万華の咲く郷

四葩

文字の大きさ
上 下
88 / 116
第七章

第八十四夜 【水狂言】

しおりを挟む

 太夫たちが雑談しつつくつろいでいると、荒々しい足音を立てて不機嫌を隠す気も無い陸奥むつが入って来た。
 滅多に怒りを表に出さない陸奥の珍しい様子に、娼妓しょうぎらは呆気に取られている。
 煙草を咥えながらソファへおもむき、朱理しゅりの隣へどかりと腰を下ろすと、衝撃で朱理の身体が一瞬、浮く。
 余りの気迫にしばらく誰も声を掛けられずにいたが、朱理が間延びした声音で口火を切った。
 
「珍しー。どしたの、そんなに怒って」
「別に、怒ってないよ」
「ふうん。なら苛々してんの?」
「してないよ…………嘘、してる」
「なんで?」
「3日前から今日、この時間に売りに出す予定で進めて来たヤマが台無しになったから」
「おっとぉ、違法上等なぶっちゃけ話ね。でも、なんで今頃キレてんの。PC使えないって朝から分かってたろ?」
「当然、予備バッテリー使ってたさ。それがついさっき、このクソ暑さの所為で本体がイカれたんだよ。おかげで今日の取引は全部、ご破算だ。ったく、何でこう間の悪い事ばっか続くかなー。あ゙ーくそ、腹立つわまじで」
「なるほど。そりゃ幾ら陸奥でも怒るわなー。まぁ落ち着けよ。お前がそんなんじゃ、皆そわそわしちまう」

 未だ不機嫌そうに紫煙を吐く陸奥を、朱理が扇子せんすで扇いでやる。

「はぁー……お前が居なかったら、とっくに爆発してたわ。抱き着いていい?」
「あちーからそれは勘弁して」
「じゃあ膝枕」
「人の話聞いてる? 暑いっつってんだろ、厭だよ」
「お前の手足、夏でも冷たいじゃん」
「それとこれとは別」
「あー、朱理に扇いでもらうとか初めての経験。幸せ。ブレーカー壊れて良かった。夏万歳」
「単純だな。ホントお前は瞬間沸騰、瞬間冷却なんだから」
「なんかすっごい良い匂いするー。その扇子、白檀びゃくだん?」
「そーだよ。涼む用じゃないけど、これしか持ってねぇから我慢しろ」
「我慢どころか最高です。愛してる」
「はいはい」

 さっきまでの怒気は何処へやら、にこにこと上機嫌で軽口をのたまう陸奥に、和泉いずみが眉をひそめながら声を上げた。

「朱理が居なかったら今頃、見世の備品が幾つ破壊されてた事やら。考えたくもないな」
「いやいや、俺は物には当たらないよ。適当に目に付いた奴に当たるから」
「それは物より厄介なので辞めて下さい……」

 鶴城つるぎが顔を引きらせて答えつつ、ようやく平穏が戻った控え所に、一同はほっと胸を撫で下ろした。
 しかし時刻は正午を過ぎ、日中、最も気温が高くなる頃合いである。
 益々、温度の上がった室内で、上手かみてほとんど上半身裸、下手しもては肩まで襦袢じゅばんを落としてぱたぱたと風を送っている。

「皆、ちゃんと水分摂ってやぁ。脱水になってまうさかい」
「水がさ……ぬるいっつーか、ほんのりあったかい気がするんだよ……。飲む気がしない……」
「もう机とか床まで熱いもんな……」
「ぅわッ!! なんやこれ! 目薬あっつ!! 目ぇ焼けるかと思た……。もー、最悪やー……」
「液体という液体が温められてる……。最近の温暖化、半端ないな」
「あーもー無理。茶店さてんかどっか行った方が良くね?」

