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第七章
第八十四夜 【水狂言】
しおりを挟む太夫たちが雑談しつつ寛いでいると、荒々しい足音を立てて不機嫌を隠す気も無い陸奥が入って来た。
滅多に怒りを表に出さない陸奥の珍しい様子に、娼妓らは呆気に取られている。
煙草を咥えながらソファへ赴き、朱理の隣へどかりと腰を下ろすと、衝撃で朱理の身体が一瞬、浮く。
余りの気迫に暫く誰も声を掛けられずにいたが、朱理が間延びした声音で口火を切った。
「珍しー。どしたの、そんなに怒って」
「別に、怒ってないよ」
「ふうん。なら苛々してんの?」
「してないよ…………嘘、してる」
「なんで?」
「3日前から今日、この時間に売りに出す予定で進めて来たヤマが台無しになったから」
「おっとぉ、違法上等なぶっちゃけ話ね。でも、なんで今頃キレてんの。PC使えないって朝から分かってたろ?」
「当然、予備バッテリー使ってたさ。それがついさっき、このクソ暑さの所為で本体がイカれたんだよ。おかげで今日の取引は全部、ご破算だ。ったく、何でこう間の悪い事ばっか続くかなー。あ゙ーくそ、腹立つわまじで」
「なるほど。そりゃ幾ら陸奥でも怒るわなー。まぁ落ち着けよ。お前がそんなんじゃ、皆そわそわしちまう」
未だ不機嫌そうに紫煙を吐く陸奥を、朱理が扇子で扇いでやる。
「はぁー……お前が居なかったら、とっくに爆発してたわ。抱き着いていい?」
「あちーからそれは勘弁して」
「じゃあ膝枕」
「人の話聞いてる? 暑いっつってんだろ、厭だよ」
「お前の手足、夏でも冷たいじゃん」
「それとこれとは別」
「あー、朱理に扇いでもらうとか初めての経験。幸せ。ブレーカー壊れて良かった。夏万歳」
「単純だな。ホントお前は瞬間沸騰、瞬間冷却なんだから」
「なんかすっごい良い匂いするー。その扇子、白檀?」
「そーだよ。涼む用じゃないけど、これしか持ってねぇから我慢しろ」
「我慢どころか最高です。愛してる」
「はいはい」
さっきまでの怒気は何処へやら、にこにこと上機嫌で軽口を宣う陸奥に、和泉が眉を顰めながら声を上げた。
「朱理が居なかったら今頃、見世の備品が幾つ破壊されてた事やら。考えたくもないな」
「いやいや、俺は物には当たらないよ。適当に目に付いた奴に当たるから」
「それは物より厄介なので辞めて下さい……」
鶴城が顔を引き攣らせて答えつつ、漸く平穏が戻った控え所に、一同はほっと胸を撫で下ろした。
しかし時刻は正午を過ぎ、日中、最も気温が高くなる頃合いである。
益々、温度の上がった室内で、上手は殆ど上半身裸、下手は肩まで襦袢を落としてぱたぱたと風を送っている。
「皆、ちゃんと水分摂ってやぁ。脱水になってまうさかい」
「水がさ……温いっつーか、ほんのりあったかい気がするんだよ……。飲む気がしない……」
「もう机とか床まで熱いもんな……」
「ぅわッ!! なんやこれ! 目薬あっつ!! 目ぇ焼けるかと思た……。もー、最悪やー……」
「液体という液体が温められてる……。最近の温暖化、半端ないな」
「あーもー無理。茶店かどっか行った方が良くね?」
荘紫、棕櫚、伊まり、鶴城、冠次が限界を訴える。
「駄目だ。休業とは言え、この非常事態が外部に漏れない様、外出禁止なんだ。俺たちが挙って出掛けたら、厭でも目立つだろう。事情を聞かれでもしたらどうするんだ」
「此処のセキュリティが全く機能していない以上、良からぬ事を企む輩が居ないとも限らないしな」
真面目な景虎とつゆ李が窘めていると、思いついたように香づきが声を上げた。
「ねぇ、ちょっと考えたんだけど、浴槽に水張ってもらって涼むのはどーお? 電気は駄目でも水は出るでしょ?」
「おー、それええな」
「こんな状況だし、流石に遣手もそれくらい許可してくれるだろう」
「でしょでしょ! 早速、言いに……ってあれ、朱理様は? 行かないの?」
「んー……動きたくない……。いってらー……」
「そぉ? ざんねーん」
ひらひらと手を振って答える朱理は、宛ら溶けかけの氷菓子の様相でソファに寝転がったまま、嬉々として出ていく香づき達を見送った。
