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第四章
第四十四夜 【やさしい哲学】※
しおりを挟む「よっこいしょ……。はぁ、やっぱりお前の膝は落ち着くねぇ」
「ふふ、女の人の方が柔らかいだろうに、卯田さんは本当に膝枕が好きだね」
22時。今夜は朱理が太夫となって初めて、卯田が座敷へ上がったのだ。
膳の支度が整ったところで、卯田は早速、朱理の膝に頭を乗せて横になった。昔から必ず最初に行うのがこれなのである。
そうして暫く、つらつらと何を話すでもなく過ごすのだ。
「いやいや、誰でもと言う訳にはいかんのだよ。好きな人の膝じゃなきゃあ、駄目なんだ」
「拘るねぇ。それも粋ってやつなのかな」
「はは、違うよ。私だけの拘りさ。こうしてお前と話していると、現の喧騒を忘れられる。本当に貴重な子だ」
「相変わらず大袈裟だなぁ。別段、面白い事も言ってやしないのに」
「それで良いんだよ。まやかしばかりのこの世界で、お前だけが唯一、本物だ。私はとても嬉しいんだよ、朱理」
「なにが?」
「大概の人間が、年月を重ねる毎に、まるで人が違ってしまう。特に地位や名声を得るとね。だが、お前は新造の頃から太夫になった今も、少しも変わらず、愛くるしい」
「成長してないだけさ。子どもなんだよ」
「確かに心根は純真無垢だが、その妖艶な雰囲気は、ただの子どもに出せるものじゃあない」
「ふうん、妖艶ねぇ。自分じゃよく分からんなぁ」
朱理は優しく卯田の髪を指で梳きながら、煙草煙管を燻らせる。
「妖艶さ。でなけりゃ、年甲斐も無く通い詰めたりしやしないよ」
「そんな事は、もっとお爺ちゃんになってから言ってよ。大体、通い詰めのご隠居なんて、飽きるほど見てきてるでしょ」
「まぁね。しかし、時が経つのは早いものだ。お前が此処へ来て、もうじき10年か。私も老いる筈だよ」
「そうだね。最近よく思うよ、このまま時が止まってしまえば良いのにって」
「お前は此処の生活が好きかい?」
「うん、好きだよ。だから、此処を出てからの事なんて、全然考えられないんだ。考えようとすると、すごく厭な気持ちになる」
「そうか。本当に不思議だよ。朱理だけじゃなく、この見世そのものが穏やかで、心地よくて、空気がゆっくり流れている。吉原地獄とは思えない居心地の良さだ」
「ここは本当に特別だ。だから好きなのさ」
うんうん、と卯田は小さく頷いた。
「皆がプライドと信念を持って働いているからだろうねぇ。とても真似できる物じゃあない」
「でも俺は、特にこの時間が好きだよ。卯田さんとこうしてると、とても静かな気持ちになれる。優しくて柔らかい、卯田さんそのものだ」
「相変わらず嬉しい事を言ってくれるね。お前は昔から、欲しい時に欲しい言葉をくれる。天性の才能だよ」
「そう? なら良かった」
そんな事を話しながら、緩やかに時が流れていく。
軈て卯田は身を起こし、エスコートの如く朱理の手を取った。寝屋へ赴き、優しい手付きで着物を脱がされる。
卯田との行為は、まるで適温の湯に浸かっている様に身体を解す物だ。程良く、心地良い快楽と柔らかい声音が、頭の芯をぼうっとさせる。
「……ぁ、はァ……ん、ン……卯田さん……」
「嗚呼……良い声だ……。そんな風に呼ばれると、堪らなくなってしまうよ……」
「ぅ、んっ……ふっ、は、ぁ……っ」
深くゆっくり突き上げられ、じわじわと快感が昇ってくる。決して激しい動きでは無いが、逆にその穏やかな快楽に溺れる。
「ふ、ぅ……あ、ァ……も、イきそ……っ……」
「はぁ……は、っ、良いよ……私も、そろそろ……っ」
「ん、んんっ……あ……ぁア……ッ!」
優しい腕に抱き締められながら達し、卯田もまた昇りつめた。
暫しそうして抱き合った後、卯田の手で丁寧に事後処理を済まされる。
また静かになった寝屋で、今度は卯田の腕枕に朱理が頭を預けた。
「卯田さん、相変わらず巧いよね」
「はは、歳だからねぇ。若者の様に激しい事は出来ないよ」
「それって逆に力技じゃなく、本物の技巧って言うんじゃないの?」
「はは、まったく。朱理は人を煽てるのが巧いなぁ」
「煽ててないよ、本当の事だもの。あーあ、卯田さんが最後のお客さんだったら良かったのに……。行きたくないなぁ」
「おや、お前が弱音だなんて、珍しいじゃないか。次の人は、タチが良くないのかい?」
「んー……あの稲本の楼主、神々廻様だよ。今夜で馴染みだ」
「それは……」
卯田は眉を顰め、小さく唸った。
「なに考えてんのかね。単なる興味本位なら良いけど、どうも腹黒そうで好かないんだよなぁ」
ぼやく朱理を、卯田は力強く抱き締める。
「……私は、初めてお前を行かせたくないと思ったよ。今までは仕方の無い事と割り切っていたが、あれがお前に触れるのかと思うと……」
「卯田さん……」
初めて見る卯田の苦しげな表情に戸惑う。少し冷たいその腕に抱かれながら、迂闊な事を口走ってしまったな、と少し後悔した。
「こんな時に言う話じゃなかったね。厭な気分にさせてごめん」
「いいや、そうじゃない。不安なんだよ、お前が汚される様な気になって……。お前の綺麗な心根に傷が付くんじゃないかと思うと、恐ろしくて堪らない……」
「有難う、心配してくれて。でも大丈夫。俺、こう見えて意外と図太いんだよ。知ってるでしょ?」
「ああ、お前が強い子なのは分かっているよ。これは私の我儘だ」
卯田は抱き締める腕を弛めると向かい合い、朱理の頬に掌を添える。
「お前にはいつも笑っていて欲しい。この無垢な瞳には、綺麗な物だけ映していて欲しい。無理な事と分かっていながら、そう願わずにはいられないのさ。お前は私の世界で一番美しく、愛しい存在なのだから」
蘆名の言っていた通りだ、と朱理は思った。
いくら万華郷が高級大見世とは言え、娼妓は娼妓、客は客だ。買う者と買われる者でありながら、蘆名も卯田もその域を超え、一人の対等な人間として大切にしてくれている。
改めて、自分は恵まれているのだと痛感した。
「嬉しいなぁ……。卯田さんがいつもそうして見守ってくれるから、俺は今、こんなに心穏やかで居られるんだよ」
「本当に優しいのはお前の方さ。どうか、くれぐれも気を付けるんだよ」
「うん、有難う。お陰でなんとか頑張れそうだ」
「しかし、本当に厭だなぁ……。あんな曲者にお前を近付けるのは……」
「ふふ……心配しないで。何かあったらちゃんと報告するから」
「ああ、分かっているよ」
心地好い腕の中、朱理は束の間の休息を取ったのだった。
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