 荘紫そうし棕櫚しゅろ、伊まり、鶴城、冠次かんじが限界を訴える。

「駄目だ。休業とは言え、この非常事態が外部に漏れない様、外出禁止なんだ。俺たちがこぞって出掛けたら、厭でも目立つだろう。事情を聞かれでもしたらどうするんだ」
此処ここのセキュリティが全く機能していない以上、良からぬ事を企む輩が居ないとも限らないしな」

 真面目な景虎かげとらとつゆ李がたしなめていると、思いついたように香づきが声を上げた。

「ねぇ、ちょっと考えたんだけど、浴槽に水張ってもらって涼むのはどーお? 電気は駄目でも水は出るでしょ?」
「おー、それええな」
「こんな状況だし、流石に遣手もそれくらい許可してくれるだろう」
「でしょでしょ! 早速、言いに……ってあれ、朱理様は? 行かないの?」
「んー……動きたくない……。いってらー……」
「そぉ? ざんねーん」

 ひらひらと手を振って答える朱理は、さながら溶けかけの氷菓子の様相でソファに寝転がったまま、嬉々として出ていく香づき達を見送った。
 やがて許可が降りたらしく、下手も上手も区別なく大浴場にて涼んで良いと、香づきが弾んだ声を上げながら戻って来た。

「景虎、早く行こぉ! 一緒にお風呂なんて、こんな時でもなきゃ出来ないじゃない!」
「分かったよ。とは言え、水浴びなんだから風呂とは言えないと思うが……」
「細かい事は良いから、ほらぁ、早く早くー!」
「はいはい」

 浮き足立つ香づきに引き摺られて行く景虎を見て、荘紫も腰を上げた。

「あ、じゃあ俺も行く。やっと少しは涼めるなー。一茶いっさも行こうぜ」
「そうだね。水まで止まってたら流石に厳しかったね」
「棕櫚はどうする?」
「うーん、どうしようかな……。そう言えば朱理はなんで行かないの? 真っ先に飛び出して行きそうなのに」
「えー、だって……厭な予感しかしないもん。なぁ? 陸奥」
「そうだね。わざわざ疲れに行く事も無いからな。ま、朱理が行くなら行くけど」

 楽しそうに出て行く娼妓らを横目に、朱理は苦笑している。朱理に扇子の風を送ってやっている陸奥も同じく、微笑をたたえたまま動こうとしない。
 別のソファに寝ている冠次も全く興味が無いらしく、無反応だ。

「え、厭な予感ってなに? 水浴びしたらまずい事でもあるの?」
「よく冷水浴するとアンチエイジングにもなるって聞くけど……」
「まぁ、そりゃそうなんだけどさ……。正しい冷水浴の方法って知ってる?」

 朱理に問われた鶴城と棕櫚は、揃って首を横に振る。

「ゆっくり1分ぐらいかけて、つま先から浸かってって、10分そこそこで出るのが理想。このくそ暑い時にそんな労力使いたくないじゃん。そもそも、継続しなきゃ意味無いし」
「なら、ざばっと掛水かけみずすれば良いじゃない。ちょっと涼むだけなんだからさ」
「この気温の中でそんな事したらヒートショックになる。出た後が地獄だ」
「なんですか、それ」

 陸奥の言葉に棕櫚が首を傾げた。

「子供の頃とかさ、プールの後に上気のぼせたみたいに暑くなった経験無い?」
「そう言われればあるかも。あれがヒートショックですか?」
「ざっくり言えばその一種だな。急激に冷やされる事で血管が収縮して、血液が中心に集まる。で、また暑さで血管が拡がり、集まった血液が一気に全身に回る」
「あの怠さったら、1回涼んでるぶん余計につらいんだよなー」
「な、なるほど……。あの面子めんつでちゃんと冷水浴しそうなのなんて、和泉くらいだもんな……」
「伊まりに至っては水風呂に突き落とされそうだし……。それ聞くと怖くて行けないわ……」
「だろ? だから行かない。ずっと風呂場に居る訳にもいかないし、出たらどうせまた暑くなるし」
「大人しく夜を待つのが妥当だな」

