万華の咲く郷

四葩

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第五章

第五十三夜 【心知る雨】

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 珈琲の支度も整い、ぼんやり煙草を吹かしていると、ふすまの向こうから声が掛かった。

朱理しゅりー、入って良いー?」
「おー」

 浴衣に着替え、首からタオルを下げた湯上りの陸奥むつ陽気ようきに入ってくる。その姿に、朱理は思わず溜息が出た。

「お前……またちゃんと髪乾かして来なかったのか? 思いっきり水がしたたってんじゃねーか」
「だって早く会いたかったから」
「言い訳するな、面倒臭いだけだろ。あー、もう、絨毯じゅうたんが濡れる! 座れ!」

 そう言って陸奥を座らせると、タオルでがしがしと頭を拭き始める。
 陸奥は毛量が多い上に髪質も硬い為、拭きづらく乾きにくい厄介な髪をしているのだ。それは朱理も同様なので、風呂上がりが非常に面倒なのは理解出来る。
 だが、妙なところで几帳面な朱理はそれを良しとしないのだ。

「あー、朱理に頭拭いて貰えるなんて幸せ過ぎる。出張したら良い事あるんだなぁ」
「部屋を濡らされたくないだけだ。乾かすから、熱かったら言えよ」
「ドライヤーまでしてくれんの!? やばい、俺、明日死ぬのかな」
「ったく、大袈裟。良い大人なんだから自分でやれっつの」

 そう言いながら結局、世話を焼いてしまう自分にもうんざりしながら、手早く乾かしにかかる。

「気持ちいー……。あー、寝そう……」
「はは。良いぜ、寝ても。ゆかでならな」
「……床でもすみっこでも……何でも良いからそばに居てぇなぁ……」
「居るだろ、今」
「そうじゃなくて…………」

 ふと途切れた言葉に、本当に寝たのかと覗き込むと、陸奥は見た事の無い寂しげな顔で薄く笑っていた。朱理はその横顔に何も言えず、ただ黙々と乾かし続ける。
 やがて完全に乾いた事を確認するとドライヤーを片付け、珈琲をマグへいで文机ふづくえに置いた。

「ほら、これ飲んでしゃきっとしろ。そんな情けない顔じゃ、冷帝のふたつ名が泣くぞ」
「ありがとー。二度目のお手製珈琲、頂きます」

 並んで珈琲をすすりながら煙草をくゆらせる。何を話すでも無く窓の外を見上げると、空は今にも雨が降り出しそうな曇天だ。
 無言で過ごしても苦痛にならない相手は貴重だと、誰かが言っていたのを思い出す。陸奥が正にそうだ。
 しゃべる時は止めどないが、黙る時はぴたりと黙る。そんな所は二人共、よく似ていた。
 隣から香る風呂上がりの匂いに、嗚呼ああ、自分も入れば良かったな、とぼんやり思う。朱理は匂いに敏感で、良い匂いも悪い臭いも、普通の人より気にする性分だ。
 珈琲、煙草、風呂上がりの石鹸の香り。静かで穏やかな朝だと思った。
 暫くして、陸奥は正面の窓を見上げたまま、ぽつりとこぼす様に呟いた。

「……今日、俺と一緒に居てくれないか」
「なに、お前まじで此処ここで寝たいの?」
「違うよ」

 陸奥は真っ直ぐ朱理を見つめ、真剣な顔で言った。

「今日一日、お前を買いたい」
「買うって……まさか、客になりたいって言ってんのか?」
「まぁ、平たく言えばそうだな」
「……馬鹿言うなよ。同じ見世の娼妓しょうぎ同士でそんな事……いくら何でもおかしいだろ。辻褄つじつまが合わない」
「この見世は辻褄の合わない事だらけだ。要は、何処どこから金が出るかの違いしか無いのさ」
「そうじゃなくて、気持ちの問題だ。同僚が客だなんて……なんか気持ち悪ぃよ」
「なら言い方を変える。身上がりしてくれ。揚代あげだいは俺が払う」
「……っ」

 嗚呼、そうか、とようやく理解した。
 買いたいと言われて、職業病の様に客と考えてしまったが、陸奥が言いたいのはそういう事ではないのだ。
 共に過ごしたい、だが休むには金がかかる。それを全て負担するから側に居てくれ、と言われているのだ。

「……でも、お前の揚代もかかるだろ……」
「俺は元々、身上がりするつもりだったんだ。だからお前に一緒に過ごして欲しい。金の心配なんてらない。それこそ気持ちの問題だよ、朱理」

 真剣な眼差しと声音が、揶揄からかいのたぐいでは無いと知らしめる。にべも無く断るには、その顔が余りに切実な有痛性ゆうつうせいを帯びていて。
 朱理は視線を逸らせながら小さく答えた。

「……でも……遣手が許すかどうか……」
「遣手が許せば、お前は良いのか?」
「……そりゃ、まぁ……。お前がそこまで言うなら、一日くらいは……」
「そうか、分かった。結果がどうあれ、その言葉が聞けて本当に嬉しいよ」

 陸奥の表情は、言葉とは裏腹に表現しがたい複雑さをはらんでいて、胸が締め付けられる様な切なさを覚える。朱理はそんな気持ちを誤魔化ごまかす様に、紫煙を吐いて笑って見せた。

