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第四章
第四十二夜 【眺めせしまに】
しおりを挟む「ったく、ギャーギャーと五月蝿い奴らだぜ。どっと疲れたわ」
「まぁそう言うなよ。俺たちの時も、先輩らはあんなもんだったろう」
「さぁな、忘れた」
桜の儀を終え、執務室では黒蔓と網代が結果をつき合わせ、今後の方針について話し合っていた。
「上手はほぼ問題無しだ。吉良のアレはまぁ、売りになるっちゃなるが……もし二人が恋人になったら、妹尾の身体が持つかが心配だな」
「そうなったら控えさせるだけだ。ま、彼奴らじゃそんな事にはならねぇだろ。しかし、アレにゃ流石に吃驚したぜ。女の腕くらいあったじゃねぇか」
「はは、何事もほどほどだよなぁ。彼処まで行くと、いっそ怖いよ」
黒蔓は吉良の件を思い出し、堪え切れない様に喉の奥で笑いながら手帳を捲った。
「下手も特に問題ねぇな。やってりゃ慣れてくだろ。見込みがありそうなのは妹尾、松雪、月城、上手は渡会、玖珂、吉良あたりか」
「そう言えば、妹尾が直属の太夫変えを希望している節があるんだが、何かあったのか?」
「けい菲はよくやってる。ありゃ妹尾の我儘だ。よっぽど朱理に懐いてるみたいだな。朱理の方も特に目を掛けてるし」
「嗚呼、なるほどな。だが、一考しても良いんじゃないのか? 顔を売るなら、格子太夫より太夫の方が良いだろう」
「駄目だ。朱理の客層と妹尾は合わん。大体、朱理付きなんぞにしたら、忙し過ぎて顧客が付く暇も無くなるぞ」
「それもそうだなぁ。しかし、彼奴には恐れ入ったよ。前から番付常連だったが、今や陸奥をも凌ぐ勢いじゃないか」
「当然だろ。本来ならとうに太夫だった物を、今までゴネてただけの事だからな。しかも、あの篁に2億近く出させた男だ。そりゃ話題性も抜きん出るさ」
「あんな太夫は、もう暫く出て来んだろうなぁ。まぁ未だ年季明けも遠いし、気にしても仕方ない。新造らは直属の太夫と似た客を廻す方向で良いか?」
「ああ、取り敢えずな。まずは様子見だ」
「分かった、任せるよ。じゃ、お疲れさん」
「おう」
網代は書類を棚へ戻すと執務室を出て行った。
ふう、と紫煙を吐いて黒蔓はソファへ凭れる。
今の太夫達の年季明けを、日に日に近く感じる。時期と年齢を考慮すれば陸奥が1番最初だが、仕事振りを見るとそうも言い切れない。
今の太夫ら全員、あと7、8年で年季明けしてもおかしくない歳になる。
朱理は同期より若く、太夫になったばかりだ。余程の事でも無い限り、一番最後になるだろう。今の新造が繰り上がって2年は先か、とぼんやり思う。
朱理の年季が近くなる前に、黒蔓はいつでも此処を辞められる準備を整えるつもりでいる。その為にも、今のうちから東雲に己の全てを叩き込んでいるのだ。
──彼奴の事だから、年季明け後の事など今は考えていないのだろう。
二度と離れないと言った言葉は、嘘ではない。
朱理が厭だと言わない限り、此方から離れる事は、もう絶対に無い。
吉原を出たら、まずゆっくり温泉にでも行きたいと思う。
その頃、彼奴はどうなっているだろうか。
きっと今と同じではないのだろう。
色々な物を見て、聞いて、経験しているだろう。
彼奴を取り巻く状況も変わっているだろう。
それでも、心だけは変わらずに居てくれるのだろうか──
「花の色は うつりにけりな……か」
「おや、随分と物悲しい歌を詠みますね。桜の儀に当てられましたか?」
「……別に、そんなんじゃねぇよ」
と、傍でPCに向かっていた辰巳へ苦笑で誤魔化した時、携帯が振動を始めた。着信は朱理だ。
「おう、どうした」
『あのねー、皆が中庭でお花見しようって』
「花見だぁ?」
『もう散っちゃうから、今しか無いって息巻いてんの。突き出しも無事に終わったし、祝いも兼ねて一緒にしようよ、お花見!』
朱理の背後からは娼妓らの楽しそうな声が聞こえてくる。浮かれやがって、と苦笑しながら黒蔓は紫煙を吐いた。
「分かったよ。台所にありったけの酒と肴、持って来るように言っとけ」
『りょーかい! みんなー! 黒蔓さん来るって! ありったけの酒と肴って言ってるよー!』
受話器の向こうから歓声が上がる。
「その代わり、俺の酌はお前がしろよな」
『言われるまでも無く、そのつもりですよー。あ、辰巳先生も連れてきてね』
「分かった、分かった」
そして中庭の一番大きな桜の木の元、娼妓らに加えて網代、黒蔓、辰巳、東雲、槐や妓夫を含む内輪の花見が始まった。
皆が楽しげに酒を酌み交わし、唄い、踊り、笑い合う。網代には和泉が、辰巳には東雲が、そして黒蔓には朱理が、それぞれ隣について酌をする。
散り際の桜は惜しげも無く皆の頭上から花吹雪を散らし、ひらひらと盃に落ちては風情を醸し出している。
舞い落ちてくる花弁を見上げながら、朱理がぽつりと呟いた。
「花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ……」
「あたら桜の とがにはありける。花の宴が、やけに懐かしく感じますね。ひと月も経っていないと言うのに」
「本当、もう1年くらい前みたいに感じるよねぇ」
すかさず下の句を紡いだ辰巳と笑い合う朱理に、黒蔓は眉を顰める。
「なんだそれ。合言葉か?」
「此処で初めて会った時に、辰巳先生が言ってたんだよ。この西行法師の句」
「宴の時に偶然、見かけましてね。桜の下に立つ姿があまりに幽玄だったもので、つい声を掛けてしまったんです」
「ほーお。そりゃ仲良しで結構な事だな」
「あはは! むくれてんの可愛いー。黒蔓さんに言うなら、そうだなぁ……花の色は うつりにけりな いたづらに、とかかな」
「……っ」
「驚いた……。太夫は心を読む能力でもお持ちなんですか?」
「なにそれ。なんで黒蔓さん、ちょっと顔赤いの? 酔ったの?」
「……なんでもねーよ」
ふい、と顔を逸らせる黒蔓に朱理が首を傾げていると、傍からにんまりと口角を上げた陸奥が顔を出した。
「あれぇ? それ、朱理がさっき言ってたやつじゃないの?」
「ばっ……! 余計な事言うなよ、陸奥! あっち行け!」
「わはは! 怒られたー」
大袈裟に肩を竦めて離れていく陸奥を睨む朱理。と、黒蔓がぽつりと呟いた。
「わが身世にふる ながめせしまに……ね」
「あーあー、やだやだ! 暗い暗い! 西行のがよっぽど良いや」
「ハハ、確かにそうですね」
「さ! 気を取り直して、飲も飲もー!」
桜へ朱塗りの盃を掲げて笑う朱理を見て、黒蔓も僅かに口元を綻ばせるのだった。
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