 朱理と陸奥の言葉に水浴びを諦めた鶴城たちは、再びぐったりしながら嘆息した。

「はぁ……まさかこんな原始的な生活を強いられる日が来ようとは、昨日までの俺は知る由も無かったよ……」
「陽が落ちても直んなかったら、蝋燭で灯りとるんだよね? まぁ、良く言えば風情あるってもんかもだけど」

 と、蝋燭という単語にやおら朱理は明るい声を上げた。

「そうだ! もしそうなったら皆で百物語やらね? どうせ暇だし、夜は特に全員1箇所に固まってた方が良いだろ」
「ハハ、朱理らしいなぁ。確かに、暇つぶしには丁度良いかもね」
「怪談話とか、夏ならではって感じだなー」
「今月は吉原稲荷の夏祭りもあるし、正に盛夏だなぁ」

 陸奥の台詞に、朱理は毎年、吉原神社で行われている夏祭りに思いをせた。

「あー、祭り行きてー。出店大好き。イカ焼きとぶどう飴は絶対に外せないよなぁ。久し振りに綿飴とかも食いたい」
「ぶどう飴? そんなのあるの?」
「最近あるんだよ。見た目は真っ赤な団子みたいで、ぶどうが3つ串に刺さってんの」
「へぇ、美味しそう。見かけたら食べてみるよ」
「りんご飴でもあんず飴でもないところが朱理だよねー」

 ゆるりとそんな話をしながら、遠くに蝉の声を聞く昼下がりは過ぎて行くのだった。


しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

有能社長秘書のマンションでテレワークすることになった平社員の俺

高菜あやめ
BL
【マイペース美形社長秘書×平凡新人営業マン】会社の方針で社員全員リモートワークを義務付けられたが、中途入社二年目の営業・野宮は困っていた。なぜならアパートのインターネットは遅すぎて仕事にならないから。なんとか出社を許可して欲しいと上司に直談判したら、社長の呼び出しをくらってしまい、なりゆきで社長秘書・入江のマンションに居候することに。少し冷たそうでマイペースな入江と、ちょっとビビりな野宮はうまく同居できるだろうか? のんびりほのぼのテレワークしてるリーマンのラブコメディです

one night

雲乃みい
BL
失恋したばかりの千裕はある夜、バーで爽やかな青年実業家の智紀と出会う。 お互い失恋したばかりということを知り、ふたりで飲むことになるが。 ーー傷の舐め合いでもする? 爽やかSでバイな社会人がノンケ大学生を誘惑? 一夜だけのはずだった、なのにーーー。

次男は愛される

那野ユーリ
BL
ゴージャス美形の長男×自称平凡な次男 佐奈が小学三年の時に父親の再婚で出来た二人の兄弟。美しすぎる兄弟に挟まれながらも、佐奈は家族に愛され育つ。そんな佐奈が禁断の恋に悩む。 素敵すぎる表紙は〝fum☆様〟から頂きました♡ 無断転載は厳禁です。 【タイトル横の※印は性描写が入ります。18歳未満の方の閲覧はご遠慮下さい。】 12月末にこちらの作品は非公開といたします。ご了承くださいませ。 近況ボードをご覧下さい。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

壁乳

リリーブルー
BL
俺は後輩に「壁乳」に行こうと誘われた。 (作者の挿絵付きです。)

君が俺を××すまで

和泉奏
BL
【執着攻め】ただ、いつもと同じように平凡な日を過ごすはずだった。 イラスト表紙、赫屋様

Take On Me

マン太
BL
 親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。  初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。  岳とも次第に打ち解ける様になり…。    軽いノリのお話しを目指しています。  ※BLに分類していますが軽めです。  ※他サイトへも掲載しています。

騎士が花嫁

Kyrie
BL
めでたい結婚式。 花婿は俺。 花嫁は敵国の騎士様。 どうなる、俺? * 他サイトにも掲載。

処理中です...