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第三章
第三十三夜 【万華鏡の外の世界】※
しおりを挟む20時。全楼懇談会は、卯田の締めの言葉でお開きとなった。
楼主達に挨拶をして集会所を出ると、朱理は呻き声をあげながら大きく伸びをする。
「んん──……だぁッ! 疲れた……まじ疲れた、精神的に……」
「あー……俺も疲れた……」
「これに毎月来るとか、ストレス半端ないね」
「だろ? もー、勘弁しろと思ってる。まぁでも、お前もよくやったよ。楼主どもに囲まれて、大人気だったじゃねぇか」
「黒蔓さんの足元にも及ばないよ。みーんな、貴方の気を引こうと必死だったじゃん」
「ったく毎度毎度、鬱陶しい輩ばっかりだ。それにしても蘆名のガキめ……思い出しただけで腹立つわ」
「えぇ……なんで名指し……。卯田さんも居たよ?」
「あの得意げな我が物顔が癪に障るんだよ。腰巾着みてぇに張り付きやがって、本来なら俺の場所だっつーのに。何様だ」
「まぁまぁ、御贔屓さんなんだからそう言わずに。黒蔓さんも身動き出来なかったんだから、仕方ないでしょ。あ、後ろ倒しの予約捌いたら、あの二人優先してあげてね。さっき約束しちゃったからさ」
「はいはい……。あー、もう何もかも面倒くせー」
黒蔓も珍しく疲労困憊の様子で、二人して地面に屈み込むと煙草に火を点ける。
「うー、寒ぃ。車は?」
「無い」
「はっ!? 嘘でしょ?」
「嘘じゃねーよ」
「なに、嫌がらせでもされてんの?」
「違うわ。俺が返した」
「なんで!?」
「俺は基本、懇談会の後は歩くんだよ。それに初めてだろ、こんな時間に一緒に居るの。真っ直ぐ帰っちゃ、勿体ねぇじゃねーか」
「あー……うん、そうだね……」
今日くらい、車で移動しても良かったんじゃないのか、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。
「何処か行きたい所でもあるの?」
「いや、適当にぶらついて帰ろうかと思ってる。お前は何処かあるか?」
「ううん。ちょっと寒いけど、歩いて帰るのも黒蔓さんとなら楽しそうだ」
「じゃ、行くか」
二人は煙草を吸い終わると共に立ち上がり、仲之町通りを並んで歩いた。賑わう揚屋からの楽しげな声が漏れ聞こえ、置屋では張見世の遊女が格子の中から客を誘っている。
「はぁー……何度見ても〝吉原〟って感じだよねぇ」
「まぁな。相変わらず猥雑な街だぜ。夜は特にな」
「不景気だとか言ってたけど、全然じゃないの。何処も彼処も忙しそうだ」
「不況だ不景気だは彼奴らの口癖さ。色事はどの時代でも絶対に廃れない」
朱理は普段、ゆっくり見る事の少ない夜の仲の町通りを、興味深そうに眺めている。何処かから飛んできたしゃぼん玉が、赤提灯の下でぱちんと弾けた。
通りすがりに朱理と気づいた客へ挨拶しながら進んでいると、ある見世の前に黒塗りの高級車が停まっている。何だろうと思っていると、見世の中から篁が黒服と共に出てきた。
げ、と思うと同時に、此方へ気づいた篁が紫煙を吐きながら歩いて来る。
「驚いたな。こんな時間にお前と外で会えるとは」
「今朝ぶりー。全楼何たらってのに行ってたんだよ」
「ああ、成程な。おおかた、居続けの事を根掘り葉掘り聞かれたろう」
「厭になるくらい説明したし、謝り倒したわ」
「はは。それほど、お前が注目されていると言う証拠だな」
「篁さんは何してんの? 集金?」
