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第七章
第八十八夜 【都会の夜】
しおりを挟む「……なぁ」
「なに?」
「夕方、網代となに話してた」
「あ、知ってたんだ。大した事じゃないよ」
「言えないのか?」
「ううん。謝ってたんだ、利用してごめんって。あの人は全部分かってたって、許してくれた。それだけ」
「そうか……。彼奴はつくづく、報われない相手ばかり好きになるんだな。居るよな、そういうヤツ」
「貴方がそれを言う? あの人の諦め癖は、確実に志紀さんの所為だと思うよ」
「仕方ないだろ。同情で寄り添えるほど、俺は器用じゃねぇんだ」
「……そうだね」
蝋燭の薄明かりの中、窓辺に並んで腰掛けながらそんな話をする。
開け放った窓の外からは、中庭で鳴いている鈴虫の声が涼やかに聞こえてくる。
「何やってんだかな、俺達」
「さぁね。道に迷う事もあるんじゃないの、長い人生なんだから」
「相変わらずだよな、お前のその悟りきったみたいな物言い。本当、歳に似合わねぇ」
「五月蝿いな、こういう性分なの。でも、全てを諦めなきゃ生きて行けないのは分かるかな。正にこの世は苦海だよ、吉原だけじゃなくてね」
「折角こうして一緒に居るってのに、なんつーこと言うんだか。まぁ言わんとする意味は分かるが、寂しくなるから辞めろよ」
「ふふ……ごめん。貴方に出逢えてなければ、俺はとっくに何もかも諦めてたなって思ってさ」
窓の外に遣っていた視線を黒蔓へ向けながら、朱理は微笑った。
「唯一、俺は貴方だけを諦められなかったんだ」
それを受けて、黒蔓もまた同じ様に微笑う。
「そっくりそのまま返すわ」
何方からともなく手を差し伸べ、指先を絡めて繋ぐ。
「ねぇ、志紀さん……」
「なんだ」
「これから何度この手が離れても、必ずまた繋げるよね……。もうあんなに不安にならなくても良いよね……」
「ああ……。これだけ同じ気持ちだと思い知ったんだ。そんな心配要らないだろ。俺は今度こそ、何があろうとお前を信じるよ」
掌を合わせる様にして互いの温度を分け合うと、真夏だと言うのになんとも心地良かった。
「俺は貴方以外、何も要らない。一緒に居られるなら、どんな苦難も受け止めるよ。俺の居場所は貴方の傍以外、この世の何処にも無いんだから」
「俺もだ。例えこの世が苦海だろうが、お前と生きられるならそれで良い」
悪夢の只中の如きこの吉原で、互いの手を握り合う2人は静かに祈る。無理も我儘も言わないから、どうかこのまま寄り添える日々が続きますように、と。
「愛してるよ、志紀さん」
「愛してる、朱理」
数え切れないくらい口付け合い、肌に触れ、求め合っても飽き足らない。凡ゆる愛の言葉を尽くしても、尽くし切れない。
ただ指を触れ合わせるだけで想いが流れ込んで来る様な心持ちに、益々、愛おしさが募った。
精神が繋がっている尊さを噛み締める、静かな真夏の夜である。
「……珈琲、飲みてぇな」
「あ、それ俺も思ってた。淹れようか? ガスが使えるならドリップ出来るよ。まぁ、必然的にホットになるけど」
「でもそれじゃ、お前が飲めないだろ。牛乳ねぇし」
「俺は良いよ」
「駄目だ。一緒に飲めないなら意味が無い」
「はぁ……もう、無自覚に可愛いとか反則だから。じゃあどうするの、諦める?」
「いや、買いに行こう」
「ああ、なるほど。その手があったか」
吉原にも24時間営業している店はある。景観維持の為に見た目は木造だが、内装はよくあるコンビニエンスストアだ。
2人は外出用の着流しに着替え、駐車場へ出た。
「折角だから外に行こうよ。そんなに遠出しなくても良いからさ」
「ああ、そのつもりだったよ。近場じゃ色々と面倒だし。って、お前が運転するのか?」
「うん。貴方の目じゃ夜は厳しいでしょ」
「お前こそ鳥目のくせに」
「流石にライト付ければ道は見えるよ。ま、普段あんま運転しないからゆっくり行くけど。あー、髪、結んどかないとやばいな。目にかかって鬱陶しい」
「お前が前髪上げてるとこ見るの、結構好きなんだよな」
「そうなの? なら一緒に居る時はなるべく結ぶ様にするよ」
「別に良い。どうせ直ぐ解くし」
「んー? 乱れ髪的な良さもあるんだぜ」
そんな遣り取りをしつつ、朱理は妓夫から車の鍵を受け取った。
玄関門が開かれ、滑る様に黒いセダンが出て行く。見世の玄関も吉原大門も、黒蔓が居れば許可証を見せなくとも開くのだ。
「おおー、顔パスだ、すげぇ。こいつは楽で良いや」
「ふん。門番の顔見たか? お前の事、穴が空くほど凝視してたぞ」
「あははっ! そりゃまぁ吃驚するわなー。いくら出入り自由っつっても、運転手で出て行くなんて滅多に無いからね。て言うか初めてじゃね?」
「暫く彼奴らの話題は俺らの関係と、お前の免許の有無で持ち切りだろうよ」
「うわ、失礼な。ちゃんと持ってますよー、AT限定だけど。あ、そう言えばこないだニュースで見たんだけどさ、着物で運転してたら捕まるかもしれないらしいよ」
「はあ? なんで?」
「どっかの県でお坊さんが捕まったらしい。着物での運転は危険だからって」
「なんだそれ、阿呆らしい」
「本当にねぇ。着物も女の子のドルマンも、同じ様な物だと思うけど」
「下手したらピンヒールで運転する奴もいるんだから、其方の方がよっぽど危ないだろ」
「確かに、ヒール運転は怖いね。なんでも袖まわりが引っかかって危ないからだとか読んだけど、大袈裟だよねぇ」
「全くだな」
そんな雑談をし、何処へ向かうともなく流しながら久し振りに見る都内の景色を見遣る。
吉原に居ると殆ど間近で見る事のない高層ビル群やマンション、繁華街のネオンが、まるで別世界の様に瞬いていた。
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