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第三章
第三十二夜 【愛執と哀愁】
しおりを挟む神々廻が人混みに消えると同時に、朱理は袂から煙草を取り出して火を点けた。
「ふぅ……胡散臭い野郎だったな。ったく、どっと疲れたぜ」
口に放り込んだ柘榴を種ごと嚙み潰し、ひっそり毒づく。
しかし、あの男が本当に登楼して来たとしたら、三大遊郭の楼主全員が顧客になる訳である。それはそれで面白いかもしれない、と朱理は口角を吊り上げ、また数粒、赤い実をふくむ。
今度はぷちぷちと果肉だけを齧り、その瑞々しさを堪能した。種をどうしようかと悩んでいると、横からすっと薄紙が差し出された。
「ほら、使えよ」
「お、さんきゅー。助かったわ」
呆れ顔で笑っているのは、先程から名の出ている『角海老楼』楼主、蘆名 大聖だ。
蘆名は2年前に代替わりして楼主となった為、未だ35歳と旦那衆の中では比較的、若い。利発そうな目鼻立ちに引き締まった体躯、加えてかなりの童顔である為、年齢を知らなければ20代に見える。
朱理が入楼したばかりの頃から贔屓にしており、跡取りとしての巧手を万華郷で学んだ。その所為か、この二人は娼妓と客以上の信頼と情で繋がっている。
朱理は蘆名から貰った紙に種を出し、袂へ仕舞った。
「薄紙くらい持ち歩けよ。ったく、そのズボラ、全然直す気ねぇよな、お前」
「うるせぇなぁ、小姑かっつーの」
「しかし、柘榴食べてる姿は妙に色っぽくて良かったぜ。なんか似合うよな、お前に」
「はー? また訳の分からん事を」
ふっと笑いながら蘆名は煙草に火を点け、紫煙を吐いた。
「お前、さっき稲本の旦那に絡まれてたろ」
「ああ、見てたの」
「客にする気か?」
「それは向こうの出方次第よ。なんか探り入れたかったっぽいけど、そこはちゃんと躱したぜ」
「やっぱり目的は情報か。まさか、お前に直接、仕掛ける度胸があったとは思わなかったぜ。まぁ今後どうするにせよ、彼奴にゃ、ゆめゆめ気を付けろ。腹の読めねぇ野郎だ」
「大見世の楼主様なんて、大体そんなもんでしょ」
「彼奴は俺らとは毛色が違う。1月に代替わりしてから、稲本は黒い噂しか聞かねぇよ。なんでも、遠縁だったあの男を、わざわざ養子にしてまで見世を継がせたんだと。あすこにゃまだ若い娘が居るのに、妙な話だと思わねぇか」
「ふぅん……そうなんだ。そりゃ、確かにややこしそうだ」
朱理は道理で、と腑に落ちた気がした。高級大見世の楼主にしては、気風の良い吉原人らしからぬ、正に腹の読めない狸の印象が強かったのだ。
「俺も卯田さんも付かず離れず、様子見だ。お前も彼奴におかしな言動があったら、ちゃんと見世に報告しとけよ」
「了解。相変わらず優しいねぇ、大聖は」
「おまっ……此処で下の名前はやめろ! 恥ずかしいだろうがッ!」
蘆名は先程までの真面目な顔から一転し、口元を押さえながら赤くなる。普段は厳しい蘆名だが、その実、人一倍、恥ずかしがり屋の照れ屋で、朱理の前ではそれが顕著に現れるのだ。
「えー、良いじゃん別に。久し振りなんだし」
「……ま、まぁな。お前が太夫になってからこっち、全く予約が取れやしねぇ。めでてぇ事だが、ちったぁ古馴染み贔屓もしろよ」
「それは彼処で人に埋もれてる遣手に言って下さいな。って言うか、ここ三日は動けなかったからさ」
「あーあー、聞いた聞いた。晋和会の会長に居続け食らってたんだってな。殺されたんじゃねぇかと焦ったわ」
「怖いこと言うなよ、縁起でもない。組織は関係ないっつーから大丈夫でしょ、多分。別に監禁されてた訳じゃないし」
「まあ、詳しいこたぁ聞かねぇよ。その代わり、おあずけ食わせた分のサービスはしろよな」
「はいはい。本当、このボンボンは我儘なんだからぁ」