「まぁそんな所だ。見回りを兼ねてな」
「はー、ヤクザも大変だね。お仕事頑張って」
「有難う。気をつけて帰れよ」
急かす様に黒蔓に背を突かれ、朱理はそそくさとその場を立ち去った。
「今日は厄日か? 鬱陶しい顔ばかり見る」
「そりゃこんな大通り歩いてたら、誰かしらには会うでしょ。まぁ良いじゃん。俺、黒蔓さんと居られるだけでも充分、嬉しいんだから」
「そうだな。これで腕でも組めりゃ、もっと最高だわ」
「あ、それ俺も思ってた」
「……帰ったらお前の部屋、直行な」
「うん。一緒に寝られる?」
「当然」
傍から見れば仲の良い師弟か友人程度にしか見えないだろうが、二人はこれからの密事に胸を熱くしながら微笑み合っている。
と、ある遊郭の前で朱理が足を止めた。
格子の中から、一人の遊女がじっと此方を見つめている。切れ長の涼しげな吊り目で、冷たい印象を与える美人だ。
黒蔓が止める間も無く、興味本位でふらふらと近付くと、その遊女はすっと立ち上がって寄って来た。女は格子越しに朱理へ顔を近付けると、艷やかな声で囁く。
「旦さん、綺麗なお顔でありんすなァ」
「お嬢さんこそ、凄く美人だ」
「ふふ……有難うおざりんす」
朱理は初めて聞く廓言葉に驚いていた。
今は標準語が主流だが、客に雰囲気を楽しませる為にと、敢えて廓言葉を使う遊郭も多い。完全な廓言葉では客に通じない為、標準語と混ぜて使うのが流行りだ。
目を輝かせている朱理に、女は笑った。
「遊女と話すのは、初めてでありんすか?」
「初めてじゃないけど、みんな標準語だったから。生で廓言葉が聞けて感動してる」
「面白うござりんすなァ。こんな事で嬉しそうにして……とても吉原の人間とは思えんせん。夜見世はどうしんした?」
「え……」
急に冷たくなった声音とその双眸、問われた言葉に思考が固まった。女は先程とは打って変わった、恨めしそうな形相で朱理を睨み据える。
「同じ地獄に生きながら惚けたツラしやがって、憎らしい……。男のくせに、わっちらの客みィんな掻っ攫っていきやがる。てめぇらが居る所為で、わっちらがどんだけ惨めな思いしてるか分かってンのか!? えぇ!?」
「──……ッ」
格子にしがみ付いて喚き、怒鳴る遊女に思わず後退さる。
騒ぎを聞きつけた見世の者や通行人が、何事かと集まって来た。妓夫に取り押さえられながら、女はなおも朱理を睨みつけたまま暴れ、叫ぶ。
「何が太夫だ、くそ野郎! こんな時間にふらふら出歩きやがって、当て付けかてめぇ! 陰間風情が調子乗ってんじゃねぇぞ! 離しやがれッ! 巫山戯んなァ!!」
「…………」
髪を振り乱し、甲高い声で罵詈雑言を吐きつつ、遊女は見世の奥へと引き擦られて行った。口を引き結んで眉根を寄せる朱理に、野次馬達が気づき、辺りが俄に騒つき始める。
と、人集りを掻き分けながら、見世の遣手が駆け寄って来た。
「こ、これは黒蔓さんに朱理太夫! 申し訳御座いません、ウチのが……。よく言って聞かせますので、どうかご容赦下さいませ!」
「……お気になさらず。行くぞ、朱理」
ぺこぺこと頭を下げながら冷や汗をかく遣手に黒蔓が短く答え、背を押されて歩き出す朱理は無言で俯いている。
吉原が地獄だという事は解っていた。〝つもり〟だった。
道中で禿を目の当たりにした時と同様、実際にそれを見てこなかった朱理には、知識はあれど実感が伴っていなかったのだ。
此処で働くほぼ全ての娼妓は、借金を負って売られて来た者たちだ。大文字や角海老、稲本と言えども同じである。
