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第八章
第九十六夜 【修羅場】
しおりを挟む16時半。1階の新造寝屋に、昼見世を終えた新造らが続々と帰って来ていた。新造は個室を持たない為、格上げされるまではこの新造寝屋で寝起きするのだ。
万華郷では一般の新造の様に大部屋での雑魚寝ではなく、仮部屋として個人に座敷が割り当てられている。
但し、独り寝が出来るのは営業時間外のみで、名代や客と床を共にする際は、名代寝屋か新造寝屋に2組ずつ割床にされる。客と揉めたり、規則違反の情事に耽けらない様、互いに監視し合いながら身を守る為の措置だ。
新造寝屋は宴会用の座敷と兼用である為、隣室とは襖で隔てられるのみで、壁は無い。
就寝時以外は全ての襖を開けておかねばならず、控え所を横に伸ばして縦を狭くした様な形だ。控え所は常に太夫らが占拠している為、顔を出し辛い新造らは専ら、この新造寝屋で雑談などをして過ごしている。
「ゔ……あぁー……。つっかれたー……」
「お疲れ」
「お疲れ、吉良。最近やけに忙しそうだな」
入ってくるなり畳へ突っ伏した吉良に、渡会と玖珂が声を掛けた。
「あー……近頃、陸奥さんの名代がやたら多くてさ。気難しそうなおっさんやら、無駄に気位の高いご婦人やらのご機嫌取りで、もう胃がやばい」
「うわ、それは辛いな。どうせ今週末の宴席の為に、敢えてそんな客を回されてるんだろうけど」
「ああ、吉良は陸奥さんに付くんだったな」
「まじしんどい、鬱。冷帝に付けるとかラッキー、って思ってた先週の俺んとこ行きたい。んで殴りたい」
「はは、まぁそう悲観的になるなよ。太夫の出揃う座敷なんて、滅多に拝めるもんじゃないし。和泉さんと朱理さんの芸も見られて役得じゃないか」
「いや、本当それな。一縷の望み、蜘蛛の糸」
上手新造の屯す座敷で、げっそりする吉良を慰める渡会と玖珂の横から、吉原細見を捲っていた九重が声を上げた。
「そう言えば陸奥さん、次の番付で大関の殿堂入りするらしいよ」
「ええ!? まじか! 凄いなー、流石は冷帝」
「寧ろ、今まで殿堂入りしてなかった事の方が意外と言えば意外だが」
「確かに。やっぱ長期不在が祟ったのか、朱理さんの人気に押されてたのかね」
「いやぁ、太夫になって以来、ずっと大関だったらしいからなぁ。もうとっくにしてても良いと思うんだが……基準がイマイチ分からん」
「当人が辞退してたって可能性もあるよね。朱理さんの格上げみたいにさ」
「殿堂入りの辞退なんて、出来る物なのか?」
「いや、俺もよく知らんが……。とにかく、凄い事だよな」
首を捻りつつ、感嘆の声を上げる九重と渡会であった。
番付には殿堂入りと呼ばれる特別な枠がある。殿堂入りした太夫の名は代々引き継がれ、後世に歴史を残す誉高い物だ。
しかし、その基準は明確には定まっておらず、容姿や人気の高さ、身請けの金額、身請けする客の知名度など、様々な要因から細見の発刊元が判断し、見世と娼妓へ許可を取る。
殿堂入りした花魁には『高尾』、『吉野』、『薄雲』、『玉菊』などがおり、今もその名を継がれ続けている。
「もしかしたら、男性だからって事で細見側が二の足踏んでたのかもな。殿堂入りしてるのって、やっぱり女性ばかりだし」
「じゃあ吉原史上初の男性って事? うわー、歴史が変わる瞬間じゃん」
「この調子じゃ、朱理さんが殿堂入りするのも遠くないな」
「ああ、確かに。今、陸奥さんと大関争ってるのって朱理さんだけだし」
「それも要因なんじゃねぇの? あー、もう面倒くせぇ! 陸奥さん殿堂入りしちまえ! みたいな」
「編集部のノリ軽過ぎないか、それ……」
吉良の適当な発言に苦笑しながら、渡会が続ける。
