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第六章
第六十六夜 【伽藍の洞】※
しおりを挟む──朝、客を見送ってから帰る部屋。
朝、お帰りと言ってくれる人。
朝、この肌に触れる手、唇、挿入ってくる物。
変わってしまったのは、いつからだったか。
もう、どうでも良い。
目が覚めたらどうせ全部、忘れている。
夜が更けたらどうせ全部、忘れている。
全ては伽藍の洞だ──
「さぁおいで。今日も一日、お疲れ様」
「うン」
大きな手に誘われ、広いベッドへ乗り上げる。するするとその手が肌を滑り、纏っているだけの毛皮はあっさり落ちた。
「お前の身体はいつも冷たいな。もうすぐ夏至だと言うのに、不思議な子だ」
「冷え性なんだよ」
「それで毛皮か? 傍から見ていて、暑くないのかと思うよ。しかしお前によく似合う。まるで黒猫だ」
唇に添わされた指を軽く噛んで口角を吊り上げると、網代はうっとりと満足気に見上げてくる。
何をして、どう応え、どう動けば彼が喜ぶのか、手に取る様に分かる。
うつ伏せになった背中を網代の舌が這い、身を震わせて吐息を漏らした。
「総道中の支度は順調か?」
「ン……まァ、それなりに……」
「新しい着物が必要なら言いなさい。目玉はお前なんだからね」
「主役は陸奥でしょう? あの人の凱旋パレードなんだから」
「勿論、陸奥もそうだが、お前もさ。ツートップは並んで引けを取っちゃいけない」
「アハハ、旦那衆みたいな事を言うねぇ」
「何でも構わないよ。お前とこうして居られるのなら」
「…………」
その台詞は嫌いだ。全く同じ言葉を、散々、あの人に言ってきた。
結果がこの様だ。
「どうした、何か欲しい物が思い当たったか?」
「……うン……本繻子の打掛が欲しい。化繊は厭だよ、正絹じゃなきゃ駄目」
「嗚呼、それは良いな。どんな色が好みだ?」
「黒。無地が良い」
「黒無地とは……道中にはちと、地味過ぎやしないか? せめて刺繍だけでも入れたらどうだ」
「厭。どうしてもと言うなら、刺繍も黒糸にして」
「やれやれ、分かったよ。お前なら、それすら着こなしてみせるかもしれんな」
「ふふ……ありがと、賢剛さん」
そんな会話をしながらも器用に這い回る手付きは、流石、元は御職の上手太夫だな、と朱理は思った。
優しく、的確に快い処ばかりに触れてくる。舌技も指技も、もしかしたら陸奥より巧いかも知れない。
「愛らしいな、お前は……。本当に可愛い猫だよ……」
仰け反って喘ぎながら、ぼんやりその言葉が引っかかる。
〝ねこ……ねこ……可愛い、愛しい、俺のねこ……〟
あの人も、よくそう言っていた。どうして犬じゃないんだろう、と的外れな事を考える。嗚呼、犬は陸奥だからか、と勝手に納得した。
しかし、そんな思考も独特の腰使いに直ぐ押し流される。突き上げる様で、抉る様で、決して単調にならないそれは、網代にしか出来ないのではないだろうか。
「ァ、あッ! ンぁっ、ぅ……っダメ、それ……ぇッ!」
「んん? それってなんだ?」
「ッその……腰使いっ! だめ、だめぇ……ッや! また……っ、イく……ァあッ!!」
「良いよ、何度でもイって」
「ぃ、くッ──……!! っァ、ハッ………はぁっ……ッ! 待っ……まだッ、イって……るッ、から、ぁ!! あぅッ! も……ッ、止まっ、て、ぇ゙ッ……!!」
「嗚呼……堪らんな。イキっぱなしじゃないか。すごく綺麗だよ、朱理……」
思考がどろどろに溶けていく。
網代とのこんな関係も、陸奥が戻れば辞めようと思っていた。しかし、この何もかも忘れさせてくれる快楽と優しさが心地良くて、明日には、明日には、と思いながらまた来てしまう。
悦楽に溶かされ、低く甘い言葉を囁かれると、抗う事は出来なくなる。
頭の片隅で思うのは、此処から引き摺り出せるのはただ一人だけだと言う事で。しかし、その人にこんな所を見られる訳にはいかなくて。
でもきっと、あの人ならもう気付いているのだろうとも思うのだ。
全て受け入れるつもりか、それとも全て諦めたのか。
こんな最中にも、まだ未練がましくそんな事を考えている自分に嫌気がさす。思考を振り切る様に、網代の背に強くしがみ付いて爪を立てた。
「ッ、ハッ……本当に猫みたいだ……」
「……っふ、ぅ……にゃア……っ」
「はは、可愛いよ」