万華郷は本当に別格中の別格であり、異質中の異質なのだ。そんな特殊な見世しか知らない朱理に、真の地獄など解る筈も無く。
先の遊女の憎しみに満ちた目と痛切な罵声が、脳裏にこびり付いて離れない。
黒蔓は何を言うでも無く、黙々と少し前を歩いている。
軈て見世へ帰り着き、大玄関を潜って番頭台の東雲に軽く挨拶すると、脇目も振らずに自室を目指す。
襖を閉めると同時に、朱理は黒蔓へ飛びつく様に抱きついた。黒蔓の頬を両手で挟んで噛みつかんばかりに口付け、無我夢中で舌を絡める。
乱雑に羽織を脱ぎ捨て、帯を解き合いながら縺れる様に寝具へ乗り上げた。
着物を脱ぎ、襦袢だけになると黒蔓の手が足の間へ滑り込んでくる。後孔を慣らされながら、朱理はこの上ない愉楽と歓喜に身を捩った。
──嗚呼、やっぱりこの人は自分の性分をよく分かっている。
慰めや励ましの言葉など要らない。優しい抱擁も甘い口付けも、意味を成さない。
ただひたすら、強く、熱く、激しく抱いて欲しいのだ。
厭な事も辛い事も、何もかも全て、愛しいその身体が与える快楽で押し流して欲しい──
かり、と鎖骨に歯を立てられて声が漏れた。吸われ、舐められ、余すところ無く与えられる快感を、全身で享受する。
早く来て欲しいと思った直後、じわりと挿入され、ますます悦びに満たされた。
何から何まで知り尽くされている事が、こんなにも心地良いとは知らなかった。嬉しさと気持ち快さとが相まって、声を殺すのも忘れて黒蔓の首にしがみつく。
「ぁ゙、アァッ!! っ……ぃイ! もッ……もっと、強く……っ奥までして……ぇ、っ!!」
「ハッ……ハァ……ん、朱理……声でかい……ッ」
「んんッ! ふ、ぅッ……ン゙ぅ゙っ、んん゙ん゙──ッ!!!!」
突き揺さぶられながら口を塞がれ、それにすら総毛立つ程の興奮を覚える。ぞくぞくと快楽が駆け抜け、朱理の背が弓なりにしなった。
「ッ、口塞がれてイったのか……?」
「っ……はぁ……はッ……ン、やめないで……。お願い、もっと……もっとちょうだい……」
「はっ……やめるワケねぇだろ……」
「ンぁあ゙ッ! ヒッ、ふか、あ゙ぁ!! ッふかいィッ!! うあ、ぁああっ!!」
再び激しく突き上げられ、悲鳴に近い声が上がる。
「だから、声……っ……わざとか……?」
「ん゙っ、ちが……ぁうッ! ゔ……おさえ、られな……ぁ゙、ぁアッ!! ふぅッ、んン゙っ!!」
口付けで塞がれながら、快楽と酸欠で目の奥がちかちかと瞬く。
──この人の欲情した様が、堪らなく好きだ。
吐息も、声も、汗ばんだ身体も。
自分しか知らないありのままの姿の、何もかもが愛おしくて仕方ない──
上へ下へと変わる関係に、朱理は目眩がする程の愉悦と享楽に溺れる。
互いが互いを支配し、支配される身体と心。こんな情交は、きっと黒蔓としか成り立たない。他の誰と、どれだけ交わろうと、同じ快楽は絶対に得られない。知ってしまったが最後、もう黒蔓でなければ心身共に満たされなくなっていた。
それは黒蔓も同様で、熱を帯びた隻眼に見上げられた朱理は低く囁く。
「ハァ……ハッ、愛してるよ……黒蔓さん……」
「ッ……しゅ、り……愛してる……。ずっと、お前だけだ……っ」
「俺も……死ぬまで貴方だけ想ってる……」
何回、何十回かも分からぬ口付けと甘い睦言を交わしながら、濃密な情事は深夜まで続いたのだった。
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