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第三章
第三十九夜 【甘露涙】
しおりを挟む二人が布団へ沈んで暫くすると、気怠げに少し掠れた声があがる。
「あー……大聖よぉ……」
「なんだ」
「重い」
「あいっかわらず色気のねぇ奴だな。良いじゃねぇかよ、ちっとぐらい」
「まじで重い。体格差考えろ、潰れる、死ぬ」
とかなんとか言いながら身動ぎするが、蘆名はびくともしない。
「お前、苦しいのも好きだろ」
「うるせぇな、はやく退けって。喉乾いたし煙草吸いてぇ。つーか、さっさとゴム片付けろよ。俺の大事な三つ布団が汚れるだろ」
「ったく……はいはい。分かったよ、女王様」
漸く蘆名の下から逃れた朱理は、枕元の水差しから二人分の湯呑みに水を注ぎ、ひとつを蘆名に手渡した。並んで俯せになり、互いに煙草へ火を点ける。
「ふぅ……。あー、ヤバかった、超気持ち良かった。やっぱお前、巧いわ」
「そりゃどーも。って、他の奴と比べられても嬉しくねぇんだよ」
「比べてねーよ、お前がイイの。やっぱ愛の差かねぇ」
「っ……んだよ……さっきまで重い、退け、しか言わなかったくせに」
蘆名は耳まで赤くしながら目を逸らす。
「言っとくが、俺はお前を初めて抱いてから、他の誰とも寝てねぇからな」
「ははっ、そりゃそーだろ。浮気したらえらい目に合うからな」
「そうじゃねぇよ。買う以外にも、誰ともだ」
「……でもお前、結婚とか跡取りの事とか言われるだろ」
「んなもん、25過ぎた辺りから散々言われてきたわ。別に実子じゃなくても見世は継げる。俺は俺の好きにするぜ」
「はぁ……。卯田さんといい、お前といい、どうしてそうなったかなぁ。吉原三大遊郭だぜ? 歴史ある名家じゃん。そういうのって、代々受け継いでくもんなんじゃねぇの?」
「所詮は女郎屋だ。女の不幸で成り立ってる物を、名家とは言えねぇよ。それに、俺はお前に出逢っちまったからな。お前に突っ込んだもんを他の奴になんて、出来ねぇんだよ」
「そんな事言ったって、俺もずっと吉原にいるワケじゃないんだぜ? 俺の所為でお前の人生狂うとか、寝覚め悪くて厭なんだけど」
「馬鹿か。お前の所為だなんて言ってねぇだろ。これは俺の問題だ」
「やれやれ……。本当に難儀な性格だな、大聖は」
「うるせ。お前だって同じ様なもんだろうが。いっぺん惚れちまったら、何があっても惚れ抜くのが男ってもんなんだよ」
「はぁ……まっつぐだねぇ。流石、生粋の江戸っ子。不器用で男前で、可愛いったらねーよ」
「俺はお前が可愛くて仕方ねぇわ」
「ははっ」
朱理は困った様な笑みを向けた後、紫煙と共にひっそり嘆息した。物分かりが良過ぎるのも、それはそれで考え物だ。
蘆名は身請けだの身上がりだのと、面倒な事は一切、言わない。そのくせ、こうして一途なのだと言う。自分が年季明けして吉原を出たらどうするつもりなのか、聞いてみたい様で聞きたくなかった。
朱理は蘆名へ身体を向けながら、話題を変えた。
「そう言えば今日、神々廻が登楼してきたぜ」
その名を聞いた途端、蘆名の目が俄に鋭くなる。
「チッ……。お前の事だ、どうせ馴染みにすんだろ」
「ま、そうなるだろうな。卯田さんと大聖には世話になってるから、ある程度の情報は流すよ。勿論、あっちには何も言わないから安心しろ」
「そんな心配、ハナからしてねぇわ。お前、まじでおかしな事されたら言えよ」
「分かってるって」
「馴染みになって部屋に来たら、後で盗聴器の類も調べとけ。彼奴ならやりかねん」
「あー……確かにあり得るね。分かった、注意する」
「俺はお前が何十人に抱かれようが気にしねぇ。ただな、お前が傷つく事だけは絶対に許せねぇんだ」
「うん」
「お前が厭な思いをする事からは、出来るだけ遠ざけてやりたい。その為ならどんな事でもするぜ、俺は。いや……俺たちは、か」
「たちって?」
「卯田さんもきっと同じだ。それに、一番躍起になってるのはお前んとこの遣手だぜ。分かるんだよ、同じ臭いがするからな」
「っ……」
思わず言葉に詰まった。
蘆名の逞しい腕に抱かれながら、なんて優しく、懐の深い人達かと思う。黒蔓を筆頭に、卯田、蘆名、此処に従事する娼妓ら、皆が優しく温かい。
