万華の咲く郷

四葩

文字の大きさ
上 下
76 / 116
第六章

第七十二夜 【わたしの神】

しおりを挟む

「おや、随分お久し振りですね。お早うございます、朱理しゅりさん」
「おはよ、辰巳たつみ先生。お邪魔するよ」

 11時半。数ヶ月ぶりに、朱理は執務室を訪れていた。
 既に出勤していた辰巳が、驚いた様にPCのモニターから顔を上げて挨拶する。
 陸奥むつとの件から今まで、黒蔓くろづると顔を合わせる可能性のある場所はことごとく避けていたが、道中の時の顔が、頭から離れなくなっていた。
 毎日、必ず思い出す。あんな寂しそうな、哀しそうな、泣き出しそうな表情は初めて見た。
 どうしてそんな顔をするのか、全く分からないと言えば嘘になる。
 未だ其処そこに愛はったのだと、そして此処ここにも在るのだと思い知った。
 そして総道中以来、朱理は網代あじろの元へ通う事を一切、辞めた。
 とは言え、まだ数日だ。
 元々、会おうとしなければ一日中顔を見ない事もざらにある為、黒蔓とも網代とも鉢合わせていない。

「総道中、お疲れ様でした。ようやく、落ち着いて読書ですか」
「ん、まぁね」

 そう答えつつ本棚に目を遣るが、なかなかどれを読むか決められない。
 脳裏に浮かぶのは黒蔓の事ばかりで、読書などただの言い訳だと、頭の片隅で分かっていた。だから余計、全く本に集中出来ずに決まらないのだ。
 そうしてしばらく立ち尽くしていると、背後のデスクから可笑おかしそうな笑い声が起こる。

「どうしたんです? 久し振り過ぎて、愛蔵書まで忘れてしまいましたか?」
「う、五月蝿うるさいな! もう何度も読んだから、飽きただけだよ!」

 揶揄からかう様な辰巳の物言いに、気恥ずかしくなって適当な物を手に取り、ソファへ向かった。
 どかりと横になって本を開いてから、朱理は激しく後悔した。
 手に取ったのは、りにも選って高村光太郎の『智恵子抄』だったのだ。
 初めて読んだ時、『レモン哀歌』という詩にいたく感動して愛読していたのだが、その詩集は妻への純粋な愛を綴った物ばかりで、とても今の心境で楽しめる内容ではない。
 しかし辰巳の手前、選び直すのも何となくしゃくな気がして、半ば自棄やけ気味にページまくる。
 そうしてほとんど内容など頭に入って来ないまま、ひたすら文字を目で追うだけの作業を黙々と続けた。
 10分程経った頃、そんな不毛な作業にも疲れて本を投げ出し、煙草に火を点ける。
 ぼんやり天井を見上げて紫煙を吐いていると、湯気の立つカップを持った辰巳が笑みを浮かべて覗き込んで来た。

「まさに心ここに在らず、ですね」
「……そう見える?」
「ええ。珈琲をお持ちしたのですが、味をみてくれますか? いつも、淹れて頂いてばかりなので」
「ああ……お気遣いありがと」

 やおら身体を起こして差し出されたカップを受け取り、口を付ける。予想していたより甘めに作られていて、驚いた。

如何いかがでしょう、お口に合いましたか?」
「ん、吃驚びっくりした。俺が甘党なの、知ってたっけ?」
「ハハ、毎回あれだけ大量の砂糖とミルクを入れていれば、誰でも分かります。正直、本当にこんなに入れて良いものかと、心配になりましたよ」
「流石、弁護士先生はよく見ていらっしゃる。皆が引くくらい激甘なのが好きなんだ」

 その返事を受けて、辰巳は満足そうに笑いながら朱理の隣へ腰を下ろした。
 美味しそうにカップへ口を付ける横顔を見つめ、辰巳はわずかに眉を寄せる。

「……少しはマシになった様で、安心しました」
「え? なにが?」
「最近の貴方は少々、元気が無い様だったのでね。気になっていたんですよ」
「そう……かな。別に、そんなつもりは無かったけど」
「無用な詮索はしませんが、私でも話くらいなら聞けます。一人で溜め込むのは、した方が良い」

 朱理は乾いた笑いを漏らした。
 話せる物なら、とっくに誰かに話している。言えない内容と、言ったところでどうにもならない状況なのだ。
 そして、それを作り上げたのは紛れも無く、自分自身である。
 ふと、思い出したように朱理が呟いた。

