万華の咲く郷

四葩

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第三章

第二十九夜 【薄明光線】

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榛名はるな! 月城つきしろ! たかむら様の支度が整い次第しだい、玄関までお見送りしろ!」
「は、はい!!」

 黒蔓くろづるは通りすがった下手新造しもてしんぞう二人へ指示を飛ばし、自室へ戻った朱理しゅりを追っていた。
 三階へ上ると、はやる気持ちで部屋のふすまを開く。

「何日かぶりだね、黒蔓さん」
「…………」

 薄い朝陽あさひを受けて柔和に微笑む朱理が、此方こちらを向いて立っていた。
 春雷の鳴っていた曇天には切れ間が出来て、筋になった陽光が差し込んでいた。
 つい先程まで蹂躙されていた事が嘘の様に、白百合色の打掛うちかけを羽織って薄日うすびを受ける姿は、浮世離れした清廉さでもって、黒蔓の胸を締め付ける。直視に耐えず、黒蔓は目を伏せて後ろ手に襖を閉めた。

「珈琲飲みたくてさ、急いで戻ってきちゃった。風呂にも入りたいし、こりゃ昼見世ひるみせギリギリだなぁ」

 陽気な声音で言う朱理は普段より饒舌で、黒蔓はそれが何を意味するのかよく知っている。ますます痛む胸中に、眉をひそめながら呟いた。

「……休んで良い」
「え、でも……」
「どうせ今日の予約はキャンセル済みだ。見上がりしろ。揚代あげだいは俺が出す」
「黒蔓さんがそう言うなら休むけど……揚代は篁さんの詫び金から引いてよ。どうせ多めに貰ったでしょ」
「いや、俺が払う。余った分はお前の物だ、好きに使え」
「……それは遣手としての気遣い? それとも、恋人としての罪悪感?」
「……両方」

 ぽつりと黒蔓が答えた時、珈琲の抽出が終わった。朱理が微かに笑った気がしたが、やはり真面まともに顔を見る事は出来ない。
 やがて、ことりと文机ふづくえにマグが置かれる音がした。

「そんな所に突っ立ってないで、こっちおいでよ。飲むでしょ、珈琲」

 さも当然という様に、朱理は二人分のマグを手元に置いて笑みを向けて来た。
 並んでマグに口をつけながら煙草を吸う。数日前まで当たり前だった光景が、なんだか酷く懐かしく感じた。

──朱理は何も言わず、何も聞かず、ましてや怒る事もしない。ただ笑っている、いつも通り穏やかに。
 自分はどうすれば良いのか、未だ分からない。
 離れている間にも、彼はきっちり仕事をこなし、三日におよんだ居続けの直後でさえ、弱音ひとつ吐かない。そのうえ見世の出した大赤字まであっさり解決し、あまつさえお釣りが出た始末である。
 そんな所業を目の当たりにして、網代あじろへの憤懣ふんまんと朱理への慚愧ざんきえず、向き合う事から逃げ続けていた己を、どうして恥じずにいられようか。
 あの程度、どうという事はないと思っていた。身体を繋いで網代を牽制すれば、何も変わらず今まで通りやって行けると。
 しかしあの日、風呂から出て自室へ戻った途端、忸怩じくじたる思いにさいなまれた。一点の曇りも無い愛情をそそいでくれる朱理と顔を合わせるのが、酷く恐ろしくなったのだ。
 自分のした事を、彼はどうとらえ、何を思ったのだろう。傷心したか、軽蔑したか、もしくは無関心か。何にせよ、そんな目で見られたくはなかった。
 打算的に他者を受け入れた身体で朱理に触れる事など、到底、出来なかった。
 いつから自分はこんなに憶病になったのかと自責した挙句、全てから逃げたのだ。
 網代を責めて誤魔化そうとしたが、結局は全て自分のいた種だった──

 黒蔓がそんな事を考えて押し黙っていると、朱理はマグを文机に置いて静かに言った。

「貴方は、貴方を許してあげてね」

 予想もしていなかった台詞せりふに、思考が止まる。固まる黒蔓へ困った様に笑いかけながら、朱理はゆっくり言葉をつむぐ。

「オーナーにはめちゃくちゃ腹立ったけど、ああするより他に無かったんだと思う。黒蔓さんもだ。俺が篁さんに目ぇ付けられた所為せいで、二人を其処そこまで追い詰めちゃったんだよね。だから、俺は貴方を責める気は無いし、勿論、軽蔑もしてない。でも貴方は優しいから、ずっと自分を責め続けてたんでしょう。有難うね、俺の為に」

