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第六章
第六十七夜 【総道中・前】
しおりを挟むいよいよ総道中の当日を迎えた。
太夫一人の道中でさえ支度に忙しくなるものが、全員分ともなると、下働き達の仕事量は数十倍に跳ね上がる。毎年の事とは言え、やはりこの日の大わらわは相変わらずだ。
反対に娼妓らは呑気なもので、各々、普段通りに起き出し、風呂へ行き、のんびり朝食を摂りながら雑談などして寛いでいる。
廊下を走り回っている妓夫を眺めながら、香づきが間延びした声を上げた。
「思うんだけどさぁ、来るって分かってるのに、なんで毎年あんなにバタバタ騒がしいんだろうねぇ」
「当日にならなきゃ出来ねぇ事とか、多いんじゃねーの。知らんけど」
「段取り悪過ぎやろ。傘なんて今頃になって出すか? 夜のうちにやっときゃええやんな」
「そうだねぇ。俺達の衣装とかも、夕べから空き座敷にでも用意しておけば、もっと楽になりそうなのにー」
同調する荘紫や伊まり、一茶に眉を顰めつつ、景虎が冷静な声で窘める。
「無茶言うなよ、お前ら。空き座敷は緊急時の為に空けておく物だろう。俺達が協力して素早く動けば、それだけ早く済む」
「早くっつっても、俺たちがやる事なんて着替えくらいだろ。女じゃねーんだから化粧もしねぇし」
「あー、でも下手は髪とかしなきゃだし、ちょっと早めに上がってやれば? 今日は新造の手伝いが無いから、余計に手間取るだろ」
「俺たちは太夫待ちやさかい。上の二人が終わったら順番に呼ばれるんよ」
「ああ、そうだった。棕櫚、俺らも先に行こうぜ」
「そうだね。じゃ、用意して来るわぁ」
「行ってらっしゃい」
けい菲の言うように、支度には順番がある。最も装飾が華美で時間のかかる太夫から始まり、それが終わると格子太夫、新造の順で行われる。
総道中は楼主や遣手、番頭新造、廻し方らも揃って参加する為、指示を出しつつ支度もしつつと、忙しなくて当然なのだ。
その頃、三階の下手支度部屋では、和泉が妓夫に手伝われて着付けを行なっていた。帯を締められながら問う。
「……朱理の支度は?」
「既にお済みです。開始まで別室にて待機されると伺っております」
「そうか……」
いやに早いな、と思った。
毎年、朱理の支度は誰よりも時間がかかっていたのだ。
のらりくらりと逃げ回り、遣手か楼主に引き摺って来られて渋々、用意する有様だったからだ。
一人くらい居なくてもバレやしない、が決まり文句であった。
しかし、今や吉原で朱理の名を知らぬ者は居ないと言われる程の存在となっている。己の立場に自覚を持ったという事か、それともただ投げ槍になっただけなのか、和泉には分からなかった。
あの襖の隙間から覗き見た日以来、朱理とは真面に顔を合わせていない。ちらりと見かける事はあっても目すら合わず、ましてや言葉を交わす事など一切、無かった。
薄ら笑いを貼り付けて真っ黒な毛皮を引き摺る姿は、易々と声をかけられるものではなくなっていた。
ある種の自己防衛なのか、単なる自棄なのかも分からない。
ともかく、仕事が出来る程度には彼の精神が保たれているのならばそれで良い、と自分に言い聞かせてきた。同時に、どうしたら彼を現状から救えるのかと、毎日考える。
主要因であっただろう陸奥に囲われる日々は当面、無い。
やはり時間が解決するのを待つよりほか無いのか、無理にでも押し掛けた方が良いのか迷うが、当の本人が殆ど自室へ戻らないのだ。
毎朝、見送りを終えて何処へ行っているのか知らないが、部屋に居ないものを追う事も出来ず、今に至る。
己のなんと無力な事か、と痛感する。今まで散々、朱理に救ってもらっておいて、いざ彼の窮地となると、自分は何もしてやれない。
何が彼をそうさせているのか、見当すらつかないのだ。
皆が口を揃えて言う。
〝もう少し待てば、きっと────〟
本当にそうだろうか。寧ろ、時間が経てば経つ程、事態は深刻になるのではないか、と厭な予感に苛まれる。しかし、救ってやれるのは自分では無いのだろうとも思うのだ。
一刻も早く、以前の笑顔を取り戻す手伝いが出来れば良いが、と嘆息しながら、支度を終えた和泉は自室へ戻ったのだった。
────────────────
初夏の陽射しが随分、強くなってきた、晴天の14時。
荘厳な和太鼓や三味線、笛、琴、鈴などの調べと共に、重厚な玄関門が開かれた。
万華鄉、総道中の開始である。
既に門の端から遠く先まで見物人がごった返し、道が人の頭で黒く蠢いて見える程だ。観音開きの門が開くと同時に、大きな拍手や歓声が沸き起こった。
先頭に万華郷の名入りの大提灯を持った妓夫が二名立ち、門の両脇から陸奥と朱理が姿を現した。二人は向かい合ってゆっくりと前進し、隣に並び合う。
総道中では正式な外八文字は踏まず、下手は三歯下駄の代わりに、軽く歩き易い仕様のぽっくりを履くのが慣例である。
開始まで着付けを手伝った妓夫以外、誰も見ていなかった朱理の衣装に、見物人だけでなく遣手や番新、娼妓らも言葉を失っていた。
黒無地の絽に、光沢のある漆黒の本繻子の打掛。
コルセット式の帯の上に打掛と同じ本繻子のしごき帯を巻き、正面から足元近くまで垂らしている。帯の端には美しい銀糸の房飾りがゆらゆらと揺れ、陽の光を反射する。