「はは……急に買うだの物騒な事言い出すから、吃驚びっくりしたわ。最初から普通に言えよな」
「分かり易く言ったつもりだったんだけどね。勘違いさせて悪かったよ」
「いや、俺も鈍かったわ。ま、遣手との交渉は難航するだろうけど、精々、頑張れよ」
「ふふん、俺に出来ない事は無いんだぜ?」
「うわ、お前が言うと、無駄にサマになるから腹立つわー」
「だろ? それじゃ早速、遣手に戻った挨拶がてら話してくるわ」
「おー。いってら」

 珈琲を飲み終えると陸奥は早速、退室していった。

────────────────

 黒蔓くろづるの部屋の前に立ち、軽く襖を叩いて声を掛けた。

「お早うございます、陸奥です」
「入れ」

 短く返ってきた声に襖を開け、中へ入った。
 窓の外を見ながら文机に肘を付き、煙草を燻らせる姿が朱理と重なり、陸奥は息を飲んだ。そら恐ろしい二人だ、と改めて思う。
 よく皆が黒蔓と朱理は似ていると言っているが、全くその通りだ。顔貌かおかたちではなく、その身にまとう雰囲気、仕草、目付きがうりふたつなのだ。
 それは朱理を教育したのが黒蔓だからだと周囲は思っているが、陸奥は違うと考えている。元々、似ていたからこそ黒蔓は朱理に目を止め、かれ合ったのではないか。
 そんな事を考えていると、黒蔓が声を上げた。

「何をぼさっと突っ立ってる、座れ」
「……失礼します。先程、戻りました」
「お疲れ。どうだった、親父どものご機嫌取りは」
「想定外の事態に少々、手間取らされました。国税庁に先手せんてを打たれそうです。このまま放っておけば、顧客の半数以上は首が回らなくなるでしょうね」
「なるほどな。まぁ、いくら税庁が優秀でも、国会の中枢ちゅうすうがアレじゃ、可決までには相当かかるだろう。その間に賢く立ち回って欲しいもんだな」
「地盤が固まるまで、またしばらく出る事になるかもしれません」
「構わねぇよ。ことは見世の経営にも関わる非常事態だ。ある程度は融通してやるから、安心しろ」
「有難う御座います」
「しかし、本当にお前には驚かされるわ。流石、令法りょうぶさんの秘蔵っ子だな」

 陸奥は久しく聞いていなかったその言葉に、自嘲めいた笑みを漏らした。今の朱理がそうである様に、陸奥も入楼したばかりの頃、周囲によくそう呼ばれていたものだ。

「で、今日は休むのか?」
「ええ。そこでひとつ、お願いがあります」
「なんだ。聞くだけ聞いてやる」
「今日一日、朱理を買わせて下さい。勿論、二人分の揚代は支払います。それでも足りなければ、言いで構いません」

 黒蔓は強い意志を秘めた双眸そうぼうに見据えられ、押し黙った。
 やがて、紫煙を吐きながら視線を逸らせる。

彼奴あいつは何と言ってる」
「遣手が許可するのならば良い、と」

 黒蔓はそれを聞いて、小さく息をいた。ほら見た事か、と内心、毒づく。
 朱理が陸奥を部屋に招いた時点で、こうなる予想は付いていた。朱理が何と答えるかは正直、五分五分だったが、其方そちらへ転んだかと眉をひそめる。
 いや、本当はわかっていたのだ。相手が近しい人間であればある程、弱り、すがって来る者を無下むげに出来ないという事を。
 嗚呼、厭だ、と思いながら、黒蔓は窓の外へ顔を向けたまま短く答えた。

「……好きにしろ」
「有難う御座います。では、失礼します」

 襖が閉まると、思わず深い溜息が出る。空は先程より暗くなり、どんよりと重たい雲から小雨こさめが落ちて、細かい粒が窓を濡らしていた。

────────────────

「遣手の許可、降りたよ」
「え……」

 部屋を出て10分経ったか経たないかで戻って来た陸奥を見て、朱理は唖然あぜんとした。その早さにも、許可された事にも驚いたのだ。

「……随分、早かったね。そんなにあっさり済んだんだ」
「朱理が良いなら好きにしろって。遣手の事だから、巫山戯ふざけるなーとか言うかと思ったけど、特にそんな事も無かったな」
「そう……か……」

 すっと手足の先から血の気が引き、吐き気に似た感覚を覚えた。
 確かに、良いと答えたのは自分だ。それなのに一体、何を期待していたと言うのか。
 黒蔓が、陸奥の提案を駄目だと一蹴いっしゅうする姿を、想像しなかったと言えば嘘になる。むしろ、そう言って欲しかったのだ。

──甘え過ぎた。
 面倒な事になっても知らないぞと、ついさっき言われたばかりなのに。
 きっとあの人は、こうなる事が分かっていたのだろう。それでいて、えて自分に判断をゆだねたのだ。
 そう言えば、陸奥への褒美はお前だとも言っていた。
 寝込みを襲われた事も、自分が起きていながら無抵抗だった事も、知っているのだ……──

 そう言う事か、と納得すると、不思議と笑いが込み上げた。

「ふ、はは……すげぇな、陸奥は。正に換えの効かないいぬだ」
「なに、どうしたの突然。いぬってなんだよ」
「なんでもねーよ。さて、俺も風呂入って来るわ。折角、買って貰うんだから、せめて身体だけでも綺麗にしてくるぜ」
「お、おお……」

 いぶかしそうに首をかしげる陸奥を残して、朱理は後ろ手に襖を閉めた。
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