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第三章
第三十一夜 【吉原三大遊郭】
しおりを挟むそんな遣り取りをしていた二人へ、小洒落た外套を着た壮年の男が近づいて来た。
「これは驚いた、朱理とこんな所で会えるとはねぇ」
「卯田さぁん! 何日かぶりー」
「やぁ。黒蔓さんもお疲れ様です」
「お疲れ様です」
声をかけて来たのは『大文字楼』楼主、卯田 永純だった。篁と馴染みになった日に朱理を指名していたのがこの卯田で、新造時代からの贔屓客である。
すらりと背が高く、僅かに白髪の混じる髪をさっぱりと整えた、小粋な紳士だ。物腰柔らかな好人物ながら、吉原三大遊郭に数えられる大見世を、独りで取り纏める傑物である。
万華郷とは趣を異にする為、競い合う事はないが、その人気の高さは〝男買うなら万華郷、女買うなら大文字〟と言わしめる程だ。
この懇談会では、卯田が総議長を務めている。
「あの篁に居続けを食らっていると聞いて、心配していたよ。もう大丈夫なのかい?」
「大丈夫、大丈夫。別に脅されてた訳じゃないし。見ての通り、乱暴もされてないから」
「それなら良かった。しかし大変でしたなぁ。今まで無干渉を貫いていた晋和会が、とうとう其方にまで……」
「ええ。全く、厄介な連中ですよ。まぁ、個人的な登楼と念を押したので許可しましたが、気は抜けませんな」
黒蔓の言葉に、卯田は小さく唸りながら顎へ手をやり、眉を顰めた。
「僅かな隙に付け込むのが、裏社会の常套手段……。有事の際の助力は惜しみませんよ」
「心強いお言葉、痛み入ります」
「朱理には随分と世話になっているからね。お前に何かあっちゃあ、私も辛い」
「卯田さんは相変わらずのジェントルだねぇ。誰に対しても優しいんだから、流石だよ」
「はは、また近いうちに予約させてもらうよ。そろそろ、お前の膝枕が恋しいからね」
「楽しみにお待ちしてまーす」
そうして全楼懇談会が始まった。上座に卯田、その隣に黒蔓、少し下がった所に朱理が座す。
話題は近頃の景気やタチの悪い客、遊女の足抜け対策、と次々に変わっていく。その度に黒蔓へ意見を請う者の多さに驚かされた。毅然とした態度で卒なく返答をする姿にも、改めて感心する。
流石だな、と思いながら、朱理は煙草を吹かしていた。視線を流すと、何人かの旦那衆と目が合う。紫煙を吐きながら目を細め、口角を上げてみせると、男達はもぞっと居住まいを正す様に身動ぎする。
「(営業、営業っと。楼主は堕とし易いから、ラクで良いや)」
そんな事を思いながら薄ら笑う。女性の厭な部分ばかり見ている楼主は、気楽な同性との関係に嵌り易い事を、朱理は身を持って知っているのだ。
世間には男妾と見下す者も居るが、この吉原でそれを言うのは、野暮天の骨頂とされる。此処は男も女も魅力が無ければ生きていけない世界であり、客も粋や風流を求められる。
日本最大の歓楽街であり、高尚な社交場でもあるのだ。
漸く長々と続いた退屈な会議が終わり、場所は別室の立食会場へ移った。時刻は16時半になっており、日が傾き始めている。
先程の座敷とは真逆で、洋風の部屋の中央には豪華なシャンデリアが輝き、床は毛足の長い赤絨毯が敷き詰められていた。さながら迎賓館の花鳥の間である。
「すげぇ部屋……。こんな所に無駄金使ってやがんのか、此処の楼主どもは」
「意地と見栄だけが取柄の奴らだ。いちいち気にしてちゃ持たねぇぞ」
「いやはや、流石の弁舌でしたな、黒蔓さん。いつも卒が無い」
「ああ、卯田さん。議長お疲れ様でした」
「皆が貴方を欲しがるのも無理はない。私とて、貴方の様な遣手が欲しいものです」
「此方は貴方の様な楼主が欲しいですよ」
「ははは、ご謙遜を」
「ふふ、本気です」
一見、和やかにそんな会話をする二人だが、黒蔓と網代の事情を知っている朱理はおよそ笑えない。
「ときに、朱理は夜見世には出ないのかい?」
「えっ? いやぁ……えっと……?」
そう言えば、あれよあれよと連れて来られたが、今後の予定など全く聞いていない。夜見世に出るのならば、早く帰って支度をせねばならないが、と黒蔓を見る。
「ええ、今日は休ませます。なんせ今朝の今朝まで篁様に居続けられていましたから」
「なんと……そりゃあ、一日くらい休んでもバチは当たらないねぇ」
「あはは。そうなの、かな?」
「無理をさせて何日も休まれちゃ、其方の方が損になりますからね」
「嗚呼……そう言う事か……。だったら部屋でゆっくりさせろってんだ、ちくしょう……」
「何か言ったか、朱理」