前髪は右に重く流し、結った後ろ髪の所から目の下まで、黒い面紗で覆われていた。
首にはいつもの黒いチョーカーに銀糸の飾り紐を蝶々結びにし、中央に付いた鈴が歩を進める度、ちりん、と鳴った。
朱理の背後には傘差しが付き従い、黒地に銀で流雲の描かれた大きな番傘が差し掛けられ、暗く濃い影を落とす。
まるで夜の闇を纏った様な黒ずくめに、皆が唖然としていた。
すっと右手を差し出した陸奥は、さして驚いた様子も無く、優美な笑みを湛えて朱理を見つめていた。朱理も薄ら笑いを浮かべたままその手を取り、同時に一歩を踏み出した。
呆気に取られながらも、二人の後にそれぞれ上手と下手が続く。
総道中では上手と下手で御職を張る太夫二人が先頭に並び、陸奥の後ろには上手太夫、上手格子太夫、上手新造。朱理の後ろには同じ様に下手太夫以下が順に並んで列を成す。
先頭を行く二人の横には、正面から向かって右の上手側に網代、左の下手側に黒蔓が、一歩下がった所に付き従っている。
面紗をしていてさえ妖艶な朱理の雰囲気と、横に並ぶ陸奥の威圧的な存在感に、観客達は気圧されつつも魅入っていた。
ゆっくりと歩を進める二人に続きながら、黒蔓はちらりと網代を見遣った。網代は苦笑の中に満悦の混じった顔で朱理を見ている。
あの着物を仕立てさせたのは彼奴か、と黒蔓は直感した。
総道中に黒一色で、ましてや面紗など、以前の朱理なら絶対にしなかった格好だ。
そして、そんな衣装を網代が許す事も有り得ない。自分が与えた物でなければ、だ。
しかし流石と言うべきか、その奇妙な衣装ですら、今の朱理は見事に着こなし、艷麗と影の落ちる色香で皆を魅了していた。まるで、見せるのは口元だけで充分だ、とでも言うように口角を吊り上げている。
どこまで変わってしまうのか、と黒蔓は小さく嘆息した。
真面にその姿を見るのは、数週間ぶりだ。
相変わらず、客達は熱に浮かされた様に夢中で登楼する者で溢れ、朱理は全てを完璧にこなしている。娼妓としては申し分無いどころか、それ以上の仕事振りだ。
しかし、果たしてその心はどうなっているのか。
こんな状態を維持し続ける事は、彼の精神衛生上、絶対に不可能だ。いつか必ず壊れる日が来る。本人も承知している筈だ。
それでも辞められないのは、意地か、自棄か。何にしろ、引けない所まで追い詰められているのだろう。
このまま放置していれば、そのうち必ず取り返しの付かない事態を引き起こす確信がある。
いい加減、自分も腹を括らねばならないのだ。
そう思いながら観客へ目を移すと、眉を顰めた卯田と蘆名の姿を捉えた。二人は朱理を見つめて時折、何かを耳打ち合っている。
少し離れた所では、神々廻が煙草を吹かしつつ、片方の口角を上げていた。
黒蔓は内心、舌打ちする。朱理へ向けられる憐憫や好奇の視線が、酷く目障りで仕方ない。そんな物に晒す為に心血を注いで育ててきたのではない、と叫びたい衝動に駆られた。
反面、では何の為に、とも思う。
憐憫も好奇も、注目である事に変わりは無い。どちらにせよ根底には興味があるからだ。自身が商品である娼妓の場合、最も必要とされる物である。
朱理を立派な太夫へ育て上げ、自分の後継として周囲に認めさせる事こそ、当初の目的ではなかったか。
ならば、それはとうに叶っている。どんなに様変わりしようと、結果だけを見れば、嘗ての自分以上の名太夫となっているではないか。
なのにどうして、自分はこんなにも不愉快なのか。一体、何が不満だと言うのか。
きら、と陽光を反射する物が、目の端で動いた。朱理の左手に嵌められている指輪だ。
嗚呼、そうか、と思った。これは嫉妬と独占欲だったのだと、初めて自覚した。
未だそんな気持ちが残っていたのかと自嘲が漏れる。彼を愛してから、無意識に押し殺していた感情達だ。この世界に生きている以上、決して持ってはいけない物だった。
ましてや、そもそも吉原に居る筈ではなかった朱理を引き込んだのは、自分である。誰にも触れさせたくないなど、口が裂けても言えなかった。
考えてみれば、知らずに己の内で育っていたこの醜悪な感情は、形を変えてその片鱗を見せていた様に思う。
投げ槍に網代と身体を繋げた事。それを知られてしまった羞恥から、朱理と距離を置いてしまった事。陸奥の相手をさせればどうなるか、分かっていながら敢えて止めなかった事。朱理の変化を痛切に感じつつ、放置している現在。
全てが抑圧され、歪んだ負の感情の中、自ら選択した結果だったのだ。
彼を絶望させているのは、陸奥でも網代でも客達でもなく、何もかも自分の所為だった。
彼よりひとまわりも歳を食っている癖に、何と無様な事だろう。
またしても全てを彼に押し付け、目を背けていた自分の梼昧と卑陋に吐き気がする。押し寄せる呵責に足元が揺らぐ。
何故そうしたか分からないが、反射的に朱理を見上げていた。視線を感じたのか、単なる偶然だったのか、面紗越しに此方を見下ろしてきた朱理は一瞬、驚いた様に目を瞠り、苦しそうに眉根を寄せた。
どうして、と言っている様だった。
その時、自分は一体どんな顔をしていたのか。生まれて初めて、鏡が見られない事を残念に思った。
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