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第六章
第七十二夜 【わたしの神】
しおりを挟む「おや、随分お久し振りですね。お早うございます、朱理さん」
「おはよ、辰巳先生。お邪魔するよ」
11時半。数ヶ月ぶりに、朱理は執務室を訪れていた。
既に出勤していた辰巳が、驚いた様にPCのモニターから顔を上げて挨拶する。
陸奥との件から今まで、黒蔓と顔を合わせる可能性のある場所は悉く避けていたが、道中の時の顔が、頭から離れなくなっていた。
毎日、必ず思い出す。あんな寂しそうな、哀しそうな、泣き出しそうな表情は初めて見た。
どうしてそんな顔をするのか、全く分からないと言えば嘘になる。
未だ其処に愛は在ったのだと、そして此処にも在るのだと思い知った。
そして総道中以来、朱理は網代の元へ通う事を一切、辞めた。
とは言え、まだ数日だ。
元々、会おうとしなければ一日中顔を見ない事もざらにある為、黒蔓とも網代とも鉢合わせていない。
「総道中、お疲れ様でした。漸く、落ち着いて読書ですか」
「ん、まぁね」
そう答えつつ本棚に目を遣るが、なかなかどれを読むか決められない。
脳裏に浮かぶのは黒蔓の事ばかりで、読書などただの言い訳だと、頭の片隅で分かっていた。だから余計、全く本に集中出来ずに決まらないのだ。
そうして暫く立ち尽くしていると、背後のデスクから可笑しそうな笑い声が起こる。
「どうしたんです? 久し振り過ぎて、愛蔵書まで忘れてしまいましたか?」
「う、五月蝿いな! もう何度も読んだから、飽きただけだよ!」
揶揄う様な辰巳の物言いに、気恥ずかしくなって適当な物を手に取り、ソファへ向かった。
どかりと横になって本を開いてから、朱理は激しく後悔した。
手に取ったのは、選りにも選って高村光太郎の『智恵子抄』だったのだ。
初めて読んだ時、『レモン哀歌』という詩にいたく感動して愛読していたのだが、その詩集は妻への純粋な愛を綴った物ばかりで、とても今の心境で楽しめる内容ではない。
しかし辰巳の手前、選び直すのも何となく癪な気がして、半ば自棄気味に頁を捲る。
そうして殆ど内容など頭に入って来ないまま、ひたすら文字を目で追うだけの作業を黙々と続けた。
10分程経った頃、そんな不毛な作業にも疲れて本を投げ出し、煙草に火を点ける。
ぼんやり天井を見上げて紫煙を吐いていると、湯気の立つカップを持った辰巳が笑みを浮かべて覗き込んで来た。
「まさに心ここに在らず、ですね」
「……そう見える?」
「ええ。珈琲をお持ちしたのですが、味をみてくれますか? いつも、淹れて頂いてばかりなので」
「ああ……お気遣いありがと」
やおら身体を起こして差し出されたカップを受け取り、口を付ける。予想していたより甘めに作られていて、驚いた。
「如何でしょう、お口に合いましたか?」
「ん、吃驚した。俺が甘党なの、知ってたっけ?」
「ハハ、毎回あれだけ大量の砂糖とミルクを入れていれば、誰でも分かります。正直、本当にこんなに入れて良いものかと、心配になりましたよ」
「流石、弁護士先生はよく見ていらっしゃる。皆が引くくらい激甘なのが好きなんだ」
その返事を受けて、辰巳は満足そうに笑いながら朱理の隣へ腰を下ろした。
美味しそうにカップへ口を付ける横顔を見つめ、辰巳は僅かに眉を寄せる。
「……少しはマシになった様で、安心しました」
「え? なにが?」
「最近の貴方は少々、元気が無い様だったのでね。気になっていたんですよ」
「そう……かな。別に、そんなつもりは無かったけど」
「無用な詮索はしませんが、私でも話くらいなら聞けます。一人で溜め込むのは、止した方が良い」
朱理は乾いた笑いを漏らした。
話せる物なら、とっくに誰かに話している。言えない内容と、言ったところでどうにもならない状況なのだ。
そして、それを作り上げたのは紛れも無く、自分自身である。
ふと、思い出したように朱理が呟いた。
「……ねぇ、神って信じる?」
「これはまた唐突ですね。生憎、私は無神論者なので、信じていません」
「こないださ、仲之町通りの隅っこに、ぼろぼろのチラシが落ちててさ。〝神は貴方の〟って所で破れてたんだ」
「ほう。また絶妙な所で途切れていますね」
「続きはなんだろうね。やっぱ王道に〝貴方の中におられる〟とかかな」
「恐らくそうでしょう。その手の謳い文句は、よく聞きますから」
「だとしたら……それを感じた事の無い俺達の神は、何処に居るんだろうね。迷子なのか、それともとっくに見捨てられてるのか……」
「相変わらず哲学的な思考だ。私なんかは居ないと片付けてしまう物ですが、貴方は別の所に見出そうとしているのですね」
「いや、そんな崇高な話じゃないよ。そもそも俺だって無神論者だし、居ないと思ってる。だけど……」
そこで言葉を切った朱理は、ゆっくりカップへ口を付ける。その仕草が形容し難い哀愁を伴っていて、辰巳は何も言えなかった。
「……神が居ないのなら、やっぱり其処は空っぽなんだろうね……。馴染みに言われたんだよ、お前の虚は、大きくて暗いって」
「では、その虚を塞ぐ事が出来るのは一体、何なんでしょうか」
「……さぁ……俺にも分からないんだよ……」
──嘘だ。
厭というほど分かっている。
あの人に塞いで欲しいくせに、それを求める事を苦しいと感じるのは、きっとこの虚の所為なのだ。
以前の様に塞がって、何事も無かった様に元通りになれるのか、不安で仕方がないのだ。
それでも会いたいと思うのは、やはり愛と呼ぶのだろう。
言ってしまえば、愛も神も同じ物なのかもしれない。
そうすると、神は貴方の中に、という言葉も嘘ではなくなる。
静かな時間の中、甘い珈琲を啜りながら思うのは、ただ貴方に会いたい。
それだけだった──
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