「いいえー、なんにもー。食べ物取ってきまぁす」
はぁ、と嘆息しながら朱理はその場を離れたのだった。
贅を尽くした料理が並ぶ長机から好みの果物を幾つか選び、皿に装っていく。
取り終えて振り返ると、黒蔓の周りには黒山の人だかりが出来ていた。皆、なんとか気を引こうと必死の様相である。
本当に凄い人だな、とそれを眺めながら思っていると、不意に傍から声を掛けられた。
「いやぁ、貴方の所の遣手さん、相変わらず凄まじい人気ですねぇ。皆が彼の事を、喉から手が出るほど欲しがっている」
「……その様ですね」
返事をしたものの、顔も名も知らぬ男だ。四十路ほどでちょっとした男前だが、薄ら笑いを張り付けた口元と目付きからは、湿った胡散臭さを漂わせている。
先程、目が合った中の一人だった様な気もするが、よく覚えていない。朱理の怪訝な顔に気付いたのか、男は笑って言った。
「ああ、これは失敬。私は『稲本楼』の楼主をしている、神々廻という者です」
「稲本……」
稲本楼は大文字楼と共に名を連ねる、吉原三大遊郭のひとつである。
残り一軒は『角海老楼』で、女性のみを扱う遊郭として番付を競っている。因みに、角海老楼の楼主は卯田と同じく、数年前から朱理の顧客だ。
「貴方が先日、太夫になられたとお聞きする朱理さんですか?」
「ええ、そうですが」
「ははぁ……。勝手にもっと女性らしい方を想像していたんですが、貴方はどちらとも付かない、不思議な魅力がありますなぁ」
褒められているのか微妙な台詞に引っかかるが、薄く笑って小首を傾げる。
「座敷で目が合った時に、是非お話ししてみたいと思いましてねぇ。少々、不躾でしたかな」
この神々廻と言う男、やはり食わせ者だな、と朱理は思った。
客でもない上に面識も無い上級娼妓に話し掛ける事は、吉原では禁じられている行為だ。
だが、今の様な特殊な状況下では、揉め事さえ起こさなければ黙認される。それが分かっていて声を掛けてきたのだろう。
何の為か大体の予想は付くが、朱理は薄い笑みを浮かべて答えた。
「いいえ、光栄ですよ。三大遊郭の楼主様にお声がけ頂くなんて」
「ハハ、流石に返しがお上手だ。見たところ、既に卯田さんは貴方の元に通っているのでしょう? とても贔屓にされているご様子で」
さり気なく発せられた問いに、やっぱりそう来たか、と思った。
「申し訳ございません。見世に関する事は、どれほど瑣末な事でもお話し致しかねます。返答はご容赦下さい」
「ほう……」
僅かに顔を伏せて答えた朱理に、神々廻は目を細めた。
「流石はあの万華鄉の太夫だ。いやぁ、素晴らしい。感服しました。試す様な真似をして、申し訳無い」
「ふふ……お気になさらず」
柔和に微笑んで見せた朱理だが、心中では狸オヤジめ、と毒づく。
大見世の楼主が一癖も二癖もある事は重々、承知している。この様な探りを入れられる事も屡々だ。
大文字や角海老ほどの大御所ともなれば、あからさまな事はしないが、それでも皆、他店の情報には敏感なものである。
ともかく、なんとか遣り過ごせた事に安堵した。そんな朱理を他所に、神々廻は一方的に話し掛けてくる。
「実を言うと、これまで陰間には全く食指が動かなかったのですが、貴方には俄然、興味が湧きました。是非とも指名させて頂きたい」
朱理はその言葉を受け、こんな腹黒そうなのは好かないが、仕事であれば致し方無い、と割り切って営業用の笑みを向けた。
「私などでよろしければ、是非に」
「おお、良かった! 気分を害されたかと心配しましたよぉ。貴方とは、もっとゆっくりお話してみたいですからねぇ」
「但し、ひとつだけお願いがございます」
「はい、何でしょう」
鼻の下を伸ばしている神々廻に、朱理は笑みを消した冷たい声音できっぱりと告げた。
「先程の様な問答はご遠慮願います。何度お越し頂いたとて、私からは何の情報も出ませんし、お口添えも出来かねます。それをご理解頂けるのでしたら、揚屋にてご指名の程、よろしくお願い申し上げます」
底冷えする様な朱理の眼差しに、神々廻は一瞬、目を見開いたが、直ぐに胡散臭い笑みを戻した。
「ハハ、警戒させてしまった様ですねぇ、すみません。勿論、もうそんな事は考えていないので、安心して下さいよ」
「でしたら結構です。改めてお目にかかれる日を、心待ちにしております」
「ええ。一人の男として貴方に会いに行きますよ。では、失礼」
気障ったらしく片眼を瞑って見せると、神々廻は上機嫌に立ち去って行った。
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