「まぁ、言い方はアレとしても、一理ありそうだよな。今のままあの2人がトップ争いしてちゃ、番付が停滞して良くないのかもしれん」
「〝太夫〟、〝花魁〟で呼び分けしてるんだから、いっそ番付も男女で分けちまえば良いのにな」
「そうだな。そうした方が見る方も分かり易いし、無駄な揉め事も減る気がする」
「けど、それやると今度は男女差別うんぬん言い出す輩が出そう」
「あー、ありそー……。文句言うやつって絶対、居るもんな」
万華郷では当然の様に太夫という格付けが使用されているが、宝暦以降から女性の上級娼妓を太夫と呼ぶ事は無くなった。
時代と共に上級遊女は花魁と呼ばれる様になり、陰間茶屋が台頭し始めて番付に載るようになると、男女の区別を明確にする為、上級男娼を太夫と称する様になったのだ。
そんな雑談をしていると、突然、廊下から何やら激しく言い争う声が聞こえて来た。只ならぬ雰囲気に、慌てて座敷を飛び出した渡会達は、声のする方へと急ぐ。
「だから知らねぇっつってんだろ! しつけーな!」
「そんなワケ無いだろうが! お前の事だぞ!? 本人が何も知らないなんて、言い訳以外に有り得ねぇんだよ!」
「本当に知らねぇんだって! 何回言わせんだ! 良い加減にしろ!」
「いーや、今回だけは絶対に引かねぇからな。お前が認めるまで辞めねぇぞ」
「認めるって何をだよ! 大体、なんでお前にそこまで言われなきゃなんねぇの? 俺には何の関係もねぇ話だろーが!」
「はっ! よくも抜け抜けとそんな事が言えるな。能天気もそこまで行くとまじで迷惑なんだよ! お前も大人なんだから、いい加減に自分の立場って物に責任持てよな」
「てめーにとやかく言われる筋合いねぇわ! だから俺は太夫なんてなりたくねぇっつってきたんだよ!」
駆け付けた先では、朱理と陸奥が掴みかからんばかりに怒鳴り合っていた。
この2人が本気で喧嘩する姿を初めて目の当たりにした渡会達は、余りの剣幕に驚くやら恐怖するやらで立ち尽くす。朱理はともかく、陸奥がここまで感情を露わにする事自体、新造らは初見なのだ。
「お前がそうやって何でもかんでも放り出してきた所為で、どれだけの人間が迷惑してるか分かって言ってんのか? いつまでも無責任なガキみたいな事ばっかり言ってんじゃねぇよ」
「大人だ子どもだって、馬鹿のひとつ覚えみてーにそればっかりだな……。はぁ……疲れた、もーいい。辞めだ、辞め」
「あー、出た出た。すぐ逃げるその癖、どうにかしろよ。真面に話も出来やしねぇ」
「話す気がねぇって事に気付けよ、馬鹿が。皆がてめぇの言う事聞くと思ったら大間違いだぜ。思い上がりも大概にしとけよ、勘違いナルシス野郎」
「……お前、誰に向かって言ってんだ? おい」
「てめぇこそ何様だコラ。いっつも偉そうに上からモノ言いやがって。何度かヤらせてやったくらいで彼氏面してんじゃねぇぞ、鬱陶しいんだよ」
「……そのくらいにしとけよ……。俺にも我慢の限界ってもんがあんだからな……」
「あ? なんだよ、やるか?」
今にも取っ組み合いになりかねない雰囲気に、慌てて渡会たちが止めに入ろうとした時、反対側の廊下から声が掛かった。
「辞めろ辞めろ、お前ら。廊下のど真ん中で何してる」
「あ! 黒蔓さぁん! ちょっと此奴どうにかしてくれよぉー! さっきからいちゃもんがウザくてしかたねぇ」
「いちゃもんじゃねぇだろ! 正論だろ!」
「五月蝿いな、でかい声出すんじゃねぇよ。新造がビビってんじゃねぇか」
やおら2人の間に割って入った救世主、黒蔓の登場に、新造らはひとまずほっと胸を撫で下ろすのだった。
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