背に走る痛みさえ、色気のある穏やかな笑みで受け入れる網代に、巫山戯て猫真似などして見せるのだった。
────────────────
身体に力が入らなくなるまで快楽に浸した後、網代は逞しい腕の中に朱理を閉じ込める。
「いつも仕事を終えたばかりだと言うのに、無理をさせているな」
「ン……厭なら来ないよ。つい来てしまうんだ、此処はとても居心地が良いから」
「またそうやって可愛い事を言う。身体が辛ければ、昼は身上がりしても良いんだぞ。まだ早出を続けているじゃないか」
「うン。でも昼は大体、お茶したり話したりするだけだから。大丈夫だよ」
「陸奥も戻った事だし、お前がそんなに無理をする必要は無い」
「ふふ……優しいね、賢剛さんは。……身上がりしたって、どうせ休まらない。あの部屋に独りで居るのは、厭なんだよ……」
「なら此処に居れば良い。俺は少し出なきゃならんが、午後には戻るから。今日は一緒に、さっき言っていた着物を頼みに行こう。それまで少し眠りなさい。身体が資本なんだからね」
「……分かったよ。じゃあ、そのまま抱いてて。凄く安心するから……」
「ああ。おやすみ、朱理」
髪に優しく口付けを落とされる。温かい腕と胸板に背をぴったりくっつけると、妙に落ち着くのだ。
網代は仕草や声音の全てに、もの柔らかな温みと深みがある。これが包容力というやつか、それとも単なる傷の舐め合いなのか、と思いながら、朱理は眠りに落ちた。
────────────────
どれくらい寝た頃か、ヘッドボードに置いている携帯が振動する音に目が覚めた。網代はもう出掛けたらしく、部屋には朱理一人きりだ。
怠い身体を起こして端末を取る。液晶には陸奥の名が表示されていた。
「…………なに」
『おはよう、朱理。寝てた?』
「んー……」
『うわぁ、眠そう。ごめんね、起こして』
「……別に良いけど……。で、なんの用?」
『せっかく戻って来たってのに、お前、なかなか捕まんないからさぁ。久し振りに声が聞きたかったのと、確認したい事があって』
「なに?」
『お前、総道中に出ないなんて事、無いよな?』
「……まさか、ちゃんと出るよ。我らが陸奥サマご帰還のお披露目だからな」
『ははっ、だったらひと安心だ。ねぇ、いい加減こっち帰っておいでよ。間夫遊びも、程々にした方が良いんじゃない?』
「五月蝿いな……お前に関係無いだろ。ほっとけよ」
『あるさ。〝其処〟は俺たちの家になる予定なんだから。あんまり他の男の思い出は、残して欲しくないんだよねぇ』
「……何の話してんだか、さっぱり分かんねぇな」
『あっそ。まぁ良いさ。とにかく、道中は必ず参加してよ。俺の隣は、お前以外に有り得ないんだからね』
「しつこいぞ、仕事はきっちりやる。じゃあな」
そう言って一方的に電話を切った。溜息を吐きながら煙草を咥え、火を点ける。
何奴も此奴も、五月蝿くて仕方ない。せっかく誰も居ない貴重な空間を満喫していると言うのに。
いっそ携帯の電源を切ってやろうかと思うが、業務連絡が見られないのは困るので、それも出来ない。
しかし陸奥め、何もかも見透かしやがって、と内心毒づく。陸奥が感づいているのなら、間違いなく遣手も同じだろう。
事態を面倒にしている自覚はある。厭という程に。
二度寝を諦めた朱理が風呂に入り、珈琲を飲みながら寛いでいると、突然の吐き気に襲われた。急いで洗面所へ駆け込み、嘔吐く。
嘔吐に慣れて居ない身体はなかなか胃の内容物を排出せず、生理的な汗と涙が吹き出した。そもそも、殆ど何も食べていないので、出る物はさっき飲んだ珈琲と胃液くらいしか無いのだ。
震える身体で胃の辺りを押さえ、無理矢理、幾度か嘔吐いていると、少しおさまってきた。
汗と涙と鼻水に汚れた顔を洗いながら荒く息を吐く。昔からたまにある、発作の様なものだ。そう長く続く物でも無いので、放置している。
嘔吐は苦手だ。全身の筋肉が強張って、酷く疲れる。
水を持って寝室へ戻り、落ち着き始めた身体に安堵しながら横になった。
考えない様にしてきたが、やはり身体は正直らしい。ここ最近の無茶が原因だという事は、考えるまでもなく分かっている。精神的にも肉体的にも、限界に近い様だ。
昼見世は網代に言われた通り休もうと決め、東雲へ連絡を入れてから、再び携帯をヘッドボードに置いた。
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