「それだけ会いたいって事だよ、分かれよ。いい加減、充電させろよな」
歳の割に子供っぽく拗ねる蘆名の表情は、朱理が気に入っている所のひとつだ。まめで細やかな気配りの出来る優しい心根を持っている癖に、妙に肩肘を張った様な口調も、昔から変わらない。
「今日中に遣手に言っとくよ。いつ来る?」
「直近で空いてるとこなら、いつでも良い」
「まじ? 見世、大丈夫なの?」
「背に腹は変えらんねぇよ。どうせ居続け分が後ろ倒しなんだ。三、四日はかかるだろ」
「流石、理解あるぅ。じゃ、それ捌いたら優先的に入れてもらうように頼んどくわ」
「あれだけ太夫は厭だとゴネてたお前が、漸く上り詰めたんだ。俺だって祝ってやりてぇしな。しかし、一体どういう心境の変化だ?」
「いやぁ、全く変化してないんだけどねぇ。未だに面倒くせーなと思ってるし。ただ、下手太夫が予定外の年季明けしちゃって、断りきれなくなっただけさ」
「嗚呼、東雲太夫だったか? えらい騒ぎになってたもんな。折角、金持ちに気に入られたってのに、見世あげてフるとか信じらんねぇよ。お前んとこは本当に特殊だわ」
「まぁ特殊なのは否定しないけど、フってもフらなくても、抜ける事に変わり無くない?」
「あー、それもそうか。何にせよ、あの遣手の秘蔵っ子って時点で、格上げは避けて通れやしなかったろうがな」
「まぁね」
ふう、と紫煙を吐いて、蘆名は視線をホールへ向けた。
「しっかし、相変わらず囲まれてんな、お前んとこの。毎回アレだぜ? 俺にゃ到底、理解出来ねぇわ」
「実際キレ者だし、仕方無いんじゃないの。卯田さんも欲しいって言ってたくらいだからね」
「俺は彼奴、嫌いだ。もしあんなのが遣手だったら、絶対やり難い」
朱理はその言葉に思わず吹き出した。此処に来て、明確に黒蔓を悪く言ったのは蘆名が初めてだったのだ。
他は皆、媚び諂うか、好奇の視線を向けるか、敬遠するかだ。不快を露わにするのは蘆名のみである。
「お前くらい愛嬌がありゃ、まだ良いがな。なんだ、あの隙の無さ。いっそ怖ぇわ。あれで元売れっ子太夫だなんて、説得力皆無だぜ」
蘆名の言葉に、はっとする。旦那衆の中でも若い蘆名が知っているという事は、最早、吉原人には周知の話なのだろう。
陸奥や和泉は勿論、恐らく他の娼妓らも知っている筈だ。和泉たちが入楼したのが22歳である事から逆算すると、今から11年ほど前の事件だったと予想できる。朱理が入楼する、本当に直前の事だったようだ。
吉原で生まれ育った蘆名なら、詳細も自分より知っているのだろうが、関係者以外に内情を聞くのは気が引けて、いらぬ思考を追い出した。
「ま、確かに大聖とは合わなそうだわ」
「っ……だからそれ辞めろって! キュンとすんだろ!」
「アラフォーがキュンて……。ほんとお前、めちゃくちゃ可愛いな」
「なに言ってんだ、お前の方が可愛いわ」
「くっ……ふふっ……まじ、もう天然過ぎて尊い……っ」
大真面目な顔でそんな事を言う蘆名に、堪えきれない笑いが溢れる朱理であった。
しばし蘆名と歓談していると、入れ代わり立ち代わり、楼主らが朱理へ声を掛けに来る。中には予約を取り消された者もおり、その都度、詫びと愛想を振りまいては後始末に専念しなければならなかった。
その間、朱理の傍では蘆名が用心棒ばりに睨みをきかせていた事は、言うまでも無い。ひと通り挨拶を終えて煙草に火を点けた頃、蘆名が腕時計を見遣った。
「漸く静かになったな。お前、この調子じゃ夜見世にゃ出ねぇんだろ?」
「あー、くそ……顔面筋肉痛になりそうだぜ……。いま何時?」
「19時」
「まじか、もう3時間も経ってたのかよ。今日は休んで良いって言われてるから此処に居るのさ。まぁ、これも仕事みたいなもんだし」
「フォローと営業、か。抜け目ねぇな」
