万華の咲く郷

四葩

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第五章

第五十八夜 【日和見鳥】

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 14時半。その日、朱理しゅりは座敷衣装ではなく、着流しに羽織を肩から引っ掛けた姿で仲之町通りを歩いていた。隣を行くのは蘆名あしなだ。
 たもとに両手を突っ込んでふらふら歩きながら、朱理は蘆名を見遣った。

「で、これはなんなの?」
「デートだろ。聞くまでもねぇと思うが」
「めっずらしー。普段着持って来いなんて言うから、なにかと思ったわァ」
「別に良いじゃねぇか。たまにはお前と出掛けてみたかったんだよ」
「俺は良いんだけどさァ。大見世の楼主が、昼見世ひるみせ真っ只中にフラフラしてて良いワケ? こんなとこ、客に見られたらまずいんじゃないの?」
「気にすんな。楼主なんてのは、自由業みてぇなもんだ」
「あー……確かに、そんな感じだねェ」

 最近、網代あじろのスケジュールを目の当たりにしている朱理は、その言葉にあっさり納得した。
 そうしてしばらく何を見るでもなく通りを進んでいると、言いよどみながら蘆名が切り出した。

「……お前、最近変わったな」
「えー? なによ、藪から棒に」
「突然、行方をくらましたかと思えばふっと現れて、また消えちゃあ、何事も無かったみてぇに現れやがる。今や吉原中、得体の知れねぇ魅力だとか何とか言って、お前にのぼせた奴らがお祭り騒ぎだぜ」
「そォかい。何も変わってないと思うがねェ」
「変わったわ。その口調も、仕草も、目付きも、雰囲気も……丸っきり別人だ」

 ふっ、と小さく笑って、朱理は煙草を咥えた。

「姿消してる間に一体、何してやがんだ? 体調不良なんて嘘は、とっくにバレてるぜ」
「まァ、確かに体調不良は嘘だけど。最初は怪我みたいなモンだったのは、ホントだよ」
「怪我だぁ? なんで?」
「見世の為」
「チッ……またそれかよ……」
「そ。全ては見世の為なのサ」

 朱理はここ最近、口癖の様にその言葉を繰り返す。まるで、自らに言い聞かせる様に。

「また暫く出られなくなるから、寂しけりゃ浮気しても許してあげるよ」
「辞めろよ、それ。するワケねぇって分かってるくせに」
「ハハッ、大聖たいせいは変わらンねェ。いつも素直で真っ直ぐだ。うらやましいったら──……」

 言葉を切って紫煙を吐きながら、朱理は晴れ渡った空を見上げた。
 嗚呼ああ、羨ましかったのか、と自覚する。あの日、網代へすがった時にも感じた思いだった。
 欲望のままに手を伸ばすのは、悪い事とは言いきれない。少なくとも、自分の心をあざむいて、他人ひとも自分も傷付けるより、余程、純粋で良い。
 揺らぐ事なく誰かを想い、信じる姿は美しい。かつての自分も、そうだったろうか。
 日々はあわただしく過ぎて行き、考える暇など無かった。むしろ、そんな時間は欲しくなかったのだ。
 気付けば、最後に黒蔓くろづると口付け合ってから、もう何週間がったかも分からなくなっていた。
 また後で、それが最後の言葉だった。あれ以来、朱理は黒蔓と顔を合わせる事を避け続けている。
 さいわい、都合良く寝る場所も見つかり、東雲しののめかいせば、直接、遣り取りせずに済む。と言うより、ほとんど好きな様にさせられていた。
 一体、いつまでこんな状態が続くのか……と、其処そこで朱理は思考を放棄した。

「良い天気だねェ。随分、あったかくなってきたし」
「そうだな。もうじき夏だ。お前好きだろ、夏」
「好きだよォ。寒いのは身体にこたえるからねェ」
「爺みたいな言い方すんな。痩せ過ぎなんだよ、てめぇは。最近、また痩せたじゃねぇか」
「オートファジー中なもんで」
「おーと、ふぁ……? なんだそりゃ」
「ハハッ! 少しは流行りってモンの勉強した方が良いよォ。そういうの怠ると、すーぐオッサンになっちゃうんだからねぇ」

