を厭そうに睨む朱理に、妹尾と吉良が苦笑を漏らす。と、渡会が苦渋を孕む声を上げた。
「流石に陸奥さんは余裕ですね……。俺なんか、既に胃が痛いですよ……」
「俺も……全く食欲無いです……」
「渡会も玖珂も、無駄に緊張しなくて良いぞ。余程の粗相が無い限り、太夫らが何とかしてくれる」
「ちょ、圧を掛けないで下さい! 俺だって結構、緊張してるんですから!」
「そうですよ……。普段、相手にしない人種って、めちゃくちゃ気ぃ遣うじゃないですか」
「大丈夫じゃねーの? 陸奥と奈央に任せときゃ、後はどうにでもなるさ」
「お前、更に圧掛けるの辞めてくれる? って言うか俺らに丸投げすんな、仕事しろ」
「妹尾ー! 久し振りに一緒に座敷上がるなぁ! お前はただニコニコしてれば大丈夫だからなー!」
「は、はい……! 朱理さんが居て下さって、本当に心強いです……!」
和泉の叱責を華麗にスルーした朱理は、妹尾に抱きついてわしゃわしゃと頭を撫でている。鶴城と棕櫚は、そんな2人の遣り取りに笑みを零した。
「相変わらず仲良いなぁ、あの2人。微笑ましいぜ」
「妹尾も懐いてるし、いっそ朱理が面倒見てやれば良いのに」
「駄目だっての。俺なんか、何の手本にもなりゃしないよ。でも妹尾の事は大好きー!」
「お、俺もです……!」
「妹尾、顔真っ赤だぞ」
「あー、なんか和むわー」
「下心ない好意って、尊いよなぁ」
妹尾に戯れつく朱理の邪気の無さに、ひりついていた場の空気が一瞬で緩和される。
黒蔓はそれを眺めながら、果たして意図しているのかいないのか、相変わらず底の知れない男だと思うのだった。
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