自分の身に余るほど大事にされている。曲者も居るが、そんな危険から身を呈して守ろうとしてくれる。
とんでもなく恵まれているのだと思う反面、どうして自分なのか、とも思うのだ。皆の様に頭が良い訳でも、特別に器量が良い訳でもない。
のらりくらりと揺蕩う様に生きる自分を、現に繋ぎ止めてくれる沢山の手がある。この世の有らん限りを尽くして愛してくれる人が居る。
そんな現実が嬉しくて、愛しくて、目頭が熱くなった。
「なぜ泣く」
「嬉しくて……幸せ過ぎて、怖くなった……」
「失う事がか?」
「どうして俺なんかって……分からないから。いつか愛想尽かされるかもと思うと、怖くて堪らない……」
「馬鹿。誰にも理由なんてねぇよ。ただお前が好きなだけだ。お前はそのままで良いんだよ。何がどうなろうと、俺はお前の全てを受け止めてやる」
「──……ッ」
涙が溢れ、嗚咽が漏れ、胸が苦しくて切なくて。嘘みたいに幸せで、でも抱き締める腕の熱さは本物で。
「心配ねぇよ、朱理。何も心配要らねぇから」
その声音は酷く優しく、穏やかで、朱理はその胸に顔を埋め、静かに泣いた。
────────────────
空気を震わせて聞こえる振動音に、朱理は目を覚ました。舌打ちと共に自分を抱き締めていた腕が片方離れ、嗚呼、蘆名の携帯か、と認識する。
「なんだ。……ああ、それは遣手に任せてある。……あ? んなもん、お前らでどうにかしろ。下らねぇ事で電話してくんじゃねぇよ。……ああ、今日はもうかけてくるな」
嘆息しながら携帯を放り投げる蘆名にしがみ付いて、朱理は茶化す様に言った。
「お客様、携帯電話のご使用は禁止となっております」
「ん、悪い。起こしたか」
「大丈夫。何か問題?」
「いや、しょうもない事だ、気にすんな。ったく……使えねぇ奴らばっかで厭になるぜ」
吉原では客の携帯電話の使用は禁じられているが、楼主や妓楼関係者は別である。特に楼主は不測の事態が起きた場合の為、特別に寝屋でも使用が許可されているのだ。
ただし、他店での撮影や録音、録画は厳禁である。
「高級大見世は大変だねぇ。いつも忙しそうだ」
「そうでもねぇよ。番頭が気の小せぇ男で、直ぐ狼狽えやがるからな。あれじゃ、一人前になるまで何年かかる事か、先が思いやられるわ」
「しっかり教育してやれよ、楼主様」
「その呼び方やめろ、冷めちまう。せっかく良い夢見てんだから、水差すなよ」
「はいはい。今、何時?」
「んぁ……あー、4時半。くそ、時間経つの早ぇな」
「あと30分だな。ちゃんと寝たのか?」
「大丈夫だ。お前を抱いてるだけで休める」
嗚呼、そうだ、と言いながら、蘆名は手提げから祝儀袋を取り出して朱理へ渡した。
「心付けと床花と昇格祝いだ」
「ええ? 今更そんなの良いのに……って分厚ッ。なにこれ、幾ら入れたの?」
「200」
「多いわ! つーかいらねぇって、まじで」
「はっ、2億近く貢がせた男が、これしき何だってんだ。聞いたぞ、篁の件」
「あー、ったく……何奴も此奴も大袈裟なんだよ。それ、俺への支払いじゃねーから。三日分の座敷代が大半で、俺には揚代くらいしか入ってねぇよ」
「世間が黒と言えば黒になるのさ。お前はもう伝説の太夫だぜ」
やれやれ、と朱理は嘆息する。
「まるで金の亡者扱いだな……厭になるぜ……」
「俺のはあくまで気持ちだよ。押し付けられたと思って、好きに使えば良い」
「はぁ……分かったよ。有難く頂きます」
「おう」
身体を捩って枕元へ祝儀袋を置いた朱理の背に、蘆名が覆い被さった。
「おい……大聖も少しは休まないと、身体に悪いぞ」
「足りねぇんだよ。良いから、黙ってやらせろ」
「んっ……」
首筋や肩へ口付けられ、舌を這わされてぞくりとする。脚を開かされると、愛撫もそこそこに蘆名の物が捻じ入れられ、吐息が漏れた。
「……ぁ、アっ! んん……ッ……」
「朱理……ッ朱理……」
深く穿たれながら、切ない声音で何度も名を呼ばれる。それはまるで誠意のこもった告白の様で。
固く握り合った手は、夜が明けるまで離れる事は無かった。
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