「言っとくけど、俺は来たくて来たんじゃないからな」
「んなこたぁ、言われなくても分かるわ」
「大聖が居てくれたお陰で、無駄にごちゃごちゃ言われずに済んだわ。ありがとね」
「俺なんて見世の名くらいしか役に立たねぇんだ。利用できるモンはしとけ。其処だけは、あの遣手をちっとばかし見習った方が良いかもな。お前は優し過ぎるんだよ」
「おいおい、そりゃ贔屓目だろぉ。それに、俺はお前が大見世の楼主だから懇意にしてるんじゃねーよ」
「分かってるっつの。だからお前が好きなんだよ」
「ははは。大聖君は相変わらず、朱理の前でだけは素直だねぇ」
「うっ、卯田さんッ! お疲れ様です!」
二人の傍から不意に卯田が現れ、蘆名は会話を聞かれていた恥ずかしさから、耳まで赤くしつつ頭を下げた。
「お疲れ様。朱理に悪い虫が付かないよう、目を光らせてくれていたんだねぇ。細やかな気配りが出来る繊細な心根は、君の最大の長所だと、私は思うよ」
「いえ、そんな。自分など、まだまだ若輩です」
蘆名は先程とは打って代わり、きびきびとした仕事人の姿勢で答えている。
「もう挨拶終わったの? 卯田さん大御所だから、こういう場って大変でしょ」
「ふう……なんとかね。歳の所為か、立ちっぱなしが辛くなってきたよ」
「やだなぁ、まだまだこれからでしょ。ちょっと気疲れしただけさ」
「嗚呼、本当に優しいねぇ、朱理は。こんな爺を相手にしてくれるのは、お前くらいなものさ」
「俺が卯田さんを癒せる唯一なら、とても光栄だよ」
朱理は柔らかい声音で言いながら、優しく卯田の背を撫でた。
「……卯田さん、稲本が朱理に接触しました。どうもキナ臭い」
と、声を低くした蘆名の報告で、卯田は珍しく苦い顔をした。
「ふむ……。朱理はどう思った?」
「狸か狐か……あー、やっぱ蛇かなぁ。ねちねちしてて、爬虫類みたいなヤツだね」
「ははっ、流石だ。初対面だったのだろう?」
「うん。でも、俺からは何も出ないって釘は刺しといたよ。信じたかは知らないけど」
「そうか……。人気者というのは、当人よりも周囲が話をややこしくする物だ。くれぐれも気を付けなさい。ただでさえ晋和会の件で、お前は渦中の人なんだからね」
「はーい。でも、俺より二人の方が大変でしょ。なんせ競い合う楼主同士なんだから」
「まぁな……。厄介事ばかり増えて厭になるぜ」
「君も苦労するねぇ。やっと楼主姿が板について来た矢先にこれじゃあ、たまったものじゃないだろう」
「全くです。自分の事ですら手一杯なのに、完全にキャパシティを超えていますよ」
頭を痛める二人を見ながら、楼主もトップクラスになると大変だな、と改めて思う。
それに比べると網代は随分、呑気に思えるが、陰間茶屋としても妓楼としても、他の追随を許さない、あの見世だからこそなのかもしれなかった。
「我らの精根が尽きぬよう、朱理には十二分に癒して貰わねばならんねぇ」
「そうですね。吉原一の奇人変人には、誰も敵いませんから」
「大聖、照れ隠しもそこまでいくと悪口だぞ」
「ばッ……誰が照れ隠しだ!」
「ははは、本当に君達は兄弟の様に仲が良い。微笑ましいよ」
「ど、何処がですかっ!」
和やかに歓談しながら、朱理はこの二人が居なくなったら吉原はどうなるのかと、一抹の不安を覚えた。
情に厚く、粋も風流も兼ね備えた立派な楼主と言える者は、ほんのひと握りである。全ては移ろう物であり、吉原とて他人事ではない。時代と共に変わって来た様に、これからも変わり続けるのだ。
窓の外には揚屋や置屋の赤提灯が瞬き、張見世の遊女や客達の姿が見える。
朱理はぼんやりとそれを眺めながら、どうか一人でも多く、ひと時でも憂いを祓える者が居れば良いな、と思うのだった。
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