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第五章
第六十二夜 【辰巳回顧録】
しおりを挟む万華郷、顧問弁護士である辰巳 晶馬の仕事は多岐に渡る。
顧客名簿の管理、客の職業や資産等の身元調査、個人情報の管理、娼妓の営業成績や預貯金額の把握などなど、挙げればキリが無い。
加えて、必要とされれば置屋内であろうと揚屋であろうと、出掛けて行かねばならない。
もしかすると、この見世で最も多忙なのは、この男かも知れないのである。
主にPCでの事務が多い為、辰巳が見世で過ごす場所は、殆ど執務室だ。
楼主と遣手が会議に使う場合や、娼妓が説教を受ける際に使われる以外は、一人きりの気楽な仕事場である──筈だった。
「……朱理さん、良いんですか? ずっとこんな所に居て」
「んー……いーの、いーの」
重厚なウォールナットの机を挟んで据えられたソファに横になり、本を読んでいるのは下手太夫、朱理である。仰向けで読書に熱中しており、辰巳の問いにも生返事だ。
朱理は毎日の様にふらりと執務室へやって来ては、本棚から取り出した分厚い書物に齧り付いている。
棚に並んでいるのは万葉集や古事記などの古典文学に始まり、夏目漱石、太宰治、芥川龍之介、江戸川乱歩、夢野久作から柳田國男、葉山嘉樹や星新一など、幅広い層の近現代文学書。
加えてダンテ、シェイクスピア、コナン・ドイル、ポー、カフカ、ドストエフスキー、果てはゲーテやニーチェなどの哲学書まで置かれている。
万華郷へ勤め始めてから、異彩を放つ混沌としたこの棚は何だろうかと思っていたが、全て朱理の愛蔵書だったという訳だ。
読書家の朱理は、以前から執務室を蔵書置き場にしていたらしく、本人は此処を『図書室』と呼んでいる。
辰巳が正式にこの見世の弁護士となったのは、朱理が太夫に格上げされてから間も無くの事だった。
それまで万華郷は顧問弁護士を置いておらず、問題が起こった時のみ、千萱へ相談する形をとっていた為、辰巳の存在に朱理が驚いたのも、無理は無いのだ。
初めて顔を合わせたのは忘れもしない、太夫お披露目の花の宴である。
言葉を返された時には驚きつつ、嬉しかったものだった。そして、それが此処で働く決意の後押しをしたと言う事を、当の朱理は知る由も無い。
事務所の所長である千萱に、此処の顧問にならないかと言われた時、男ばかりの遊郭など想像も付かず、正直、気乗りしなかった。ともかく、どんな所か様子見がてらに参加したのが、あの宴だったのだ。
美しく着飾った太夫達の姿を目の当たりにし、朱理と言葉を交わして、こんな人達が居るのなら、陰間茶屋というのも面白そうだと思い、従事する事をその日の内に網代へ伝えたのである。
そして今に至る訳だが、この朱理という太夫は、想像以上に規格外の人物であると、日々、思い知らされる事となった。
がちゃっ、と唐突に執務室の扉が開き、咥え煙草の黒蔓が苦い表情で入って来た。
足音も荒々しく、朱理の寝そべるソファの対面へ赴き、どかりと腰を下ろすと縁に頭を預け、唸り声を上げる。
「ぅ゙あ゙──ったく、何奴も此奴も使えねぇー」
普通、遣手という存在を娼妓は敬遠する物だが、朱理はご立腹な様子の黒蔓に目もくれないで読書を続けている。
辰巳がご機嫌伺いを立てようとした矢先、絶妙な間でぱらりと頁を捲りながら、朱理が声を上げた。
「どうしたの」
「つゆ李は身上がり、伊まりは脱走、冠次はまた名前間違えて、ヒスった客が座敷を半壊。陸奥はしつこく床入り要求してきたおっさんにキレて登楼拒否……政財界の大物だぞ? ったく、勿体ねぇー」
「あー、そう。全くもって通常運転ね」
「なんなの彼奴ら、なんで普通に接客出来ねぇの? メシ食って酒飲んでヤるだけの、簡単なお仕事だぞ」
「〝ある程度までのところ、所有が人間をいっそう独立的に自由にするが、一段と進むと所有が主人となり、所有者が奴隷となる〟」
「はー? 一段と進めてねぇから、こんなに問題だらけなんじゃねぇか」
「所有者は客の事じゃなくて、黒蔓さんだよ」
「……お前の読書、禁止して良い?」
けらけらと朱理の楽しそうな笑い声が響く。が、辰巳にとっては冷や汗物の会話だ。
要するにこの太夫は、ニーチェを引用して遣手を皮肉り、あろう事か馬鹿にしているのである。
しかし、雰囲気や声音で絶妙な愛嬌を効かせ、悪意の無い揶揄いへ昇華させている辺りが高度であり、これが俗に言う手練手管と言うものなのか、と辰巳は思った。
「はぁ……朝から頭痛のタネばっか増えて、厭になるわ……」
「あはは、みんなクセ強いからなぁ。珈琲、飲む?」
「飲むー」
「はいよ。ちょっと待っててね」
漸く本を閉じた朱理は身体を起こし、辰巳のデスク傍を通りかかって足を止めた。
「辰巳先生、カップ空じゃん。ついでだから淹れてくるよ」
「ああ……いえ、お構い無く」
「良いからほら、貸して」
「すみません、有難う御座います」
「いえいえー」
辰巳からカップを受け取り、コーヒーメーカーへ向かう朱理を横目に、黒蔓が声を上げる。
「あーあ。ホント、お前くらい目端の利く奴らばっかだったら楽なのになー」
「相変わらず、黒蔓さんも大袈裟なんだからぁ。これくらい普通だってば」
こうして息をする様に細かい気遣いをする姿を、よく見かける。余りに自然なので恩着せがましくなく、此方も気が楽なのだ。
流石だな、と思いながら、辰巳は鼻歌混じりに三人分の珈琲を淹れる朱理の後ろ姿を見遣った。
破天荒にして押さえる所はきっちり押さえる。皆の畏れる鬼の黒蔓が、これほど猫可愛がりするのも、無理はないのだろう。自分とて、他の娼妓らより近しい心持ちで接している。
軈て、湯気の立つカップがデスクへ置かれた。
「はい、ブラック無糖ね。お仕事頑張って」
「有難う御座います」
日向の様な笑顔で、たったそれだけの言葉で、こんなにも人の心を和ませる事が出来る物なのか、といつも思う。
恐らく、その裏の無い笑みと、さり気なく好みを把握されている事実とが、無意識下で歓喜を呼び起こすのだろう。
気付けば遣手の殺気立っていた雰囲気も、彼と軽口を交わし合う間にすっかり和らいでいる。
辰巳は熱い珈琲に口を付けながら、やはり此処に来て正解だったな、と満足そうに微笑んだ。
暗雲など無縁であった数ヶ月前、ある春の日の平和な一日の事であった。
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