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第四章
第四十九夜 【惜春】
しおりを挟む示談が成立した後、念の為に診断書を貰うべきだと辰巳から進言された朱理は、結局、あれだけ厭がっていた病院へ行かざるを得なくなった。
行きたくないとごねる朱理を宥めすかして、黒蔓が付き添った。
吉原内に設立されている総合病院の肛門科でてきぱきと診察され、診断書と薬を受け取って見世へ戻る。
部屋へ着くと、黒蔓は朱理を寝具の上へ促した。
「ほら、四つん這いになって腰上げろ。薬、塗ってやるから」
「ううー……屈辱ぅー……。なに今日、厄日? 仕事でも無いのに、脚開いてばっかりなんですけどー」
処方された軟膏を丁寧に開口部へ塗りながら、黒蔓は喉の奥で笑った。
「本当だな。でも、俺はお前の不機嫌そうな顔、割と好きだぞ」
「趣味わるーい、サイテー。可愛い弟がこんな目に合ってるってのにさー」
「お前は弟じゃねーからな」
「うわ、酷っ! 言う? そういう事! しかも今!」
「そりゃ言うさ。お前は弟じゃなくて恋人だからな」
「っ……」
朱理は唐突な甘言に、思わず赤面した。枕に顔を埋めて、もごもごと言い返す。
「……そーゆーの、この状況で言わないで下さい……」
「どんな状況だろうと関係ねぇよ。事実だからな」
「やーめーてー! 嬉しいのか恥ずかしいのか、分かんなくなるから!!」
背後ではまた黒蔓の含み笑いが聞こえ、着物の裾がおろされた。
「よし、終わりだ。良かったじゃねぇか、一日休んでりゃ腫れは引くってんだから」
「んー、有難う。まぁ、陰間なんてしてりゃ、いつかこんな事もあるだろうと思ってたけどさ。まさか10年目にしてとは……完全に予想の範囲外よ」
「俺も吃驚したわ。お前にも出来ない事があったなんてな」
からからと笑い声を立てながらシンクで手を洗う黒蔓を睨みつつ、煙草に火を点ける。
「嗚呼、そうだ。見張り方から比較結果が届いた。どっちも似た様なモンらしいが、若干、神々廻の方がデカイとさ。お前、あんなの相手にして本当に大丈夫か?」
「まじかよ、最悪……。いや、真面目な話、あんなの頻繁に突っ込まれたら、閉じなくなるでしょ。聞いた事あるもん、そーゆー話」
やおら黒蔓も苦い顔で煙草を咥えた。
「実際、そこは排泄器官であって、受容器官じゃないからな。無理が祟ると、酷い後遺症が残る可能性は大いにある」
「はぁ……もう、なんなの……。なるべく床入りしないように誘導するしかないか……。彼奴相手に自信ねぇなー……」
「見世側から登楼回数を指定する事も視野に入れてる。安心しろ、絶対に無理はさせないからな」
朱理は黒蔓の真剣な声音に、泣き笑いの様な困った笑みを漏らした。
──嗚呼、愛おしくて堪らない。
狂おしく、切なく、激情に近い感情が込み上げるのを、毎日、必死で押し殺す。
博愛主義だった自分が、初めて心から愛した男。
強く、美しく、気高いその姿は、何年経とうと、この心を魅了してやまない。
そして至上の幸運であろう、彼も同様に強い愛情でもって、真っ直ぐ此方を見つめてくれている。
こんな幸福は二度と無いと、自信を持って言える。
何方かが死ぬまで側に居たいと、切に願う。
そして贅沢を言えば、互いに五体満足で寄り添いたいのだ。
しかし、果たしてそれが叶うだろうか。
自他共に認める、厄介事ばかり付き纏うこの数奇な人生に於いて、そんな小さな願望さえ、酷く難しく思えた。
ある意味、確信に近い物を感じるのだ。
平凡で細やかな幸福を甘受する未来が待っているとは、到底、思えない。
それを願えば願う程、遠のいて行く気すらする。
ただ、普通でありたい。
それだけの事が、今までの自分に出来なかったのだから。
それでも、どうしても離れたくない。
何があっても側に居たい──
「黒蔓さん……仕事は?」
「看板太夫の一大事だぞ。俺が付き添わずに、誰がやるってんだ。見世の事は全部、楼主と番新に任せてきた。お前は余計な事を考えなくて良い」
「……じゃあ、我儘言っても良い?」
「なんだ」
「一緒に横になって、側に居て欲しい」
黒蔓は拍子抜けした様に一瞬、隻眼を見開くと、この上なく柔らかく微笑んだ。
「それのどこが我儘だ。俺がそうしたいからする」
「ふふ……嬉しいなぁ。昼間から手を繋いで寝て居られるなんて」
二人は向き合った形で横になり、互いの手をしっかり握り合っている。
「このまま時が止まれば良いのに……」
ぽつりと呟かれた朱理の言葉に、黒蔓が静かに答えた。
「お前の年季が明けたら、好きなだけ一緒に居られるさ」
「………」
年季が明けたら──それはいつになるのだろう。それまで、今と変わらず居られるのか。
共に手を取って、吉原を出て行けるのだろうか。
太夫になどなりたくないと言い張って来たのは、ただ面倒だからと言うだけではない。様々な状況が変わっていく事が、厭だったのだ。
己の立場、それに伴う周囲の目、態度、全てが変わらずに同じ筈が無い事など、誰にでも分かる。
太夫への格上げは皆が思う程、目出度い事ではない、と朱理は思っている。
黒蔓の事件を筆頭に、東雲が年季明けせねばならなくなった事、和泉や陸奥、鶴城らが危ない目に合っているのを、何度も見聞きしてきた。
太夫というのは、皆の羨望の的であり、多く持つ者はそれだけ、多く憎まれる。
何事も巧く躱してやっていける程、自分が器用でも要領が良い訳でもないのは、重々、承知だ。
それでも未練がましく居続けているのは、全て黒蔓の存在があるからだ。彼の側から離れたくない一心で此処に居る。
「また余計な事、考えてるだろ」
「なんで?」
「お前は全部、顔に出るんだよ。分かり易すぎだ」
「考えてたのは黒蔓さんの事だよ。俺が此処に居るのは、ただ貴方の側に居たいからだってね」
「居るさ。お前が厭だと言わない限り、何があってもずっと居る」
「言う訳ないよ、そんな事」
「……そうだな。さ、少し眠れ。昨夜もあまり寝てないんだろう。横に居てやるから」
「うん……。じゃあ、少し寝る……」
「ああ、ゆっくりお休み」
目を閉じると、繋いだ手の温みが安堵と眠気を誘う。
外は風が強い様で、時折、がたがたと窓が揺れた。沈んでいく意識の中で、中庭の桜もいよいよ終いだなと思った。
もう直ぐ、万華郷へ来て10年目の春が終わる。
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