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第八章
第九十二夜 【奸譎流し】
しおりを挟む俯いて微動だにしない屋城が気になりつつ、朱理は矢も盾も堪らず、篁の後を追いかけた。
「篁さん……!」
「……朱理」
篁は朱理を振り返ると、先程までの毅然とした表情を崩し、沈痛な面持ちで眉を寄せる。
「……久し振りだな」
「うん……。少し聞きたい事があるんだけど、良いかな」
「ああ……。では、俺の車で聞こう」
そして2人は駐車場へ赴き、後部座席へ並んで腰掛けた。煙草に火を点けた朱理に、篁が身体を向ける。
「すまなかった。選りに選って、お前の友人をこんな目に合わせてしまうなど……」
「……まぁ、起きてしまった事は仕方ないよ。1番腹が立つのは、気付いてやれなかった自分自身だから」
自嘲しながら紫煙を吐く。篁が小さく呻きを漏らすのが聴こえて、内心、この男は本当に情が深いなと思った。
「それで、聞きたい事とはなんだ?」
「事情を聞いてからずっと疑問だったんだ。貴方ほどの人が纏める組織で、どうしてこんな事が起こったのかってね。晋和会は麻薬の取り扱いはしないんでしょ? 少なくとも吉原内では」
「ああ、その通りだ。今回の件については、俺の監督不行き届きとしか言い様が無い」
朱理はふっと息を吐いた。そんな陳腐なひと言に尽きるとは、人の命のなんと軽い事か。
吉原では人が当然の様に売買されている。自分とて、法的に言えばこの身体は見世の物だ。
今まで知りもしなかった惨憺たる現実を、この数ヶ月でまざまざと見せ付けられている気がした。
「……瑠理と言うのは最後にお前と会った時、飛び入りで押し掛けて来た太夫だろう」
「そうだよ」
「あの日、俺が話した事を覚えているか?」
「大幹部殿の事?」
「ああ。言い訳にもならないが、ここの所、俺は親父の使いで出突っ張りだったんだ。俺の不在を良い事に、このシマを狙う阿呆どもに付け入る隙を与えてしまった。如何に己の統治が甘かったか、思い知らされたよ」
「……それは…………」
朱理は、胃の辺りにぞわり、と厭な物が迫り上がるのを感じた。
──それは要するに、自分が招いた事ではないのか。
自分が篁に興味を持たれ、更に上層部がそれに興味を持ち、篁の注意が削がれた所為で起きた事だと言うのなら、それは間接的に自分が殺したも同然ではないのか……──
煙草を持つ手が激しく震える。手足から血の気が引いて、冷たくなっていくのが分かった。
篁は青ざめて震える朱理の手から煙草を取り上げ、肩を掴んで目線を合わせて来た。
「おい、大丈夫か? どうしたんだ」
「……だっ……て、それ……それじゃ…………俺が、彼奴を……」
「何を言ってる、そんな訳無いだろう。不運が重なってしまっただけだ。お前は何も悪くない」
「だって……ッ! 俺が貴方と関わらなければ、こんな事にはなってなかったかもしれないだろ……!」
「それを言うなら俺の方だ。俺がお前に入れ上げなければ、こんな惨事は起きなかったかもしれない。もっと下を厳しく見ていれば、未然に防げた事だろう。全ては結果論に過ぎん。責めるのなら自分じゃなく、俺を責めろ」
「────……ッ」
強く雄々しい双眸に見据えられ、朱理は心臓が痛いと感じる程の切なさを覚えた。
掴まれた肩から、篁の体温が沁み入って来る。
──嗚呼、本当にこの男は、何てお人好しで、強くて、逞しくて、広量なのだろう。
そうして憎まれ役を買って出て、こんな所にまで自ら赴き、敵意に晒され、あっさりそんな事を言って退ける。
卑屈な思考で無意味に卑下する自分の、なんと稚拙な事か──
抱き締められ、その腕の温かさに益々胸が締め付けられた。
「お前は悪くない。だから、そんな事を考えるのは辞めるんだ。お前が二度と見たくないと言うのなら、俺はお前の前から消えるから。自分を責めるのはよせ」
「……違う……そうじゃない……」
朱理は震える声で呟き、篁の広い背にしがみ付いた。
「……居なくならないで……。貴方まで、俺を置いて行かないでくれ……」
「……ああ、行かないさ。お前が居ろと言ってくれる限り、俺は何処にも行きやしない」
耳元に落とされる優しい声と温かさに安堵する。清濁併せ呑む、縋って余りある大きな身体に救われる。
もし黒蔓と出逢う前に篁と出逢っていたら、間違い無くこの男を愛していただろう、と思った。
旧友の葬儀の準備中だと言うのに、こんなにも歓喜しているなど、不謹慎だと思いながらも辞められない。
──彼奴の死を見てから今まで、誰にも縋れなかった。縋ってはいけないと思っていた。
自分には帰る場所も、温かく迎えてくれる人も居る。
だからせめて、今ぐらい誰かを支えてやりたい。今ぐらい己の感情など殺すべきだ、と自分に言い聞かせてきた。
彼奴を救えなかった己への罰の様に、意固地になっていたのだ。
心を抑え続けた結果、彼奴の為に涙してやる事すら、出来なくなっていた。
俺だって寂しい、哀しい、辛い、苦しいと叫びたかった。なりふり構わず、泣き喚きたかった。
誰かに、お前は悪くないと言って欲しかった──
何もかもを受け入れてくれる逞しい腕の中、漸く、朱理の頬を涙がつっと流れて落ちた。
────────────────
