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第五章
第五十九夜 【忘我仮構】※
しおりを挟むどん、と背が壁にぶつかって、思いの外、大きな音が響く。階段下に付いている見張り方の妓夫が、何事かと覗きにきたが、直ぐに慌てて引っ込んだ。
「ッ……ん、ンっ、ふぁ……ァ、ハハッ……すげぇ音したな」
「ごめん、痛かった? お前の顔見たら、我慢出来なかった」
三階の階段を上るなり、出迎えた朱理を壁に押し付け、激しく口付けた陸奥が笑う。朱理も愉快そうに口角を上げながら、その首に腕を回した。
「イイね……こーゆーの、好きだぜ」
「まったく、すっかり煽るのが巧くなっちゃって」
「ふふ……陸奥にだけだよ」
「そんな可愛い事言ってると、廊下で犯すよ?」
「それは厭」
陸奥は朱理を横抱きにして部屋へ向かった。煙草と香水と外気の匂いを含んだスーツに、鼻先を埋める。
「おかえり、陸奥」
「ただいま。良い子にしてた?」
「そりゃもう、とびっきり。まじ疲れたァ」
「ははっ。じゃあ、ご褒美にたっぷり癒してあげなきゃな」
「俺にくれてどうするの。貰うのは陸奥だろ?」
「お前の存在が、もうご褒美だからね。朱理の名前を呼ぶだけで幸せ」
「またそんな大袈裟な事ばっかり言う」
「だって本当の事だから」
陸奥は朱理を抱えたまま器用に襖を開き、寝具へ寝かせて軽く口付けを落とした。
襖を閉めると、此方へ歩み寄りながらネクタイを弛めている。朱理は陸奥のその仕草が好きだった。
ジャケットを脱ぎ捨て、足元から這い上がる様に朱理の上へ覆い被さった。陸奥は出張から戻ると、真っ先にこうして朱理を抱く。
「っ、ン……ねぇ、シャツ脱がないで……」
「ん? なんで?」
「珍しいから……興奮する……」
「はは、変なの。カッターシャツなんて、散々、客相手に見てるくせに」
「お前が着てるからイイんだよ……」
「……っ」
その声音に、陸奥はぞくりと欲情した。やれやれ、と内心、歓喜の溜息を吐いた。
朱理を抱く様になってからというもの、回数を重ねる毎に色気が濃くなっていくのが、嬉しくて堪らない。
まるで自分が壱から朱理を形造っている様な気になるのだ。造ると言うより、染めると言った方が近いかもしれない。
これまで無邪気で真っ白だった物を、己の手でじわじわと黒く、濃く塗り潰していく感覚は、陸奥を深い欣幸で満たした。
「分かった、今日は着たまましよう。じゃあさ、次は朱理もスーツ着てよ。買ってくるから」
「一応、持ってるよ。リクルート用の安物だけどな」
「まじ? じゃあ後で着て。オフィスプレイしたい」
「着るのは良いけどさ、こんな純和風な部屋でオフィスは無理があるって。気分乗らなくない?」
「んー、そうだなぁ。じゃ、執務室でも貸し切ろうか」
「ええー? 何つって借りる気?」
「スーツの朱理とセックスしたいんで、って言う」
「あははっ、絶対無理だろ」
そんな軽口を交わして笑い、口付け合う。
陸奥は揺るぎない。いつも愛情の込もった強い眼差しで見つめてくれる。
それが今の朱理にとって、どれ程の救いになっているか、きっと陸奥は知らない。
今まで10年近くも袖にされたと言うのに、そんな事は全く意に介さず、何度身体を重ねても必ず愛してると言ってくれる。
此方が返さなくても、無条件に与えられる愛情は酷く心地良くて、堪らない安堵をもたらすのだ。
「っふ……朱理、気持ちいい……?」
「あっ……!! んん……っ! ッ、きもち、いっ……!! いぃ、陸奥っ……!」
「はァ……もっと名前、呼んで」
「んッ、むつ……! はっ、陸奥……む、つぅ……!」
──嗚呼、愛されていたい。誰でも良いから、只ひたすらに。
噎せ返るほど濃く甘い、歪んだ快楽の中に浸っていたい。
日毎、蓄積される孤独も痛みも哀しみも、またあの人に触れたい欲望も、あの人を愛してしまった後悔も、何もかも忘れたい。
もう辛い。もう疲れた。
幸せだと思えば突き落とされ、戯れに掬い上げられて舞い上がり、また突き落とされる日々には、うんざりだ。
泣き言だろうと遁逃だろうと、知ったことか。
優しい世界に居たいと思う事の、何処がおかしい?──
「……ッ、朱理……愛してるよ……」
低く囁かれる声音に眩暈がする。これまでの歳月が言葉の重みを助長させ、増幅させる。
「あ、ァッ! んっ、陸奥ッ……! もっと愛して……もっとッ……もっと深く、ぅっ!」
「勿論……幾らでも、何時までも、何処までも愛してあげる……。死んでもずっと、お前を愛し続けるよ……」
押し寄せる快楽と甘い睦言に歓喜しながら、朱理は真っ白なシャツの背にしがみ付く。
──でも、未だ左手の中指に光る輪は外せない。
いつまでも夢を見ていないで、さっさと現実を受け入れるべきなのは分かっている。
けれど、どうしても外せないのだ。
まだ指に残るあの温みが、辛くて、哀しくて、悔しくて。
それでもやっぱり幸せで、嬉しくて、愛しくて、愛しくて、愛しくて……──
「……お前も未だ、報われないんだな……」
ぽつりと漏らされた憐憫と諦念の混ざった陸奥の声に、朱理は歪な悦びを感じて、口角を吊り上げた。
──嗚呼、そうやって憐れんでいて欲しい。
何もかも受け入れた深い目付きで、可哀想にと言って欲しい。
嘘と欲と未練に塗れた、薄汚い身体でも抱き締めて、奥の奥まで抉って欲しい。
寂しさも哀しみも全て呑み込んで、惨とした愛を吐き出して。
誰かとひとつになって居たい──
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