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第五章
第六十一夜 【欺瞞と利己】
しおりを挟む午前11時。和泉は執務室に呼び出されていた。
ソファに足を組んで座っている黒蔓は、咥え煙草で不機嫌そうに吉原細見を捲っている。
「座れ」
「はい」
対面のソファへ浅く腰掛け、背筋を伸ばして黒蔓の言葉を待つ。
軈て紫煙を吐きながら、黒蔓は和泉を横目で睨んだ。
「お前、ここんとこ弛んでるな」
「……申し訳ありません」
「指名数が目に見えて減ってる。全く身が入っちゃいねぇと、帰り際の客の愚痴を、東雲や新造らが散々、聞かされてるぞ」
「…………」
「で、番付もガタ落ちな訳だが、一体なにがそんなに気に食わないんだ、え? 和泉よ」
和泉は目を伏せて言葉を探す。
「……不満がある訳ではありません。ただ、少し体調が優れず……」
「ほお、体調不良か。なら身上がりすれば良いものを、何故おざなりに見世に出て、遣り過ごそうとしている?」
「それは……陸奥さんが不在の今、俺まで休んでは、見世に迷惑が掛かると判断したからです」
「違うな。本当に見世の事を考えるなら、潔く休むか、出るなら出るで、嘘でも客を悦ばせる。お前がやってるのは、ただの自己欺瞞だろうが」
厳しい声音に返す言葉も無く、和泉は俯いて唇を噛んだ。
暫しの沈黙の後、黒蔓は紫煙と共に深く嘆息する。
「朱理の事で思い煩うのは分かるが、彼奴が陸奥の穴埋め以上の働きをしている今、お前のていたらくは余計に目立つ。そんな状態で続けるくらいなら出るな、邪魔だ」
「そ、それは……」
「甘えてんじゃねぇよ。お前なら大体の事情も分かってんだろ。腹括って引き籠もるか、彼奴みたいに無理でも何でもして、客を満足させる仕事をするか、何方かにしろ。中途半端な真似が、一番みっともねぇんだよ」
和泉は膝の上に置いている両手を握り締めた。弁明の余地もない程、まったくその通りだと思う。
どっち付かずで、半端な仕事をしている自覚はあった。しかし割り切って休むとも言えず、取り繕って笑って見せても、肌を合わせる客は、そういう事には敏感に気付くものだ。
渦中の朱理が、以前にも増して完璧な仕事をしていると言うのに、無関係な自分が何て様だと、自責する。
朱理の壮絶なまでの勢いに、無意識に甘えていた事実を、黒蔓の言葉によって突き付けられた気がした。
和泉は一度、固く目を瞑って奥歯を噛み、真っ直ぐ黒蔓を見返して答えた。
「申し訳ありませんでした。二度とこの様な醜態は晒しません。番付は必ず戻します」
「ああ、その言葉を忘れるな。行っていいぞ」
「はい。失礼します」
今や陸奥どころか、朱理さえ不定期に見世を空ける状況が続いているのだ。自分がこんな時に支えてやらねばどうする、と和泉は改めて覚悟を決め、執務室を後にした。
────────────────
22時。朱理の座敷には、卯田が上がっていた。
膳から盃を取り、ひと口飲んでから卯田は小さく息を吐いて、朱理を見遣った。
「……やっぱり、まだ駄目なんだねぇ……」
残念そうなその声に、朱理は紫煙を吐きながら首を傾げる。
「どォしたの、突然。駄目ってなんのこと?」
「お前が五体満足ならば良いと思っていたけれど……私はどうにも、居た堪れないよ」
「んー? 俺、何か気に障る事でもした?」
「いいや、そうじゃあない……。お前は余程、辛いのだね」
ふるり、と煙管を持つ手が動く。たったそのひと言が、朱理の核心に触れた。
無理矢理、口角を上げるが、目を合わせる事は出来ず、振り絞って答えた声は引き攣っている。
「……そっか……見て見ぬふりだったか……。厭だなぁ、もう……」
「私がこんな事にも気付かない色呆け爺と思っていたのかい?」
「いや……そうだね……。卯田さんは誤魔化せないと分かっちゃいたけど、気が弛むとどうにも……駄目なんだ……」
小刻みに震える手を押さえつけて俯くと、少し冷たい卯田の手が、優しく肩を抱いてくる。
「何があったかなんて野暮は聞かないよ。だが、分かってしまうのさ。私はお前の事を、それだけ見つめてきたからね」
「参ったなぁ……。そんな優しさは困るんだよ、今は……」
まるで暴かれる事を厭がるように身を引く朱理に、卯田は敢えて朗らかな声を掛けた。
「嗚呼、そうだ。今夜は私がお前に膝枕をしてあげよう。さ、おいで朱理」
「ん……」
促されるまま卯田の膝に頭を乗せて横たわると、一気に肩の力が抜ける気がした。上から優しい声音が降ってくる。
「お前、ちゃんと泣いているかい?」
「……俺、初めて知ったよ……。心が壊れそうなほど哀しい時って、泣くことすら出来ないんだね……」
「そうか……。だからお前は、壊れてしまわない様に嗤っているのだね。お前の虚はとても大きく、深くて暗い」
「……良いんだ……穴だらけでも、空っぽでも……。俺には丁度良い……。中身の無い傀儡らしいでしょ」
優しく髪を梳く卯田の手を取って、甘える様に頬擦りする。
卯田は男性にしては珍しく、体温が低い。その冷たさが心地良いのだ。
「お前を照らしていた眩い光の正体が、漸く分かった気がするよ」
「なら……太陽を失くした俺には、もう魅力なんて無いでしょ。卯田さんはいつも言ってるもんね、明るい俺が好きだって……。失望させてごめん……」
「失望なんてしていないさ。お前の輝きは内から発せられる物だ、消えてやしないよ。ただ、今のお前はまるで朧月の様に淡く、儚い。身に纏わりつく闇が、濃ゆ過ぎるんだろうね。けれど、それさえお前の魅力に違いないよ」
「でも、それは卯田さんの好きな俺じゃない……」
「全て引っ括めてお前だよ。私が見ちゃいられんと言ったのは、無理に嗤う姿さ。こうしてお前を少しでも温められるのなら、私はそれだけで充分、満たされているよ」
温かい言葉と優しい掌は、まるで陽だまりの様で。硬く張り詰めていた朱理の精神を、じんわり解きほぐしていく。
「こんな事が言えるのは、卯田さんにだけだ……。他の誰にも……客にも、見世の子たちにも言えやしない……」
「私は、それが嬉しくて堪らないのさ。誰にも見せない、弱いお前を独占できる事がね。エゴイストだろう?」
「ふふ……優しいエゴイズムだよ、俺にとってはね……」
そうして二人は寝屋へ赴いたが、着物は脱がずに黙って抱き合い、朱理はその胸に顔を埋めて過ごしたのだった。
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