 黒蔓は、目頭が熱くなるのを必死で堪えた。この愛しい子は、何もかも分かったうえで受け入れてくれていたのだと知る。
 震えそうになる声をおさえつけ、絞り出す様に答えた。

「……言ったろ、俺はお前を見届けると」
「うん。俺は貴方が何をしようと、何を言おうと、そばに居られればそれで良いんだ」
「はっ……相変わらず、欲の無いやつだ……」
「そお? 結構、欲張りだと思うけどね」

 そう言って笑う朱理に、黒蔓は言葉にならない程の法悦ほうえつを感じた。
 こんないびつな世界に生きながら、心底、愛し合える事がどれほど幸福かなど、厭というほど解っている。互いに何人、何十人に身体を許そうと、瑣末な事だと思える相手に出逢えた奇跡は、何にも代え難い。
 黒蔓は無言で身体を寄せ、朱理を抱き締めた。僅かに躊躇ためらう気配がする。

「黒蔓さん……俺、まだ風呂に……」
「良い……関係無い……。何があろうと、お前はお前だ……」

 朱理の身体からは確かに他の男の臭いがするが、今はそんな事はどうでも良かった。この腕に戻って来たという、確かな実感が欲しかった。
 やがて、朱理もおずおずと黒蔓の背へ腕を回す。優しい温もりは、互いの心を深い歓喜で満たした。
 何方どちらからともなく唇を重ね、数日振りの感触を懐かしむ。唇を触れ合わせたまま、黒蔓は呟いた。

「……白状すると、少し不安になった。お前があの男に惚れたんじゃないかと思って」
「どうして?」
「三日も居続けを許すなんて、お前らしくない。しかも、この大事な時期に」
「それは……」

 言葉を詰まらせた朱理に、顔を離してその目を覗き込む。

「やっぱりほだされたのか?」
「違うよ。ただ……一寸ちょっとした意趣返しというか、ね……」
「意趣返し? 俺にか」
「だから違うって。言ったでしょ、貴方を責める気なんて、全く無いよ」
「なら、誰に対してだよ」

 朱理は視線をらせつつ、もごもごと呟いた。

「……オーナー」
「はあ? 何の為に」
「黒蔓さん泣かせたのが許せなくて。居続けも好きにしろとか言うし、どんだけ無責任なんだ此奴こいつって思ったから、つい……」

 口を尖らせる朱理に、思わず笑みが溢れる。

彼奴あいつは馬鹿なんだよ。俺達をなせる訳が無いのに、身の程を知らない。安心しろ、もう二度と口も手も出せない様にしておいた」
「えっ!? まさか、また……」
「違う。お前が籠城ろうじょうした三日分の損失は、全て彼奴の責任だからな。皆の前で派手に恥をかかせてやったのさ。そのうえで今後一切、口を挟まないと明言させた。千萱ちがやが証人だ」
「そっか、良かった。黒蔓さんに加えて俺までおこもりときちゃ、オーナーも立つ瀬が無いと思ってね。たまたま篁さんが初馴染みで、都合が良かったから利用しただけ。他意は無いよ」

 其処そこまで説明すると、朱理は顔をしかめて紫煙を吐き、額に手をやった。

「もぉ……こんなガキくさい真似まねしたなんて、あんまり言いたく無かったんだよ。恥ずかしい……」
「おい、それは俺に対する嫌味か?」
「ははっ! 違うけど、違わない。俺がどれだけ寂しかったか分かってる? それに関しては怒ってるからね」

 朱理は真剣な顔で黒蔓にしがみ付き、黒蔓も笑いを収めて朱理を抱く腕に力を込める。その髪に頬を付けて囁いた。

「悪かった、もう二度と離れたりしない。また陸奥むつにマーキングされても腹立つしな」

 と、黒蔓のさり気無いひと言に、ぎくりとする朱理。

「……この部屋、監視カメラついてる?」
「お前も寝たふりで抱かれるんだから、悪質だよなぁ」
「ちょっ……なんでそんな事まで知ってんの!? ねぇ!!」
「さぁな」
「こっわ……。今度、かげに盗聴器かカメラ無いか調べてもらわないと……」
「そんな必要無いだろ、ずっと一緒に居るんだから。俺もお前も、もう離れられねぇのさ」

 朱理はその言葉に満面の笑みを浮かべた。

「離れられないんじゃない、離れないんだ。何度引き離されようと、絶対に」

 愛してる、と久し振りに口にして、妙に気恥ずかしくなる。同様に囁かれるそれもむず痒く、赤くなる顔を隠す様に、黒蔓の胸へ顔をうずめるのだった。
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