軈て許可が降りたらしく、下手も上手も区別なく大浴場にて涼んで良いと、香づきが弾んだ声を上げながら戻って来た。
「景虎、早く行こぉ! 一緒にお風呂なんて、こんな時でもなきゃ出来ないじゃない!」
「分かったよ。とは言え、水浴びなんだから風呂とは言えないと思うが……」
「細かい事は良いから、ほらぁ、早く早くー!」
「はいはい」
浮き足立つ香づきに引き摺られて行く景虎を見て、荘紫も腰を上げた。
「あ、じゃあ俺も行く。やっと少しは涼めるなー。一茶も行こうぜ」
「そうだね。水まで止まってたら流石に厳しかったね」
「棕櫚はどうする?」
「うーん、どうしようかな……。そう言えば朱理はなんで行かないの? 真っ先に飛び出して行きそうなのに」
「えー、だって……厭な予感しかしないもん。なぁ? 陸奥」
「そうだね。わざわざ疲れに行く事も無いからな。ま、朱理が行くなら行くけど」
楽しそうに出て行く娼妓らを横目に、朱理は苦笑している。朱理に扇子の風を送ってやっている陸奥も同じく、微笑を湛えたまま動こうとしない。
別のソファに寝ている冠次も全く興味が無いらしく、無反応だ。
「え、厭な予感ってなに? 水浴びしたら拙い事でもあるの?」
「よく冷水浴するとアンチエイジングにもなるって聞くけど……」
「まぁ、そりゃそうなんだけどさ……。正しい冷水浴の方法って知ってる?」
朱理に問われた鶴城と棕櫚は、揃って首を横に振る。
「ゆっくり1分ぐらいかけて、つま先から浸かってって、10分そこそこで出るのが理想。このくそ暑い時にそんな労力使いたくないじゃん。そもそも、継続しなきゃ意味無いし」
「なら、ざばっと掛水すれば良いじゃない。ちょっと涼むだけなんだからさ」
「この気温の中でそんな事したらヒートショックになる。出た後が地獄だ」
「なんですか、それ」
陸奥の言葉に棕櫚が首を傾げた。
「子供の頃とかさ、プールの後に上気せたみたいに暑くなった経験無い?」
「そう言われればあるかも。あれがヒートショックですか?」
「ざっくり言えばその一種だな。急激に冷やされる事で血管が収縮して、血液が中心に集まる。で、また暑さで血管が拡がり、集まった血液が一気に全身に回る」
「あの怠さったら、1回涼んでるぶん余計に辛いんだよなー」
「な、なるほど……。あの面子でちゃんと冷水浴しそうなのなんて、和泉くらいだもんな……」
「伊まりに至っては水風呂に突き落とされそうだし……。それ聞くと怖くて行けないわ……」
「だろ? だから行かない。ずっと風呂場に居る訳にもいかないし、出たらどうせまた暑くなるし」
「大人しく夜を待つのが妥当だな」
朱理と陸奥の言葉に水浴びを諦めた鶴城たちは、再びぐったりしながら嘆息した。
「はぁ……まさかこんな原始的な生活を強いられる日が来ようとは、昨日までの俺は知る由も無かったよ……」
「陽が落ちても直んなかったら、蝋燭で灯りとるんだよね? まぁ、良く言えば風情あるってもんかもだけど」
と、蝋燭という単語にやおら朱理は明るい声を上げた。
「そうだ! もしそうなったら皆で百物語やらね? どうせ暇だし、夜は特に全員1箇所に固まってた方が良いだろ」
「ハハ、朱理らしいなぁ。確かに、暇つぶしには丁度良いかもね」
「怪談話とか、夏ならではって感じだなー」
「今月は吉原稲荷の夏祭りもあるし、正に盛夏だなぁ」
陸奥の台詞に、朱理は毎年、吉原神社で行われている夏祭りに思いを馳せた。
「あー、祭り行きてー。出店大好き。イカ焼きとぶどう飴は絶対に外せないよなぁ。久し振りに綿飴とかも食いたい」
「ぶどう飴? そんなのあるの?」
「最近あるんだよ。見た目は真っ赤な団子みたいで、ぶどうが3つ串に刺さってんの」
「へぇ、美味しそう。見かけたら食べてみるよ」
「りんご飴でもあんず飴でもないところが朱理だよねー」
ゆるりとそんな話をしながら、遠くに蝉の声を聞く昼下がりは過ぎて行くのだった。
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