万華の咲く郷

四葩

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第五章

第六十四夜 【水鏡】

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「今回で大詰おおづめだ。お前との逢瀬おうせも、これで最後になるかと思うと寂しいね」
「……そう。頑張って来てね、見世の為にも」
「見世の為、ね……。ああ、頑張るよ。それじゃ、行って来る」
「行ってらっしゃい」

 午前7時。陸奥むつは寝具に横たわる朱理しゅりに口付けて、出掛けて行った。
 ふすまが閉まると、思わず深い溜息ためいきが出る。
 陸奥に初めて買われてから、既にひと月半が経っていた。梅雨真っ只中の空模様は雨ばかりで、薄暗い朝である。
 毎日、時間いっぱいに入るだけの客を取り、陸奥が戻れば数日、かこわれる事を幾度いくど繰り返したか、もう分からない。
 散々さんざん、思うままにされた身体は、蓄積された疲労に重く寝具へ沈んでいる。
 最後になると言ってた事を思い出し、何処かで安堵あんどしていた。
 ぽっかり空いた心の穴をふさぎたくて、痛みや哀しみを誤魔化ごまかしたくて、自分へ伸ばされる腕にことごとくしがみ付いて来た。
 陸奥、網代あじろ、客たち、誰でも、何でも、どうでも良かった。
 そんな自棄やけの繰り返しにも、疲れていたのだと気付く。大き過ぎるこの穴は、誰にも、何にも、どうにも塞ぐ事は出来ないのだ。
 陸奥との行為は、逃げ場としては申し分なかったが、やはり愛や恋などではないのだと、抱かれるたびに思い知らされた。
 これでようやく解放されるかと思うと、どっと眠気に襲われる。それにあらがう事なく、朱理は己の身体を抱き締める様に背を丸め、目を閉じた。

────────────────

 陸奥は朱理の部屋を出た後、黒蔓くろづるの元を訪ねていた。

「お早うございます」
「おう。行くのか」
「はい。今回で一旦、様子見です。これで目処めどが立たなければ、どの道、もう打つ手はありません」
「お前の長期不在もやっと終わるか。漸く、ご婦人方の涙の雨は止んでくれるな」
「……ええ。戻れば此方こちらの仕事も巻き返しますので、ご安心を。では、行って参ります」
「しっかりな」

 軽く一礼して陸奥は退室していった。
 文机ふづくえに肘をついて、雨の降りしきる空を見上げる。そう言えばあの日も雨だったな、と思い出した。
 長かったひずみが、やっと終わる。誰がどう見てもおかしな状況を甘受かんじゅするのは、思いのほか、精神負荷が大きかった。
 自分をたもとうと様変さまがわりしてしまった朱理。
 言いたくても言えずに、言葉を呑み込む娼妓しょうぎたち。
 朱理を引きり出してから、目の色を変えた楼主。
 あの日をさかいに変わってしまった物が、少しでも戻れば良いが、と黒蔓はなかば願望の様な思いで紫煙を吐いた。

────────────────

 そっと布団を掛けられる気配に、意識が浮上する。
 誰だろうと思いながら目を開けようとするが、寝入ねいったばかりで重いまぶたは言う事をきかない。
 嗚呼ああ、前にもこんな事が有ったな、と朱理はぼんやり思う。あの時は陸奥だったが、今回は誰か知れない。
 寝具が沈む振動に、その人物が腰掛けたのだと分かる。
 ふわりと香った煙草と香水の匂いは、酷く懐かしくも愛おしい物で。なんだ、夢か、と思った。
 そんなはずは無い、あの人が来る筈が無い。きっと恋しくて、こんな夢を見ているのだ、と自分に言い聞かせる。
 と、その人物が、そっと朱理の左手の中指に触れた。絹手袋の感触まで現実味を帯びて、厭に生々しい。

「……未だ、るんだな……」

 落ちて来た声は確かに彼の物だったが、その声音は聞いた事も無い程に弱々しかった。
 どうしてそんなに哀しそうなのか。何が〝在る〟のか。
 意味を問いたくて、その手にすがりたくて、無理矢理に重い腕を動かした時、ぱちりと朱理の目が開いた。

「────……」

 部屋には誰も居なかった。
 雨の降りしきる音だけが響く静寂の中、酷い虚無感に襲われた。
 ひたいに手を当てると、苦い笑みが漏れる。

「……やっぱり夢か……」

 ふと、文机の一輪挿しに、見事な紫陽花が飾られているのに気付いた。いつの間に、誰が活けたのだろうか。
 何にせよ、やはり誰か来た事には違いないらしい。
 東雲しののめか、和泉いずみか、と思いながら窓から中庭を見下ろすと、四方をぐるりと囲む様に植えられた紫陽花が色鮮やかに咲き誇っている。
 薔薇も好きだが、紫陽花も同じくらい好きな花だ。
 活けられたそれには花びらに無数の水滴が付いていて、正しくつい先程、摘んで持って来られた物だと分かる。
 今紫いまむらさきから真空色まそらいろへと淡くにじむ色が美しかった。

──今頃、鎌倉は最盛期だろうか。
 次の休みには、誰か誘って見に行くのも良い。
 ついでに寝具を買い換えたいし、時期的に、紫陽花柄の打掛うちかけを買うのも悪くない。
 それなら見世の子じゃなく、客と行けば良いか。
 嗚呼、でもやっぱり面倒だ。
 美しい物も好きな物も、分かち合いたい人はもう居ないのだから……──

 そんな事を思いながら見下ろす四角い中庭は、今の自分にはやけに広く感じた。
 小さな花が寄り添いあって、一輪の見事な丸を形造かたちづくる。美しくも不思議な花を見つめながら、朱理はそっと煙草に火を点けた。
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