暫く篁の腕に包まれていた朱理は、身体を離して微笑んだ。
「有難う、篁さん……。俺、なんだか変な意地張ってた。貴方のお陰で、馬鹿な考えから抜け出せたよ」
「……そうか。少しでも力になれたのなら、良かった」
朱理の濡れた頬を優しく指で拭った篁は、困った顔で微かに笑う。
「本当は、俺も怖かったんだよ」
「何が?」
「こんな事になって、お前に恨まれたと思っていたからさ」
「どうして? 悪いのは篁さんじゃないでしょう」
「それがお前の、お前たる所以だよ。屋城の顔を見ただろう? あれが普通の反応だ」
「……あの人は、仕方ないよ……。俺とは違う感情で、俺よりずっと近い所で瑠理を見て来たんだから……」
「そんな事はない。皆が憎むのは、やはり親玉だからな。お前にも分かる筈だぞ、上に立つ者ほど多く憎まれるという事が」
「それは……」
確かにそうだ。
組織など、特に顕著にその傾向が現れる。有事の際、真っ先に叩かれるのは間違い無く頂点に立つ者なのである。
朱理は未だ苦い顔をしている篁へ、朗らかに言った。
「俺は貴方をよく知ってるから。篁さんは道理に反した事はしない人だ。無闇に人を傷付けたりしないし、悪いと思えば素直に頭を下げられる。とても極道とは思えないお人好しだからね」
「おいおい、それは喜んで良いのか複雑だぞ」
「ふふっ……俺はそんな強くて真っ直ぐな貴方が好きだと言ったでしょ」
「そうだったな。俺は、お前の純粋さ故の脆さが、堪らなく愛おしいよ」
「五月蝿いなぁ。まぁ、脆いのは事実だけどさ」
む、と口を尖らせる朱理に、篁も表情を和らげる。ひとつ紫煙を吐いて、朱理は囁くように言った。
「落ち着いたら逢いに来てね。待ってるから」
「おや、いつの間にそんな可愛い事を言う様になったんだ? お前は少し目を離すと直ぐに形を変えるから、ヒヤヒヤさせられる」
「俺はヘリウムの入った風船みたいな物だと思ってよ。しっかり握ってないと、何処かへ飛んで行ってしまうかも」
「全く、自分で言う辺りが悪質だな。また近いうち、必ず逢いに行くよ。それまで独りで泣かずに、ちゃんと頼れる人の傍に居るんだぞ」
「うん……有難う。またね、篁さん」
そうして朱理は再び悲哀に包まれる会場へと戻って行った。
間も無く、瑠理の葬儀が始まる。
葬儀の間、朱理は桐屋の希望で屋城の隣へ立っていた。
焼香に訪れる客へお辞儀を返しながら、時折、棺の瑠理を見遣る。まるで眠っている様だと、誰かの歌の様な事を思った。
──どんな兆しも見逃さない様に、もっとお前に寄り添っていれば良かった。
長い間、お前は言葉にも出来ないほど疾苦していたんだな。
俺の胸の痛みなど、きっとお前のささくれにも届かないのだろう──
そんな事を思っていると、不意に瑠理の無邪気な笑顔が頭に浮かんでぼやりと消える。
いつも快活で、陽気で、破天荒だった。そのくせ、無駄に色々と抱え込んでは、進退儘ならなくなって助け合う。
2人は似た者同士で、互いに互いが大好きだった。
瑠理と過ごした日々は、全て眩しく美しい記憶となって残り続けるだろう。彼を忘れる事など、絶対に無いと言い切れるのだ。
滞りなく葬儀は終了し、棺の蓋が閉じられて霊柩車へ乗せられる。
遺影を抱えた屋城が此方を振り返り、清々しいほど綺麗に微笑った。それがどう言う意味なのか、全てを汲む事は出来ないまま、朱理も微笑って小さく手を振る。
1度高らかにクラクションが鳴らされ、瑠理を乗せた車は厳かに発車した。小さくなっていくそれを見送りながら、朱理は小さく、行ってらっしゃい、と呟いた。
すっかり車が見えなくなった頃、隣から嗅ぎ慣れた匂いがした。見なくとも誰だか分かる。
「帰るぞ」
「……うん」
共に車へ乗り込み、いつもの様に手を繋ぐ。
見世へ着くと真っ直ぐ黒蔓の部屋へ向かい、線香の臭いが染み付いた喪服を脱いで煙草に火を点けた。
黒蔓は何も言わず、静かに珈琲の支度をしている。煙草と珈琲豆の香りが日常を呼び戻す様で、それだけで酷く心が落ち着いた。
軈て湯気の立つマグが文机に置かれ、いつも通りそれに口をつけながら、窓の外を見遣る。
あれだけ降り頻っていた秋雨は、いつの間にか止んでいて、薄雲の合間から柔らかな陽射しが差し込んでいた。
隣に目を向けると、黒蔓が穏やかに微笑っている。蜂蜜が匂い立つカフェオレとその笑顔が、何だかとても大切な宝物の様に思えて。
気付けば両目から大粒の涙が零れていた。
優しく、華奢な指が目元を拭ってくれる。その仕草は、もう心を隠す事も、抑える事もしなくて良いと言われている気がした。
片手で口を覆うが、嗚咽はとどまる術を忘れたかの様に溢れ出る。
優しく膝へ誘われ、その身体にしがみ付いた。
黒蔓の膝に顔を埋め、瑠理が居なくなってから初めて、声を上げて泣いた。
空が泣き止んだから、今度はちゃんと自分が泣く番なのだ、と頭の隅でぼんやり思った。
──おやすみ、瑠理。
もう頑張らなくて良いからね。俺がそっちへ行くまで、のんびりしててよ。
お前の笑顔を抱えて、俺はもう少しだけ生きて行くよ。
此岸の向こうでまた逢えたら、いつもの様に口付け合おう──
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