「……ねぇ、神って信じる?」
「これはまた唐突ですね。生憎、私は無神論者なので、信じていません」
「こないださ、仲之町通りの隅っこに、ぼろぼろのチラシが落ちててさ。〝神は貴方の〟って所で破れてたんだ」
「ほう。また絶妙な所で途切れていますね」
「続きはなんだろうね。やっぱ王道に〝貴方の中におられる〟とかかな」
「恐らくそうでしょう。その手のうたい文句は、よく聞きますから」
「だとしたら……それを感じた事の無い俺達の神は、何処に居るんだろうね。迷子なのか、それともとっくに見捨てられてるのか……」
「相変わらず哲学的な思考だ。私なんかは居ないと片付けてしまう物ですが、貴方は別の所に見出そうとしているのですね」
「いや、そんな崇高な話じゃないよ。そもそも俺だって無神論者だし、居ないと思ってる。だけど……」

 そこで言葉を切った朱理は、ゆっくりカップへ口を付ける。その仕草が形容しがたい哀愁を伴っていて、辰巳は何も言えなかった。

「……神が居ないのなら、やっぱり其処そこは空っぽなんだろうね……。馴染みに言われたんだよ、お前のうろは、大きくて暗いって」
「では、その虚を塞ぐ事が出来るのは一体、何なんでしょうか」
「……さぁ……俺にも分からないんだよ……」

──嘘だ。
 厭というほど分かっている。
 あの人に塞いで欲しいくせに、それを求める事を苦しいと感じるのは、きっとこの虚の所為なのだ。
 以前の様に塞がって、何事も無かった様に元通りになれるのか、不安で仕方がないのだ。
 それでも会いたいと思うのは、やはり愛と呼ぶのだろう。
 言ってしまえば、愛も神も同じ物なのかもしれない。
 そうすると、神は貴方の中に、という言葉も嘘ではなくなる。
 静かな時間の中、甘い珈琲をすすりながら思うのは、ただ貴方に会いたい。
 それだけだった──
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

次男は愛される

那野ユーリ
BL
ゴージャス美形の長男×自称平凡な次男 佐奈が小学三年の時に父親の再婚で出来た二人の兄弟。美しすぎる兄弟に挟まれながらも、佐奈は家族に愛され育つ。そんな佐奈が禁断の恋に悩む。 素敵すぎる表紙は〝fum☆様〟から頂きました♡ 無断転載は厳禁です。 【タイトル横の※印は性描写が入ります。18歳未満の方の閲覧はご遠慮下さい。】 12月末にこちらの作品は非公開といたします。ご了承くださいませ。 近況ボードをご覧下さい。

有能社長秘書のマンションでテレワークすることになった平社員の俺

高菜あやめ
BL
【マイペース美形社長秘書×平凡新人営業マン】会社の方針で社員全員リモートワークを義務付けられたが、中途入社二年目の営業・野宮は困っていた。なぜならアパートのインターネットは遅すぎて仕事にならないから。なんとか出社を許可して欲しいと上司に直談判したら、社長の呼び出しをくらってしまい、なりゆきで社長秘書・入江のマンションに居候することに。少し冷たそうでマイペースな入江と、ちょっとビビりな野宮はうまく同居できるだろうか? のんびりほのぼのテレワークしてるリーマンのラブコメディです

Take On Me

マン太
BL
 親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。  初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。  岳とも次第に打ち解ける様になり…。    軽いノリのお話しを目指しています。  ※BLに分類していますが軽めです。  ※他サイトへも掲載しています。

one night

雲乃みい
BL
失恋したばかりの千裕はある夜、バーで爽やかな青年実業家の智紀と出会う。 お互い失恋したばかりということを知り、ふたりで飲むことになるが。 ーー傷の舐め合いでもする? 爽やかSでバイな社会人がノンケ大学生を誘惑? 一夜だけのはずだった、なのにーーー。

神獣の花嫁

綾里 ハスミ
BL
 親に酷い扱いを受けて育った主人公と、角が欠けていたゆえに不吉と言われて育った神獣の二人が出会って恋をする話。 <角欠けの神獣×幸薄い主人公>

年上の恋人は優しい上司

木野葉ゆる
BL
小さな賃貸専門の不動産屋さんに勤める俺の恋人は、年上で優しい上司。 仕事のこととか、日常のこととか、デートのこととか、日記代わりに綴るSS連作。 基本は受け視点(一人称)です。 一日一花BL企画 参加作品も含まれています。 表紙は松下リサ様(@risa_m1012)に描いて頂きました!!ありがとうございます!!!! 完結済みにいたしました。 6月13日、同人誌を発売しました。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

騎士が花嫁

Kyrie
BL
めでたい結婚式。 花婿は俺。 花嫁は敵国の騎士様。 どうなる、俺? * 他サイトにも掲載。

処理中です...