 茶化ちゃかす様に言って笑う朱理に嘆息たんそくしつつ、蘆名はふと思い出したように話を変えた。

「そういや話は変わるが、お前んとこのもう一人の太夫、和泉いずみだったか。アレも何かあったのか?」
「えー? 知らなぁい。最近会ってないし」
「は? 同じ見世で働いてて、会わねぇって事あるかよ」
「それがあるんだなァ、ウチは。特に俺、ここんとこ殆ど見世に居ないし、新造も付けてないからサ。和泉だけじゃなく、他の子らとも顔合わせてないからねェ」
「嗚呼……なるほどな……」
「で、和泉がどうしたって?」
「いや、俺もよく知らねぇんだが、噂で聞いてな。番付じゃ上位5番内の常連だったのが、近頃、目に見えて落ちてるってんで話題になってたんだと。陸奥太夫とお前に続いてるからな。太夫格がことごとく番付落としてりゃ、厭でも何かあると思われるわ」
「はて、どうしたのかねェ。体調でも悪いんじゃないの」

 そう言えば、和泉と最後に顔を合わせたのはいつだったかも忘れてしまった。随分、経った気がするが、何か事件らしい事件があったとも聞かないので、詳しい事情は知らないのだ。

「お前の所は特別だと思ってたが、最近どうも様子が変だぜ。あのいけ好かねぇ遣手もだ」

 ぴく、と反応しかける意識を押し殺し、無関心をつくろって首をかしげる。

「遣手がどうしたの?」
「どうしたも何も、めっきり覇気はきが無くなっちまって、今までの太々ふてぶてしさは何処へ忘れて来たんだってんだ。懇談会こんだんかいでも心ここに在らずって感じで、始終、ほうけてやがったぜ。彼奴あいつが質問されて言い淀む姿なんぞ、初めて見たわ」

 それを聞いて、朱理は思わず吹き出した。

「アハハっ!! なにそれ、笑えるー!」
「……お前、可愛いがられてるだろ。何か知ってると思ったんだがな」
「ええー、知るワケないじゃん! それこそ遣手とだって、何週間も会ってないよ」
「そうか……」

 目尻に涙を溜めて可笑おかしそうに笑う朱理の姿に、蘆名は眉をひそめた。異常な程べったりだったあの二人が、明らかに変だ。
 遣手のそんな話を聞いて、朱理が愉快そうに笑うとは思いもしていなかった。しかし、その笑い声は酷く空虚でいびつである。
 朱理が姿を消して再び現れた時の驚きは、今でも鮮明に思い出せる。
 今までもどこか危うく、うっすら落ちる影は感じていたが、それを掻き消す程のまばゆい光を受けて輝いて見えていた。
 だが、再び現れた朱理には、まるでもやの様などす黒い闇がまとわり付き、足元にこごっていた物が鎌首かまくびもたげて顕現けんげんしている様だった。
 それは決して醜悪しゅうあくたぐいではなく、むしろ、より一層の妖艶さでもって朱理を引き立てている。反面、眩く輝いていた光はすっかりなりひそめてしまっていた。
 その変貌が、蘆名には酷く恐ろしく思えたのだ。
 其処そこへ来て同僚太夫の明らかな不調、遣手の良いとは言えない変化とあっては、因果を感じるなと言う方が無理な話である。
 不変の物など無いと頭で分かっていても、明るくなごやかな万華郷の人々や朱理を間近にして、うっかり夢を見ていたらしい。
 何があったかなど知るすべは無い。だが、確実に何かが変わろうとしている。
 そして、それが己の大切な人や日常を侵食していく様な、厭な予感と不安を覚えずにはいられないのだ。
 まだ歪に口角を吊り上げている朱理に、蘆名はそっと嘆息して目を伏せた。
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